2010年12月16日木曜日

インベストメント・バンク 4

ノーザン・パシフィック事件

ノーザン・パシフィック社の発行株式数は普通株75万株と議決権付の優先株75万株、合計150万株でした。従って両方併せて75万株以上確保すれば過半数を握ったことになります。

シフは5月3日の朝の時点では合計74万5810株しか押さえていませんでしたが、ヒルが訪ねてくるまでの間に、事情を知らないモルガン商会のパートナーから3万5千株の優先株を取得していました。よっぽど上手く情報操作していたのでしょう。これでシフは優先株41万580株、普通株37万230株の合計78万810株で過半数を確保しました。  
まさに"A lot of it."でした。


一方ヒルはシフの事務所を出るとモルガン商会に駆け込み対策を立てます。当時のアメリカには5%以上取得したら報告しろなんてルールはありませんから、シフの手の内はわかりません。
しかしモルガンにはこの日の朝に優先株を売ってしまったマヌケなパートナーがいましたから、シフの持ち株のかなりの部分が優先株であると推測しました。
優先株は株主総会を待たずノーザン・パシフィックの役員会決議で償還してしまうことが可能です。そうであれば優先株は取りあえず無視して普通株だけで過半数を確保すれば良いことになります。
モルガン商会の結論は普通株15万株の購入でした。これで普通株の過半数である37万5千株を確保できるはずです。フランスにいるピアポント・モルガンに電報を打って許可を貰いました。5月4日の土曜日でした。

 一方のハリマンも抜け目の無さでは負けてはいません。モルガン商会を過小評価したりするほど馬鹿ではありませんでした。優先株を償還されれば台無しになることは読んでいました。
あと5千株も買えば普通株だけでも過半数を超えることができます。念には念を入れてもうあと4万株ほど確保しておこうと考えました。ハリマンはクーン・ローブ商会のオットー・カーンに4万株の買い注文を執行するように頼んでおきました。

翌日は日曜日でした。注文を頼まれたカーンはセントラルパークに面した65丁目のエマニュエル・シナゴーグで礼拝中のシフに近づきハリマンの注文の可否を聞きました。
シフは「安息日に仕事の話しをするのは不謹慎である。その注文は執行する必要はない。責任はすべて私がとる」と言ったと伝えられています。謎の行動だとも言われ色々と解釈されています。

5月6日月曜日。買い付けの情報が市場に漏れてはいけません。モルガンは静かに、そしてかなり上手く買い付けていましたがノーザン・パシフィックは110ドルから149.75ドルまで50%近くも上昇しました。事情を知らないトレーダーの中には株価の急騰からまとまった株数を空売りする者も大勢いました。「行き過ぎは修正されるべきである」急騰すると条件反射で空売りをしかけるトレーダー達がいるのは今も昔も変わりません。今回ばかりは事情が事情でした。しかし市場ではモルガンとシフが闘っているなんて未だ誰も知りません。
なにしろ普通株は75万株しかないのにシフが37万230株持っていてモルガンが37万5000株まで買い付けようというのです。残りは4千株ほどしかない計算になります。

火曜日にモルガンは目標の15万株を買い終わりましたが、不思議な事にモルガンの買い注文が終了しても株は上がり続けました。何しろ空売り以外に売る人、あるいは売れる人は誰もいません。正確に言えば市場には4千株しかないはずです。売り物が無いので空売りの買戻しが出来ません。もし買い戻したとしてもその相手である売り手は多分それも空売りで株券を持ってはいませんでした。理屈ではシフとモルガン以外にほとんど誰も株券を持ってはいなかったのです。モルガンが買った15万株も受け渡しができるのかどうかわかりませんでした。

水曜日には出来高がさらに増加しました。
木曜日には初値170ドル、途中200ドルで一服しましたが大引け前にはとうとう1000ドルまで上昇してしまいました。普通株だけの時価総額で7億5千万ドルです。まったくどうかしています。トレーダーや投資家はこの株を買い戻す為に他の持ち株を売らざるを得ませんでした。その為ノーザン・パシフィック以外の株はほとんどすべてが惨めに下げてしまいました。モルガンご自慢の∪・Sスティールは朝方40ドルで寄り付きましたが引けは26ドルでしかありませんでした。

この5月9日の大暴落を「1901年の暗黒の木曜日」と呼びます。1929年10月24日(木)の大暴落まで「暗黒の木曜日」とはこの日を指しました。この結果モルガンもシフもそしてその他の投資家も実現損益か評価はともかくとして株価の下落で大損をしてしまいました。
新聞も「巨人同士の対決」としてセンセーショナルにこれを報道しました。2大独占金融グループ、ウォール街の巨人同士の戦いがウォール街を壊滅に押しやってしまいました。東京の真ん中で怪獣同士が戦って東京タワーや国会議事堂をぶっ潰してしまったようなものでした。

結局ノーザン・パシフィック株の空売りについては両陣営とも事後処理に入らざるを得ませんでした、空売り筋は150ドルで「融け合い」(適当な価格で話し合いによって折り合いをつけ決済する事)に入り手を打ちました。その後の株価の戻りは早かったのですが急激な底なしの株価下落に対する株式市場の傷跡は大きいものでした。

7月に入りピアポント・モルガンが欧州から帰るとノーザン・パシフィック鉄道の再編に着手しました。さすがのモルガンも今回の件には懲りてしまいました。優先株の議決権は認めませんでしたが、ここはシフ+ハリマン陣営に対して強引で敵対的な手法は取りませんでした。ハリマンに持株会社ノーザン・パシフィック・セキュリティーズの代表権を与え、今回の騒動の原因となったバーリントン鉄道に対する発言権も与えました。シフ+ハリマンは大陸横断鉄道の太平洋側、北と南両方に発言権を持ったのです。

この事件はモルガンがウォール街を支配下に収めて以来始めての実質上の敗北でした。この時からピアポント・モルガンはクーン・ローブ商会のヤコブ・シフをこれまでの格下の扱いからPAR(同格)に格上げしたと言われています。「見下す」のをやめたのです。

シフが追加の買いを止めた判断は何もお祈りの為だけではなかったのでしょう。シフ・ハリマンの局地戦での容赦ない勝利はモルガンと言うひとまわり大きな巨人からの不必要な遺恨を残す事になったでしょう。シフはあと4770株普通株を買えば過半数を確保できていたのです。でも彼はしませんでした。これはモルガンへのメッセージだったのでしょう。

"Community of interests"

これを境にモルガンは大西洋に目を向け汽船会社の買収を強化します。一方でハリマンとシフは太平洋航路に目を向けました。両社はあいかわらず激しい競争をしていましたが、あまり無茶なことはせず穏やかな協調ができました。この後共同で買収した鉄道が何社かあります。
ハリマンの見据える太平洋のその先には未開の中国北東部である満州が広がり、そこからはユーラシア大陸を横断しヨーロッパへ伸びるシベリア鉄道が視界に入ってきていました。そして日本はその入口で満州鉄道(東清鉄道南満州線)をめぐりロシアと戦い始めようとしていました。

日露戦争の始るこの時代はロンドンのマーチャント・バンクはピークを過ぎ、ニューヨークのインベストメント・バンクが巨大な力を持ち始めていました。日本の戦時公債の発行に当初期待をしていなかったアメリカが参加したのは偶然でも天佑でもありませんでした。
しかしニューヨークはドメスティックな市場であって国際金市場がロンドンであることは今日でも変わりません。

後日談としてノーザン・パシフィック・セキュリティーズ社は1904年に連邦裁判所から違憲判決を受け解散することになりますが、それまでにヒルとの支配権争いに嫌気をさしたハリマンは全株式を利食っていました。この儲けは5千8百万ドルにもおよび彼のユニオン・パシフィックはとてもキャシュ・リッチな会社になりました。日露戦争の始まる時期にハリマンは約1億円の余裕資金を手元に持っていました。


ここではあくまでインベストメント・バンクと日露戦争の関係だけに論点を絞っていますからここで終わりです。アメリカは30年代にグラス・スティーガル法によって一旦銀証分離がなされています。当時のモルガン商会はモルガン・スタンレー証券とJPモルガン銀行に分離して両方とも現在も大手として活躍しています。クーンローブ商会はもともと資金源がドイツであったことから2つの世界大戦で勢力を弱め、1977年にリーマン・ブラザースに吸収されてしまいました。そのリーマンも今はもうありませんからクーン・ローブの名残すら無くなってしまいました。

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2010年12月15日水曜日

インベストメント・バンク 3

ノーザン・パシフィック事件

1901年春、ハリマンの主力保有鉄道であるユニオン・パシフィック鉄道システムをより強固なものにする為に、ハリマンとシフは独立系のシカゴ・バーリントン・クィンシー鉄道(CB&Q)の買収を始めていました。この鉄道は営業マイル数8千マイルの大きな鉄道で、ニューイングランドの伝統的な資本家が経営する最後の大規模鉄道でした。この鉄道がさらに発展するためにはデンバーからロッキ―山脈を超えて西海岸にまで路線を延長する必要がありましたがそのためには多額の資金調達が必要な状況でした。
一方で当時の金融市場がモルガンとシフの2大金融グループによって独占されている以上、こうした独立系の資本家による大規模な資本調達はほぼ不可能でした。つまり2大金融グループは独立系の鉄道を資金的に締め上げて買収するという手法を使っていたのです。

因みにこの鉄道の買収金額は2億ドルでした。当時の為替レートが1ドル=2円ですから、日本円では4億円になります。この金額は日本の国家予算を越えていました。この3年後高橋是清は1億円のファィナンスができずに四苦八苦することになります。

シフがバーリントンの株を買い始めるといつも誰かにオファー(売り板)を取られてしまいます。誰かが意志を持ってもう一方で買い注文を入れていることは確かでした。シフにすればもはや自分に逆らえるのはモルガン以外にはいないはずでした。しかも買収金額は半端ではありません。でもこの頃のシフはモルガンとはうまくやっているつもりでした。

「これは一体誰なのか?」

シフにはビジネスで協力関係にあり友人でもありますが信用の置けない怪しい奴が1人いました。鉄道王のジェームス・ヒル(写真)でした。ヒルは中西部からシアトルに向うグレート・ノーザン鉄道とノーザン・パシフィック鉄道の実質上のオーナーです。オマハからサンフランシスコに出るユニオン・パシフィックとは北と南で競合していました。

シフは直接ヒルの事務所に出向いて聞きました。シフは何でもストレートに聞くタイプです。またそうした手紙もたくさん書いて残しています。

「バーリントンを買っているのはあなたか?」
シフが聞くとヒルは笑いながらこう答えました。

"Absolutely not!"
「私があなたに逆らって買っているわけがないだろう」

しかしこの時ヒルのバックにはハリマンの事をほとんど病的なまでに嫌うモルガンがついていました。モルガンにとってはハリマンのバックにいるシフももちろん気にくわない存在です。シフがモルガンとの関係をどう思おうとモルガンから見れば「まぬけ」と「あの外人」のコンビでしかありませんでした。

ヒルが自分は買っていないと言う以上モルガン以外には考えられません。
シフはモルガンを訪ねてヒルと同じ質問をモルガンにぶつけました。 モルガンは嘘をつきませんし嘘をつく必要もありません。ヒルと一緒にバーリントン鉄道を買っていると答えました。
ヒルは大嘘つきだったのです。

「ミスターモルガン、我々は共通利害者(Community of interests)ではありませんか? バーリントン鉄道はハリマンとヒルで分けあいましょう」

「Community of interests」はシフの決まり文句になります。協調的なバンカーだったのでしょう。

シフとしては二大グループが鉄道につながる金融市場の過半を握っている状況ではお互いがうまくやるべきだと主張したのです。またこの二大グループはこの頃にはお互いのディールで引受をシェアしたりしていましたからシフとしては協調関係にあると信じていました。
しかしモルガンは拒否しました。

ここに対立の構造は明らかになりました。
シフ+ハリマン vs モルガン+ヒル

4月20日にはヒルがバーリントン株の96%を買い占めてしまいます。バーリントンのオーナーと話がついたのでした。ハリマンの提示金額より遥かに高かったと言われています。2億ドルですから随分と高い買い物でした。

ところがハリマンはヒルにコケにされて黙って引き下がるような男ではありませんでした。売られた喧嘩は買わないわけにはいきません。それにバーリントン鉄道はどうしても欲しい。
ヒルがそう出るならば発想の転換でした。ハリマンはバーリントン鉄道を飲み込んだヒルの会社であるノーザン・パシフィック鉄道ごと買収してしまおうと考えました。飲み込んだものをさらに飲み込む。正にパックマンです。しかも考えているだけではなくハリマンは直ぐに買占めを始めました。ヒルがバーリントンをあっさりと買えたのもこのためです。ユニオンパシフィック社では買収資金として6千万ドルの社債発行を決めました。

クーン・ローブと同じ金融集団であるナショナル・シティ・バンク(現シティ)やその頭取であるスティルマンと関係の深いスタンダード石油のロックフェラーも味方につけました。資金的には何も問題はありません。この連中は皆モルガンとは過去にひと悶着がありました。

激情しやすいハリマンが興奮している一方でシフはモルガンと闘ってもよいものか相当に苦悶したようです。しかし一歩でも引けば相手は図にのってくるでしょう。やるしかないのです。

4月30日、シアトルにいたヒルはここ数日のノーザン・パシフィック株が毎日高騰し出来高が異常に膨れ上がっている事に気がつきました。本によっては「顔色の黒い天使が枕元に訪れてニューヨークで悪い事が起こっていると告げた」と書いてあります。
聞けばシフのクーン・ローブ商会は「ノーザン・パシフィックはバーリントンを買ったので業績が伸びる」と市場に広めていました。推奨銘柄だったのです。もちろんこんなものは買収のカモフラージュです。
ヒルはいつもならモルガンに電話して何が起こっているのか調べてもらうところですが、あいにくモルガンは∪・Sスティール案件やバーリントン案件に決着がついたので欧州へ休暇も兼ねた旅行にでかけていました。

 不吉な予感を持ったヒルはとにかくウォール街に行くことにしました。特別列車を仕立て線路上にある他のあらゆるダイヤを全て無視してニューヨークへ向かいました。ノーザン・パシフィックは自分の鉄道ですから好きにできます。ヒルはこの時にアメリカ大陸横断の最短時間を記録したそうですからからよほど慌てていたのでしょう。

5月3日、ヒルはニューヨークに着くとモルガン商会にも寄らずシフの事務所に直接出赴いて今度は彼が単刀直入に聞きました。かつてシフがヒルにしたように。

「俺の鉄道を買っているのはあんたか?」
シフは抜け目のない男ですが、ヒルのように不誠実ではありません。

「ヒル君、君には悪いが、ハリマンは君の大事なノーザン・パシフィック鉄道の経営権を握ってしまったよ」

ヒルは信じませんでした。つい10日ほど前に叩き潰した連中に自分の会社が買われてしまうなんて。しかも自分の会社はバーリントン買収で2億ドルの社債を発行したばかりの借金だらけの会社です。

"All right. Do your damnedest. But you can't get control. Morgan and my friend holds alone holds $40milloon worth of NP, and as far as I know non of them has sold a share"
「そうかい、せいぜい最善を尽くすんだな。でも過半数の株の確保は無理なはずだ。モルガンと私の友人だけで4千万ドル相当のNP株をもっている。それに私の知る限り誰も1株たりとも売ったりはしない」

"That may well be, But we've got a lot of it, Jim"
「多分そうなんでしょうね。でもね、ヒル君、僕らは既にたくさん持っていますよ」

ヒルはシフに一体何株持っているのかを詰めよりますが、シフはただこう答えるだけでした。

"A lot of it, Jim. A lot"

続く

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2010年12月14日火曜日

インベストメント・バンク 2

シフとハリマンの出会い

孤高のJPモルガンに対する挑戦者はクーン・ローブ商会でした。
アメリカの金融資本成立過程を分析した名著に「アメリカ金融資本成立史」呉天降 有斐閣1971年という本があります。今では古本にプレミアムがついています。
この本では20世紀初頭までを鉄道を核とした金融資本グループの形成過程として捉えています。
鉄道から始まり銀行、生保と集約され、それらがインベストメント・バンクを中心にグループ化されたという見方です。

この分析によるとアメリカの金融資本グループは1901年にはほぼ2大グループに集約されていました。
このグループは鉄道マイル数で分けると以下の表のようになります。


高橋是清は「高橋是清自伝(下)」のP204でこう言っています。1904年の5月幸運にもアメリカが日本公債の引受に参加してくれると伝えられた瞬間です。パーズ銀行のシャンド氏が吉報を持って飛び込んできたことになっています。

「私はシャンド氏の言葉を聞いてそのあまりに突然なるに驚いた。何しろシフ氏とは昨夜ヒル氏の宅で始めて紹介されて知り合いとなったばかりで、私はこれまで『クーンロエブ商会』とか『シフ』とかいう名前は聞いたこともなく、従って、シフ氏がどんな地位の人であるか知る由もなかった。」

高橋是清は本当にシフ(写真左)やクーン・ローブ商会を知らなかったのでしょうか?

因みにニューヨーク・タイムスのアーカイブで1900年から日本が日露戦争を始める1904年1月までをシフのフルネームである「Jacob H. Schiff」でニュース検索すると313件ほどヒットがあります。
この疑問は後々解くとしてモルガン対クーンローブの戦いに移りましょう。

ノーザン・パシフィック事件

アメリカでは1901年にも恐慌が起きています。「ノーザン・パシフィック事件」とか、「ノーザン・パシフィック・コーナー(買占め)」と呼ばれる鉄道買占め事件です。経済ファンダメンタルスに関わる根深い事件では無く一過性のテクニカルでスキャンダラスな問題として扱われることも多いのですが、当時のインベストメント・バンクの両雄であるモルガンとシフの関係を把握するには興味深い事件といえます。

チャールズ・ガイストの「ウォールストリートの歴史」では扱っていませんが、ロバート・ソーベルの「ウォール街二百年」やロン・チャーナウの「モルガン家」、シフを書いた"Our Crowd" Stephen Birminghamなどではとても面白く扱っています。但し、書き手の立場によって結構内容が違うのですが、ここは私の解釈で書いてみます。

1893年にアメリカ西部から中部をカバーする大陸横断鉄道ユニオン・パシフィック鉄道(現在もUPとして残っています)が倒産しました。当初モルガンが再建を委任されましたが、モルガンは「荒野を走る錆びた2本の鉄路」と馬鹿にして乗り出さない事を決めました。モルガンがだめならシフへと普通の流れでUPの役員はクーン・ローブ商会のヤコブ・シフに依頼しました。

シフがこれを引受けて再建の為に奔走していると、いつも誰か見えないところで妨害をする者がいました。そこでシフはたまらずモルガンに駆け込んで「妨害をしているのはあなたですか?」とモルガンに直接問い詰めました。モルガンとすればシフを格下に見て相手にしていませんでしたが「そんなボロ株に興味はないが誰がお前の邪魔をしているか調べてやろう」と言って調べてくれたのでした。その妨害をしていたのが鉄道王エドワード・ヘンリー・ハリマン(下写真)でした。

"Our Crowd” Stephen Birminghamによると 「ハリマンは小柄で痩せて病気持ちでいつもおぞましい咳をして口臭も酷かった。語り口も小声で聞き取り辛い。おおよそ人に対する気配りなどできるタイプの人間ではなく当時のウォール街でも評判は極めて悪かった」と表現されています。酷い書き様ですが、モルガンもハリマンを人間的にも産業人としても軽蔑していたと言われています。ただ当時ハリマンの経営する比較的小さな鉄道であるイリノイ・セントラルだけは全米で一番経営効率が良いという評判でした。この時ハリマンは鉄道屋として急伸中でした。

シフはバンカーとしてファィナンス面の世話をしますがスタイルとしては鉄道経営の細部に直接タッチはしませんでした。その為にシフの名前は鉄道王としては表に出にくいのです。ハリマンもバンカー出身(後のブラウン・ブラザース・ハリマン)ですが鉄道経営にはあきれるほどの情熱を捧げていました。モルガンやシフとは違い鉄道の為(もちろんお金も)だけに生きているような男でした。

彼は誰とも上手くやれない男とも言われていましたが、クーン・ローブ商会の番頭格であるオットー・カーンとだけはウマが会ったそうで、そのおかげでシフとハリマンは盟友として手を組むことになります。シフは既にアメリカ金融界でナンバー2の位置にいましたが、シフ+ハリマン・グループの誕生でさらに強力になっていきます。シフはハリマンの鉄道経営能力を高く評価しました、シフは財務面でサポートし、ハリマンがハンド・インで鉄道を経営しました。よく日本の本でシフがハリマンの手先のように書いてありますがそうではありません。シフは二大金融グループのひとつを率いる超大物です。

ハリマンは日露戦争終戦直後に「桂・ハリマン協定」で高橋是清を巻き込み日本とひと悶着起こすことになります。

因みにモルガンはハリマンのことを「まぬけ」と呼び、シフの事を「あの外人」と蔑んでいました。但しこれから書くことになるノーザン・パシフィック事件が終わる前まではのことでした。

続く

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2010年12月12日日曜日

インベストメント・バンク 1

JPモルガン

日本の公債発行の話なのにどうしてマーチャント・バンクやらインベストメント・バンクの話が続くのか?と疑問の読者も多いかもしれません。
私は日露戦争関係の本は良本、トンデモ本も合わせてかなりの数を読みましたが、この当時の世界の金融情勢への理解不足が大きな勘違いを生じさせているケースが多く見られます。そうなると何故か「ルーズベルトの陰謀」だとかそんな話になってしまいがちです。ロンドン対ニューヨークあるいはモルガン対クーン・ローブの位置関係などは非常に重要な要素です。日本の公債発行の話にはこの辺りの金融業界事情の把握は欠かせません。ですからしばらくはこんな話が続くことになります。

アメリカのインベストメント・バンクと呼ばれる金融業者もイギリスと同じようにマーチャント出身が多いのです。当時のアメリカの主な輸出品がコットンであったことからナショナル・シティのセリグマンやリーマンなど綿商人が多いのですが、アメリカでは早い時期に金融に専念しています。移民が増え人口増加があり、鉄道のマイルも国土が広大ですから資金を常に必要としていました。 そうした資金の供給源は圧倒的にイギリスなのですが、フランスやドイツも資金の供給者でした。ロンドン側でマーチャント・バンクが商機として捉えたことはもちろんですがアメリカで独自の業者も育っていきます。そしてこの時代の金融業者の象徴はなんと言ってもJPモルガンでした。

モルガンの時代
 
意外に思うかもしれませんが1904年当時のアメリカには中央銀行はありませんでした。
1776年の建国以来二度ほどそうした試みはありましたが中央集権を嫌う分権主義者達によって毎回取り潰されてきたのでした。現在の連邦中央銀行(FRB)が設立されるのは1913年になってからの事でした。 それまでは個々の銀行が金や銀を準備し兌換紙幣を発行していましたがシステムは安定しませんでした。アメリカの高い経済成長率によって株式市場は長い目で見れば好調だったものの、10年に一度は決まったように大暴落を繰り返していました。


この時代に中央銀行の代役として危機の度にニューヨーク市場を支えていたのは銀行家であるモルガン商会の主ジョン・ピアモント・モルガンだと言われています。その存在は日本の財閥である三菱、三井、住友と言うようなものでは無くもっと独占的で圧倒的な存在でした。
しかしアメリカの歴史がそれほど古くはないように、モルガンの歴史も古いものではありません。
原型はメリーランド州ボルチモアの商人、ジョージ・ピーボディーが1837年にロンドンに移り住んで開いた小さなマーチャント・バンクに由来します。イギリスからアメリカに来たのでは無く、モルガンはアメリカからイギリスに渡って、またアメリカに戻ってきたのでした。

 当時のアメリカは国内開発の資金調達をイギリスに頼り切っていましたので、ピーボディーはロンドンで米国州債を扱って次第に大手業者にのし上がっていきました。ピーボディーもマーチャントの出身ですが取扱う商品は州債、鉄道債などの金融商品で貿易は鉄道用レールの販売がありましたが主なものではありませんでした。
アメリカの実業家や政治家のお上りさんがロンドンにくれば、かつて日本人が得意だった団体旅行のように、オペラに招待したり観光案内したりして、英国の伝統的なマーチャント・バンカーからの蔑視を受けながらもアメリカとイギリス双方に着実に顧客を増やしていきました。

ピーボディーは子供がいませんでしたので跡継ぎを探していました。 1851年このピーボディー商会にパートナーとして入社したアメリカ人ジューニアス・モルガンがジョン・ピアポント・モルガンの父親だったのです。彼は息子であり後にJPモルガンになるジョン・ピアポントも連れてボストンからロンドンに引越してきました。
1857年、息子のピアポントは20歳になるとアメリカに戻りウォール街の銀行で働き始めます。すでにこの頃には父ジューニアスはロンドンのピーボディー商会の実権を握り始めていました。

1861年にピアポントは独立してアメリカにJPモルガン商会を設立。ロンドンのピーボディー商会とニューヨークのJPモルガン商会が連携してイギリスからアメリカへの産業資本調達の仕事に邁進するようになりました。そしてロンドンの会社の名前もピーボディー商会からJSモルガン商会にかわりシティにおいても重要なポジションを獲得するようになります。因みにこの会社は後にモルガン・グレンフェルへと改名されます。
結局ロンドンのマーチャント・バンクが息子達を取引先の各国に派遣したのと同じような形になりました。しかもコア・ビジネスをアメリカに絞り、尚且つユダヤ系ではありませんでした。ロンドンのマーチャント・バンクの出自を見てみると、この時代ではむしろユダヤ系では無いことがユニークだったのでしょう。

南北戦争では父子共同で北軍の債券を扱い、綿貿易の関係から南軍をひいきにするロンドン・ロンバート街からは冷たい扱いを受けたりしましたが、その後の30年間を通じ潤沢な英国資本を背景にモルガンは英国と米国とにおいて大きな発展を遂げる事になりました。

南北戦争が終わるとアメリカの証券ビジネスは国債から鉄道証券(株式+債権:比率はほぼ1対1です)へとプロダクツが大きくシフトします。(下図) 鉄道の時代です。




その他の米国インベストメント・バンクがそうであるようにこの波に一番うまく乗れたのがJPモルガンでした。1890年迄には主要な鉄道会社に重役を送り込み経営に関与するようにまでなりました。

Panic of 1890の影響で海外への投資資金がロンドンに引き上げられたことは前回書きましたがアメリカからも同様に資金が逃げ出します。この当時の海外資金の引き上げは金の流出を意味していました。1895年には米国の正貨(金準備)は900万ドルまでに落ち込み、アメリカがいつ金本位(正確には金銀複本位)を放棄するかが街のカフェやレストランで賭けの対象となるほどの状況に至っってしまいました。この危機に英国NMロスチャイルドとJPモルガンが米国30年債6500万ドルを引き受け、この代金を金でデリバリーする事でアメリカは正貨危機を乗り切るという事件がありました。モルガンは中央銀行の代役を務めたわけです。

 モルガン、ロスチャイルドが金市場操作に乗り込んだとのストーリーを強気材料に、この債券は1895年2月20日に売り出されると、ロンドンでは2時間、ニューヨークでは22分間で売り切れてしまいました。シンジケートは104.5ドルで引受け、初値の112.25ドルで売りさばき大儲けをしました。モルガンはアメリカの金融市場救済を賞される一方で、儲け過ぎを責められる事にもなってしまいました。またこれを教訓にアメリカでもようやく金本位法が成立します。マッキンリー大統領の1900年でした。それまでは米国は金銀複本位だったのです。アメリカは中央銀行も無く金本位も中途半端なまま成長を続けていたのでした。

そしてインベストメント・バンク業界にもベアリング商会によるPanic of 1890が大きく影響を及ぼしています。アメリカから資金が引き上げられると1893年にはアメリカは恐慌に陥りますがこの時に大手を含め多くの鉄道会社が倒産してしまいます。そもそも乱立する鉄道会社は競合しダンピングを繰り返し経営が安定しませんでした。そうした中でJPモルガンは顧客である株主を代表する立場として買収による集約化を進めていきました。
大陸から資金の流入が停止する中でJPモルガンはイギリスからの資金に代わって国内銀行や生保の資金を集め殆ど紙くず同然となった鉄道株を買占めて再建資金を調達し鉄道独占企業体へと変貌していきます。資金の流れが変わったのです。Panic of 1890はアメリカの資本をヨーロッパ頼みから自立させる契機となりました。

アメリカにおける企業合併は1897年の61件から1899年の1200件へと世紀末に飛躍的に増えますが、その頂点とも言える案件がモルガンによる∪Sスティールの買収でしょう。この頃にはウォール街の目は鉄道から鉄鋼やその他の製造業へと拡がりを見せ始めていました。アメリカの産業構成が変わり始めたとも言えます。
買収にはトラストの形態が用いられ、参加企業の株主がその上に設けられる持株会社の発行する「企業合同証券」と交換に株式を信託する形態に替りつつありました。要するに現在のホールディング・カンパニーと同じものです。資本の集約化が簡単になりました。

1900年12月、モルガンは自身の保有するフェデラル製鋼と業界トップのカーネギー製鋼を合併させ、さらに周辺の製鉄、金属会社もこれにくっつけて一つの大鉄鋼会社にしようと計画しました。 カーネギー・ホールにその名を残すカーネギーから彼の会社を買収した価格は4億8千万ドルと言われています。これでカーネギーは個人として間違い無く当時の世界一の金持ちになりました。当時の為替レートは1ドル約2円です。カーネギーが手にした金額は日本円で約9億6000万円に相当し、1903年の日本の全国銀行貯金残高を上回っています。また同年の東京株式市場の時価総額が約10億円ですからカーネギーは1人で日本の全上場銘柄を持ってようなものでした。
またこれによって成立した∪Sスティールは総資産14億ドルの世界最大の上場会社となりますが、これは当時の日本の推定名目国民所得26億円をも上回っていました。日本は国家としても経済力ではカーネギー1人に太刀打ちできなかったわけです。

 モルガンがアメリカとイギリス双方で力を蓄えるようになると、それまでロンドンで対立していたベアリング商会とロスチャイルド家は共通の敵を見つけたように以前ほどは反目しなくなっていきます。ボーア戦争時の1900年、イギリス政府は戦時債券の募集を行います。ロンドンではロスチャイルド、アメリカではモルガンに依頼しました。この時モルガンはロスチャイルドと協調的な態度をとらず独自に高い手数料をイギリスにふっかけましたがイギリスは飲まざるを得ませんでした。このディール以降JPモルガンはイギリスのマーチャント・バンクを見下すようになりました。

ピアポントはビジネスでは抜け目なく利用しても「ユダヤ人嫌い」である事は公言していました。またピアポントはアイルランド人も見下していました。典型的な鼻持ちならないWASPだったのでしょう。
アイルランド出身でニューヨーク銀行社主のジョセフ・ケネディにも嫌な思いをさせ、彼をして息子を大統領にする決心をさせています。彼は夢を実現し米国初のカソリックの大統領を誕生させてしまいました。ピアポントはどうも何でも見下すのが好きだったようです。これは想像でしかありませんがロシア人は尊敬の対象にはならなかったでしょうし、日本人なんかは見下す対象にすら入っていなかったことでしょう。
日露戦争のファィナンスにもモルガンの名前は登場しますが、モルガン側からの積極的なアプローチはありませんでした。しかしあまり知られていませんが、モルガンは日本公債のアメリカ募集分を結構な金額分アンダーライトしていました。これは後で紹介しようと思っていますが。このシリーズを読んでいくと何となく事情がわかってくると思います。

こうして金融界に限らず経済界全般に圧倒的な力を持つに至った孤高のモルガンでしたが、何もウォール街の全員が彼に屈したわけではありませんでした。彼を出し抜いてやろうとする挑戦者は、さすがチャンスの国、アメリカにはおりました。

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2010年12月10日金曜日

マーチャント・バンク 2

日露戦争以前の日本との関わり

綿工業など農業と関連する軽工業の時代であれば輸送手段としての鉄道はそれほど重要ではありませんでしたが、鉄鋼など重工業が絡むと鉄道インフラは欠かせなくなります。鉄鉱石や石炭、鉄鋼製品を輸送する手段がないからです。従って重工業発展の前段階では取引所の主力銘柄は鉄道が中心になります。
1893年のLSE(ロンドン株式市場)では49.4%が鉄道の株・債権、この内半分以上が外国の鉄道銘柄でした。

以前コンソル公債のエントリーで紹介しましたが、当時の英国は低金利の状況が続きました。そのため投資家は高い期待リターンを求めて海外での有力な投資先を模索していました。行き過ぎた例が前回のベアリングによるアルゼンチン投資だったのですが。

こうした状況下で憲法を発布し、議会政治を始め(1890年)、先進国にならい金本位制度を導入(1897年)した新興国日本は投資対象としてとても魅力的に映ったことでしょう。 当時の日本で鉄道会社がファィナンスしようとすると8%近くの金利を要求されましたが、ロンドンの投資家は5%もあれば良いと考えていました。金本位制度が導入されていますから為替リスクは基本的にありませんし、ロンドンの投資家が考えているのは当然ポンド建ての債権です。こうした金利格差が出るのは何らかの参入障壁があるからです。

1901年に九州鉄道と北越鉄道(直江津―新潟)に資材を納入していたバーチ商会から英国外務省に日本の鉄道にファィナンスをしてくれるマーチャント・バンク紹介の依頼がありました。外務大臣のランズダウン卿はこれをベアリング商会のレベルストック卿(絵)に回します。このレベルストック卿は「Panic of 1890」のレベルストック卿の2代目で名前はジョン・ベアリングです。父親は引責辞任しベアリングは生まれ変わりましたが経営はベアリング・ファミリーによって継続されていました。

この頃の日本の法律では外国人は個人として土地や鉱山の所有を認められていませんでしたから、社債発行の際の担保に問題があったのです。鉄道が倒産して社債ホルダーである外人投資家が担保を要求しても所有できないのであれば外資は入ってきません。 べアリングは調査の人間を日本に送り込み法改正の要請・根回しを渋沢栄一等を通じて行います。1903年にはベアリングはロンドンのノートン・ローズ・ノートン法律事務所が日本の弁護士の意見も交えて作成した「鉄道抵当法案」のドラフトを日本に送付しています。

この法案は日露戦争2年目の1905年の第21回帝国議会で通過しますが、1906年には軍事上の理由から鉄道国有化法案がほとんど唐突に可決され現在のJRの前身である国鉄が出来上がってしまったのです。1906年には日露戦争の戦果として獲得した満州鉄道も欧米資本を排除したかたちで設立されていることは偶然ではありません。

しかしこうした担保の整理は鉄道に限らず工場抵当法、鉱業抵当法も同時に施行されましたから、今で言う外人投資家が日本株や債権を買う「外人買い」を誘発することにもなりました。これは一流マーチャント・バンクが主導したというよりもかなり投機的な資金ではありましたが。

日露戦争の戦勝や戦争中市中に放出された資金もあいまって1906年の兜町は大相場になります。翌年にかけてIPOも数多く実施され大日本麦酒、横浜倉庫、藤本ビル・ブローカー(大和証券)、東京毛織、明治生命(株式会社だった)、日清紡績、キリン麦酒、日清製粉、阪神急行、日本製鋼所など現在に名を残す名門企業が数多く設立もしくは上場されました。満州鉄道のIPOもそうです。野村徳七や根津嘉一郎など財を蓄えた相場師も数多く輩出することになります。

こうした状況下でベアリングの2代目レベルストック卿は日本を見つめていましたので、日本がロシアと戦争を始めるとなると戦時公債ビジネスに商機を見出すのは当然のことでした。極東に強く日本に支店がある香港上海銀行と提携して日本国公債ビジネスに取り組むことになります。


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参考文献:「産業革命と企業経営1882―1914:第1次世界大戦前のロンドン金融市場と日本企業」鈴木俊夫 ミネルヴァ書房、その他

2010年12月9日木曜日

マーチャント・バンク


「マーチャント・バンク」は特定の時代のロンドンの金融業の形態を指すような用語になってしまいましたが、往年のマーチャント・バンク達は形を変えながらも未だ滅びたわけではありません。 ドバイ・ワールドの財務アドバイサーにロスチャイルドが就いたと云うような記事も最近FTに出ていましたし、投資顧問やブティック投資銀行には数多くの名前を残しています。 しかし業態として20世紀初頭に占めた金融世界での重要性は現代では見る影もありません。

高橋是清が公債発行の為に赴いた1904年頃のロンドンではマーチャント・バンクが国際金融市場の要の位置にありました。

マーチャント・バンクの発祥はマーチャント=貿易商から来ています。17~18世紀に海上覇権を握っていたオランダのアムステルダムの商人達は貿易取引に関わるうちに為替や手形、船荷証券など貿易金融に必然的に携わるようになっていきました。取引地間での信用関係が重要になるので、一族や子弟を取引地である欧州の各地に派遣していくことになります。ロスチャイルド家が同様に5人の息子達をフランクフルト・パリ・ロンドン・ウィーン・ナポリに派遣したのも、当初は資産保全の危険分散というよりはカウンター・パーティー・リスクの削減が目的であったと思います。

富を蓄えたマーチャントの中に純粋な金融業に手を出すものが登場するのも、支店網をめぐらせ手形・為替業務を行っていたことから必然の流れでもありました。単なる融資から、公債の販売へと広がっていきますが、各国に分散する公債購入者への利子の支払いなどにはこの支店網が重要な役割を果たすことになりました。
しかしこの文脈ではマーチャント業務を放棄して金融だけで業務を行ったと云うイメージが出来てしまい勝ちですが、実際には当時の債権のデフォルト率が高いために、金融依存度が高いと騒動がある度に倒産してしまうような事も多く発生しています。そのためにマーチャント・バンクによってその比率は様々なのですが、20世紀初頭においてもマーチャント業務は中核であり続けたようです。

当時のイギリスの主な輸出品にレールや機関社など鉄道資材がありましたが、他国の鉄道へのファィナンスには資材の輸出が必ずセットでついていましたし武器もそうでした。大雑把に言ってしまえば現在の商社金融に投資銀行を組み合わせたような機能を持っていました。最初は単なる代理店が在庫を自分の思惑で持つようになり、やがて生産者の工場に融資するようになる。また買い手のローンも組みそのうち商品を買わなくても資金だけでも貸し出すようになる。そうした流れだったのでしょう。

その中でも政府向けに大きな貸出をする飛び抜けた存在のマーチャント・バンクが登場してきます。ロスチャイルドはウェリントン公のイベリア半島出兵やクリミア戦争の戦費を調達しましたし、1875年にスエズ運河の利権がフランスに渡ろうとした時には400万ポンドの資金を英国政府のためにすぐに用立てしました。ベアリング商会はワーテルローの大敗後のフランスに賠償金支払いのための資金を調達しています。こうした融資は個人商店による貸出ではなく公債の形で広く投資家を募る形態に変化していきました。また融資額が巨額になるに連れ1社だけで公債発行を引受けるのではなくシンジケートを組みリスクを分散していくようになります。

19世紀末のロンドンのマーチャント・バンクで有力なものは、飛び抜けた存在としてロスチャイルドとベアリングの2つ、その他クラインオート、JSモルガン(モルガン・グレンフェルになる)、シュローダー、日本の公債募集の話の為に敢えて付け加えるならば、スパイヤー、サミュエル、シプレーなどがありました。起源的に言えば彼等は殆どがドイツ系ユダヤ人かアメリカ人です。ロンドン金融界のウィンブルドン現象などは数世紀も前からそうであったのです。こうしたユダヤ人やユグノー達は大陸では常に宗教的被迫害者であったので宗教に寛容なロンドンに集まるのはこれも必然でした。後に大手になるウォーバーグはまだドイツにいました。

彼等は富裕層からの資金を預かっていました。一方で英国の産業革命による中産階級の発生から小口の預金が株式銀行と呼ばれる現代の都市銀行の口座に増加していました。19世紀末には株式銀行が力を蓄え証券発行の分野でマーチャント・バンクと互いに競合するようになっていました。これらの有力なものにはユニオン銀行、パーズ銀行(ミッドランド銀行→RBS)、アジアに特化したHSBC(香港上海銀行)、チャータード銀行、などがありました。

日本が日露戦争以前の1899年にロンドン市場でポンド建て公債を発行した時の発行銀行はHSBC、チャータード、パーズ銀行、横浜正金銀行が幹事団を勤めています。

この中でパーズ銀行は国際業務に弱く国内に支店を多く持つ内国銀行だったのですが、ロンドン店支配人のアラン・シャンドが以前日本に滞在経験があり、「銀行簿記」を日本に始めて紹介するなど日本の銀行業黎明期に教師として多大な貢献をしていました。そうしたことからこの銀行は日銀から井上準之助などをトレーニーとして送るような関係にあり、日本政府としては頼りにしていた銀行だったのです。公債発行にも主導的な役割を果たします。

「Panic of 1890」というのは日本ではあまり有名ではありませんが「ベアリング恐慌」と言われています。ご存知のようにベアリングスはニック・リーソンによって1995年に破綻しますが、実は1890年にも一度破綻しています。当時は英国が低金利であったために高金利を求めて海外投資が一大ブームとなります。そのなかでアルゼンチンへの投資ブームがありベアリングのレベルストック卿がこれにエクポジャーを傾け過ぎたために破綻したと言う事件でした。昔から同じようなことを繰り返しているんですね。これはシステミック・リスクに発展しBOE主導でロスチャイルドやJSモルガンによる緊急融資によって救われるのですが、これを期に英国の対外投資熱が冷え込むと同時にマーチャント・バンクがリスク回避的になるという影響を及ぼしています。この事件は今回のリーマン危機においても話題になりました。

米国では英国からの資金が引き上げられゴールドが不足し金本位制度(正確には金銀本位)の危機に陥ったりしますが、米国はこれを期に産業資本を自国で調達するようになり、米国の投資銀行と英国のマーチャント・バンクの力関係に変化が出始めることになります。

もうひとつ無視できない要素として危機以前にはマーチャント・バンクに人材が輩出したのですが、この時期以降はロスチャイルドやベアリングスにタレントが不足していたと言われています。一方で、アメリカではJPモルガンやクーン・ローブのヤコブ・シフなどが台頭し、イギリスではロバート・フレミング、アレキサンダー・クラインオート、それにマーチャント・バンクという範疇には入りませんがアーネスト・カッセル卿(絵)という個人金融家とも言えるような人物が輩出しロスチャイルドやベアリングと競合関係にありました。

公債募集にロンドンに赴いた高橋是清が接触したのはロスチャイルド、ベアリング、カッセル,そしてHSBC、パーズ銀行といった面々です。


マーチャント・バンクはプライベート企業であった為にリーグ・テーブルやデータの取得は困難です。カッセルに至っては業績や活動記録を自身わざと残さなかったこともあり全容はあまりわかっていません。 日本語で読める本は「マーチャント・バンキングの興隆」スタンレー・チャップマン 有斐閣選書ぐらでしょうか。ここにはデータが結構提供されています。また「日露戦争の新視点:日露戦時公債発行とロンドン市場」鈴木俊夫 成文社、や「産業革命と企業経営1882―1914:第1次世界大戦前のロンドン金融市場と日本企業」鈴木俊夫 ミネルヴァ書房などに当時のベアリング商会の活動等が書かれています。

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2010年12月8日水曜日

日露外債発行リスト


最近ブログの更新をしていませんでしたが、日露戦争時のファィナンス関係の本を読み込んでおりました。かなりネタが溜まってきたので少しずつ書いていきたいと思います。

もしかするとあまりにもマニアックかも知れませんが、国債を海外で募集することについては現代でも参考になることがあるのではないかと思っています。日本は近い将来間違いなく国債の海外募集を迫られることになります。

今回からシリーズとして日露戦争時のグローバル市場での国債発行を追いかけたいと思います。タグは”明治公債発行”にしておきます。

1904年から05年の戦時中を通じて日本は合計4回の戦時公債をロンドン市場で発行しています。また終戦後には戦時に発行した高クーポン債の借換債として2回発行していますから、日露戦争に関しては計6回の発行があったと考えて良いでしょう。 いずれも日本銀行副総裁の高橋是清が財務官として担当し、深井英五が秘書役として同行しています。



上記の表を見ると、日本の場合戦時国債の金利は大きく二つの水準にわかれています。04年の発行は実質金利で7%台、05年は5%台で発行できています。
また1と2では実質金利と手取金利の関係が変なのですが、この理由は後々説明したいと思います。
発行金利と実質金利の違いは当時の金利の計算方法にあります。
以前コンソル公債で説明しましたが、発行金利は簡易法で永久債と同じような計算方法になっています。
つまりクーポン÷価格でバッサリと計算してしまうやり方で、当時の新聞記事を見ますと押し並べてこのやり方で債券発行を論評しています。この時代HPの計算機もエクセルもありませんから仕方が無いでしょう。

日本は日露戦争で15.1億円の戦費を支出しています。(臨時軍事費特別会計)1903年の一般会計歳出が2億5千万円ですから約7倍。戦前に内外合わせて5億円だった国債発行残高は20億円にまでなりました。また当時の全国銀行の預金残高が7億6千万円しかありませんでしたから国外からを募集する以外に手段がなかったのです。 日本の戦時国債の発行額額面合計は8200万ポンド、当時1ポンド=10円ですから約8億円と言いたいところですが、実質は6億8595万円の調達です。調達されたポンドは在外正貨(ゴールド)として金本制度の金準備に充当されます。金準備が50%として通貨発行量としては約2倍の威力を持っていました。

ロシアの方は1904年の一般の歳出が20億円ですから日本の8倍の予算規模を持っていたことがわかります。ちなみに酒税だけでも日本の国家予算を上回る3.82億円もありました。また対外債務は40億円でその内30億円はフランスからでした。

戦争の経費の内訳は陸軍12.8億円、海軍2.3億円、陸軍の経費の80%が徴兵が加わった兵員関係、輸送、旅費で占められ、兵器調達関係は15%ほどしかありません。一見海外から購入した武器などに経費がかかっているような印象を持ちますが、要は広い意味での人件費だったのです。従って大軍を満州に張り付けるには莫大な経費がかかってしまう事になります。戦争末期に児玉源太郎が日本に帰って、早く戦争を止めるように促したのはこの為でした。大砲を撃たなくても、軍をおいておくだけで湯水のように資金は流出して行きます。

公債の発行環境を知るためにまずは当時の資金供給元である欧米の金融業界から見ていくことにしましょう。

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参考文献
「帝政ロシアと外国資本」中山弘正 岩波書店
「日露戦争の新視点」日露戦争の戦費と財政・金融政策 小野圭司 成文社
「国債の歴史」富田俊基 東洋経済
「満州に於ける露国の利権外交史」 ロマーノフ 原書房

2010年11月26日金曜日

戦争なんか出来るわけないだろう


北朝鮮が挑発行為を繰り返しています。もちろん彼等から見ると米国と韓国が挑発行為を繰り返していることになりますが。

我々の立場から合理的に考えると北朝鮮が戦争するメリットも、最終的に北朝鮮が勝利する可能性も殆ど有り得ないように思います。だから我々は多分彼等は脅しだけで戦争はしないだろうと基本的には考えています。

しかし北朝鮮が着々と核兵器、化学兵器そしてそれらを運ぶミサイル技術を進化させている状況においては、韓国だけではなく日本との間にもどこかで臨界点がくるはずです。それはもしかしたらもう既に来ているのかもしれません。

先ずは地方都市を攻撃されて、食糧を寄越さなければ次は東京だとか、そんな事彼等はしないと言い切れる人はいないでしょう。

第2次世界大戦の前に日本でも軍は最高のエリートでしたが、今から見れば不謹慎にも笑ってしまうほどの経済インフラ格差を無視して戦争を始めました。北朝鮮軍のエリートも同じように真剣に祖国(あるいは彼等の組織)の事を考えているのでしょう。


彼等は基本的に金がありませんから略奪専門です。占領後は軍票みたいな紙幣を発行するかもしれません。あるいはドル紙幣をいっぱい持っているかもしれません。偽札を造っていることは広く知られていますから。 また万景峰号で現金で持ち出された日本円はマカオで滞留していましたが澳門匯業銀行(バンコ・デルタ・アジア)の取引停止以来溜まった分が少しはあるでしょう。

くだらない想像はこれくらいにして、何故中国は北朝鮮を抑えないのでしょう。

「中国の朝鮮半島の政治と軍事情勢に対する影響力について、どのように思いますか」との質問に対する回答状況は以下の通り(24日午後4時現在)。
(1)中国は、北朝鮮の行動を抑えるべきだ…18.24%
(2)米国と韓国の政治目的を阻止するため、北朝鮮を支援せよ…31.76%
(3)北朝鮮は中国の意見に従わない。中国は半島問題に積極的に参与すべきでない…19.41%%
(4)分からない…30.59%

中国にとっては正義以前に北朝鮮は味方なんですね。カンボジアのポル・ポト政権がそうであったように。もちろん多数決で正義を決めるならばそれが正義に違いありません。

2010年11月22日月曜日

KOMTRAX


伝聞で恐縮だが、昔NYのワールド・トレード・センターを襲ったテロ。9.11の時に話題になった話だ。英米の損害保険の競争優位の話だったが、世界の天候を予測するには海面温度のモニターがとても重要であるという話だった。

エルニーニョやハリケーン、台風の予測、穀物の収穫予想等に欠かせないないからだ。
もちろん軍事情報としても天候予測が重要である事は今でも変わりはない。阿川弘之の「私記キスカ撤退」や映画「キスカ」を見ればわかりやすいだろう。

海面温度は当時でもネットで結構見れたが、詳細なデータは英米の数社によって独占されているという話だった。予測の精度は設置されたブイの数と性能によって差が出る。これが日本の損保が太刀打ち出来ない理由だと聞いたことがあった。今はどうかはわからない。

今日の日経三面、月曜経済観測にはコマツの野路社長が登場している。
個別銘柄をやっている人は多分既によくご存知だと思うがコマツには「KOMTRAX」と云うシステムがある。
これは世界中で稼働しているコマツ製建機の位置、稼働状況の一括管理システムである。
ポイントはリアルタイムでこれらを東京でモニター出来るという事だ。



つまり海面温度ならぬ世界の建機稼働率がリアルタイムで把握できるという、CIAも真っ青なシステムである。政府機関による統計を待ち、さらにエコノミストによる分析を加えたものを読むよりはよほどにストレートな情報となる。

「中国市場で前回大きな調整が起こったのは04年で、このときは中央政府が景気過熱を抑えようと、地方政府のすすめる工業団地造成などの再開発プロジェクトに一斉にストップをかけた。こうしたかなり強制的な処置を採るなら別だが、金融引き締めや人民元の多少の切り上げぐらいで今の中国市場の勢いが止まるとは思えない」

つまり中国の景気が曲がり角にあるとの実感は無い、建機の稼働率は未だ低下していないのだ。
一方でアメリカの回復にはまだ兆しが見えないとおっしゃっている。

まあ、そりゃそうだろうと思う人も多いと思うが、リアルタイム・データを持っている人の発言は重い。


KOMTRAXはダイヤモンド・オンラインのこの記事が一番わかりやすい。

缶入りハイボール


僕の経験でしか無いが、アメリカでもイギリスでも水割りが欲しければ「Scotch and Water」、アイリッシュ・バーだと氷も入って出てくるが、ホテルのバーだと「with Ice」をつけた方が無難だったりする。

昔ニューヨークでは銘柄指定しなければスコッチとはDewersだったが、最近は銘柄を聞いてくる。考えるのが面倒だから「ジョニー・ブラック」っていつも言うことにしている。

日本で言う「ハイボール」は「Scotch and soda」でこれは普通に氷を入れてくる。
wikiの英語版でHighballを見ていたら昔はアメリカでも普通にハイボールと言っていたらしい。そう言えば僕は海外のバーで「ハイボール」とオーダーしたことは無かった。

ハイボールは安いウィスキーに向いていると勘違いしている人もいるが、そんな事は無い。ソーダが香りを立たせるのでレア物のウィスキーで鑑賞したり批評を書くのならともかく、ソーダ割りは高いウィスキーにもとってもよくマッチするのだ。

だからと言ってピート香の強いアイレーなんかをソーダ割りにするとなれない人には厳しいかもしれないが、僕はラガヴーリンの16年をソーダで割ったりするのは結構好みだ。ドクター・ペッパーが嫌いじゃない人にはわりとお奨めなのだ。

何年か前に京橋の初めて連れていってもらったバーでメーカーズ・マークのゴールド・トップがバック・バーにあったのでソーダ割を頼んだところ、「お客さん、お願いしますよ」と断られた事があった。
僕はそういったバーで揉め事は好まないのでしょうがないので水割りで妥協した事がある。バーマンの気持ちはとってもよくわかる。「良い酒はストレートで飲んでください」 そうだよね。ゴールド・トップはとっても美味しいバーボンだ。

でもポール・ジローをソーダで割って、レモン・ピールをディップさせると物凄く美味しいくなったりするんだよ。


最近缶入ハイボールの種類が増えてきた。

元々サントリーで白角、オールド、リザーブと缶入りの水割りは発売されていたけれど、角のハイボールで一気にブーム火がついたのだろう。
今では居酒屋でも角のハイボールはジョッキでサービスされるようになった。サントリーじゃ角ハイが売れすぎて角瓶用のモルトが不足してしまったソーダ。小雪のCMも影響したんだろうな。

そこで今サントリーとしてはトリス・ハイに客を誘導(ナッジ)しているんだろう。でもトリスは昔のトリスではなく確実に質感が上がった。きっとモルトの比率を上げたに違いない。

最近ニッカからピュア・モルト竹鶴12年の缶入りソーダ割りが発売されたんだけれど、これは美味しい。ボトルを1本買わなくても良いのがとってもイイじゃないか。できれば色々なものを飲みたいからね。
お酒の世界もファット・テールな多品種少量生産なマーケティング手法が認識されてきたのかもしれない。

昔から芋焼酎なんかをお湯割りにするときには事前に水で割ってサーバーで寝かせたりする。それを黒じょかで飲ませるのだが、これは焼酎と水が馴染むのに時間が必要だという事だ。
缶入りハイボールがおいしいのは多分酒とソーダ水が芋焼酎のように馴染んでいるからではないかと推測しているんだが、どうだろう?

2010年11月14日日曜日

日露戦争の映画


映画会社「新東宝」は戦後の労働争議でもめる「東宝」を補完し東宝系列の劇場に作品を配給する目的で別働隊として設立されたが、「東宝」は労働争議が収まると自主作品を多く制作し始めたために「新東宝」は梯子をはずされる形になってしまった。

1955年に弁士出身の大手映画興行主(映画館をたくさん保有している人)大蔵貢が新東宝の社長に就任すると東映から「早撮りの巨匠」渡辺邦男をスカウトした。渡辺は早大生時代には強烈な共産主義者であったが、何かのキッカケで共産党嫌いになり天皇中心主義者に変節したと云われている。

大蔵は出演料がコストとして響くと言う理由から1人のスターを中心に映画製作をするスター・システムを否定し、企画そのもので映画を売ると言う経営姿勢だった。テリー伊藤が安いお笑いタレントを大量に使って「オバカ番組」の走りをやったようなものだろう。こうした状況下で大蔵は赤字続きの新東宝にとっては起死回生の一発となる「明治天皇と日露戦争」という天皇を扱う前代未聞の映画を製作することになる。これが1957年のこと。

「昔なら、天皇を映画などで扱ったらたちまち大逆罪、不敬罪で極刑であったろうが、昨今は週刊誌の小説にも登場するご時勢だ」と大蔵は天皇を主人公にした映画を思いついたのだ。これ以前の映画の天皇はせいぜい御簾の内から声だけの出演で、役者をあてがって映画を作るなどとんでもない話だった。新東宝は製作費2億円、フィルムは高価な総天然色シネマスコープとまさにこの作品に社運を賭けた。明治天皇役には「鞍馬天狗」の嵐寛寿郎、「右翼が殺しにきよります、ワテは御免こうむりたい」と躊躇したが、「大丈夫や、ボクかて右翼やないか」と大蔵は説得した。

もとより新東宝は大赤字の会社である、大蔵は制作の渡辺に客を呼べる「娯楽映画」にしろと厳命した。渡辺はそれならばと「明治忠臣蔵」のモチーフで行こうと決めたが、いかんせん当時は明治天皇の人間的エピソードが全くわからない。人物描写ができないのだ。しかたが無いので御製(天皇が詠んだ和歌)を挿入することで心境を暗示する方法を選択したと言う。

実際に封切られてみると、これが予想以上の大ヒットで「君の名は」や「二十四の瞳」を上回る当時の日本映画史上最高位となってしまった。なにしろ明治忠臣蔵の娯楽作品である、評論家による評価はさんざんだった。「芸術作品として拙劣である」、「浪花節を御製にかえた旧式な浪曲映画」、「芸術以前の金儲け主義映画」などなど。

1957年の「キネマ旬報ベストテン」では30位、つまりランク外である。知識人である評論家にしてみれば「こんなものがどうしてヒットするのかわからない」と困った映画であった。
屁理屈をこねる知識人には馬鹿馬鹿しくて何故売れるのかが理解できなくても、感情は別の次元にある。当代随一の知識人和辻哲郎は「あまり出来のいい映画だと思わなかったけれども、どうも涙が出て困った」、評論家大宅荘一も彼に映画を薦めた「文芸春秋」編集長池島信平が泣いたというので、泣いてたまるかとハラを決めて映画館に入りながら不覚の涙を流したという。


司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」は1968年から1972年にかけて産経新聞に連載された。その連載中の1969年には特撮監督円谷英二の遺作となる「日本海大海戦」が東宝で制作されている。この映画では三船演じる東郷平八郎が主役であって、「坂の上の雲」のように秋山真之にフォーカスしていない。
この作品は僕から見れば円谷特撮だけを取り上げても評価されるべき作品であってCG全盛時代の今から見ても映像における「リアリズム」とは何であるか?を考えさせられる作品だ。大枚をはたきCGを駆使した「パール・ハーバー」がどうしても安っぽく見えてしまうから不思議なのだ。

この映画では戦艦三笠用に1/10スケール(全長13メートル)と1/38(同3.5メートル)の2種類の模型が製作され、小さいほうのスケールは他の艦艇約50隻と東宝の大型プールに浮かぶことになった。円谷は自分用の特製カヌーでプールの中を自在に動き回り細かく指図した。これは司馬遼太郎が日本海海戦の部分を書く以前の作品だろうから「坂の上の雲」の海戦シーンの記述にあるいは影響を与えたのかもしれない。

司馬にしろこの映画にしろ「日本は南下するロシアの圧迫からの自衛の為の戦争を起こした」という歴史観が前提となっているためにやはり知識人からは戦争礼賛に繋がるものとして批判を浴びることになる。司馬はこれを警戒して「坂の上の雲」の映像化を封印した。
因みにこの時代の海戦をCG化したものの中ではアレクサンドル・コルチャークを題材としたロシア映画「提督の戦艦」の冒頭部分、WW1におけるロシア水雷艇対ドイツ巡洋艦の戦闘シーンが秀逸である。これも史実とは少し違ってはいるが。

1980年になると映画「二百三高地」が東映で制作される。総制作費15億円。この映画の配給収入は24億円と当時東映史上最高記録だった。日露戦争物は少なくとも日本が勝利しているだけにいつの時代にも受けが良いのだろう。
さだまさしが主題歌を歌い、あおい輝彦、夏目雅子の他、児玉源太郎は丹波哲郎、乃木大将は仲代達也、明治天皇は「世界の三船」である。

評論家による評価は「明治天皇と日露戦争」と同様にやはり高くはない。この頃前年のソ連によるアフガン侵攻など世界は新冷戦時代に突入し、同年の衆参同時選挙で自民圧勝と言う時代背景から日本の軍国化、右傾化が懸念されることになった。つまり日露戦争は「防衛戦争」であるとの歴史観から国民の犠牲もやむを得なかったと擁護してしまう作品だとの懸念も多かったのだ。しかしこれは一度映画を見てみればわかるがどう見ても反戦・厭戦映画でしかない。これを見てよし俺も戦うぞなんて考える若者なぞいやしない。知識人層のこうした映画への反応こそステレオタイプであると言えるだろう。

当時の共産党は「北方ロシアの軍事的脅威に対抗して日本を守るために、軍事力を強化し徴兵制をしけという、現在の反動的政治路線を歴史の映画化という壮大なフィクションに託して正面に押し出したもの」(新聞:赤旗)と評している。この映画のキネマ旬報の評論家によるランクは17位だったが、読者の選出では第1位だった。

シナリオは笠原和夫、若い頃には「美空ひばり」物、その後の東映ヤクザ路線の本を書いた人である。笠原はとにかく史実にこだわった。映画の最後のシーンでありクライマックスでもある乃木大将が明治天皇に報告する部分では「天皇が冷たい顔で乃木の報告を聞いた」と表現したが、当時の東映岡田社長は「お前、最後の最後にそれじゃあ、客入らへんぞ。報告する乃木も報告を聞く明治天皇も皇后も滂沱(ぼうだ:涙がとめどもなく流れ出るさま)と盛大に泣かしてくれや」と変えさせた。結局お年寄りの観客はこのシーンに感動して映画は幅広い年齢層でヒットすることになる。ここでの仲代達也のヨヨと泣き崩れる渾身の演技はこの映画最大の見せ場となっているが笠原は自分で映画を見ていても恥ずかしくなったと言っている。

リアリズムとは何であるか?こうした歴史物語におけるフィクション部分の果たす役割とは何であるだろうか?少なくとも一般の観客はフィクションだとは思わない。

司馬遼太郎は「坂の上の雲」を書く際に「事実のみを書く」事にこだわり、「フィクションを禁じて書くことにした」と晩年に述べている。しかし当時公開されつつあった1次資料を使わなかったために内閣や元老の記述は不正確なものになっているし、ソビエト連邦崩壊後に新たに公開された資料では「事実」そのものが変更を強いられる状況でもある。一方でこの物語は1400万部も販売され、そして現在も売れている。日露戦争に対する一定の国民的コンセンサスを形成してしまったことも事実なのである。

参考:「日露戦争研究の新視点」 Ⅲ-5 映画の中の日露戦争 千葉功

2010年11月6日土曜日

TED Ideas worth spreading


ひとつ前のエントリーでコメントを頂戴したShijiさんのブログ:ロンドンビジネススクール留学記を訪ねてみたら面白いものがありました。僕のブログの読者には知らない人もいるのではないかと思い紹介しておきます。何故そう思ったのかというと、僕が知らなかったからです。

それはTED(Ideas worth spreading)のコンテンツでSir Ken Robertの話です。詳しくは上記ブログの記事:間違わなかった人へを見て下さい。ユーモアに溢れていて本当に話が上手い。しかも内容は本当に考えさせられるものです。


View subtitlesのところで字幕を選択できます。

このTEDでは日本語サイトもありますし、日本語字幕のあるコンテンツだけを選ぶ事もできます。
そうした中の新しいものでSugata Mitraの話も興味深いものがあります。これも教育の話です。



こうしたものを今更ブログで紹介している僕が少々遅れてしまっているだけかもしれませんが、間違いや失敗は自分自身としても許容していかなければ進歩は無いのでしょうね。などどと勝手に思ってのエントリーです。


2010年11月5日金曜日

中国法幣贋造作戦


昨今では「お札をドンドン刷れ」と言う政治的なグループがあるらしいが、第2次世界大戦ではお札は敵国経済撹乱の為に刷られたりしたものだ。

1945年5月、敗戦のドイツ、エルベ川から大量のポンド紙幣が発見されたが、それらはすべて偽札だった。それを見たBOEの首脳はこう言った、「ヒトラーがあと10日生きていたら、大英帝国は崩壊した」と。

ナチス・ドイツによるポンド紙幣偽造作戦(6F4号作戦:ベルンハルト作戦)は1億3200万ポンドの贋札を印刷したがこれは当時の流通ポンド紙幣の10%にも相当した。
1959年には贋札紙幣の原版や関連文書がオーストリアのトプリッツ湖から発見され事件の全容が明らかになった。この為に英ポンドの価値は下落し、偽造の主力であった5ポンド紙幣は戦後も商店で受け取りを拒否されるなど後々まで影響を及ぼす事になった。 この事件は2007年度にドイツで映画化された「ヒトラーの贋札」に詳しい。TUTAYAで借りられる。

日本でも昭和13年12月陸軍参謀本部に「中国法幣贋造に関する秘密計画書」が提出され、翌年8月には具体的な形となり「対支経済謀略実施計画(杉工作)」として贋札造りが軍事作戦として実行された。製造場所は現在明治大学生田校舎となっている登戸研究所だった。登戸研究所は第九陸軍技術研究所というのが正式名称であるが軍関係の研究所である事を秘匿するためにこう呼ばれたのである。

研究所は三部門に分かれ、
一科:通信機材や風船爆弾など物理部門
二科:秘密カメラ・秘密インキ・毒薬など科学部門
三科:贋札造り
の編成で「秘密」が示すように陸軍中野学校とは密接な関係にあった。

当時の中華民国では昭和10年に幣制改革を実行しそれまで入り乱れていた貨幣を統一し発券銀行を中国銀行・交通銀行・中央銀行・中国農民銀行の4行に絞り込んだ。これらを法幣と呼ぶ。統一されたと言っても各単位4種類の色やデザインの紙幣が流通し、偽札による経済混乱は付け入る隙があると見られた。目標は中国の紙幣発行量の10%である。

登戸には製紙に50名、印刷に200名と最新鋭の印刷機械が集められ、1日10万枚、100万円の贋札が造られた。それはあたかも内閣印刷局がもうひとつ出現したかの様相を呈していた。新品の紙幣が大量に出回ると疑われるのでわざとお札を汚し、折り目をつける機械まで導入されヒモや札束をシールする紙は中国で調達し銭荘(センチャン:中国の施設金融機関でお札のシールに検印を押す)の印まで偽造した。かくして中野学校出身者(スパイ)の手によって中国に持ち込まれた贋札は30億円に達したが、哀しいかな貧乏な日本は通貨制度混乱と言うよりは石油など物資調達に本気でこの紙幣を使用せざるを得なかった。

では当初の目的である偽造通貨大量発行によるインフレーション発生の目的は達せられたのだろうか?
昭和12年の中国法幣発行量は14億円であったが、昭和20年には5569億円にまで達してしまい日本がいくら印刷しても中国のインフレには追いつかなかったのだ。
日本が仕掛けるより先に中国は自身で強烈なインフレに見舞われてしまったのだった。結局贋札は総発行量の1%にも届かなかったのである。



さてどうして中国の通貨単位が「円」なのかと思う人がいるかもしれない。それは僕もそうだったからそう思うのだ。中国の通貨は「元」であったが「円」と表示された。幣制改革当時の100中国円は102~3日本円だった。
参考エントリー:ドルの起源


参考:「陸軍贋幣作戦」、山本憲蔵

2010年11月4日木曜日

FOMCを終えて


FOMCを控えてのエントリーがあったので、「終えて」も書いておく。

FRBは3日のFOMC終了後の声明で量的緩和Ⅱ(QEⅡ)を発表し来年6月まで8ヶ月かけて6000億ドルの国債を買うことを決めた。月当たり750億ドルの購入である。この数字は市場予想の5000億ドルを意識してアナウンスメント効果を狙い1000億ドル多めに見せた数字だろうが、もともとコンセンサスの5000億ドルの期間が曖昧だったために強弱どちらサイドにもインパクトを与えなかった。 NY連銀による補足説明によると住宅ローン担保証券の償還元本の再投資分も含めると、6月までの購入規模は総額8500億-9000億ドルとなり月当たり1100億ドル前後の購入となる。また期間を長めに取り、透明性を高めた事で今後の方針変更にも柔軟に対応できるような発表であったと考えられる。

さらに購入対象国債の償還期間の86%を2.5年から10年以内とし平均残存期間を5~6年としたために30年債は大幅安となっている。
イールド・カーブをスティープ化しインフレ期待を醸成する形を明確にとっているわけだ。
FF金利目標は0から0.25%、FRBはインフレ率の長期目標として1.7%~2%を念頭においている。

これによって予想される市場の動きは、
量的緩和による株式市場の上伸とインフレ期待およびドル安による商品価格の上昇である。

インフレ期待の状況をブレーク・イーブン・インフレ率でみると、
10年が2.19%、30年が2.69%と30年に関しては既に金融危機以前の水準に戻しているが10年はまだ低い。



Bloombergより

つまり下院における共和党圧勝の予測とともにQEⅡの結果は株式・為替・商品市場では既にかなり織り込んできたと考えられる。
しかしながら、それでは反対の方向にベッドするかと言うとそうした手掛りがあるわけでもない。現状が折り込み過ぎであると言う判断もできそうも無いだろう。今後は共和党が影響力を持つ議会もあってQEⅡ進行とともにダラダラとドル安になっていくのでは無いだろうか。
この際中国に対しては自国のインフレ懸念から対ドルでの通貨切り上げを徐々に進めていく圧力になると思う。

2010年11月2日火曜日

昔の株式市場


一昨日のヤマタネのエントリーに関してFacebookのほうでコメントを貰ったので、米相場だけでなく戦前の日本の株式市場についても書いておこうと思う。意外に知らない人が多いのではないかと思う。まあ、知ってたからって儲かるわけでもないけどね。

1878年(明治11年)に渋沢栄一達が設立を出願して始まった東京株式取引所はスタート時から定期取引と現場取引(現物)の2本建てだった。これは米相場の取引慣習が由来で、定期取引と言うのは期米と一緒で基本は差金決済の先物取引のようなものだった。
現場取引は今で言えば即日取引またはキャシュ・オン・デリバリーで約定締結時点で代金と引換に株式を渡した。(後に5日後に変更される)
定期取引は三ヶ月先の差金決済(もしくは現物)が基本であったが証拠金を入れることで受け渡しまでの売買が可能だった。つまり個別銘柄の先物取引とほぼ同じで世界中の古今の市場を見渡しても極めてユニークな制度だった。

1922年(大正11年)に取引所法が改正された際に定期取引は「長期清算取引」と名を変え、新たに受け渡し期日が7日という「短期清算取引」が加わった。しかしこれも変な取引で期日後も1ヶ月は繰り延べ金さえ払えば清算は延長することができた。要するに先物は長期・短期の2本立てになったと言うことだ。実はこの改正時の原敬内閣はNYSE並の現物中心の取引を思い描いていたのだが、現場の運用でいじくりまわされ結局清算取引の種類が増えただけになってしまったそうだ。

ではすべての銘柄に清算取引があったかと言うとそうではなく、資本金や発行株数に制限があり規模の大きい会社が複数銘柄上場すると言う形態で実際には現物だけ上場の企業が一番多かった。銘柄数で言えば(短期>長期>現物)で商いもこの順番だった。出来高もおおよそ9割方が清算取引で現物取引はわずか1割しかなかったのだ。
つまり戦前の日本の株式市場は個別銘柄先物市場とほぼ同じで非常に投機的な「鉄火場」であり、投資家ではなく「株屋」の徘徊する世界だったと言える。こうした理由で戦前の相場師列伝などを見ると一相場で財を築き、次の相場でスッテンテンになる事例が後をたたない事が理解しやすいだろう。
それに勢い短期勝負になるのでファンダメンタルスよりもチャートや需給(資金量)中心の世界だった。発行株数以上に買建てすることもままあったようだが、この戦前の取引所は終戦の八月に立会いが停止される。

第2次世界大戦後日本に来たGHQは銀行・保険にはあまり制限を加えず自由にやらせたが、この日本伝統の投機的市場を「健全な経済活動に悪いもの」として取引所再開は10年後ぐらいにしようと考えていたそうだ。その間兜町では取引所無しの状態で現物の相対取引(集団相対取引)をすすめていた。この場外取引は決済もとどこおりなく公正に活動していることをGHQから評価され「証券民主化」の名のもとに昭和23年に証取法、翌年取引所売買再開を許可されることになる。しかし兜町の相場師達が待ち望んだ定期取引は2度と戻らなかった。
ここでひとつ疑問がわくだろう。相対で場外の売買していたと言う事は取引所集中原則が無いと言うことだ。実際にこの原則が無いことを利用して戦前にPTSを造って取引所を困らせた人間もいたのだが、これはそのうちに。

戦前の株価を調べると、現物のヒストリカルデータにはなかなかお目にかかれない。殆どが「定期」となっているのはこの為だ。しかしだからと言って投機的であるがために戦前の日本の株式市場の発展が妨げられたとは言えない。以前は戦前の日本の産業資本も銀行による間接金融主体であるというのが定説だったが最近の研究では直接金融が重要な地位を占めていたことが明らかになっている。

これにはロンドン市場で一般的だったIPOに対する分割払込制度が寄与していたのではないかと思う。この制度はもちろんNYSEにはなかった。例えば1906年の満州鉄道のIPOでは募集株式10万株に対して何と1億664万株(11,356人の申込)、倍率は1077倍だった。募集価格200円に対して第1回の払込が10%の20円、さらに申込時にはこれに対してわずか5円の証拠金を払えばすんだ。なんと40倍のレバレッジ取引が出来たのだ。もちろん倍率でわかるように超ホット・イッシューだった。

GNPに対する株式時価総額比率の国際比較

2010年10月31日日曜日

山崎種二の本


山崎種二は1893年山深い群馬県吉井町坂口の生まれ、深川の回米問屋山繁商店の丁稚から身を起こし、米相場を経て「売りの山種」として株式市場にも一名を残した名相場師である。戦後は一転買い方にまわり「買いの山種」となった。 山種は単なる相場師というよりは実業家でもあった。山種証券は現在SMBCフレンド証券となり、保米倉庫を発祥とするヤマタネグループ(9305)は倉庫業準大手、米卸売の大手企業として活躍し、東西線茅場町駅真上の山種ビルには山種美術館も残している。

地名変更で少々わかりにくくなっているが、現在東京穀物商品取引所のある日本橋人形町一丁目界隈の住所は戦前には蛎殻町二丁目だった。したがって同地にあった東京米穀取引所は「蛎殻町」と呼ばれ日本橋川を挟んだ株式取引所の「兜町(シマ)」とよく対比された。両市場のプレイヤーに免許以外で「株屋」・「米屋」の明確な区別があるわけではなく、株をやる者は米や小豆にも手を出した(場違い筋と呼ばれたが)。小さな個人商店は地域の明確な区別は無く双方の店が入り交じっていたようだ。蛎殻町にも株屋はたくさんあったのだ。

「蛎殻町」は先物の一種である期米取引を扱っていた一方で、これはあまり知られていないが深川には現物の米を売買する正米取引所があった。深川と言っても永代橋を渡って三つ目のトヨタの角を左折して最初の信号あたりに最近まで当時としてはモダンな旧取引所のビルが残っていたものだ。
このあたりには回米問屋が立ち並び市場で売買し現物の受け渡しもする。地方から買い付けた米を集荷し小売の米屋に卸売をしていた。彼等回米問屋は買い付け仕入れ値をヘッジする為に蛎殻町で売りの注文を出すのが常だった。

期米を扱う相場師はついつい熱くなりすぎて正米との理論価格よりも高く値付けすることもあり、「深川」で現物を仕入れ「蛎殻町」で期先を売るアービトラージもごく日常的に行われていた。もちろん「深川」も大人しい商人ばかりでは無いので相場に入れ込む問屋もあとをたたなかったが、「相場師」主体の蛎殻町と比べるとサヤ抜き商売中心でリスクを張らずに充分に儲かる「正米師」は手堅い商家も多かった。山種はそんな正米師の元で修行し、米の目利きを鍛えヘッジ中心の細かく稼ぐ手法から相場師の道へ入った。「ケチ種」と呼ばれるのは何もケチだからと言うだけで無くこうした細かい手法もそう呼ばれる一因になっている。

先物の「蛎殻町」で空売りをして期日を迎えると差金決済もできたが米を集めて現物で引き渡す事もできた。ひどい時には強気筋が米が不作と買い上がると売り筋はどこからか現物米を手当して引渡したりした。したがって売り筋が米を調達できたと言うニュースが出ると米価は暴落したりもした。買い方の「相場師」が米で決済され現物を渡されても販路や倉庫を持っている訳でもなく現実に売り捌くことは出来る相談では無い、大口での引き取り手が無い場合には「正米師」である回米業者に取り敢えずの保管と販売を依頼するしかなかった。。そうした点からも現物を扱う深川回米問屋は米の先物市場でも物理的なデリバリーでは圧倒的に強かった。現物を持っているのであるから勢い「売り」に強みをもつものが多かったのだ。こうした背景から山種はヘッジの延長線上で「売り」を得意とした。米の目利きができ、現物の調達力もあった。「売りの山種」は単なる弱気を得意とするわけではなかったのだ。


「そろばん」は山崎種二の自伝であり、「百戦百勝」は主人公の名前こそ変えてあるが城山三郎による山崎種二の伝記的小説である。

山種は1956年に日経新聞「私の履歴書」に登場し、それをもとにそれ以降を付加した形で1984年に「そろばん」を出版している。一方で城山三郎は1974年に「百戦百勝」を書いているので先出の「私の履歴書」を参考に、若干のインタビューや取材をもとに小説を書いたのだろう。小説の内容は履歴書をベースに女性を絡め彩りを付加した構成になっている。

面白いのは「そろばん」の中で山種がこの城山の小説について言及していないことだ。律儀な山種の性格からすれば小説化してくれた作家にお礼をこめて言及しないわけはないのだが、城山は山種が芳町、浜町の芸者衆に頻繁にちょっかいを出していたことを小説の中で書いた。山種としてはこれが気に障ったのだろうと推察される。
運が良かった人の話が好きなら別だが、相場に対する「気構え」の参考に読むのであればどちらもあまり役に立つ本では無い。それよりも当時の米相場と株式市場の関係や回米問屋の商いの仕方などは東京と言う金融市場を知る上でとても役に立つだろうと思う。  なにより面白い。 「そろばん」→「百戦百勝」の順がお薦めだ。

山崎種二の好きな相場格言
「凶作に買いなし、豊作に売りなし」

参考サイト:ARCHITECTUAL MAP 食糧ビル(旧米穀取引所)
       桃乳舎 食堂 Porco Rosso

2010年10月30日土曜日

ムハンマド イスラームの源流をたずねて


僕は確かに「イスラム」についてよく知らない。飛行機の中継で2時間程飛行場にいた程度で、中東を旅したこともない。世界に大きく影響力を行使し始め、今後地球上において人口が爆発するグループであるにもかかわらず、「イスラム」とは何であるのか?は基本的な事ですら確かに何もわからない。9・11のようなテロリズムを擁護することなどできないが、イスラムについて基本的なことは押さえておきたい。

「17世紀以降、イスラム世界は西洋に対して劣勢に立ち始めた。壮麗な文明を誇ったイスラム世界は西洋の攻勢の前に後退し、植民地化の時代がきた。西洋ではイスラムを後進的な宗教として激しく否定する言説も造られた。しかしながらイスラム世界がイスラムを捨てなかった理由としてクルアーン的な革新がその中核にある。」

「クルアーン」とは「コーラン」のことだ。 コーランは英語の読みでしかない。同じようにモハメッドは「ムハンマド」である。僕らはイスラムを文明的に一段低いか、あるいはちょっと怪しげな「幻想を共有している世界」としか見てこなかったのではないだろうか。英米文化の枠組みの中で「イスラム」に対するステレオ・タイプの一様な知識が植えつけられてしまったのかもしれない。

「ムスリム達は自信を失いかけその原因を自問した結果が、『クルアーンとムハンマドの教えを正しく理解し、実践しないことが過ちの原因であった。』 クルアーンが時代遅れであるという替りに、自分達が時代遅れであると結論付けた。クルアーンは正しく理解すればいつの時代にも有効である。」 クルアーンはアラビア語以外への翻訳は禁止されながら、言語の異なる民族にまで大きく勢力範囲を広げていた。もしも取るに足らない宗教であるならば、こんな事はありえない。

しかしそもそも宗教との関わり合いが希薄な僕にとってこうした考え方は理解しにくい。

「『ムスリムはアッラーを信じている』という表現は適切ではない。彼らはアッラーが実在することを前提に暮らしているのである。それは、私たちが空気が存在するのを自明視している程度に、自明なこととみなされている。その意味では、アッラーは、手にふれるモノと同じように実在なのである。」

日本人から見れば唯一神(アッラー)の実在は理念でしかないが、例えば我々も「ある人との友情が現実だ」と思うのであれば、唯一神や預言者(ムハンマド)も現実でありうると考える必要がある。さもなくばいつまでたってもイスラム世界は「ありえない幻想を共有している世界」としか捉えられないだろう。


イスラム教の発祥はただ独りの預言者である「ムハンマド」が唯一神であるアッラーから啓示を受けた時に始まる。ムハンマドはAD570年頃の生まれで632年に没しているので、日本で言えば飛鳥時代に相当する。同じセム系宗教(アブラハムの教え)のユダヤ教やキリスト教からみると随分と新しい。
したがってムハンマドが啓示を受けた時点ではすでにユダヤ教もキリスト教も存在し、メジャーな存在では無いがアラビア半島にも信者は既にいたのだ。

イスラム教では天は7層からなり、ムハマンドは破壊されたイスラエルの民の神殿から昇天体験する。第一天ではアーダム(アダム)が迎え、第二天ではヤフヤー(ヨハネ)とイーサー(キリスト)が迎える。第三天にはユースフ(ヨセフ)、第四天はイドーリス(エノク:僕は知らない)。第五天がハールーン(アロン:モーゼの兄)、第六天がモーゼで第七天にはイブラヒーム(アブラハム)がいる。つまり大本の神はキリスト教もユダヤ教もイスラム教と同じようにアブラハムなのだ。

「身代金」という手段や、保護を求めたものには保護を与えるという考え方。イスラム教が世界の動向にますます深く関わり合いを持つようになった今日。昔、誤解をもとに喧嘩別れした友人のなつかしい手紙を読むようにこの本を読んでみてはどうだろうか。

2010年10月27日水曜日

FOMCを控えて


11月2,3日のFOMCを控えて米国では量的緩和の規模に対して不透明感が広がるとともにポジション調整的な動きが見られるが、インフレ連動債を購入する向きが強くブレーク・イーブン・インフレ率から見ると昨日30年債で2.60%をつけて、これは2007年からリーマン・ショック直前までの平均予想インフレ率のレベルまで戻した。デフレ脱却インフレ期待醸成と言う見方からすると少しペースが早いが各種ニュースから受ける米当局の動きは「発表する目標値はどうであれ、とにかく最後までやります」的なニュアンスが強い事が影響しているのだと思う。


先日のG20財務相・中央銀行総裁会議は通貨安競争の「回避」で合意し、貿易不均衡の解消に向け「経常収支を持続的な水準で維持する」ことでも一致し、「今後合意する指針(経常収支)」に照らして相互評価することも決めたことになっているが、市場参加者からして見れば現実には11月11日のG20の前段階で発表されるFOMCにおける米国の追加緩和政策の規模次第と言っても良いだろう。現状でのコンセンサスは「今後5ヶ月にわたって5000億ドルの国債買い入れ」ということになっている。

米国国債は追加緩和期待から大きく利回りを下げているが、Aaa、Baaの社債利回りはもちろんこれには追随していない。
10年国債利回りとのスプレッドでみると以下のような状況だ。グラフ期間10年

国債購入によるこれ以上の金融緩和が素直に銀行システムから民間への流れにはならないと示唆している。マネーが新興国に流出してバブルを発生させるという懸念があるのは新興国市場の動静を見ればわかることだろう。

ロイターではシナリオ別の反応を記事にしている。

本日のロイターでは短いがこの記事も興味深い、
[北京 26日 ロイター] 中国の陳徳銘商務相は、米国のドル発行は「抑制がきかない」状態となっており、中国にインフレの脅威をもたらしているとの認識を示した。新華社が26日伝えた。

もともとUSドルにペッグするようにコントロールしていた人民元がドルの継続的な下落によってインフレ懸念の台頭でやっていられなくなってきた事を伝えている。
抱きついていた相手から、逆に抱きつかれて水の中を沈下していくような状況だろうか。

ともかく選挙も近いこともあり市場環境の急変は避けたいだろうから、アメリカの追加緩和による国債購入規模がどのように発表されようとも「追加買い入れの可能性を示唆」ということになるのだろうと思う。したがって様子見は続くがバーナンキ議長達FRBの大規模な処置への傾斜は最後には結局ドル安を促すことになると考える。


2010年10月25日月曜日

中国の反日デモ


香港のヘッジファンドで働いている友人が面白い写真を送ってきてくれました。

日本でも現在中国で発生している反日デモに関しては色々と情報が錯綜していて、「どうも本気でデモに参加している人は少ないじゃないか?」とか言われていますが、外国メディアは内陸部の取材制限下にあって当局の許可が必要だそうです。


その友人からのメールによると、
「日本のメディアの報道は、
1.中国当局の許可を取り、中国のガイド(監視役)と許可された範囲の取材を行う、
2.現地に取材に行かず、中国当局よりブリーフィングを受け、写真の提供を受ける
3.唯一、現地で直接取材と報道をしている香港紙の内容を転載する
のどれかになります。

ちなみに、香港のマスコミのデモ隊への直接取材によると「大学にある中国共産党の学生部より、デモをやるようにとの指示が2、3週間前にあり、それに従って行動している」とデモの若者が答えていました。(その香港の記者は中国に拘留されています)」とあります。

日本のテレビでよく放映されている映像の中で、スポーツ用品「ミズノ」の看板が削ぎ落とされるシーンがあります。
下の写真です。 デモ参加者が「日本倒せ!」とシュプレヒコールをあげているようにも見えますが、


拡大してみるとほぼ全員が通りかかったタレントでも撮影するように携帯かデジカメを持っていることがわかります。



この写真からすると参加者のほとんどは見物人のようですね。
先日の日本のテレビもデモ参加者が「みんな笑顔」みたいな映像を紹介していましたが、中国共産党への忠誠が薄まっていると言う事は逆に動乱を予測させ金融市場的には反動への警戒が必要なのかもしれませんね。

2010年10月23日土曜日

もっとも美しい数学 ゲーム理論


誰もが快楽を好み苦痛を嫌う。道徳の至高の原理は幸福、すなわち快楽の割合を最大化することである。ジェレミー・べンサムによれば正しい行いとは「効用」を最大化することであって、社会全体の「効用」を最大化することは「最大多数の最大幸福」を意味するとした。 政治哲学における「ベンサムの功利主義」である。
「効用」と言う概念を経済学に組み込んだのはベンサムの信奉者でもあったディビッド・リカードだった。いくら「効用」と言う概念を造っても経済学においては幸せの量は比較しにくいのでマネーを使って計測することにした。つまり「富があれば幸せであろう」と言う経済学における大前提である。そして人は金銭で計れる「効用」を合理的に最大化すべく行動するであろうと考えることにした。

しかし人はいつも経済学でいう合理的な行動をするとは限らない、人間は感情という物を持っているので、なめられたりすると(尊厳を傷つけられたりすると)損を承知で「啖呵」を切ったりするものだ。「なんでぇ、そんな銭要らねえや!」という具合で、「貰っておけば良いじゃないかよ!相手だってそれで気が済むんだから」となる。

先日キャリア官僚である元国家公務員制度改革推進本部事務局の審議官だった古賀氏を「職務と関係ないことでこういう場に呼び出すやり方は、はなはだ彼の将来を傷つけると思います。優秀な人であるだけに、大変残念に思います」と「恫喝」した仙石官房長官はその後の記者会見で「彼のことを心配して言っただけの話だ。別に恫喝のつもりはない」と言い放ったわけだが、これなどは人はマネーで幸せを計測し「効用」を最大化するものであるという立場を鮮明にしていると言える。古賀氏が「金や地位」を失う事を親切に心配してあげているわけだ。もっともそうすべく圧力をかけるのが他ならぬ仙石さんご本人ではないのか?というところがオチなのだが。

では古賀氏は「効用」を最大化しようとしていないのだろうか? そうでは無いだろう。多分マネーだけが幸福の量を測れるわけではないと古賀氏が信じているからだろう。
21世紀に入りMRI(核磁気共鳴画像法)が発達すると、人間の脳はどうやら「効用」をマネーだけではなく脳内ホルモンである「ドーパミン」の量を最大化すべく合理的に行動しているのではないかと考えられるようになった。これであれば「啖呵」や「ヤセガマン」あるいは「正義を主張することによる満足」も説明がつこうと言うものだ。
しかしこうなると「効用」は一律には決まらないことになる。なにしろ人の感情(ドーパミン分泌量)と言うものは千差万別だからである。そうなると勝手きままに動く量子を計測するように確率的な捉え方をして全体像を把握すると言う方法も必要になってくるだろう。

随分と変な前フリになってしまったが、多分大きくは外していないだろう。「もっとも美しい数学 ゲーム理論 (文春文庫)」(原題 Beautiful Math:John Nash,Game Theory,and the Modern Quest for a Code of Nature)を読んだ。

2008年2月に単行本として発刊された本書がこの9月に文庫化されたもので、解説者によると文庫化に伴って丁寧に翻訳が推敲され直し非常に読みやすくなっているという。僕としてもこの本を読む意義や「効用」の前に、実はこの本はエンターティメントとしても非常に「楽しめる」本である事を強調しておきたい。

アイザック・アシモフがSF小説「ファウンデーション 」の中で天才数学者ハリ・セルダンに創始させた「心理歴史学」に「ゲーム理論」がどう近づいてきたか、そしてこれからの展望はどうなのか? 数式を殆ど使わずに「ゲーム理論」とは何かを分かりやすく物語風に解説した良書である。著者は科学ジャーナリストであるトム・ジーグフリードで、「合理的市場という神話」のジャスティン・フォックスや「アメリカ後の世界」のファザード・ザガリアなど続々と名著を出版する米国のジャーナリストのレベルの高さを改めて思いしらされる事になる。
末尾の解説者はこの本を「ゲーム理論がどのように森羅万象を解き明かす究極理論となるか、その可能性を知的に探求するルポタージュである」と評している。因みに解説者は「極東ブログ」さんである。本屋で解説を立ち読みしてから買うかどうか判断するのも手だろう。

2010年10月18日月曜日

ハーバードの「世界を動かす授業」


「日本の課題は明白である。世界の趨勢がグローバル化に進み、『国々が競争する状況』のなかにあって、内向き指向に傾斜している。政治面ではポピュリズムに終始し、その結果、財政構造の硬直化、赤字幅の拡大、巨額な累積債務に苦しむ国となってしまったにもかかわらず、財政再建の道筋はまったく示されていない。財政再建に取り組むほか、安全保障、優位な外交展開、資源・エネルギー開発、科学技術、教育、ベンチャービジネスなど官民をあげて世界に立ち向かう成長戦略の策定と実行が課題であろう。」

ハーバード・ビジネス・スクールのプログラムに既に実業界で活躍しているビジネス・リーダー向けのAMP(Advanced Management Program)というものがある。その中のBGIE(Business、Government and the International Economy)の講義を実際に授業を受けた共著者の仲條氏が日本の読者向けに構成しなおした本である。
長い講義を約300ページ程の分量にまとめてあるので、世界のエグゼクティブが「世界の動向」に対してハーバードで何を学ぶのかのブリーフィングとなっておりコンパクトな内容にもかかわらず興味深い視点をいくつか発見することができる。また各国の状況も地域別にまとめてくれているので普段ブローカー発信の「インドの状況」や「ロシアの状況」に馴れてしまっている私などには良い刺激になった。普段証券価格だけを見ているよりも想像外の不確実性が高い事がわかるだろう。グローバル投資家は目を通しておくと後が楽になるだろう。

あまりにも短くまとめているので例えば日本の問題は、「リカードの中立命題:財政政策面で赤字を出し続けると、いずれ増税となることを理解し支出を抑制する態度をとる」で片付けられている。しかし却ってこのほうが良いのだ。様々な見解があろうともAMPに参加するような世界のビジネスリーダー達は大枠ではこう見ている、あるいはこう教えられていてコンセンサスは形成されているのだから。アメリカの累積債務問題も私が考えていたよりも大きな問題であったし、インドの政治状況も決して楽観できるものでは無い。

NHKの「ハーバード白熱教室」でブームとなりその著書もベストセラーとなっているマイケル・サンデルの「これからの「正義」の話をしよう」も読んだが、読者の興味はサンデルのコミュ二タリアリズムに対する評価がどうであるとか、彼がロールズの批判者であるとかでは無いだろう。今現在この本が何部売れているのかは知らないが手元の本は初版から三ヶ月で既に53版になっている。ベンサムがどう考え、カント、ロールズ、アリストテレスと体系づけられ、こういう手順で政治哲学は考えることができるのだという知識が新鮮なのである。つまり今までは勉強の仕方を知らなかったと考えさせられるのだ。なんだこう教えてくれれば良かったのにと。

世界の経済学部ランキングでは日本からは152位にやっと東大が入る。また最近のノーベル賞でも受賞する人は米国の大学への留学経験者が圧倒的だ。もしこれらに日本語と英語という言語の問題があるにせよ、「国々が競争する状況」の中にあっては国の競争力として放置しておける問題ではないだろう。

私は門外漢なので細かい制度や最近の状況は知らないが、思い切って予算を組んで毎年5000人ぐらい国費留学生を出してはどうだろう。一番高いビジネス・スクールの学費が2年で16万ドルぐらいなので、多めに見て1年800万円掛ける5000人で400億円ほどだ、長く見て3年としても1200億円にしかならない。ダム工事と比べれば効用は明らかだろう。5000人も枠があればMBAに限る事もない、芸術や工芸なんでも良いだろう,国もアメリカに限定する事もないし、言語も多様で良いのだ。卒業すれば返還の必要無し、退学は50%バックでどうだろう。対象年齢も35歳程度まで拡大しても良いだろう。進学校も実用英語教育に力を入れるかもしれないし、サンデー毎日のランキングも横文字から始まるかもしれない。

どの程度が日本に帰ってくるかはわからないが、彼等のグローバルでの強みは日本語なんだからきっとビジネスチャンスとともに帰ってきて費用以上の税金を収めてくれるだろう。いくら日本の大学が優秀であっても「国々が競争する状況」ではそれに適した訓練が必要だろう。明治維新に海外から学んだように内向き指向を変える一番簡単な方法で、思ったよりも投資資金(予算)は必要ないのではなかろうか。

2010年10月15日金曜日

合理的市場という神話


1984年5月コロンビア大学ビジネススクールはグレアム=ドットの「証券分析」出版50周年を記念するコンファレンスを開いた。講演者は2人で、コロンビアOBでグレアムの弟子であるウォーレン・バッフェットと「経済学の命題の中で、効率的市場仮説ほど確固とした実証的証拠に裏付けられた命題はほかにない」と宣言していたマイケル・ジェンセンである。

ジェンセンは彼の信条に沿って、「グレアムの技法を実践して大きな成功を収めている投資家もいると反論する人がいるかもしれないが、それは運が良かっただけだ」と切り捨てた。ウィリアム・シャープが得意とするたとえ話「私がコイン投げをしているだけの無能なアナリストたちを調査したら、2回連続で表が出ている人もいるだろうし、10回連続で表が出た人だってみつかるだろう」とバッフェットを攻撃した。これは25年も前の話だ。

バッフェットはこれに応酬した。
「アメリカの全国民がコイン投げ競争に参加するとしよう。全員最初に1ドルを賭け、勝つごとに掛金は上がっていく。コイン投げを20回繰り返すと、約215人のミリオネアが勝ち残る。その多くは自分は天才だと確信するようになる。コイン投げに成功する秘訣を書いた本を出す人もいれば、ジェット機にのってアメリカ中の効率的コイン投げに関するセミナーに乗り込み、『そんなことはありえないと言うのなら、この215人がこうして実際にいるのはどうしてか』と懐疑的な教授にくってかかる人もいるだろう。
ファィナンス教授達は、オラウータンがコイン投げをしても同じような結果になっていただろうと言い返すかもしれない。しかしコイン投げ長者になったオラウータンがどこの出身かを詳しく調べたらどうなるだろう。」

バフェットは1つのレトリックとして人間から霊長類へと物語を飛躍させた(ある意味でコインから意志を持つ霊長類に飛躍させた)。
「そのうちの40頭がオマハのある特定の動物園の出身だとわかったら、大発見をしたと強く確信するに違いない。そうして、動物園に行って、どんな餌をやっているか、特別な運動をさせているか、どんな本を読んでいるか、他に何か知っている人はいないかと飼育係に尋ねるだろう」

バフェットは続ける、
「投資の世界のコイン投げ長者の大多数は『グレアム=ドット村』とでも呼べる、とても小さな村の出身だとわかるだろう。さらに突出した成功を収めている9人の投資家を調べたら、9人の投資家は、グレアムの元教え子もいればそうでない者もいたが、全員が会社の収益や資産と比べて割安感が大きい個別銘柄を探すか、相場の流れを無視していた。市場価格と価値の間には今後も大きな乖離が生じると見られ、グレアムとドットの本を読んでいる投資家は成功し続けるだろう」と結んだ。
ジェンセンはこれを聞いて「バフェット氏が億万長者であることは偶然ではない」と述べたと言う。「合理的市場という神話」より引用、

「経済学者や政治哲学者の思想は、それが正しい場合にも間違っている場合にも、一般に考えられているよりもはるかに強力である。事実、世界を支配するものはそれ以外にはないのである。どのような知的影響とも無縁であると自ら信じている実際家たちも、過去のある経済学者の奴隷であるのがふつうである」 ジョン・メイナード・ケインズ

EMH(効率的市場仮説)はそもそも株価の動きはランダムであり、過去の動きに基づいて株価を予測することはできないと言う考察だった。そして次いで、公開されている情報に基づいて株価を予測することは不可能だという主張が展開された(後に否定された)。こうして今現在の株価は総ての材料を織り込んでおり本質的な意味で市場によって形成される株価はなにより正しいという確信へと変わっていく。

しかしこれは単に仮定としての論理構造でしかなかった。つまり複雑なものを単純化して市場を理解する為のモデルでしかなかったのだ。しかしEMHを構成要素とする合理的市場理論が大学のキャンパスからウォール街、ワシントン、あるいはジェンセンによって米国企業のCFOへと伝搬されるとこの仮説は強化されモデルのための仮説でしかない事は忘れられて行った。
ウォール街では不完全なリスク・モデルへの過度な信頼が高いレバレッジ体質を産み金融恐慌を引き起こし、ワシントンでは極端な自由放任主義がそれを助長したとされている。
しかしだからと言ってバフェットでさえも仮説自体を否定しているのではない。道具は使い方の問題なのだ。


合理的市場という神話 ―リスク、報酬、幻想をめぐるウォール街の歴史」を読んだ。(The Myth of the Rational Market:Justin Fox)
著者のジャスティン・フォックスは「タイム」のコラムニストであり、「ハーバード・ビジネス・レビュー」の論説委員でもあるジャーナリストだ。
この本が構想から何年かけて完成したものなのかは分からないが、「あとがき」においてその間に上司が4人も変わっていると告白していることから多分今回の金融危機以前からの構想だったのだろう。

また著者はバーンスタインの「証券投資の思想革命」をモデルとしたと言っている。本書はこのバーンスタインの名著にさらに細やかなエピソ-ドや新しい史料を付加する事によってファィナンス理論発展のドキュメンタリーとして完成させている。誰かがこの本を超える著作物を書こうと言うインセンティブは当分考えにくいので、この本は版を重ね名著のひとつとなるだろう。金融をビジネスとする人は読んでおいたほうが良い。何より面白い。

この本は中国語版が既に発刊され、英語ながら紙質を落としたインド版も発刊されている。米国の大学に12000名も送り込む中国は原語でこれを読む者もいれば、台湾、香港、本土でも多くの若い人達がこうした知識を身につけていくのだろう。国ごとの金融リテラシーの比較は難しいが「東京がアジアの金融センターなぞには多分ならないのだろうな」というのがこの本を読んだファースト・インプレッションだったのには自分でも少々情け無かった。

2010年10月12日火曜日

世界を三周したウィスキー



元帥陸軍大将寺内正毅は第一次大戦中の1916年に総理大臣になった。頭の形が「大阪名物ビリケン人形」に似ていたことと当時の超然内閣(非立憲:ひりっけん)とをひっかけて巷ではこの内閣を「ビリケン内閣」と呼んでいた。 この時の外務次官が後の第2次大戦終戦直後に内閣総理大臣になる幣原喜重郎だった。

雑談で寺内は幣原に「きみらイギリスにいた連中は、ウィスキーなどという百姓の飲むような劣等酒を喜んで飲むが、品が悪い」と言い放った。寺内はフランス留学組だった。「それではあなたは一体何を飲みますか?」と幣原が切り返すと、寺内はコニャックが一番良いのだという。

「ところであなたは、ほんとうのウィスキーを知っていますか?」と幣原はウィスキーの薀蓄も踏まえ、自分秘蔵のウィスキーの自慢をして結局それを寺内に2本贈呈した。

しばらくして幣原が書記官長の児玉秀雄に会うと「あの君に貰ったウィスキーは存外に優秀品で、大将、これはおれが独りで飲むんだ。貴様ら飲んじゃいかんと言って飲ませないんだ」という。

幣原が寺内に会いに行くと「君のウィスキーは非常に好い。だから君にお返しをしなくちゃいけないんだが、陛下から頂戴したブランデーがあるから2本あげよう。君も2本くれたから」と言った、そこでイタズラ好きの幣原は「あなたは総理大臣で私はしがない次官です、双方対等に2本ということは無いではありませんか」と戯れると寺内はしぶしぶブランデーを3本届けたそうだ。

この幣原愛蔵のウィスキーはロンドンで知り合いになったディスティラーの役員がくれたもので、熟成の過程で樽のまま船に乗せ世界を3周させていたそうである。しかもこれには蒸気船はだめで帆船でなければならないと言う。そんな事をしていると船賃でコストはすっかり高くなってしまいとてもではないが商売用には採算が合わず、役員達が自分達の楽しみの為だけに造っていたのだそうだ。幣原はそれを分けてもらっていたのだ。

幣原はロンドン郊外にある下宿の近所の寄合でそのウィスキーを振舞うとイギリス人も「こんな美味いウィスキーは飲んだことが無い」と絶賛したそうで、幣原が欧州大陸に転勤が決まると近所の人達は彼の名残を惜しまずにウィスキーがなくなる事を抗議したと言う。今となっては銘柄はわからないし、もしわかったとしても非売品であるからどうしようもないのだが。

ポルトガル・マデラ産のワインを一旦アメリカに運んでからロンドンまで持ち帰ると、直送したマデラ酒の10倍、さらにインドを往復したマデラ酒は20倍の値段で取引されたとある。日本の灘の銘酒も樽廻船の杉樽で揺られて運ぶことで、江戸に到着した時には味が良くなったと言われているから、船の揺れはよほど熟成とはウマが合うんだろう。

幣原は1918年に米国大使となってワシントンに赴任するが、到着直後に日本の寺内から手紙が届いた。「君の外務本省在職中、君からいろいろ誠実な補佐を受けて、今も感謝の念が深い。君の米国赴任の節は、横浜まで見送ってあげたいと思ったが、何分病気で、大磯に引っ込んでいて、身体を動かすわけに行かない。それではなはだ残念だが、見送りが出来なかった。君は若くて身体もいいが、どうか身体を大事にしてくれ。この手紙はベッドの上で書いた。」

手紙を読んだ翌日、寺内の死亡電報がワシントンに届いた。幣原は「いく度となく手紙を読み返しては、無量の感慨を催した」とある。

「ケルトX.O」(Tour Du Monde KELT X.O. Grande)は現代のお酒だが、ブレンド後に樽詰された後に、船でわざわざ世界を1周させるそうだ。

幣原の著書「外交五十年」には、この他にも伊藤博文が会議中独り占めして誰にも飲ませなかった「いくら飲んでも絶対に頭のオカシクならない」という土中で寝かせた紹興酒の話など、お酒の話が結構入っている。

追記:キングス・ランサム(King's Ransom)と言う名のもうすでに発売停止になったブレンデッド・ウィスキーがある。このラベルにはRound the Worldと書いてあり、ブレンドして割水した後にもういちど樽詰して船に乗せて世界一周をさせたそうだ。『レモン・ハート18巻』にこのお酒の紹介がある。幣原はあるいはこの酒のブレンダーであるウィリアム・ホワイトリーと知り合いだったのかもしれない。

ビリケン像
元々は1908年にアメリカ合衆国の芸術家フローレンス・プリッツが制作した像で、彼女が夢の中で見た神がモデルになっているという。これが「幸福の神様」として世界中に流行した。当時のアメリカ大統領であったウィリアム・タフトの愛称が名前の由来とされている。また、セントルイス大学のマスコットになっている当時は大阪・新世界の遊園地・ルナパークにビリケン像が置かれていた。 wikiより

2010年10月11日月曜日

高橋是清 日本のケインズ―その生涯と思想


1995年 英国の名門マーチャントバンクであるベアリング商会はシンガポール支店のディーラーであるニック・リーソンによって約200年におよぶ歴史に終止符を打った。彼は架空取引口座を利用して日経225先物や日本国債のディーリングの損を隠蔽し、最終的には1380億円の損を出したが、これはベアリングの自己資本を超えていた。

ベアリング商会の正式名はBearing Brothers & amp; Coであり、1806年にドイツからの移民であるフランシス・ベアリングが創立した。ナポレオン戦争では英国政府を金融面から支援し、一時はイギリス、ロシア、ドイツ、オーストリア、フランスに次いで世界6番目の大国だと言わしめたほどの隆盛を誇った。

1880年代にはロンドン市場においてアルゼンチン・ブームが起こり一時は当時の新興国アメリカを抜いてロンドンの海外投資の半分を占めるようになったが、穀物不作と政治クーデターが起こりアルゼンチンは破綻しアルゼンチン公債は債務不履行となってしまう。このブームを金融面で主導していたのがベアリング商会でこの時に破綻寸前のところをアメリカのモルガンを含む当時の同業他社によって救済されている。従ってベアリング商会は20世紀の初頭には世界6番目と云うような力は既に失っていたのだが、それでもロンバート街では国際取引に強みを持つ銀行として以前として力を持っていた。

日露戦争の日本公債ファィナンスの当時、ロンドンで力を持つ銀行は大まかに2つの形態に分類できた。ひとつは資産家を中心とする勢力で、プライベートでありパートナーシップの形態であるNMロスチャイルド、ベアリング商会、カッセル卿などのマーチャント・バンクであり、もうひとつはいわゆる株式会社形態の銀行で香港上海銀行、チャータード・バンク、どちらかと言えば内国銀行であるパース銀行、ミッドランド銀行などであった。

この中でカッセル卿と云うのは個人であり、マーチャント・バンクやブローカーを持ってはおらず、資産家として活躍していたが当時の英国国王エドワード7世の財政顧問であり、今風に言えばFPでもあった。



高橋是清 ―日本のケインズ その生涯と思想 リチャード・J.スメサーストを読んだ。新刊書である。スメサースト氏はピッツバーグ大学の教授で専門は近代日本経済史、高橋是清の研究をしている。

この本は是清生誕から2・26事件で暗殺されるまでを対象としているが、今回は当ブログでカバーしている日露戦争時における日本公債のファィナンスに絞って感想を述べたい。趣味の素人が学究の方に意見を云うのもはばかられるが、もしかしたら彼には日本語と云うハンディがあるのかもしれない。気づいた事を書いてみる。

ひとわたり読んで気がついたのは、カッセル卿の記述の部分である。
カッセル卿はアメリカのユダヤ系金融資本であるクーン・ローブ商会のヤコブ・シフとは盟友で、シフがアメリカで投資先を目利きし、カッセル卿がロンドンで資金を集めるというような役割分担で両者とも繁栄してきた。これはちょうどJP・モルガンがアメリカで彼の父ジーニアスがロンドン・ピーボディー商会にいて同様の事をしていたのと対比できる。シフとカッセルはもともとドイツ系なので資金集めもロンドンに限定されずにハンブルグなど広範囲にわたり欧州全体のユダヤ人資産家を顧客にしていたとも言えるだろう。

さてこの中で、これまでの研究との重要な認識の違いは、シフが日本の公債募集に引受け団として参加してくれると決まった後の事である。カッセル卿がシフの裏方で動いていたことは間違いがなく、そのGreedさから考えても手数料を要求したというのは説得力があるのだが、

高橋是清日記の5月7日の記述である。

スメサースト版p181 5月7日「キャメロンが来てこう言った。アーネスト・キャッスル(カッセル)卿は、もしイギリス人だけだったら自分は(日本の国債を)1ペニーも引受けないだろうが、アメリカ人が入ったので5万ポンドを引受けたいと言っている。後略」

藤村欣市朗版(高橋是清と国際金融上:外債募集英文日記)p140
「キャメロンが来て言う― エルンスト・キャッスル(Casttle)卿が、もしイギリス人だけだったら(コミッションを)1ペニーも受け取らんだろうが、アメリカ人が入ったので5万も取る気だと言っている。キャッスル卿は怒りっぽい金融家だ、と。」

金融の常識から言うと5万ポンドの引き受けでカッセル卿が「がたがた」言う可能性は極めて低い。私は残念ながら英文日記の原本を見たことが無いので想像の範囲を超えられないが、多分スメサースト版は間違っていると思う。

また同書は大蔵省証券(Bill)と日本公債(Bond)の分け方も不明瞭であるし、公募と私募もしくは融資の区別も明確にされていないと思う。(教授には手紙を送ってみるつもりだ。)

しかしこのシフが引受けるに至る経過にスポットライトを当てて探求している部分は詳細で興味深い。また当時の松尾日銀総裁の文書、カッセルとシフの書簡など今迄参考資料として使用されていなかったものが多く使われ、そうした意味ではあるいは上記の私の指摘も間違っている可能性は否定しない。ただカッセル卿が手数料を要求したのかそうでは無いのかは全体のストーリーに大きな差を生むことになる。

マニアックなエントリーでした。


追記(2012/03/16):日本公債の米国販売引受のリストを入手して、カッセル卿の米国分引受シェアが5万ポンドであることを確認した。この部分はカッセル卿に対する手数料替わりである可能性が高いだろう。

追記(2013/10/10):先日高橋是清のお孫さんであり、関係資料を収集されている井上氏と会う機会があり、原文の英文を見せて頂いた。これはどう読んでも手数料ではなく、アロットメント、つまり5万ポンド分の引き受けである。

さらにスメサースト先生とお会いする機会もあり、先生はこのエントリーをお読みになっており、あらためて引き受け分であることを確認した。




2010年10月8日金曜日

グラフ 101007


11月から韓国でG20が始まります。 議題の中心は為替レートで特に割安な人民元の修正に議論が集中すると見られています。
ここで各国通過の動きをひとまとめにして見ておきましょう。

各通過の1ドル当たりの値を、アメリカがリセッションに入る直前の2007年11月30日を100として指数化して並べたのが以下のグラフです。(従ってユーロは通常1€=$ですからひっくり返っていますので注意して下さい。またこのグラフはデータ更新が5日程度おくれていますのでこれも注意が必要です。ユーロは再び反転しています。)クリックで大きくなります。

下から先ず円で独歩高です。途中までユーロがつきあっていましたが、直近のユーロ安がかなり大きな動きであったことから今では人民元すら追い越して対ドル通貨安になっています。ブラジル、インド、韓国と順番が続きます。ドルの投資家から事後的に見ると2009年前半がインド・ブラジルのおおきなチャンスであったことがわかります。
中国としても自国通貨の過小評価には一定の理解は示すものの、リセッション以前の水準と比較すると人民元は対ドルで安くはないと反論するかもしれません。主催国である韓国は本来であれば少々発言しにくいところなんでしょうが、遠慮なんかしないでしょうね。日本は言いたいことを言えばよいのではないでしょうか。(デフレの通貨高は横においておく)


最近等ブログのブレーク・イーブン・インフレへのアクセスが増えています。
そこで、最近のグラフをチェックしておきましょう。ブルンバーグでは USGGBE10:INDで見れます。10の部分を30にすれば30年債のスプレッドになります。
ブレーク・イーブン・インフレ率はインフレ連動債(TIPS)からみた投資家のインフレ予想になります。最近の米国市場はデフレ=「日本みたいになる」を恐れていましたからインフレ期待が盛り上がると株式市場も上昇すると云う形になっていますね。赤い線がSP500で右軸です。


データ:ブルンバーグ

適当なエントリーになってしまいましたが、「こういったグラフもあるよ。」と云うことで。

2010年10月6日水曜日

2020年、日本が破綻する日


戊辰戦争に敗けた越後長岡藩は河井継之助の生涯を描いた司馬遼太郎の小説「峠」で有名ですが、同藩はこの敗北によって74000石から24000石にまで減知されました。
当時同藩文武総督であった小林虎次郎は「学校創設による人材育成こそが敗戦国の復興にとって肝要である」との考えの下、長岡の四郎丸村にあった昌福寺の本堂を借りて、国漢学校の前身を発足させます。 その後長岡藩の窮状を察した支藩である三根山藩から米が百俵支米として届けられます。
困窮する藩士達は米の分配を期待しましたが、虎次郎は「国が興るのも、街が栄えるのも、ことごとく人にある。食えないからこそ、学校を建て、人物を養成するのだ」と主張して米を売り書籍や用度を購入して国漢学校を本格的に開校します。
これが有名な「米百俵」の話で小泉純一郎第1次内閣の所信表明演説で引用され当時すっかり有名になりました。小泉元首相はこのわかりやすい逸話を元に郵政改革を中心とする行政改革を推し進めて行きました。
残念ながら今ではその面影を探すことさえ困難な政治的状況にあります。


この本は題名に「日本が破綻する日」が強調されていますが、著者の書きたいことはもちろん「危機脱却のプラン」のほうです。

2009年の一般会計+特別会計の内訳の38%が国債費の支出であり、33%が社会保障関係費で占められています。この2項目の削減が困難である以上残りの3割の部分をいくら削減しても借金返済に必要な原資の確保はそもそも無理であると簡単明瞭な事実を前提に日本の破綻が間近である事を説いていきます。そう言えば日露戦争後の国家予算が3割軍事費、3割国債費でした。もっとも今ほど財政赤字は累積していませんでしたが。

「国債の95%が国内の家計からの債務であるからギリシャのような事にはならない」と云う理屈も現状のまま債務が増え個人金融資産が横ばいで推移すれば2020年にはこれも食い潰してしまうのでその時には破綻するということが2020年の根拠としています。 私は実際にはもう少し早い時機に起こるだろうと考えています。
では何故現状の金利はこれほど低いのか?「危機が近いのであれば金利は上昇しているはずだろうに」、著者は「相転移」の話で説明しています。つまり水は氷点まで液体であるがそれより下がると凍りついてしまうし、沸点をこえれば蒸発してしまうのです。危機(暴落)は突然訪れます。ギリシャもそうでした。
こう言った話はこれまでも類似本がそれこそたくさん出版されているのですが、この本は少し趣が異なります何故なら著者は具体的な対策を提示しているからです。

現在は増大する社会保障費の不足分を国債発行によって埋めて赤字が増加しているので、社会保障費を別の予算として独立させて管理すると云うアイデアです。
尖閣諸島でジャブを喰らっても、お金が無ければ対抗できません。競争力を増す新興国に対抗すべく基礎研究費や教育費を増額しようにもドンブリ勘定で一律削減などしていては次世代にますます迷惑がかかるでしょう。

ここでは現在の賦課方式によって若い現役世代だけに負担がいかないように「事前積立方式」を採用して必要な費用を公債として発行し事前に認識して負担を分散させる方式が提案されています。そしてその為に「世代間公平基本法」を制定しましょうと結んでいます。そもそも現状の選挙制度では民主主義の悪い側面が出て年寄りが有権者のマジョリティーである限り世代間に公平な社会保障制度は政治家によって選択されないと云う問題提議がありますが、それを排除するための方策としての「世代間公平基本法」をこの環境下で制定できるのかと云う自己矛盾に落ちいってしまっているのは残念なところです。
それでもここまで具体的に対処法の書かれた書物は無かった(私の知る限りですけれど)と云う点でこの本は読む価値があります。現状の「年金運用のデータが研究者に開示されていない」など数多くの詳細な問題点や「消費税を上げるなら一度に上げた方が良い」等トピックごとに最新の学説を簡単に紹介しているなど議論のベースになる知識がカバーされていて「なるほど」とうなずける点が多いと思いますよ。
これまで聞いたどの政党の政策よりも具体的で現実味がありました。


2010年9月28日火曜日

ブログ開設2周年


本日でこのブログを始めてからちょうど二年が経過しました。
私としては日々の筋トレのように、「書き続けていないと書けなくなるのでは」との不安から書き続けております。

映画のエントリーを書いた日のアクセス数は金融に比較してどうしても少なくなってしまいますが、「映画館で見た映画については書く」と言うのは自分に対するノルマにしております。従って結構無理して書いているようなものも多くなってしまいます。要は受けて無いと言う事に対する自分へのエクスキューズでしょうか。

この二年間で読んだ本は、金融関連で101冊、小説が73冊、その他で74冊、原書が15冊。ブログを始める少し前に読んだ本も左のPorco Amazon Storeに入れてありますので、これの80%程度、正味200冊くらいでしょうか。1週間に2冊ですからイメージは合います。
今年は3月頃から日本の貨幣制度関連から始まり、明治、高橋是清を中心に大正、昭和と読み進めましたのでこの半年はこの手のものばかり読んでいます。小村寿太郎や金子堅太郎、満州鉄道などは相当マニアックな戦前の史料まで読むようになりましたが、この辺りの興味は未だに尽きません。と言うかはっきりしない事が多いのです。

例えばこんな事があります。
日露戦争中の日本国公債の募集に大いに尽力してくれた、米国クーン・ローブ商会のヤコブ・シフ。そして彼とのビジネス・パートナーであり個人でも大量に日本公債を買ってくれたアメリカの鉄道王エド・ハリマンと言う人がいました。彼は日露戦争終結寸前に日本へ向かい、当時の桂太郎首相との間に、戦争によって日本が獲得した南満州鉄道を日本とハリマンとで共同経営しようと言う桂・ハリマン協定を結びます。ハリマンは自身で1億円出すつもりでした。(貨幣価値の換算は難しいですが現在のの5000億円から1兆円ぐらいの価値だと思います)。日本は戦争でもう資金が無かったので、伊藤博文や井上馨なんかは諸手を挙げて賛成します。ましていつの日かロシアが復讐でシベリアから南下しようとしても、日米共同経営の鉄道がありますから攻め込まれる心配がありません。軍事費は節約できるし、民需の為のインフラ投資に資金を回せるし良い事ずくめとも言えるのです。 ところがポーツマスでロシア代表ウィッテにさんざんやられてしまった小村寿太郎が日本に帰るなり「国民の血で勝ち取った満州鉄道をアメリカ人に渡すなどとんでもない」と元老達を説得しハリマンにはこの協定をうまいこと言って破棄してしまいます。

この元老達を説得する時に、当然「じゃ鉄道を修理したり設備投資する資金はどうするのだ?」と言う反論をうけますからその為にきちんと手立てを用意しておきました。
戦争中公債のIRと対ルーズベルト要員として米国に派遣されていた金子堅太郎が、クーン・ローブ商会のライバルであるモルガン商会に勤務するルーズベルトの従兄弟モンゴメリー・ルーズベルトからファィナンスの提案を受けるのです。金子は小村と非常に近い人物です。

ここでの史料は金子堅太郎「日本モンロー主義と満州」、p5~8、講演集です。またこれを出典とした「近代日本外交史」信夫清三郎著 1942年によると、
「同鉄道修理のため、喜んで3、40万円の金額を年5分5厘で出しましょう」とモルガン商会が言ったとあります。これって金額が変でしょう。ハリマンは1億円出すと言っているのだから。それで金子側からのこのモルガンの融資の約束が嘘ではなかったと言う根拠がその後にアメリカから購入した鉄道車両代金への融資350万円なんですね(満州鉄道十年史)。これでも未だ数字が変ですよね。結局満州鉄道は興銀(みずほCB銀行)を使って欧州で社債を起債するのですがそこにはモルガンのモの字も出てこないのです。シフの盟友であるロンドンのカッセル卿も手を引いていますから非常にショボイ、ファィナンスになってしまいます。
この史料が書かれた1942年は第2次世界大戦中ですから、小村によって独占できた満州を評価している時期でした。一方で戦後になるともし小村が桂・ハリマン協定を破棄さえしなかったらアメリカとは戦争にならなかったに違いないと評価は180度変わってしまいます。
僕はこの件に関しては金子堅太郎が小村寿太郎と一緒に嘘(方便)をついたと疑っていますが、一方で同じ時期に満州にいた参謀長児玉源太郎が既に植民地経営について調査させており、初代満鉄社長になる後藤新平を台湾から呼び寄せています。この辺りは財界や政党の利権が渦巻いています。つまり後の和製軍産複合体としてはアメリカなんぞに利権を渡すつもりなぞサラサラ無かったのではないかと思います。因みにうるさい「国際協調派」の伊藤博文は戦後すぐに初代韓国総督に持ち上げられて発言力を落とされています。よくこの天下りの元祖みたいな満鉄は儲かったとかありますが、これを守る巨額の軍事費は計算されていません。

ところがこんな史料もあります。「日露講和に関して米国に於ける余の活動に就いて」昭和十四年、金子堅太郎 外務省記録綴り、「日露戦争と金子堅太郎」松村正義著より、ここではモルガンがコミットした融資の金額が4、5000万円に飛びはねていますし、金利も5%になっています。でもこれも金額が増えれば良いと言うものでもありません。何故ならコミットした金額が大き過ぎるし実際にその後に融資は行われていない。日米関係が悪化したと言うわけではありません。当初の満州鉄道の機関車や車両はすべて米国からの輸入です。にもかかわらず満鉄は苦労して欧州で資金調達するのです。とまあ、キリが無さそうでしょう。大体このあたりの本は松村氏の本を除いて古い図書館にしか無くほとんどが禁帯出になっていますので関連部分だけを参照するような読み方になってしまいます。
そうした中で満州鉄道関連なら、原田勝正著「増補 満鉄」日本経済論評社がお奨めです。鉄ヲタの期待にも答えられると思います。著者は岩波新書向けにも書いているようです。

一方で以前読んだ「浅草フランス座の時間」から、「東宝七十年史」→小林一三の宝塚歌劇のエッセー「おもひつ記」→菊池寛の「昭和モダニズムを牽引した男」→芥川龍之介「河童」→「槍ヶ岳紀行」→新田次郎「槍ヶ岳開山」(これは以前読んだ)→深田久弥「日本百名山」の一部→ここから何故か海軍館山砲術学校に興味が移って「大学生活ものがたり」→「消えた灯台」→「旧制高校物語」→突如ブログの関係で「江戸の旗本事典」が入って→「日本映画100年史」→「ハリウッド100年史」と別の読書の流れもありましてこちらはいたって呑気に読んでおります。

2年もブログを書いていますと、Google検索で上位に出るエントリーも増えてきますので、1日のアクセスの半分ぐらいはこうした記事が占めています。ですから少々サボってもアクセスは減らなくなってしまいました。と言う訳で最近はよくサボります。

いつも読んでくださっているみなさんには感謝です。
今後ともよろしくお願いします。

2010年9月26日日曜日

映画「おにいちゃんのハナビ」




400年の歴史を持つと云う新潟県小千谷市片貝の花火は、浅原神社の例大祭で、花火はこの神社への奉納だそうである。
つまり個人がおばあちゃんの古稀を祝う為に花火を奉納したり、家を初めて買った若い2人がそのメモリアルに寄付したりと、東京の花火大会のように何処かの誰かが打ち上げているのでは無く、地区の人達が1発1発意味を込めて打ち上げている。従ってこの町では花火を打ち上げる前に誰から誰への花火なのかひとつひとつにアナウンスがある。その中に特に伝統として中学校の同窓会が卒業年毎にそれぞれ組み(成人会)を組織して20才や還暦などの節にリユニオンして企画して打ち上げる風習がある。こういった横の繋がりの強い地域社会は住みよいのだろうなと思う反面、外からの移住者、よそものには厳しいものなのだろう。

こうした前提で、喘息持ちの妹の治療の為に東京からこの町に引越してきた両親と兄妹の一家が物語の主人公になっている。社交的な妹は地元に直ぐに溶け込んだが、中学の終り頃に転校してきて新潟市内の高校に進学した兄は地元の友達がおらず、高校卒業後には就職も進学もせず引きこもりになってしまっていた。つまりこの町のビッグ・イベントである花火とは無縁な生活を送っていたのだ。そこに白血病の治療で入院していた妹が自宅療養に戻ってくると兄の引きこもりは一層悪化していた。

「引きこもりか何か知らないけど、どーなのよ人として」

妹は兄を連れまわし成人会に入会させ新聞配達をさせて社会復帰すべく手助けするが白血病の悪化は止まらずに再び入院してしまう。そんな妹の為に兄は一発奮起して花火を打ち上げてあげると云うストーリーである。また本来そうした他所者には厳しいはずの町の人も本当は皆優しかったのだ。

白血病の妹に、引きこもりから立ち直る兄。一見ベタな設定であるがこれは実話を元にしたストーリーで2005年新潟中越地震後の被災地を映したテレビ・ドキュメンタリーが制作のきっかけになっている。 監督はTVドラマでのキャリアが長い国本雅広。父親には大杉漣、母:宮崎美子、兄:高良健吾、妹:谷村美月。成人会のリーダーには舞妓Haaan!の駒子役の早織、学校の先生役にはこんな先生がいたらクラスが明るくなるだろうなと言うような佐藤隆太。高良、谷村共に真摯な演技が心を打つ。片貝の四季が映し出され、背景と言えば新潟市の繁華街が一部入るだけで片貝の町から殆ど出ないが、設定を少し変えれば世界中何処ででも通用するストーリーだと思う。

欲を言えば最後の花火のシーンだろうか。映画の起源が「見世物」である以上、一貫した音楽を背景に切れ目を作らずにもう少し「くどめ」にしてくれればもっと良かったかとは思うのだが、僕としては途中で泣かされ過ぎて、ラストでは「もう充分だ」とすでに涙も枯れはてていたのかもしれない。

これはお奨めの映画です。




2010年9月24日金曜日

ザ・クオンツ


Amir E. Khandaniy and Andrew W. Lo

Abstract
During the week of August 6, 2007, a number of high-profile and highly successful quantitative long/short equity hedge funds experienced unprecedented losses. Based on empirical results from TASS hedge-fund data as well as the simulated performance of a specific long/short equity strategy, we hypothesize that the losses were initiated by the rapid unwinding of one or more sizable quantitative equity market-neutral portfolios.

2007年の8月6日の週に、多くの有名でまた非常に成功したクオンツ系のロング・ショート株式ヘッジ・ファンドが空前の損失を出した。TASSのヘッジ・ファンド・データ・ベースや特定の株式ロング・ショート戦略のシュミレーション分析から、我々はその損失はひとつ以上の規模の大きいクオンツ株式ニュートラル・ポートフォリオによる急速な解消売りが原因であると仮説を立てた。

Given the speed and price impact with which this occurred, it was likely the result of a sudden liqudation by a multi-strategy fund or proprietary-trading desk, possibly due to margin calls or a risk reduction. These initial losses then put pressure on a broader set of long/short and long-only equity portfolios, causing further losses on August 9th by triggering stop-loss and de-leveraging policies. A significant rebound of these strategies occurred on August 10th,which is also consistent with the sudden liquidation hypothesis.

この解消売りの速度とプライス・インパクトは、マルチ・ストラテジー・ファンドやプロップ・デスクによるマージン・コールやリスク値削減の為の突然の現金化の結果であると考えられる。初期の損失が広範なロング・ショート戦略やロング株式ポートフォリオに影響を及ぼし、それがさらにストップ・ロスやレバレッジ抑制方針の発動を促す事になり9日のさらなる損失の原因となった。10日に発生したこうした戦略を採るファンドの大幅なリバウンドもまた、この突然の現金化仮説( the sudden liquidation hypothesis)を支持している。

This hypothesis suggests that the quantitative nature of the losing strategies was incidental, and the main driver of the losses in August 2007 was the resale liquidation of similar portfolios that happened to be quantitatively constructed.
The fact that the source of dislocation in long/short equity portfolios seems to lie elsewhere-apparently in a completely unrelated set of markets and instruments-suggests that systemic risk in the hedge-fund industry may have increased in recent years.

この仮説は戦略崩壊のクオンツ的な性質は偶発的なものである事を示唆している。2007年8月の損失の主な要因は偶然にクオンツ的手法で作成された類似したポートフォリオの解消売りである。株式ロング・ショート・ポートフォリオ混乱の原因が全く無関係な市場や商品など全く別のところにあると云う事実はヘッジフアンド業界のシステミックリスクが近年増加している事を示唆している。(拙訳)


ファマ・フレンチのレポート"The Cross-Section of Expected Stock Returns"が1992年に発表されて、βが実際に株のリターンに及ぼす影響力は0であると証明するとともに1963年以降のどの時期においてもバリュー株はつねにグロース株よりもパーフォーマンスの良い事がわかりました。 当然クォンツによるマーケット・ニュートラル・ファンドはこの手法を採る者が増えました。そうしたファンドが増えている間は類似したバリュー株を買い続け、類似したグロース株を売り続ける事になりますから株式ロング・ショート戦略のパーフォーマンスは良くなります。ところが一旦他の要因、つまり株式LS戦略が組み込まれているマルチ・ストラテジー・ファンドやFOFの他の戦略、例えばCDOのBBショート、AAAロングのようなもののパーフォーマンスが悪化してファンド全体のレバレッジを落とさなければならないような場合に直面しますと、どうしても売りやすい株式LS戦略が最初に処分されやすくなります。ところが株式LSは大勢のファンドが似たような戦略を取っているので処分によってさらにLSファンドのパーフォマンスが悪化して、それ自体がストップ・ロスやレバレッジ低下のターゲットとなってしまうのです。


ザ・クオンツ 世界経済を破壊した天才たちを読みました。大変面白い本です。翻訳も大変読みやすい。
CBアービトラージャーであるエド・ソープの書いたブラック・ジャック必勝法「ディーラーをやっつけろ! 」に始まり、ファマ・フレンチを経て、文頭にあるアンドリュー・ローの"What Happened To The Quants"に至り再びブラック・ジャックに帰っていきます。市場収益率はコイン・トスやカード・ゲームの確率分布とは異質なものなのだと主張する一方で、最後の場面からクオンツ的なアプローチの重要性を少しも否定してはいないと読みました。

モルガン・スタンレー・PDTファンドのPeter Muller, CitadelのKen Griffin、AQRのCliff Asness、ドィチェのBoaz Weinstein、Runeaissance TechnologiesのJim Simonsなどのヘッジフアンド・プレーヤーを中心に彼等のプライベートも交えながらリーマンショックによる市場崩壊の過程を描いていますが、ナシーム・タレブやPIMCOのビル・グロースなども友情出演?しており読み物として大変面白いエピソードが数多く挿入されています。

「AQRに講演にきたタレブはまばらな聴衆に向かって自説を唱え続けた。ファット・テールや、不確実性、ランダムについても話した。しかし聴く方はげんなりしていることに彼も気づいていた。彼等は、ブラック・スワンについての講釈など聴く必要がなかった。ついこのあいだ実際に体験し、そして本当に恐ろしい思いをしたばかりなのだから。」

たしかに仲間内ではタレブの”まぐれ―投資家はなぜ、運を実力と勘違いするのか”の評価は高かったのですが”ブラック・スワン[上]―不確実性とリスクの本質”はいまいちだったのが納得できました。

関連エントリー: バリュー株とグロース株の相克 2010/01/25
ジェレミー・シーゲルで説明しています。