2010年1月29日金曜日

鉄道事始め


書かなければいけない長文のメールがあったのだけど、ビールを一杯飲んだらすっかりやる気が無くなっていて、昔買った河出書房の「図説 駅の歴史」と言う少々マニアックな本をパラリパラリとめくり始めていました。 以前日本の退職金制度を調べた時に、退職金の歴史は明治黎明期の鉄道の高度技術保持者達の囲い込みから始まったと知り、正に文明開化の走り、よくぞ明治の元勲達は早い時期に鉄道敷設を決めたものだと思ったものでした。

実際は鉄道権益独占を目論む外資系資本が虎視眈々と敷設圏を狙っており、植民地化にアレルギーのあった維新政府としてはうかうかとはしていられなかったようです。

それでも明治2年の廟議では殖産興行を推し進める開明派、大隈重信、伊藤博文が鉄道建設の必要性を主張する一方、参議・大久保利通らは膨大な経費を要する鉄道建設よりも国防のための軍事費を優先させるべきとして反対したそうです。 結局大納言・岩倉具視が大久保らを説得し鉄道建設が決定されましたが、この時線路の敷設用地にからみ面白い事が起こっています。

しかし若いものがまさに身体をはって堂々と正論をはき、政府もそれに答える。維新政府の活気が感じられます。

この地図は明治期の新橋ステーション。今の築地にまだ海軍の施設が残っていた頃です。クリックすると大きくなります。



新橋駅の土地の確保は、江戸幕府大名の宏大な屋敷跡が接収され使われました。かつての朝敵、会津松平と仙台伊達の江戸屋敷、京都所司代龍野藩脇坂家でした。
家紋があるのは上屋敷、下の地図での会津は下屋敷になります。
上屋敷は本宅、下屋敷は別宅にあたり、会津の上屋敷は現在の大手町近辺、和田倉門内にありました。

明治44年に飛行器(注1)から撮影された新橋上空から品川方面を見た航空写真が国立国会図書館写真帳に残されております。右手の樹木の残る小山は東京タワーから愛宕山のあたりでしょうか。

これを現在のGoogle Earthで見ると、海岸線が随分食い込んで埋立地の大きさがよくわかります。

さらにGoogle Earthの3D機能を使うと、もう何が海岸線だか何だか分からなくなります。

さて新橋を出発して横浜まで路線を敷設しなければなりません。当時は陸地でも接収はさほど難しいことではなかったのですが、それでも難しい相手もいたようで、田町駅に見られるように品川までは海に土を盛り、堤を作ってその上に線路を敷いていきました。

この辺りの江戸時代の地図を見てみますと、今の田町駅の当たりには薩摩藩下屋敷があったのです。鉄道敷設に関しては大久保やその他参議の反対とありますから、兵部省、薩摩藩邸等はどうにも動かせなかったようで、これが海沿いに線路を敷いていく理由であったそうです。

伊藤と大隈が2人で地図を広げて「そこを通すのはやっぱしヤバイだろう。」とか話し合っているのを想像すると楽しいものがあります。立川談志師匠の伝説となった落語「芝浜」の舞台も見えますね。

おかげで今の東海道線がオリジナルの当時の海岸線沿いであった事が簡単に分かってとても便利でありますが。

さて発展を続ける品川も当時は全くの海沿い、今なら景色の良い駅百選にでも選ばれそうですが、

こんな感じですね。現在では海の景色など想像もつきません。東京駅を計画した時に、上野方面と繋ぐ通過駅スタイル(行き止まりの終点では無いと言う事)を採用した為に、列車を待機させる基地が必要となりました。その際に品川の海側を埋立て現在の品川駅構内のようになったそうです。

この明治時代の地図は明治40年西暦1907年のものです。日露戦争が終わって少したった頃、東海道本線は明治22年に全通していますから、関西からはるばる旅をしてきた人たちは横浜を過ぎ、品川に至って右に東京湾が開けたら、ようやく長い旅が終わった事を感慨を込めて感じたのかもしれませんね。

手元にある明治35年の時刻表では、神戸を朝の6時に出発した当時最速の列車は大阪を6時52分、京都7時51分、米原10時4分、名古屋12時26分、浜松15時8分、静岡17時11分、伊豆半島の基部を貫く丹那トンネルはありませんでしたから、箱根を迂回し御殿場を大きく回って国府津20時37分、終点新橋は22時51分の到着でした。

今のNYよりも時間的には遠かったのですね。

運賃は4円13銭、当時の日本郵船乗客運賃では横浜神戸間下等で3円とあります。
あんぱん1個1銭、かけそばが3銭だったようですから、片道3万~4万円の感覚でしょうか。


明治田町の地図でロセッタホテルが気になった方は、



注1:追記 2月1日
私の早合点で当初陸軍気球隊による撮影かと思い込んでおりましたが、よく読んでみると写真本文にはAirplane(飛行器)と明記されておりました。 明治43年に陸軍徳川大尉が日本人初飛行、翌年明治44年に航空写真撮影に成功したとありますから、本文には記載されておりませんが、徳川大尉による撮影だそうです。

0 件のコメント: