2010年3月28日日曜日

日本大変 三野村利左衛門伝


金が大流出してしまった幕末日本ですが、直接の引き金は1859年の5カ国条約(英、米、仏、露、オランダとの修好通商条約)による横浜開港です。前回参照

この時より、本格的な貿易が始まる事になり、洋銀を日本の一分銀に交換し、さらに小判(金)に交換すると言うアービトラージが始まります。

どのくらいの金が流出したのか、最近の研究では820万両~860万両(藤野正三郎:国際通貨体制の動態と日本経済)とも言われています。天保小判で計算すると重量11.3g品位57%ですから、 11.3 x 0.57 x 8,600,000 = 55,392,600g = 55.4トン。

1859年から3年間ロンドン市場で銀安の長期傾向がおさまったと言う記述もありますが、この当時は世界的なゴールドラッシュの時期でもありますので、何とも言えないものがあります。 一方で当時の米(コメ)を除く幕府の歳出規模が年間120万両、シニョリッジで財政赤字の3分の1を埋めてきた政体へのインパクトは致命的であったのだろうと思います。

下は1987年に発売されたThe Wall Street Waltz: 90 Visual Perspectives : Illustrated Lessons from Financial Cycles and Trendsと言う古いチャート集から、金価格です。 1861年から始まった南北戦争による金価格高騰が目立っています。


幕府がこの金流出、言い方を変えれば内外の金銀交換比率の是正(本当は貨幣価値は銀の重量で決まらないので日本の比率が変であったわけでは無いのですが)の為に行ったのは、金価格を上げる事、つまり1両に対する金の重量を減らす事。 つまり改鋳です。  1859年(安政7年)に天保小判をそれまでの1両から3両1分2朱に突然値上げをしました。 3倍強への値上げです。 その結果何が起こったかと言うと強烈なインフレーションです。

もうひとつ、この改鋳の情報を時の勘定奉行小栗忠順から知って事前に天保小判を買い集めて、大儲けした商人がいました。今で言えばインサイダートレーディングですが、 それが後三井に中途入社し、三井財閥の中興の祖となった三野村利左衛門です。


小説「日本大変―三野村利左衛門伝」高橋義夫 にはこのあたり経緯が書かれております。 やはり緻密な時代考証が特色です。

財団法人 三井文庫では財閥関連の資料をまとめてあり、大きめの図書館であればこれらは閲覧可能です。面白いですよ。 この小説では幕末この時期の記録、横浜開港時の横浜店設立までの経緯等々から、国立第一銀行から三井銀行設立まで、幕臣小栗忠順との経緯も含めて三井財閥の当時の様子がカバーされていますので、とても参考になるかと思います。



「NHKテレビ龍馬伝」で吉田東洋が武市の登用を願う龍馬に対して「武市は能力が無いから使わない」と言っていましたが、東洋暗殺は1862年。 土佐出身ジョン万次郎が河田小龍の取調べを受けたのが、その10年前の1852年、東洋は日本を取り巻く状況を把握していたと思います。 横浜も開港し、為替問題も一段落し貿易が活発化していた時期、確かにインフレが亢進し、人民の不満は高まってはいたのでしょうが、国際情勢も知らず攘夷を叫ぶような若者には興味を示せなかったのかもしれません。

幕府はこの時のインフレーションと財政難で、もはや維持不能の状況に陥ってその崩壊を早めていったのだと言えるでしょう。


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