2010年3月11日木曜日

谷のもの  ドルの起源


チェコは銀山の多い国ですが、ドイツとの国境近く、ボヘミア地方にあるエルツ山脈(これ自体が鉱石山脈と言う意味なんですが)のふもと聖ヨヒアムタール(Sankt.Joachimstal:現ヤーヒモフ)で16世紀に銀山が発見された事にドルの起源は始まります。 この地名、ドイツ語読みでは「谷」を意味するタールとも呼ばれていました。 ここの地主のシュテフェン・シュリックは、1517年からその産出銀を用いて当時ヨーロッパ社会で国際通貨として流通していたフローリン金貨と等価で通用する大型で品位の良い銀貨を鋳造させました。 (当時の金銀交換比率は1:12) 通貨不足もあり、たちまち欧州全体に流通し、その他の銀貨の基準的存在になります。

この銀貨のことをドイツ読みで「谷のもの」 Thaler(ターラー)と呼ばれるようになり、スペインに渡りDolera(ドレラ)、イギリスではDoller(ダラー)と呼ばれるようになりました。 因みに日本に到達した時には通詞がドルラルと読み、その後省略されてドルと呼ばれるようになったそうです。




このチェコの谷の銀は17世紀半ばには寂れてしまいますが、1789年になるとドイツ人化学者Martin Klaprothが鉱山跡からウランを発見します。当時のウランはオレンジや黄色の色を出す為の釉薬として使用されていましたが19世紀末になるとこのウラン廃鉱をトン単位で取寄せラジウムを抽出した人がいます。 それがキュリー夫人だったそうです。色々なものの発祥の地なんですね。

さて本題に戻りましょう。スペインではこの銀貨を手本にスペイン・ペソ銀貨を鋳造します。因みにペソとは1日分の仕事の意味だそうですが、イギリスではこの銀貨をスペイン・ドルと呼んだのでした。

コロンブス以降中南米植民地化を推進したスペインでは1520年頃のメキシコ、1530年頃のペルー等銀鉱山が開発され、さらに精錬技術である「水銀アマルガム法」が開発された事もあり、一気に大量の金銀が欧州に流入しました。 この時の金銀の流入で貨幣価値が一挙に3分の1に下がった事を、欧州の「価格革命」と呼んでいます。また同時に金銀交換比率は1:15~16になったそうです。 この時植民地ではスペイン王カルロス1世の命により本国の造幣規則によって銀貨は鋳造される事になります。

特にメキシコ・ドルは1535年から1903年迄に35億5000万ドルの鋳造高を誇りますがその間も品位を保った為に、貿易用の国際通貨として太平洋エリアでおおいに流通します。

一方でスペイン無敵艦隊を打ち破った英国は重商主義に走り金銀貨の海外流出を激しく制限しますので、当時の植民地米国ではポンド通貨量の量的な不足になやまされる事になり、このメキシコドルが広く使われる事になりました。 米国は独立時に英国に反旗を翻した事もありますが、スペイン系の銀貨が流通していた事もあり1776年の独立時には通貨の単位にポンドよりもドルを選ぶ事となったようです。本当はペソなのに銀貨を英語でドルと呼んだからなんですね。

米国での証券取引はカーブと言って取引所が出来る以前にも取引は行われていました。NY証券取引所の走りと言われるブローカー同士の決め事のBottonwood Agreementは1792年にウォール街68番地で締結され取引が円滑に行われるようになります。 ちなみに現在のNYSEの建物は1903年の建設です。 
少し前まで米国株の呼値は八分の1単位だったのを憶えていますでしょうか? 16-1/8ドルはSixteen one eighth(ワンエース)と呼んでいました。 これはこのメキシコ1ドル銀貨をペンチやタガネで切る時に半分ずつ切っていくからなんですね。1/2→1/4→1/8。10等分に切るのは難しかったから半分また半分と切っていったのだと聞きました。因みにカーブは歩道とか道端ですが、アメリカン取引所の事をカーブと呼んだりします。

考えてみればこうした金銀の価値を基準にした本位通貨では為替レートは必要ありませんよね。 基軸通貨と言う概念はありませんが、貿易と言う意味では共通通貨であった訳です。 

ユーロ統合以前に、統合を否定的に分析した米国経済学者が多かったのですが、米国の通貨統合に150年も要したので、ユーロもそう簡単には行かないと言う論文が数多く出されたそうです。 此処で言う米国における通貨統合とは「独立から1913年に設立された連銀が機能し始める1930年代の間」を指すようですが、私は上記の理由で少しストーリーに違和感を感じました。 まあ、それが原因でこんな事調べている訳ですけれど。

日本に話しを向けると、幕府は長崎の出島でオランダとのみ貿易を行っていましたが、当時のオランダの通貨はデュカットです。これはベネチアのデュカット金貨(金3.5g)を由来としていまして最初に登場したフローリン金貨の仲間です。 

1853年ペリーが浦賀に現れた時も決済通貨にメキシコ・ドルラル(洋銀)を持ってきました。実は、日米和親条約締結以前に停泊中のペリー艦隊から飲料水、鶏、家鴨、卵、野菜と言った生鮮食品、燃料の依頼があって幕府としては人道的意味かどうかは分かりませんが黒船にこれらを供給しています。これに米国もタダでと言う訳にもいきませんから金銀銅貨混ぜて350ドル程支払いをしています。値段はアメリカの言い値のようですが、幕府ではさっそくこれらの硬貨を持ち帰って成分分析をしていますが、後ほどわかった事では、米国側ではこの時悪貨を選んで支払いにあてたようで、含有量が基準より低いものばかりであったそうです。

さて、メキシコ・ドルは中国に渡り、中国では硬貨が円(まる)かったからでしょうか、これを「銀圓」と呼びました。中華民国が成立した時にメキシコドルと同質の銀貨を発行し貨幣単位を「圓」(yuan)としたのですが、画数が多い為に書きにくいのでYUANと同じ発音の「元」がこの時使われるようになり、今に至っているそうです。 また「圓」は韓国語でウォン。「円」の字は日本のオリジナルだそうです。 

こうして見ると結局各国通貨どれもこれも「谷のもの」の親戚だったのですね。   

どうして日本は円になったかはまた次回にでもしましょう。


ではまた、

参考文献;
ウォールストリートの歴史 チャールズ・R・ガイスト
江戸の貨幣物語 三上隆三
コインの散歩道 しらかわ ただひこ氏

+wiki


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