2010年4月15日木曜日

川田龍吉 グラスゴー


ペルー銀山事件の失敗で失意のどん底にある高橋是清を、もう一度世に出すべく日本銀行の建築現場に採用してくれたのは、岩崎弥太郎とともに三菱創業に貢献した土佐郷士出身、第3代日銀総裁である川田小一郎でした。

1977年夏、函館近郊。トラピスト修道院の近くの、ある古い農場の倉庫にあった金庫から89通の英文の手紙が発見されました。差出人はJeanie Eadie、かつて英国グラスゴーに住んでいた19歳の金髪の敬虔なクリスチャンの少女。1883年から1884年にしたためられた約130年ほど前のラブレターでした。

宛先は川田龍吉(1856~1951)、小一郎の長男で、三菱重工業の前進となる横浜船渠の創始者であり、函館ドックの再建にも尽力しました。今でも横浜みなとみらいでイベントが行われるドライドック(船渠)は彼が造ったものです。 彼は引退後函館の近くで川田農場を創立し川田家の爵位から名付けられた男爵イモはご本人の名前以上に今では一般にひろく有名になってしまっています。

龍吉は21歳の時に三菱のスポンサーシップで造船の勉強の為にスコットランドにあるグラスゴーの造船所に留学します。

当時グラスゴーは人口100万人を超える英国第2位の都市で(現在は約半分にまで減っています。)、1900年前後には街を流れるクライド河の沿岸は世界の蒸気船の約半数が建造されるほどの造船のメッカとも言える地域だったのです。皮肉なことにこれらの造船所が衰退した理由に龍吉達が技術を持ち帰った日本の造船業の隆盛がある事は言うまでもありません。もちろん日本の造船業にもおなじことが起こりました。労働集約的な造船業は先端分野を除き先進国には向いていないのです。

龍吉は身長155センチと小柄です。危険の多い造船所で大男にまみれて力仕事もこなす内に肉体的な劣等感も感じるようになったのでしょうか、グラスゴーではうつ病に悩まされていたようです。

そんな日々、龍吉はグラスゴーの駅前にある本屋で働くジニーと出会い恋に落ちます。そして手紙のやり取りが始まるのです。今から130年も昔の話です。

明治男性の欧州人女性との恋は、「舞姫」に見られる森鴎外とエリス、広瀬武夫中佐とロシア貴族令嬢アリアズーナ、ニッカ・ウィスキーの竹鶴と妻リタとそれ程珍しい訳でもありませんが、婚約まで織り込んだラブレターは可燐で、成就できなかった恋は読む者を切なくさせるものがあります。 

彼女を残して帰国した龍吉は結局外国人女性との結婚を許されなかったのでしょう、また日本帰着後の手紙は一通もありませんから多分両親が廃棄してしまったものと推察されます。そして龍吉の手元にあった手紙は金庫の奥深くしまわれ、それでも棄てきれずに残されていたのでしょう。


これらのラブレターを集めて本にしたのが、


この事実を掘り起こしたのが著者であり、関連番組も制作した元NHKディレクターの伊丹政太郎氏です。番組は1979年に制作されているようですが、その後も新たに電子化され開示された英国の戸籍データ等を駆使しジニーのその後の行方も追いかけています。

良本ですが高価です。せめて新書でもう少し値段が安ければ良いのですが、大きなお世話ながら興味のある方は図書館の利用が良いと思います。
読み始めると止まりません。


1 件のコメント:

どんな履歴書を書きますか さんのコメント...

とても魅力的な記事でした。
また遊びに来ます!!