2010年7月5日月曜日

日露戦争と株価


以前日露戦争中の日本公債のリスク・プレミアムのグラフを記事にしましたが、今回はもう少しストレートに日本の株価と戦時中のイベントとの関係を見てみましょう。

当時の東京株式取引所は出来高の6割が鉄道株、3割が船株と言うような構成で綿紡績などもありましたが商いは薄かったようです。人気は値動きの荒い船株と取引所の株である東株に集中していました。 
チャールズ・ダウ、エドワード・ジョーンズ、チャールズ・バーグストレッサーの3名が出資して「ウォールストリート・ジャーナル」の発行元であるダウ・ジョーンズ社を設立するのが1889年。彼等がダウ・ジョーンズ工業平均株価を発表するのが1896年の事で日本にはまだ株価指数がありませんでした。

そこで日本では指標銘柄として東京株式取引所の株式が替りに使われる事になります。これを略して「東株」と言います。 最近はそうでもありませんが、東京証券取引所の地主である「平和不動産」が相場自体の出来高に応じて思惑が張られていたのはその名残です。

グラフは東株と日本郵船の2銘柄で月中平均株価を使ってます。クリックすると大きくなります。


東株は日露開戦に向けて「ロシアにはとても勝てそうもない」と言う見通しから売られてしまいますが、いざ開戦となると緒戦である仁川沖海戦、鴨緑江会戦と順調に推移しますので遼陽会戦までは株価は堅調です。

遼陽会戦は8月26日に生起し、9月4日に終了しますが、当時の欧米の新聞を読んでますと期待値は遼陽の占領と共に大量の捕虜+司令官クロパトキンの降伏だったのですね。従って日本は遼陽を占領しますが、ロシアは戦略的撤退であると発表し、奉天付近に大軍が移動しただけに終わってしまいました。つまりかなり期待外れに終わってしまったと言う事です。日本軍は砲弾が不足して追撃が出来なかった。 さらに旅順要塞がなかなか陥落しない。

当時の松尾日銀総裁が6月時点で戦費を見積もった史料があるのですが、その中の予想行程を見ると当時の政府首脳が日露戦争の展開をどのように読んでいたかがわかります。
7月 旅順陥落
8月 遼陽陥落
9月 ウラジオストック陥落
10月 休戦
12月 講和
これに1906年3月までの占領地守備費を考慮して戦費は10億円と見積もっています。
年内に戦争が終わると読んでいました。

日露戦争開戦を決定した時の予算の見積りは4億5千万円でしたから、開戦から4ヶ月しか経過していない時点で既に10億円になってしまっていると言う事はこの後の日本の窮乏ぶりが偲ばれると言うものです。しかもグラフを見ればわかるように、その見積は甘すぎました。戦争は年内には終わりません。

グラフからは日本海海戦が大きな買いの材料になって入ることがわかると同時に、ポーツマス会議がいかに当時の日本人の期待を裏切るものであったかもわかるでしょう。

兜町には「兜町雀」と言う動物がいました。普段は「チュンチュン」と鳴いています。地面に米粒を投げれば「チュンチュンチュン」と一斉に寄ってきます。人が追い払えば一斉に「チュンチュンチュン」と飛び去っていきます。 コンセンサスに従って同じ行動を取る動物です。相場と一緒に動いていると言って良いでしょう。
従ってコンセンサスを語る時に、「兜町雀は・・・」と言う表現を使います。

ポーツマス会議に対する兜町雀の見解は、最初は賠償金20億円+サハリン全島。しばらくしてロシア側が強硬と見るや賠償金は10億円に減ります。最後は「もう領土はいらないからせめて賠償金5億円ほど貰いたい」程度まで下がっていきます。ところがそこで出た講和談判の結果が賠償金無しだったのですからたまりません。
「こうなりゃロシアを叩き潰してハルビン、イルクーツク、なんならモスクワまで攻めこんでしまえ」となってしまいます。

ところが政府には金が無い。この頃の戦費見積りはポーツマスで戦争が終わったとしても17億円近くまで膨らんでいました。当時の国民所得が26億円、一般会計予算が2億7千万円、全国銀行預金残高が7億5千万円ほどですからもう無茶苦茶です。ほんの1年半前の予算見積りは4億5千万円で終わると思って、しかもそれですら開戦には清水の舞台から飛び降りるほどの覚悟が必要だったのですから。

こうして不満な国民による日比谷焼き討ち事件へと展開していきます。

それでも株価は正直で講和成立以降、平和を評価して堅調になっていきます。

国民は借金の実態を知りません。


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