2010年9月28日火曜日

ブログ開設2周年


本日でこのブログを始めてからちょうど二年が経過しました。
私としては日々の筋トレのように、「書き続けていないと書けなくなるのでは」との不安から書き続けております。

映画のエントリーを書いた日のアクセス数は金融に比較してどうしても少なくなってしまいますが、「映画館で見た映画については書く」と言うのは自分に対するノルマにしております。従って結構無理して書いているようなものも多くなってしまいます。要は受けて無いと言う事に対する自分へのエクスキューズでしょうか。

この二年間で読んだ本は、金融関連で101冊、小説が73冊、その他で74冊、原書が15冊。ブログを始める少し前に読んだ本も左のPorco Amazon Storeに入れてありますので、これの80%程度、正味200冊くらいでしょうか。1週間に2冊ですからイメージは合います。
今年は3月頃から日本の貨幣制度関連から始まり、明治、高橋是清を中心に大正、昭和と読み進めましたのでこの半年はこの手のものばかり読んでいます。小村寿太郎や金子堅太郎、満州鉄道などは相当マニアックな戦前の史料まで読むようになりましたが、この辺りの興味は未だに尽きません。と言うかはっきりしない事が多いのです。

例えばこんな事があります。
日露戦争中の日本国公債の募集に大いに尽力してくれた、米国クーン・ローブ商会のヤコブ・シフ。そして彼とのビジネス・パートナーであり個人でも大量に日本公債を買ってくれたアメリカの鉄道王エド・ハリマンと言う人がいました。彼は日露戦争終結寸前に日本へ向かい、当時の桂太郎首相との間に、戦争によって日本が獲得した南満州鉄道を日本とハリマンとで共同経営しようと言う桂・ハリマン協定を結びます。ハリマンは自身で1億円出すつもりでした。(貨幣価値の換算は難しいですが現在のの5000億円から1兆円ぐらいの価値だと思います)。日本は戦争でもう資金が無かったので、伊藤博文や井上馨なんかは諸手を挙げて賛成します。ましていつの日かロシアが復讐でシベリアから南下しようとしても、日米共同経営の鉄道がありますから攻め込まれる心配がありません。軍事費は節約できるし、民需の為のインフラ投資に資金を回せるし良い事ずくめとも言えるのです。 ところがポーツマスでロシア代表ウィッテにさんざんやられてしまった小村寿太郎が日本に帰るなり「国民の血で勝ち取った満州鉄道をアメリカ人に渡すなどとんでもない」と元老達を説得しハリマンにはこの協定をうまいこと言って破棄してしまいます。

この元老達を説得する時に、当然「じゃ鉄道を修理したり設備投資する資金はどうするのだ?」と言う反論をうけますからその為にきちんと手立てを用意しておきました。
戦争中公債のIRと対ルーズベルト要員として米国に派遣されていた金子堅太郎が、クーン・ローブ商会のライバルであるモルガン商会に勤務するルーズベルトの従兄弟モンゴメリー・ルーズベルトからファィナンスの提案を受けるのです。金子は小村と非常に近い人物です。

ここでの史料は金子堅太郎「日本モンロー主義と満州」、p5~8、講演集です。またこれを出典とした「近代日本外交史」信夫清三郎著 1942年によると、
「同鉄道修理のため、喜んで3、40万円の金額を年5分5厘で出しましょう」とモルガン商会が言ったとあります。これって金額が変でしょう。ハリマンは1億円出すと言っているのだから。それで金子側からのこのモルガンの融資の約束が嘘ではなかったと言う根拠がその後にアメリカから購入した鉄道車両代金への融資350万円なんですね(満州鉄道十年史)。これでも未だ数字が変ですよね。結局満州鉄道は興銀(みずほCB銀行)を使って欧州で社債を起債するのですがそこにはモルガンのモの字も出てこないのです。シフの盟友であるロンドンのカッセル卿も手を引いていますから非常にショボイ、ファィナンスになってしまいます。
この史料が書かれた1942年は第2次世界大戦中ですから、小村によって独占できた満州を評価している時期でした。一方で戦後になるともし小村が桂・ハリマン協定を破棄さえしなかったらアメリカとは戦争にならなかったに違いないと評価は180度変わってしまいます。
僕はこの件に関しては金子堅太郎が小村寿太郎と一緒に嘘(方便)をついたと疑っていますが、一方で同じ時期に満州にいた参謀長児玉源太郎が既に植民地経営について調査させており、初代満鉄社長になる後藤新平を台湾から呼び寄せています。この辺りは財界や政党の利権が渦巻いています。つまり後の和製軍産複合体としてはアメリカなんぞに利権を渡すつもりなぞサラサラ無かったのではないかと思います。因みにうるさい「国際協調派」の伊藤博文は戦後すぐに初代韓国総督に持ち上げられて発言力を落とされています。よくこの天下りの元祖みたいな満鉄は儲かったとかありますが、これを守る巨額の軍事費は計算されていません。

ところがこんな史料もあります。「日露講和に関して米国に於ける余の活動に就いて」昭和十四年、金子堅太郎 外務省記録綴り、「日露戦争と金子堅太郎」松村正義著より、ここではモルガンがコミットした融資の金額が4、5000万円に飛びはねていますし、金利も5%になっています。でもこれも金額が増えれば良いと言うものでもありません。何故ならコミットした金額が大き過ぎるし実際にその後に融資は行われていない。日米関係が悪化したと言うわけではありません。当初の満州鉄道の機関車や車両はすべて米国からの輸入です。にもかかわらず満鉄は苦労して欧州で資金調達するのです。とまあ、キリが無さそうでしょう。大体このあたりの本は松村氏の本を除いて古い図書館にしか無くほとんどが禁帯出になっていますので関連部分だけを参照するような読み方になってしまいます。
そうした中で満州鉄道関連なら、原田勝正著「増補 満鉄」日本経済論評社がお奨めです。鉄ヲタの期待にも答えられると思います。著者は岩波新書向けにも書いているようです。

一方で以前読んだ「浅草フランス座の時間」から、「東宝七十年史」→小林一三の宝塚歌劇のエッセー「おもひつ記」→菊池寛の「昭和モダニズムを牽引した男」→芥川龍之介「河童」→「槍ヶ岳紀行」→新田次郎「槍ヶ岳開山」(これは以前読んだ)→深田久弥「日本百名山」の一部→ここから何故か海軍館山砲術学校に興味が移って「大学生活ものがたり」→「消えた灯台」→「旧制高校物語」→突如ブログの関係で「江戸の旗本事典」が入って→「日本映画100年史」→「ハリウッド100年史」と別の読書の流れもありましてこちらはいたって呑気に読んでおります。

2年もブログを書いていますと、Google検索で上位に出るエントリーも増えてきますので、1日のアクセスの半分ぐらいはこうした記事が占めています。ですから少々サボってもアクセスは減らなくなってしまいました。と言う訳で最近はよくサボります。

いつも読んでくださっているみなさんには感謝です。
今後ともよろしくお願いします。

2010年9月26日日曜日

映画「おにいちゃんのハナビ」




400年の歴史を持つと云う新潟県小千谷市片貝の花火は、浅原神社の例大祭で、花火はこの神社への奉納だそうである。
つまり個人がおばあちゃんの古稀を祝う為に花火を奉納したり、家を初めて買った若い2人がそのメモリアルに寄付したりと、東京の花火大会のように何処かの誰かが打ち上げているのでは無く、地区の人達が1発1発意味を込めて打ち上げている。従ってこの町では花火を打ち上げる前に誰から誰への花火なのかひとつひとつにアナウンスがある。その中に特に伝統として中学校の同窓会が卒業年毎にそれぞれ組み(成人会)を組織して20才や還暦などの節にリユニオンして企画して打ち上げる風習がある。こういった横の繋がりの強い地域社会は住みよいのだろうなと思う反面、外からの移住者、よそものには厳しいものなのだろう。

こうした前提で、喘息持ちの妹の治療の為に東京からこの町に引越してきた両親と兄妹の一家が物語の主人公になっている。社交的な妹は地元に直ぐに溶け込んだが、中学の終り頃に転校してきて新潟市内の高校に進学した兄は地元の友達がおらず、高校卒業後には就職も進学もせず引きこもりになってしまっていた。つまりこの町のビッグ・イベントである花火とは無縁な生活を送っていたのだ。そこに白血病の治療で入院していた妹が自宅療養に戻ってくると兄の引きこもりは一層悪化していた。

「引きこもりか何か知らないけど、どーなのよ人として」

妹は兄を連れまわし成人会に入会させ新聞配達をさせて社会復帰すべく手助けするが白血病の悪化は止まらずに再び入院してしまう。そんな妹の為に兄は一発奮起して花火を打ち上げてあげると云うストーリーである。また本来そうした他所者には厳しいはずの町の人も本当は皆優しかったのだ。

白血病の妹に、引きこもりから立ち直る兄。一見ベタな設定であるがこれは実話を元にしたストーリーで2005年新潟中越地震後の被災地を映したテレビ・ドキュメンタリーが制作のきっかけになっている。 監督はTVドラマでのキャリアが長い国本雅広。父親には大杉漣、母:宮崎美子、兄:高良健吾、妹:谷村美月。成人会のリーダーには舞妓Haaan!の駒子役の早織、学校の先生役にはこんな先生がいたらクラスが明るくなるだろうなと言うような佐藤隆太。高良、谷村共に真摯な演技が心を打つ。片貝の四季が映し出され、背景と言えば新潟市の繁華街が一部入るだけで片貝の町から殆ど出ないが、設定を少し変えれば世界中何処ででも通用するストーリーだと思う。

欲を言えば最後の花火のシーンだろうか。映画の起源が「見世物」である以上、一貫した音楽を背景に切れ目を作らずにもう少し「くどめ」にしてくれればもっと良かったかとは思うのだが、僕としては途中で泣かされ過ぎて、ラストでは「もう充分だ」とすでに涙も枯れはてていたのかもしれない。

これはお奨めの映画です。




2010年9月24日金曜日

ザ・クオンツ


Amir E. Khandaniy and Andrew W. Lo

Abstract
During the week of August 6, 2007, a number of high-profile and highly successful quantitative long/short equity hedge funds experienced unprecedented losses. Based on empirical results from TASS hedge-fund data as well as the simulated performance of a specific long/short equity strategy, we hypothesize that the losses were initiated by the rapid unwinding of one or more sizable quantitative equity market-neutral portfolios.

2007年の8月6日の週に、多くの有名でまた非常に成功したクオンツ系のロング・ショート株式ヘッジ・ファンドが空前の損失を出した。TASSのヘッジ・ファンド・データ・ベースや特定の株式ロング・ショート戦略のシュミレーション分析から、我々はその損失はひとつ以上の規模の大きいクオンツ株式ニュートラル・ポートフォリオによる急速な解消売りが原因であると仮説を立てた。

Given the speed and price impact with which this occurred, it was likely the result of a sudden liqudation by a multi-strategy fund or proprietary-trading desk, possibly due to margin calls or a risk reduction. These initial losses then put pressure on a broader set of long/short and long-only equity portfolios, causing further losses on August 9th by triggering stop-loss and de-leveraging policies. A significant rebound of these strategies occurred on August 10th,which is also consistent with the sudden liquidation hypothesis.

この解消売りの速度とプライス・インパクトは、マルチ・ストラテジー・ファンドやプロップ・デスクによるマージン・コールやリスク値削減の為の突然の現金化の結果であると考えられる。初期の損失が広範なロング・ショート戦略やロング株式ポートフォリオに影響を及ぼし、それがさらにストップ・ロスやレバレッジ抑制方針の発動を促す事になり9日のさらなる損失の原因となった。10日に発生したこうした戦略を採るファンドの大幅なリバウンドもまた、この突然の現金化仮説( the sudden liquidation hypothesis)を支持している。

This hypothesis suggests that the quantitative nature of the losing strategies was incidental, and the main driver of the losses in August 2007 was the resale liquidation of similar portfolios that happened to be quantitatively constructed.
The fact that the source of dislocation in long/short equity portfolios seems to lie elsewhere-apparently in a completely unrelated set of markets and instruments-suggests that systemic risk in the hedge-fund industry may have increased in recent years.

この仮説は戦略崩壊のクオンツ的な性質は偶発的なものである事を示唆している。2007年8月の損失の主な要因は偶然にクオンツ的手法で作成された類似したポートフォリオの解消売りである。株式ロング・ショート・ポートフォリオ混乱の原因が全く無関係な市場や商品など全く別のところにあると云う事実はヘッジフアンド業界のシステミックリスクが近年増加している事を示唆している。(拙訳)


ファマ・フレンチのレポート"The Cross-Section of Expected Stock Returns"が1992年に発表されて、βが実際に株のリターンに及ぼす影響力は0であると証明するとともに1963年以降のどの時期においてもバリュー株はつねにグロース株よりもパーフォーマンスの良い事がわかりました。 当然クォンツによるマーケット・ニュートラル・ファンドはこの手法を採る者が増えました。そうしたファンドが増えている間は類似したバリュー株を買い続け、類似したグロース株を売り続ける事になりますから株式ロング・ショート戦略のパーフォーマンスは良くなります。ところが一旦他の要因、つまり株式LS戦略が組み込まれているマルチ・ストラテジー・ファンドやFOFの他の戦略、例えばCDOのBBショート、AAAロングのようなもののパーフォーマンスが悪化してファンド全体のレバレッジを落とさなければならないような場合に直面しますと、どうしても売りやすい株式LS戦略が最初に処分されやすくなります。ところが株式LSは大勢のファンドが似たような戦略を取っているので処分によってさらにLSファンドのパーフォマンスが悪化して、それ自体がストップ・ロスやレバレッジ低下のターゲットとなってしまうのです。


ザ・クオンツ 世界経済を破壊した天才たちを読みました。大変面白い本です。翻訳も大変読みやすい。
CBアービトラージャーであるエド・ソープの書いたブラック・ジャック必勝法「ディーラーをやっつけろ! 」に始まり、ファマ・フレンチを経て、文頭にあるアンドリュー・ローの"What Happened To The Quants"に至り再びブラック・ジャックに帰っていきます。市場収益率はコイン・トスやカード・ゲームの確率分布とは異質なものなのだと主張する一方で、最後の場面からクオンツ的なアプローチの重要性を少しも否定してはいないと読みました。

モルガン・スタンレー・PDTファンドのPeter Muller, CitadelのKen Griffin、AQRのCliff Asness、ドィチェのBoaz Weinstein、Runeaissance TechnologiesのJim Simonsなどのヘッジフアンド・プレーヤーを中心に彼等のプライベートも交えながらリーマンショックによる市場崩壊の過程を描いていますが、ナシーム・タレブやPIMCOのビル・グロースなども友情出演?しており読み物として大変面白いエピソードが数多く挿入されています。

「AQRに講演にきたタレブはまばらな聴衆に向かって自説を唱え続けた。ファット・テールや、不確実性、ランダムについても話した。しかし聴く方はげんなりしていることに彼も気づいていた。彼等は、ブラック・スワンについての講釈など聴く必要がなかった。ついこのあいだ実際に体験し、そして本当に恐ろしい思いをしたばかりなのだから。」

たしかに仲間内ではタレブの”まぐれ―投資家はなぜ、運を実力と勘違いするのか”の評価は高かったのですが”ブラック・スワン[上]―不確実性とリスクの本質”はいまいちだったのが納得できました。

関連エントリー: バリュー株とグロース株の相克 2010/01/25
ジェレミー・シーゲルで説明しています。

2010年9月16日木曜日

為替介入 過去の介入額 100915


野田財務相は9月15日「為替相場の過度の変動を抑制するため、為替介入を実施した」と発表しました。83円割れでの介入は、80円を意識していると考えて良いでしょうが、介入規模やどこまで本気で介入するのかは今後を待たなければなりません。

実質実効レートの水準から、協調介入の可能性は殆ど考えられなかったので、欧米政府が黙認している現状と言うのは「円高で大変だろう」と言うのでは無く、「混迷する日本の政治状況をおもんばかって」の事だと解釈すべきでしょう。中国が人民元を暫時切り上げに入っている状況での介入(人為的操作)ですから、グローバルな観点からは「日本が自国通貨安競争への口火となるのでは無いか(近隣窮乏化政策)」との懸念はぬぐい去れないでしょう。もしかすると日本が悪役に祭り上げられる可能性もあると言う事です。

それに関連して早くも韓国などアジア通貨やブラジル・レアルなどに動きが見え始めた事は注目すべきでしょう。ドル円で一時的な「見かけ」を取っても、結局大勢として肝心な実効レートで交易条件が悪化する可能性があるからです。従って今回の介入が本格的なもの(曖昧な表現ですが)になる可能性は低いとトレーダー達は考えるでしょうから、ある意味短期的には組みしやすい相場とも言えます。ドル円の中期的動静はむしろ米国経済が2番底懸念、つまり日本型デフレに陥らないとの見方が増え米国長期金利が上昇傾向に入るかどうかの方が材料としては大きいと考えます。

グラフ1は過去の円ドル相場(赤)と為替市場介入量(青:日次:単位億円)を示しています。1日のドル買い介入量は約1兆6千億円が最高であった事がわかります。  クリックすると大きくなる

グラフ2は期間を1999年以降にして少し見やすくしてみました。介入前後の為替相場との関係が見れます。

グラフ3は2002~04年の為替介入の累積量を見る為のものです。2002年には防衛ラインを116円近辺に設定した事が分かりますよね。20兆円ほどかけて結局は円高にブレークしています。ブレーク後も20兆円の介入で一旦戻しはしますが、結局2004年の年末には100円近くまで円高は進んでしまいます。しかし思い出して欲しいのはこの時期実質実効レートは一貫して円安に振れていた事と株式市場も2003年3月をボトムに上昇している事では無いでしょうか。


data:FRED

追記: 政府・日銀が15日に実施した為替介入の規模が、1兆7000億~8000億円規模に上ることが16日、分かった。日銀が同日夕に公表した「17日の当座預金増減要因」によると、介入資金の規模を反映する「財政等要因」は2兆2600億円の資金余剰。市場では4000億~5000億円程度の余剰が予想されていたため、差額分が介入で膨らんだとみられる。 SankeiBiz

2010年9月13日月曜日

終着駅 トルストイ最後の旅


明治29年(1896年)欧州を旅行中だった国民新聞社の徳富蘇峰と深井英五は小西増太郎からの紹介状を手にモスクワの南200キロにあるヤースナヤ・ポリャーナにトルストイを訪ねた。この時トルストイは68歳、ロシア研究家小西増太郎はトルストイと共同で「老子」のロシア語版を出版していたので蘇峰に頼まれ紹介状を書いた。

早朝に到着した蘇峰と深井はトルストイの娘さん達と一緒に総勢9名で朝食をご馳走になるが世界三大悪妻の一人と言われる奥さんのソフィヤ・トルストイはその時には不在だった。蘇峰とトルストイは英語で会話したのだが、その内に2人は大激論になり蘇峰が「この辺りの事はまた後日にしよう」と言ったところ、トルストイは「自分達は死期がいつ来るかも知れぬ。故に人生の至要問題は一瞬間でも放任する事はできない。」と言い二人の議論は収拾がつかなくなってしまい深夜にまでおよんだ。結局蘇峰と深井は昼、夜と御飯をご馳走になってしまった。帰り際に二人はトルストイから写真にサインを貰って後々まで大事にしたそうだ。トルストイはこの蘇峰と深井の訪問の後の日記に「日本人は、我々よりずっとキリスト教に近い。大好きになった」と記している。

この訪問から10年後に日露戦争が始まると平和主義者のトルストイは1904年6月27日のロンドン・タイムズに"RETHINK YORSELVES!"【汝悔い改めよ】と言う戦争批判の記事を投稿する。この記事は世界中の人々に大きく影響を与えたが、ロシアでは公開される事なく、日本では後になって日本語訳が掲載された。この記事はTimes onlineで今でも読むことができる。



映画「終着駅 トルストイ最後の旅」をシャンテ・シネで見た。今年はトルストイ没後100年にあたるそうだ。もともと伯爵であり、さらにあまたのベスト・セラー小説の印税収入で大富豪であったトルストイは自分の死後の著作権をロシア人民の為に寄付しようとし、こども達の為に残そうとする妻ソフィアと対立する。夫婦には毎日諍いが絶えないが、それを苦痛に思ったトルストイは82歳で家出をしてしまい、その旅先のアスターポヴォ駅(現レフ・トルストイ駅)でその生涯を終えてしまう。世界中から動向を注目される彼は「家出」も記者に追われ臨終を待つその駅前には世界中の新聞各社のテントが張られ、さらに当時普及し始めていた映画カメラにも付きまとわれ、言わば死への旅路すら実況中継(電信だが)されてしまう。もちろんその当時のフィルムは今も残っており、この映画のエンドロールで登場する。

キャストはロシア系イギリス人のヘレン・ミレン他演技派で固められており作品として冗長さが全く無く、時間の経つのも忘れて見入ってしま事だろう。内容のぎっしり詰まった良本のイメージの作品だった。SLやロシアの田舎駅のストラクチャーなど鉄道好きにも良いのでは無いだろうか。帰りに勢いで神保町の古本屋を漁り「アンナ・カレーニナ」3巻を買ってしまったが一体いつ読めるのだろうか。偉そうに書いたが、実は"RETHINK YORSELVES!"は読んだものの俄文学中年はトルストイの作品を1冊も読んでいないのだった。

2010年9月10日金曜日

大恐慌を駆け抜けた男 高橋是清


僕は鉄道マニアではありませんが、決して嫌いな方ではありません。
先日機会があってwikiでケーブルカーを見ていたら、現存する国内ケーブルで乗った事が無いのは青函トンネル竜飛斜坑線、四国の八栗ケーブルと九州の帆柱ケーブルの3つだと分かりました。確かに小さい頃からケーブル・カーを見ると乗りたくなる衝動は今も変わりません。その内に是非全国制覇したいものだと思います。
ところでこうしたケーブル・カー達も第2次世界大戦中の昭和19年初頭には不急不要路線としてレールを外され、お寺の釣鐘などと一緒にくず鉄とされた過去があります。この事は比較的良く知られている事ですが、どうでしょう金の献納運動についてはあまり知られていないのでは無いでしょうか。ましてやその背景については尚更でしょう。

昭和13年中国華北に侵攻した日本は当地に中国連合準備銀行を設立し連合券と言う紙幣を発行します。当時の蒋介石率いる中華民国は英国主導による幣制制度が成功し、既に法幣(元)が統一通貨として流通するようになっていました。円ブロック経済圏を確立しようとする日本は円と元の間で固定レートを設定しますが、ここに中国元、日本銀行券、中国連合券、さらに朝鮮銀行券の4種類が固定レート化されます。つまりどの通貨も同じ価値で為替の変動は無いと決め付けます。

ところが帝国陸軍は戦費調達の為に華北に朝鮮銀行券を大量に持ち込み、これは元と同じ価値であると物品を購入しますが、物品を売る方にすれば見た事も無い紙切れです、たまったものではありません。その為に華北では元と朝鮮銀行券の交換比率は朝鮮銀行券安に大きく崩れてしまいます。一方で日本政府は固定レートを主張している訳ですから、ここで何が起こるかは金融市場に興味のある人なら簡単にわかりますよね。華北地方において元で朝鮮銀行券を安く買い、それを上海に運び日本銀行券と交換し、その日本銀行券を元に交換してもらう。また華北に戻って元で朝鮮銀行券を買い上海に行く。100円の元手で5回これをやると2048円73銭儲かったと言う記録があるそうです。これを逆算すると1回の取引で約83%の利益を得られた事になります(算数の計算は大丈夫でしょうか?)。まさに濡れ手にあわと言う取引です、儲けた大陸の日本人も多かった事でしょう。

日本は物資を大陸に輸出し帳面上は貿易黒字を稼いでいました。何しろ中国連合券にしろ朝鮮銀行券にしろ固定レートでしたから。一方で軍事物資の多くは米国からの輸入に頼っていましたから米国には正貨(金)で支払わなければなりません。こんな事を続けていると正貨不足になるのは明らかです。

そこで昭和13年(まだ太平洋戦争は始まっていません)、新聞社が窓口となって第1次金献納運動が始められ国内に退蔵されていた金が買い上げられます。翌年には地方長官主催で第2次金献納運動、この時は皇室も金を拠出します。さらに運動じゃ盛り上がらないので昭和15年10月には政府が直接関与して家庭に大事にしてあった金も徴発される事になります。隠し持っていると非国民ですね。こうして集められた金は累計341トン、輸入決済代金として米国に現物輸送された金は324トンにのぼります。要するに昭和16年以降は輸入しようにも貿易決済用の正貨(金)は無くなってしまっていたと言う事です。

国債は国民の債務なると共にその債権なるを以て、国債の増発も国民全体としては財の増減が無い故に、内国債である限り国債の増加も国民全負担の増加にあらず、何ら恐るるに足りず」、「日銀が国債代金として放出する資金は恒久的に循環して日銀に帰還するはずであるから、引受発行は多々ますます弁ずる」。どこかで聞いたようなフレーズですがこれは去年から今年の流行(はやり)では決してありません。実は昭和11年に流行していた説なのです。高橋是清はこの年に226事件で暗殺されますが、こうした国債購入者がその後どうなったかは申すまでも無いでしょう。

大恐慌を駆け抜けた男 高橋是清:松元崇著を結構時間をかけてじっくりと読みました。
僕が思うにこのタイトルは間違っていると思います。この本は高橋是清を軸にこそしていますが、内容は維新から第2次世界大戦までの包括的な財政史になっています。是清を説明しようとすると結局は維新時の金流出から説明しなければならないので仕方が無いかと思いますが、この本が単なる是清の解説だと考えるのは過小評価に過ぎるでしょう。
この本の一つのテーマ、是清に対する認識は「深刻な景気の落ち込みに対してケインズ的な財政出動を行って景気を回復させた蔵相」で良いのだろうか?
この答えはNOなのです。「日銀引受で国債をどんどん発行するのが是清レシピである」これもNOです。財政政策は前後関係を知っておく必要があるのです。

参考文献が豊富です。読みやすい教科書だと思って一度読んで見ることをお奨めします。著者が財務省の現役キャリアである事は読んだ後から考えれば良いでしょう。割り引くべきバイアスは小さいものです。


2010年9月8日水曜日

昭和モダニズムを牽引した男


夏目漱石は大正5年(1916年)の12月に「明暗」を執筆途中で死去した。
その1年前の秋にまだ学生だった芥川龍之介と久米正雄が漱石の家を訪ね「社会と自分」と言う本にサインをして貰って帰った。この本は漱石が関西で行った講演を纏めた本だった。

旧制一高では芥川や久米と同級生だったが、大学はひとり京都に行っていた菊池寛が上京して森川町の久米正雄の家を訪ねると久米がこのサインのある本を菊池にみせびらかした。菊池は羨ましがったが、そもそも「我々は谷崎潤一郎とか木下杢太郎、小山内薫などを愛読していて漱石先生の事など話題にもならなかったはずだろう」と思った。ところがそのうち上京するたびに連中は漱石にどんどん傾倒していき久米などは「道草」が良いと頻りに褒め称える。菊池としては漱石の愛読者ではあったが、それは素人が展覧会の絵に感心するような、そういう感心の仕方だったのだ。

翌年つまり漱石の亡くなる年になると芥川や久米はしきりに漱石の家に行っていると言う、それで菊池もこうなると意地を張っていないで自分もどうしても漱石に会いたい。7月のある日一緒に連れていってもらう事になった。菊池は緊張したが漱石の衰弱した姿にも驚かされた。漱石は芝居(戯曲)が好きではなかったので色々と悪口を言ったが、戯曲好きの菊池は巨匠のこの態度にこう信じて折り合いをつけた。「先生は劇的幻覚を信ぜられない人なのだ。非常に聡明な人間には劇的感覚は起こらぬものである」と結論づけたのだ。菊池はこの訪問の後、「世の中でちょっと得難い体験をしたようで2、3日は幸福だった」そうだ。相当に感激したのでしょう。

これは大正6年3月の「新思潮」に掲載された菊池寛のエッセーの要約だ。
文藝春秋を創刊し、芥川賞、直木賞を始めた菊池寛だが、もう一度読む山川「日本史」にも名前は登場しない。菊池は1920年に書いた「真珠夫人」以降大衆文芸家として認知され純文学の世界からは少なからず区別されてしまう。


菊池寛の「昭和モダニズムを牽引した男―菊池寛の文芸・演劇・映画エッセイ集」を読んだ。これはあまたある菊池寛のエッセーから編者高橋俊夫氏が選び出してくれた本で昨年の発売である。僕は編者を知らないがこう言う本は本当に良本だと思う。自分では菊池寛ばかり読むわけにはいかないだろうから選んでくれるのは非常に有り難いのだ。しかもどれも面白く新鮮な発見だった。先の「真珠夫人」は無声映画で2度、トーキーで1度映画化され、2002年には横山めぐみ主演の昼メロが大ヒットした。映画もなかなか芸術として認知されなかったのと同じように大衆文芸は一段と低いものと認識されてきたのだろう。それでもそろそろ教科書にはのせておいた方が良いのではなかろうか。何故ならば菊池寛は当時の作家達のあるいは芝居や映画など大衆芸能のハブとして機能していたからだ。

菊池は昭和4年、トーキーが出始めた頃のエッセーで、無声映画とトーキーは別物の芸術だから併行して別々に発展するだろうと所見を述べている。まだ字幕スーパーが発明されなかった頃だから外国映画には絶対に弁士が必要だと主張しているのは今となっては面白い。しかしこのエッセー集を読むとわかるが先生は相当の頑固者のようです。

注:僕は最近古いものばかり読んでいるので旧かな使いには馴れてしまっているが、WEBでこの本の書評を見ると「読みにくい」と言う評価もあるので購入には注意して下さい。

追記:夏目漱石の「こころ」などに「高等遊民」と言う言葉が登場し現代の「ノマド」と混同されやすいが、これは当時の不在地主が大きく関係している。
日本では地主・小作の関係は50%と言う比率の実物レント(物納)だった。地代は現金では無かったのだ。これは先進国では珍しい遺物だったそうだ。
地租が金納の状況下で米代だけが日露戦争から第1次世界大戦のインフレ下で高騰していくと、固定された地租と値上がりした米代の差益を享受したのは地主だけとなり、貧富の格差は大きく開くようになった。当時の政党は地主階級の利益代表であったので地租の値上げには大きく抵抗があった為だ。この結果金持ちになった地主階級の一部は職にもつかず都市生活をするようになり暇なインテリ層が増えたと言う事だ。純文学の隆盛にも関係している。同時に一方では貧困にあえぐ小作農家の不満は軍部への期待となっていく。GHQが占領後すぐに農地解放をしたのが良くわかる。漱石が出たのでついでに。 

2010年9月7日火曜日

旧江戸市街―コメントへの回答②


コメント頂きました。
僕たちは今の東京を知っているから「すごい不動産だな」と思いますが当時は江戸城の周り以外は田畑が多く今ほど不動産に執着が無かったのかもしれませんね。

安政3年(1856年)の江戸の地図です。
クリックすると大きくなります。
「江戸城の周り以外は田畑」の意味はどの程度の周りを指すのかよくわかりませんが、以下の地図で明治維新直前の江戸の市街地の状況がよく分かるかと思います。
白い部分が武家屋敷、江戸市街地のかなりの部分を占めているのがわかるのでは無いでしょうか。日本橋近辺には町人の街が集中しています。緑の部分が田畑になります。

東の千葉県側では亀戸が江戸の端になっています。また浅草から上野、谷中にかけてはお寺さんの地所です。

本所、深川など東側を除くと現在の山手線の内側がおおよその市街地になります。お城までの徒歩での通勤圏内と言えるかもしれません。また旗本も地位が上がるとお城に近い屋敷に替えてもらったりしてます。
そうした中で今の池袋は雑司が谷の北の田んぼの中でした。


また渋谷から恵比寿にかけても同様です。明治の初めに牛鍋が流行し牛肉の需要が増え屠殺場が必要になりますが、都心部ではマズイだろうと街はずれの白金村に設置した経緯もあります。今ではシロガネーゼとか言っていますけどね。

当時おおよそ1村=500石ですから、500石の旗本は1つの村の支配者でもあります。(リスク回避の為にまるでポートフォリオのように5人の旗本で5ヶ村を100石ずつ別けて持つような事もしていたようですが)
500石=500俵ですが石取りの方が格式が高いのは領地を持っているからで、いくら500俵でも蔵前の札差から米を受け取るだけの旗本は下に見られました。
当時主な生産物は農業ばかりですし、戦争して土地を奪い合うくらいですから土地への執着は現代よりも強かったかもしれません。 また余裕のある旗本は土地家屋を買い求め、店賃で収入のたしにしていたようです。


MSCI主要国株価指数年初来パーフォーマンスのせておきました。

2010年9月5日日曜日

株式分割払込制度


今日は調べ事があって図書館で古い新聞を漁っていた。目的はThe Statistという第2次大戦以前まではThe Economistと並ぶほど権威があった英国の経済雑誌の記事だったのだが、結局別のものを見つけて読み込んでしまった。

それは明治時代の話だった。
大阪の高等女学校を卒業したA子さんは、東京帝大法科に通うB男君を以前から慕っており、どうしても東京に出たかった。A子さんの家は非常に裕福な名家なのでご両親は激しく反対した。反対すれば余計に想いはつのる、A子さんは東京まで出てきて自分で働いて暮らす事になった。そうは言っても勉強中のB男くんのお邪魔になるのではないかしら?と連絡は取らずにいた。そんなある日A子さんは風邪をこじらせて寝こんでしまう。薬を買う金も無くなってご両親に送金を頼むが、両親としては「お金を送らなければそのうち困って帰ってくるよ」と放っておいた。世間なれしないA子さんは仕方なく近所の人からお金を借りるがこれがとんでも無い悪党だった。
A子さんは借金のカタに浜町の「悪の魔窟」(多分娼館)へ売られてしまい処女を奪われてしまったから大変だ。しかしながら適応力があると言うか、すごい美人のA子さんはその世界ではすっかり評判になり大物のお客もついてくるようになる。連絡が無い事に心配した両親も人づてに色々調べているとどうもその評判の女がそうでは無いかと東京へ出てくるが、浜町の「悪の魔窟」のありかはマル秘会員制だったのだろう、これが何処にあるのか、なかなか分からない。それでもなんだかんだで結局両親は見つけて大金を支払って身受けして大阪へ連れて帰ると言う話だった。最後に「A子さんの幸せを祈る」みたいな話だった。簡単に言うとね。でもその魔窟は浜町の何処にあったんだろう?

それで日曜日に図書館まで来てどうして明治時代のスポニチみたいなもの(ちなみに新聞「日本」の記事)を読んでいるのだろうか?と少々自己嫌悪に陥ったわけだが、その後ハッと我にかえり、お目当ての記事は大阪毎日新聞に掲載された翻訳記事を発見してなんとかめでたくコピーができた。この記事はポーツマス条約でロシアから賠償金を取れなかった為に日比谷焼打事件等を起こしている日本国民に対して、日露の戦費見積り、米南北戦争、普仏戦争、ボーア戦争などの戦費と比較して「日本のみなさん、君たちは決して損はしていない。それよりも条件にこだわる事なく和平を選んだあなた達の国は立派だ」と言う趣旨で1905年の9月9日号に書かれている。日比谷の焼き討ちが5日だった。

そんな寄り道をしているから時間は既に午後2時になって、「そう言えば吉野家が『おそば』を始めたなあ」、と炎天下吉野家の出す「おそば」とはどんなものかと一路吉野家に向かったワケだ。「味の吉野家、味の吉野家、牛丼一筋80年」って歌いながら歩いていたのかもしれない。なにしろ牛丼一筋なんだから席に座るやいなや「並とたまご」と条件反射で発注してしまった。銘柄間違いの誤発注だ。壁のメニューを見ると「おそば」があり、「お前は一体何のために吉野家まで来たのだ?」と問いかけていたのだけれどいまさら面倒だからもうイイヤと思って結局紅しょうがをたっぷり乗せて牛丼を食べてしまったよ。よく考えると僕は牛丼を食べたいわけでは無かったのだ。

そんな事があって家に帰り手に入れた史料を整理してTwitterを見るとこれだ。
「これ読めってか」の対象はこれ、
株式分割払込制度と企業金融、
設備投資の関係について:1930年代初において
株式追加払込が果たした役割を中心に
南條 隆日本銀行金融研究所企画役補佐/粕谷 誠東京大学大学院経済学研究科教授

26ページもある学術論文だ。さんも読むのは大変だったんじゃないかな?と言うか読む必要あるのか?これ。失礼、この論文。

なるほど設備投資関数のクロスセクション推計によって株式分割払込制度は不況下の設備投資に寄与しているんだなと。有り難く読ませて頂きました。
それでINPEX公募の件との関係は?と考えると多分「INPEXの公募にも株式分割払込制度があれば良いのに」と言う趣旨なんだと推察。

さて上記論文で欠けている視点がある。それは投資家サイドからの視点である。あるいは募集販売技術と言っても良いかもしれない。もちろん論点が違うと言えばそうなんだけどね。
例えば1000円の公募株があるとして申込金200円、2ヶ月後に200円、その後2ケ月おきに200円と合計5回で払い込む分割払いとしよう。全部で8ヶ月かかる。
株式は1000円で売買するとすれば最初の2ヶ月は200円で1000円の物を売買できる。つまりレバレッジは5倍だ。オプションなのだ。20%上昇して1200円にでもなれば投資金額は2倍になる勘定だ。これならばもう少々ヘボな銘柄でも投機家が集まってくるのでディールは失敗しにくい。払込みが進むにつれて株式は投機家から投資家の手へと移っていく事になるが、普通は株価がこなれて行くのだ。

このやり方は19世紀からつい最近までロンドンではごく普通に行われていた。
1904年にロンドンでポンド建て日本公債を発行した時も、93ポンドの発行価格に対して申込時に5ポンド、割当確定で15ポンド、その後25,25、23ポンドと順に払い込む手法だった。その時同時募集したニューヨークでは一括払込だったのだ。 つまりこの手法の発行サイドからの使用目的は投機家を集める事によってディールを成功させる事にあったのだ。投機家から見ると非常に買いやすい金額でしかもレバレッジが効いている。最初はプレミアムをたっぷりつけて渡してやる。後で誰かが残りを払い込むのだ。
80年代にサッチャー政権による英国国営企業の民営化があった時、ブリテッシュ・ガスやブリトイル、ロールス・ロイスなど日本で分割払いによるIPOを実施して馴れない投資家を大混乱に陥れたのはまだ記憶に新しい。日本で後で払い込む事になったのは仕組みのよくわかない投機家だったからだ。


追記:今週のエントリーはすべて受身だった。

2010年9月3日金曜日

学生さんの質問への答え


学生さんの質問
為替のエントリーを読ませていただいて『今現在の為替水準はそれほど円高でもない』のだろうと考えたのですが、経済産業省ヒアリングの『1ドル85円が継続の場合、製造業の4割が移転』というのを読んで、そういう結果を出すようにヒアリングしている部分もあるのだろうとは思うのですが、差異を考えてみた所、競合通貨との関係性なのかな、と思いましたので質問させていただきました。経済産業省のヒアリングについては、どのように考えてらっしゃいますか?

質問ありがとうございます。長くなりそうなのでエントリーを立てました。
僕が為替のエントリーを書いたのは、一部議員が対ドルでの為替介入を声高に唱え始めた事に反応したからに他ありません。
そもそも日本を初めG7諸国は随分以前から中国人民元の人為的な通貨防衛策に対して通貨の切り上げを要望してきました。そうした国際政治の環境下で日本が単独で円売り介入を実施する場合には各国が容認できる適度な(納得できる)水準と言うものがあるのではないか?と言う投げかけのつもりでした。僕はそれを80円程度ではないかと見積もっています。そうした一部議員の攻撃対象は何故か日本銀行になっていますが、此のレベルでの介入は基本的に「政治的」な問題では無いかと思います。日銀はオペレーションを担当しますが介入の意思決定は政治判断のはずです。したがって叫弾すべきは政府のはずなのですがその本質を見ないヒステリックさには腹立たしいものがありました。もちろんそうした動きが現在の小沢対菅と言う対立軸になって現れているのかもしれないと思っています。

日本は戦後の発展段階で圧倒的に優位な交易条件の下で当時隆盛であったアメリカのコンベンショナルな家電業界をほとんど完全に駆逐し、後に自動車産業さえ完膚無きまでに叩き潰してきました。アメリカはもちろん労組レベルの抵抗はありましたが、第二次産業の構成比率を減らしつつ自身の産業構造を変化させる事で対応してきた事を日本も考えなければなりません。そういう成長段階を経験しながら、日本はいざ自身に災難が振りかかると既得権益の保護が行き過ぎて産業の新陳代謝を起こせないでいます。これはとりも直さずそうした環境を整えるべき政治家の責任であるはずなのですが、その事には触れずあまつさえ構造改革のベンチマークであるべき郵政を保護し(世界は注目しています)、構造不況の責任を日本銀行に押し付けている構図に見えてしまいます。これは生産的な議論の姿ではありません。そういうものは是非どこかのチェーン店の居酒屋ででもやって欲しいと思います。街の古い居酒屋では雰囲気が壊れるのでお断りです。したがって私のエントリーはそうした政治的な動きへのひとつの投げかけのつもりでした。


出荷先別の日本の輸出高のグラフを見てのとおり、2000年当時と比較して現在ではアメリカと中国の位置関係はすっかりひっくり返っています。たとえ貿易決済通貨が米ドルであっても実質実効レートのように構造的な真の姿を捉えるべきで、知り合いの為替ストラテジストなども介入ポイントの模索には円ドルのグラフでは無くOECD・PPPか実質実効レートのグラフをベースに考えるのが一般化しています。(一般化は少し言い過ぎかもしれませんが)

前置きが長くなってしまいましたが、ご質問の「経済産業省のヒアリング」、もう少し絞れば『1ドル85円が継続の場合、製造業の4割が移転』についてどう考えるのか?と言う質問だと思います。 僕もOECD・PPPを基準に対ドルだけで言えば85円は円高であって110円ぐらいが適当なのではないかと思っています。従って85円で製造業の4割が移転と言うのは彼等も目先の採算が合わないのでしょうから納得がいきます。しかしながら趨勢的にPPPが円高に向かっている以上、たとえ今円ドルが110円に戻ろうとも業種によっては(労働集約性によって)構造的にもいつかは起こってしまう事象なのだと思うのです。従って僕としては日本から移転しなくてもやっていける業種が成長する必要があると単純に考えてしまうだけなのです。

Porco

2010年9月2日木曜日

旗本と石高


先日映画「ちょんまげプリン」のエントリーで「石高百石の直参旗本小普請組」は考証ミスでは無いか?旗本は二百石以上を旗本と言うのでは無いか?とのご指摘を受けた。実はこの問題は僕も以前から気になっていたのだが、どうにも結論が出せないまま放ったらかしにしていた経緯があった。今回ちょうど良い機会なので調べて見る事にした。調べると言っても以前から気になっていた本があったので読んでみただけではあるが、一度調べておけば自分のブログを備忘録として使えるので便利だろうと考えたわけだ。


一般に旗本の定義は以下が通説となっている。
1。家禄が二百俵以上の家
2。旗本は軍事用語で、幕府の小姓組・書院番・新番・大番・小十人の五番士を指す。(番方とも言う)
3。御目見(おめみえ)以上の家

さて、ここで先ず第一の疑問が出てくる。何故二百石では無く二百俵なのか。石と俵の関係はどうなっているのか?
二百石は知行地の収穫量であって、米二百石そのものが旗本の収入になる訳では無い。四公六民として40%が領主の取り分となるのだが、不作の年などもあるので平均して取り分は35%と考えるのだそうだ(三ッ半取り)。したがって知行二百石の旗本は実収七十石となる。百俵=35石なので、二百石(知行地)=二百俵となり、どちらも表現が違うだけで実収は同じと言う事になる。一石=一俵と憶えておけば良い。ところが旗本としては米(玄米である事に注意、白米にすると80%になる)で貰うよりも、知行地として与えられる方を好んだし実際に石高表示の方が格式は高かったようだ。

格式の順番を示すと、
知行取り(石高表示:知行地がある)→蔵米取り(俵表示:蔵前の札差から蔵米を受け取る)→現米取り(現米石表示:現物を受け取る)→扶持取り(人扶持表示)となり、格式で言うと、三百石>二百石+百俵取りと言う関係になる。つまり1。の二百石と二百俵は経済的には同じ価値だが格式は違ったと言う事だ。鬼平犯科帳に登場する「忠吾:うさぎ」は確か三十俵二人扶持だったと思うが、二人扶持=十俵なので石高に換算すると四十石と言う事になる。もちろん彼は旗本では無く御家人だし、自分の事を四十石のサムライとは言えない。あくまで蔵米取りの士分なのだ。

寄り道したが旗本の石高分布を見ておこう。ここでは蔵米取りも石高に換算してある。
綺麗な対数正規分布になっているが、ここでは統計処理はしない。実際には二百石以上五百石未満が2261家で一番多く、百石未満の旗本も344家存在したと言う事だ。因みに合計は5158家となっている。 つまり通説1は都市伝説ならぬ「江戸伝説」だと言える。

通説2についても五番士は役職であって、役につけない旗本が存在したのでこれも無理がある。三千石以上で無役の者は「寄合」、三千石以下の者は「小普請組」に入れられたそうだ。従って「ちょんまげプリン」の旗本は無役(無職)で小普請組に入れられた末端の旗本と言う設定になる。わざわざ直参旗本と名乗っているのは「百石しかないけどちゃんと直参なんですよ」と主張しているのだろう。

通説3はこれが一番穏当な定義ではあるが、御家人から旗本に昇進した場合に「永々御目見以上」つまり「代々御目見ですよ」と言う認定が無いと子孫は再び御家人に逆戻りしてしまうケースもあった。ちなみに御家人でも二百石以上の家もあったそうだ。

以上は以前から気になっていて、いつか読まねばと思っていた本、「江戸の旗本事典 (講談社文庫)」:小川恭一著を参考にしている。もちろんこの他にも旗本の相続や拝領屋敷の話、暮らしぶりなど今まで読んだ「旗本関係の本」の中では網羅的で一番充実してる本である。と言うかこれしか無いと思う。少々読みにくいところもあるが、時代小説ファンは手元に一冊おいておきたい本だ。モヤモヤが少しだけ晴れた。気がする。