2010年9月7日火曜日

旧江戸市街―コメントへの回答②


コメント頂きました。
僕たちは今の東京を知っているから「すごい不動産だな」と思いますが当時は江戸城の周り以外は田畑が多く今ほど不動産に執着が無かったのかもしれませんね。

安政3年(1856年)の江戸の地図です。
クリックすると大きくなります。
「江戸城の周り以外は田畑」の意味はどの程度の周りを指すのかよくわかりませんが、以下の地図で明治維新直前の江戸の市街地の状況がよく分かるかと思います。
白い部分が武家屋敷、江戸市街地のかなりの部分を占めているのがわかるのでは無いでしょうか。日本橋近辺には町人の街が集中しています。緑の部分が田畑になります。

東の千葉県側では亀戸が江戸の端になっています。また浅草から上野、谷中にかけてはお寺さんの地所です。

本所、深川など東側を除くと現在の山手線の内側がおおよその市街地になります。お城までの徒歩での通勤圏内と言えるかもしれません。また旗本も地位が上がるとお城に近い屋敷に替えてもらったりしてます。
そうした中で今の池袋は雑司が谷の北の田んぼの中でした。


また渋谷から恵比寿にかけても同様です。明治の初めに牛鍋が流行し牛肉の需要が増え屠殺場が必要になりますが、都心部ではマズイだろうと街はずれの白金村に設置した経緯もあります。今ではシロガネーゼとか言っていますけどね。

当時おおよそ1村=500石ですから、500石の旗本は1つの村の支配者でもあります。(リスク回避の為にまるでポートフォリオのように5人の旗本で5ヶ村を100石ずつ別けて持つような事もしていたようですが)
500石=500俵ですが石取りの方が格式が高いのは領地を持っているからで、いくら500俵でも蔵前の札差から米を受け取るだけの旗本は下に見られました。
当時主な生産物は農業ばかりですし、戦争して土地を奪い合うくらいですから土地への執着は現代よりも強かったかもしれません。 また余裕のある旗本は土地家屋を買い求め、店賃で収入のたしにしていたようです。


MSCI主要国株価指数年初来パーフォーマンスのせておきました。

2 件のコメント:

フラウボウ さんのコメント...

さすが100万人都市、こうしてみると江戸城の周りにびっしり人が住んでいて、田畑はありませんね。大変失礼いたしました。

100万人都市といえば今の広島と同じくらいですよね。当時は高層階も無く、かなりの部分が武家屋敷となると、庶民はそうとう狭いところに住んでいたんでしょうね。

吉原が畑の中にぽつんとあるのにびっくりしました。JINという漫画を読んでいるときに畑の中を通って吉原に行く場面があり「こんな田舎にあったの?」と思いましたが納得しました。ああいう場所は、少し外れた場所の方が良しとしたのかもしれませんね。
わざわざ、エントリーを立てて頂いてありがとうございました。

Porco さんのコメント...

フラウボウさん、
余計なお世話かと思いましたが肝心なところなので。