2010年9月8日水曜日

昭和モダニズムを牽引した男


夏目漱石は大正5年(1916年)の12月に「明暗」を執筆途中で死去した。
その1年前の秋にまだ学生だった芥川龍之介と久米正雄が漱石の家を訪ね「社会と自分」と言う本にサインをして貰って帰った。この本は漱石が関西で行った講演を纏めた本だった。

旧制一高では芥川や久米と同級生だったが、大学はひとり京都に行っていた菊池寛が上京して森川町の久米正雄の家を訪ねると久米がこのサインのある本を菊池にみせびらかした。菊池は羨ましがったが、そもそも「我々は谷崎潤一郎とか木下杢太郎、小山内薫などを愛読していて漱石先生の事など話題にもならなかったはずだろう」と思った。ところがそのうち上京するたびに連中は漱石にどんどん傾倒していき久米などは「道草」が良いと頻りに褒め称える。菊池としては漱石の愛読者ではあったが、それは素人が展覧会の絵に感心するような、そういう感心の仕方だったのだ。

翌年つまり漱石の亡くなる年になると芥川や久米はしきりに漱石の家に行っていると言う、それで菊池もこうなると意地を張っていないで自分もどうしても漱石に会いたい。7月のある日一緒に連れていってもらう事になった。菊池は緊張したが漱石の衰弱した姿にも驚かされた。漱石は芝居(戯曲)が好きではなかったので色々と悪口を言ったが、戯曲好きの菊池は巨匠のこの態度にこう信じて折り合いをつけた。「先生は劇的幻覚を信ぜられない人なのだ。非常に聡明な人間には劇的感覚は起こらぬものである」と結論づけたのだ。菊池はこの訪問の後、「世の中でちょっと得難い体験をしたようで2、3日は幸福だった」そうだ。相当に感激したのでしょう。

これは大正6年3月の「新思潮」に掲載された菊池寛のエッセーの要約だ。
文藝春秋を創刊し、芥川賞、直木賞を始めた菊池寛だが、もう一度読む山川「日本史」にも名前は登場しない。菊池は1920年に書いた「真珠夫人」以降大衆文芸家として認知され純文学の世界からは少なからず区別されてしまう。


菊池寛の「昭和モダニズムを牽引した男―菊池寛の文芸・演劇・映画エッセイ集」を読んだ。これはあまたある菊池寛のエッセーから編者高橋俊夫氏が選び出してくれた本で昨年の発売である。僕は編者を知らないがこう言う本は本当に良本だと思う。自分では菊池寛ばかり読むわけにはいかないだろうから選んでくれるのは非常に有り難いのだ。しかもどれも面白く新鮮な発見だった。先の「真珠夫人」は無声映画で2度、トーキーで1度映画化され、2002年には横山めぐみ主演の昼メロが大ヒットした。映画もなかなか芸術として認知されなかったのと同じように大衆文芸は一段と低いものと認識されてきたのだろう。それでもそろそろ教科書にはのせておいた方が良いのではなかろうか。何故ならば菊池寛は当時の作家達のあるいは芝居や映画など大衆芸能のハブとして機能していたからだ。

菊池は昭和4年、トーキーが出始めた頃のエッセーで、無声映画とトーキーは別物の芸術だから併行して別々に発展するだろうと所見を述べている。まだ字幕スーパーが発明されなかった頃だから外国映画には絶対に弁士が必要だと主張しているのは今となっては面白い。しかしこのエッセー集を読むとわかるが先生は相当の頑固者のようです。

注:僕は最近古いものばかり読んでいるので旧かな使いには馴れてしまっているが、WEBでこの本の書評を見ると「読みにくい」と言う評価もあるので購入には注意して下さい。

追記:夏目漱石の「こころ」などに「高等遊民」と言う言葉が登場し現代の「ノマド」と混同されやすいが、これは当時の不在地主が大きく関係している。
日本では地主・小作の関係は50%と言う比率の実物レント(物納)だった。地代は現金では無かったのだ。これは先進国では珍しい遺物だったそうだ。
地租が金納の状況下で米代だけが日露戦争から第1次世界大戦のインフレ下で高騰していくと、固定された地租と値上がりした米代の差益を享受したのは地主だけとなり、貧富の格差は大きく開くようになった。当時の政党は地主階級の利益代表であったので地租の値上げには大きく抵抗があった為だ。この結果金持ちになった地主階級の一部は職にもつかず都市生活をするようになり暇なインテリ層が増えたと言う事だ。純文学の隆盛にも関係している。同時に一方では貧困にあえぐ小作農家の不満は軍部への期待となっていく。GHQが占領後すぐに農地解放をしたのが良くわかる。漱石が出たのでついでに。 

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