2010年11月26日金曜日

戦争なんか出来るわけないだろう


北朝鮮が挑発行為を繰り返しています。もちろん彼等から見ると米国と韓国が挑発行為を繰り返していることになりますが。

我々の立場から合理的に考えると北朝鮮が戦争するメリットも、最終的に北朝鮮が勝利する可能性も殆ど有り得ないように思います。だから我々は多分彼等は脅しだけで戦争はしないだろうと基本的には考えています。

しかし北朝鮮が着々と核兵器、化学兵器そしてそれらを運ぶミサイル技術を進化させている状況においては、韓国だけではなく日本との間にもどこかで臨界点がくるはずです。それはもしかしたらもう既に来ているのかもしれません。

先ずは地方都市を攻撃されて、食糧を寄越さなければ次は東京だとか、そんな事彼等はしないと言い切れる人はいないでしょう。

第2次世界大戦の前に日本でも軍は最高のエリートでしたが、今から見れば不謹慎にも笑ってしまうほどの経済インフラ格差を無視して戦争を始めました。北朝鮮軍のエリートも同じように真剣に祖国(あるいは彼等の組織)の事を考えているのでしょう。


彼等は基本的に金がありませんから略奪専門です。占領後は軍票みたいな紙幣を発行するかもしれません。あるいはドル紙幣をいっぱい持っているかもしれません。偽札を造っていることは広く知られていますから。 また万景峰号で現金で持ち出された日本円はマカオで滞留していましたが澳門匯業銀行(バンコ・デルタ・アジア)の取引停止以来溜まった分が少しはあるでしょう。

くだらない想像はこれくらいにして、何故中国は北朝鮮を抑えないのでしょう。

「中国の朝鮮半島の政治と軍事情勢に対する影響力について、どのように思いますか」との質問に対する回答状況は以下の通り(24日午後4時現在)。
(1)中国は、北朝鮮の行動を抑えるべきだ…18.24%
(2)米国と韓国の政治目的を阻止するため、北朝鮮を支援せよ…31.76%
(3)北朝鮮は中国の意見に従わない。中国は半島問題に積極的に参与すべきでない…19.41%%
(4)分からない…30.59%

中国にとっては正義以前に北朝鮮は味方なんですね。カンボジアのポル・ポト政権がそうであったように。もちろん多数決で正義を決めるならばそれが正義に違いありません。

2010年11月22日月曜日

KOMTRAX


伝聞で恐縮だが、昔NYのワールド・トレード・センターを襲ったテロ。9.11の時に話題になった話だ。英米の損害保険の競争優位の話だったが、世界の天候を予測するには海面温度のモニターがとても重要であるという話だった。

エルニーニョやハリケーン、台風の予測、穀物の収穫予想等に欠かせないないからだ。
もちろん軍事情報としても天候予測が重要である事は今でも変わりはない。阿川弘之の「私記キスカ撤退」や映画「キスカ」を見ればわかりやすいだろう。

海面温度は当時でもネットで結構見れたが、詳細なデータは英米の数社によって独占されているという話だった。予測の精度は設置されたブイの数と性能によって差が出る。これが日本の損保が太刀打ち出来ない理由だと聞いたことがあった。今はどうかはわからない。

今日の日経三面、月曜経済観測にはコマツの野路社長が登場している。
個別銘柄をやっている人は多分既によくご存知だと思うがコマツには「KOMTRAX」と云うシステムがある。
これは世界中で稼働しているコマツ製建機の位置、稼働状況の一括管理システムである。
ポイントはリアルタイムでこれらを東京でモニター出来るという事だ。



つまり海面温度ならぬ世界の建機稼働率がリアルタイムで把握できるという、CIAも真っ青なシステムである。政府機関による統計を待ち、さらにエコノミストによる分析を加えたものを読むよりはよほどにストレートな情報となる。

「中国市場で前回大きな調整が起こったのは04年で、このときは中央政府が景気過熱を抑えようと、地方政府のすすめる工業団地造成などの再開発プロジェクトに一斉にストップをかけた。こうしたかなり強制的な処置を採るなら別だが、金融引き締めや人民元の多少の切り上げぐらいで今の中国市場の勢いが止まるとは思えない」

つまり中国の景気が曲がり角にあるとの実感は無い、建機の稼働率は未だ低下していないのだ。
一方でアメリカの回復にはまだ兆しが見えないとおっしゃっている。

まあ、そりゃそうだろうと思う人も多いと思うが、リアルタイム・データを持っている人の発言は重い。


KOMTRAXはダイヤモンド・オンラインのこの記事が一番わかりやすい。

缶入りハイボール


僕の経験でしか無いが、アメリカでもイギリスでも水割りが欲しければ「Scotch and Water」、アイリッシュ・バーだと氷も入って出てくるが、ホテルのバーだと「with Ice」をつけた方が無難だったりする。

昔ニューヨークでは銘柄指定しなければスコッチとはDewersだったが、最近は銘柄を聞いてくる。考えるのが面倒だから「ジョニー・ブラック」っていつも言うことにしている。

日本で言う「ハイボール」は「Scotch and soda」でこれは普通に氷を入れてくる。
wikiの英語版でHighballを見ていたら昔はアメリカでも普通にハイボールと言っていたらしい。そう言えば僕は海外のバーで「ハイボール」とオーダーしたことは無かった。

ハイボールは安いウィスキーに向いていると勘違いしている人もいるが、そんな事は無い。ソーダが香りを立たせるのでレア物のウィスキーで鑑賞したり批評を書くのならともかく、ソーダ割りは高いウィスキーにもとってもよくマッチするのだ。

だからと言ってピート香の強いアイレーなんかをソーダ割りにするとなれない人には厳しいかもしれないが、僕はラガヴーリンの16年をソーダで割ったりするのは結構好みだ。ドクター・ペッパーが嫌いじゃない人にはわりとお奨めなのだ。

何年か前に京橋の初めて連れていってもらったバーでメーカーズ・マークのゴールド・トップがバック・バーにあったのでソーダ割を頼んだところ、「お客さん、お願いしますよ」と断られた事があった。
僕はそういったバーで揉め事は好まないのでしょうがないので水割りで妥協した事がある。バーマンの気持ちはとってもよくわかる。「良い酒はストレートで飲んでください」 そうだよね。ゴールド・トップはとっても美味しいバーボンだ。

でもポール・ジローをソーダで割って、レモン・ピールをディップさせると物凄く美味しいくなったりするんだよ。


最近缶入ハイボールの種類が増えてきた。

元々サントリーで白角、オールド、リザーブと缶入りの水割りは発売されていたけれど、角のハイボールで一気にブーム火がついたのだろう。
今では居酒屋でも角のハイボールはジョッキでサービスされるようになった。サントリーじゃ角ハイが売れすぎて角瓶用のモルトが不足してしまったソーダ。小雪のCMも影響したんだろうな。

そこで今サントリーとしてはトリス・ハイに客を誘導(ナッジ)しているんだろう。でもトリスは昔のトリスではなく確実に質感が上がった。きっとモルトの比率を上げたに違いない。

最近ニッカからピュア・モルト竹鶴12年の缶入りソーダ割りが発売されたんだけれど、これは美味しい。ボトルを1本買わなくても良いのがとってもイイじゃないか。できれば色々なものを飲みたいからね。
お酒の世界もファット・テールな多品種少量生産なマーケティング手法が認識されてきたのかもしれない。

昔から芋焼酎なんかをお湯割りにするときには事前に水で割ってサーバーで寝かせたりする。それを黒じょかで飲ませるのだが、これは焼酎と水が馴染むのに時間が必要だという事だ。
缶入りハイボールがおいしいのは多分酒とソーダ水が芋焼酎のように馴染んでいるからではないかと推測しているんだが、どうだろう?

2010年11月14日日曜日

日露戦争の映画


映画会社「新東宝」は戦後の労働争議でもめる「東宝」を補完し東宝系列の劇場に作品を配給する目的で別働隊として設立されたが、「東宝」は労働争議が収まると自主作品を多く制作し始めたために「新東宝」は梯子をはずされる形になってしまった。

1955年に弁士出身の大手映画興行主(映画館をたくさん保有している人)大蔵貢が新東宝の社長に就任すると東映から「早撮りの巨匠」渡辺邦男をスカウトした。渡辺は早大生時代には強烈な共産主義者であったが、何かのキッカケで共産党嫌いになり天皇中心主義者に変節したと云われている。

大蔵は出演料がコストとして響くと言う理由から1人のスターを中心に映画製作をするスター・システムを否定し、企画そのもので映画を売ると言う経営姿勢だった。テリー伊藤が安いお笑いタレントを大量に使って「オバカ番組」の走りをやったようなものだろう。こうした状況下で大蔵は赤字続きの新東宝にとっては起死回生の一発となる「明治天皇と日露戦争」という天皇を扱う前代未聞の映画を製作することになる。これが1957年のこと。

「昔なら、天皇を映画などで扱ったらたちまち大逆罪、不敬罪で極刑であったろうが、昨今は週刊誌の小説にも登場するご時勢だ」と大蔵は天皇を主人公にした映画を思いついたのだ。これ以前の映画の天皇はせいぜい御簾の内から声だけの出演で、役者をあてがって映画を作るなどとんでもない話だった。新東宝は製作費2億円、フィルムは高価な総天然色シネマスコープとまさにこの作品に社運を賭けた。明治天皇役には「鞍馬天狗」の嵐寛寿郎、「右翼が殺しにきよります、ワテは御免こうむりたい」と躊躇したが、「大丈夫や、ボクかて右翼やないか」と大蔵は説得した。

もとより新東宝は大赤字の会社である、大蔵は制作の渡辺に客を呼べる「娯楽映画」にしろと厳命した。渡辺はそれならばと「明治忠臣蔵」のモチーフで行こうと決めたが、いかんせん当時は明治天皇の人間的エピソードが全くわからない。人物描写ができないのだ。しかたが無いので御製(天皇が詠んだ和歌)を挿入することで心境を暗示する方法を選択したと言う。

実際に封切られてみると、これが予想以上の大ヒットで「君の名は」や「二十四の瞳」を上回る当時の日本映画史上最高位となってしまった。なにしろ明治忠臣蔵の娯楽作品である、評論家による評価はさんざんだった。「芸術作品として拙劣である」、「浪花節を御製にかえた旧式な浪曲映画」、「芸術以前の金儲け主義映画」などなど。

1957年の「キネマ旬報ベストテン」では30位、つまりランク外である。知識人である評論家にしてみれば「こんなものがどうしてヒットするのかわからない」と困った映画であった。
屁理屈をこねる知識人には馬鹿馬鹿しくて何故売れるのかが理解できなくても、感情は別の次元にある。当代随一の知識人和辻哲郎は「あまり出来のいい映画だと思わなかったけれども、どうも涙が出て困った」、評論家大宅荘一も彼に映画を薦めた「文芸春秋」編集長池島信平が泣いたというので、泣いてたまるかとハラを決めて映画館に入りながら不覚の涙を流したという。


司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」は1968年から1972年にかけて産経新聞に連載された。その連載中の1969年には特撮監督円谷英二の遺作となる「日本海大海戦」が東宝で制作されている。この映画では三船演じる東郷平八郎が主役であって、「坂の上の雲」のように秋山真之にフォーカスしていない。
この作品は僕から見れば円谷特撮だけを取り上げても評価されるべき作品であってCG全盛時代の今から見ても映像における「リアリズム」とは何であるか?を考えさせられる作品だ。大枚をはたきCGを駆使した「パール・ハーバー」がどうしても安っぽく見えてしまうから不思議なのだ。

この映画では戦艦三笠用に1/10スケール(全長13メートル)と1/38(同3.5メートル)の2種類の模型が製作され、小さいほうのスケールは他の艦艇約50隻と東宝の大型プールに浮かぶことになった。円谷は自分用の特製カヌーでプールの中を自在に動き回り細かく指図した。これは司馬遼太郎が日本海海戦の部分を書く以前の作品だろうから「坂の上の雲」の海戦シーンの記述にあるいは影響を与えたのかもしれない。

司馬にしろこの映画にしろ「日本は南下するロシアの圧迫からの自衛の為の戦争を起こした」という歴史観が前提となっているためにやはり知識人からは戦争礼賛に繋がるものとして批判を浴びることになる。司馬はこれを警戒して「坂の上の雲」の映像化を封印した。
因みにこの時代の海戦をCG化したものの中ではアレクサンドル・コルチャークを題材としたロシア映画「提督の戦艦」の冒頭部分、WW1におけるロシア水雷艇対ドイツ巡洋艦の戦闘シーンが秀逸である。これも史実とは少し違ってはいるが。

1980年になると映画「二百三高地」が東映で制作される。総制作費15億円。この映画の配給収入は24億円と当時東映史上最高記録だった。日露戦争物は少なくとも日本が勝利しているだけにいつの時代にも受けが良いのだろう。
さだまさしが主題歌を歌い、あおい輝彦、夏目雅子の他、児玉源太郎は丹波哲郎、乃木大将は仲代達也、明治天皇は「世界の三船」である。

評論家による評価は「明治天皇と日露戦争」と同様にやはり高くはない。この頃前年のソ連によるアフガン侵攻など世界は新冷戦時代に突入し、同年の衆参同時選挙で自民圧勝と言う時代背景から日本の軍国化、右傾化が懸念されることになった。つまり日露戦争は「防衛戦争」であるとの歴史観から国民の犠牲もやむを得なかったと擁護してしまう作品だとの懸念も多かったのだ。しかしこれは一度映画を見てみればわかるがどう見ても反戦・厭戦映画でしかない。これを見てよし俺も戦うぞなんて考える若者なぞいやしない。知識人層のこうした映画への反応こそステレオタイプであると言えるだろう。

当時の共産党は「北方ロシアの軍事的脅威に対抗して日本を守るために、軍事力を強化し徴兵制をしけという、現在の反動的政治路線を歴史の映画化という壮大なフィクションに託して正面に押し出したもの」(新聞:赤旗)と評している。この映画のキネマ旬報の評論家によるランクは17位だったが、読者の選出では第1位だった。

シナリオは笠原和夫、若い頃には「美空ひばり」物、その後の東映ヤクザ路線の本を書いた人である。笠原はとにかく史実にこだわった。映画の最後のシーンでありクライマックスでもある乃木大将が明治天皇に報告する部分では「天皇が冷たい顔で乃木の報告を聞いた」と表現したが、当時の東映岡田社長は「お前、最後の最後にそれじゃあ、客入らへんぞ。報告する乃木も報告を聞く明治天皇も皇后も滂沱(ぼうだ:涙がとめどもなく流れ出るさま)と盛大に泣かしてくれや」と変えさせた。結局お年寄りの観客はこのシーンに感動して映画は幅広い年齢層でヒットすることになる。ここでの仲代達也のヨヨと泣き崩れる渾身の演技はこの映画最大の見せ場となっているが笠原は自分で映画を見ていても恥ずかしくなったと言っている。

リアリズムとは何であるか?こうした歴史物語におけるフィクション部分の果たす役割とは何であるだろうか?少なくとも一般の観客はフィクションだとは思わない。

司馬遼太郎は「坂の上の雲」を書く際に「事実のみを書く」事にこだわり、「フィクションを禁じて書くことにした」と晩年に述べている。しかし当時公開されつつあった1次資料を使わなかったために内閣や元老の記述は不正確なものになっているし、ソビエト連邦崩壊後に新たに公開された資料では「事実」そのものが変更を強いられる状況でもある。一方でこの物語は1400万部も販売され、そして現在も売れている。日露戦争に対する一定の国民的コンセンサスを形成してしまったことも事実なのである。

参考:「日露戦争研究の新視点」 Ⅲ-5 映画の中の日露戦争 千葉功

2010年11月6日土曜日

TED Ideas worth spreading


ひとつ前のエントリーでコメントを頂戴したShijiさんのブログ:ロンドンビジネススクール留学記を訪ねてみたら面白いものがありました。僕のブログの読者には知らない人もいるのではないかと思い紹介しておきます。何故そう思ったのかというと、僕が知らなかったからです。

それはTED(Ideas worth spreading)のコンテンツでSir Ken Robertの話です。詳しくは上記ブログの記事:間違わなかった人へを見て下さい。ユーモアに溢れていて本当に話が上手い。しかも内容は本当に考えさせられるものです。


View subtitlesのところで字幕を選択できます。

このTEDでは日本語サイトもありますし、日本語字幕のあるコンテンツだけを選ぶ事もできます。
そうした中の新しいものでSugata Mitraの話も興味深いものがあります。これも教育の話です。



こうしたものを今更ブログで紹介している僕が少々遅れてしまっているだけかもしれませんが、間違いや失敗は自分自身としても許容していかなければ進歩は無いのでしょうね。などどと勝手に思ってのエントリーです。


2010年11月5日金曜日

中国法幣贋造作戦


昨今では「お札をドンドン刷れ」と言う政治的なグループがあるらしいが、第2次世界大戦ではお札は敵国経済撹乱の為に刷られたりしたものだ。

1945年5月、敗戦のドイツ、エルベ川から大量のポンド紙幣が発見されたが、それらはすべて偽札だった。それを見たBOEの首脳はこう言った、「ヒトラーがあと10日生きていたら、大英帝国は崩壊した」と。

ナチス・ドイツによるポンド紙幣偽造作戦(6F4号作戦:ベルンハルト作戦)は1億3200万ポンドの贋札を印刷したがこれは当時の流通ポンド紙幣の10%にも相当した。
1959年には贋札紙幣の原版や関連文書がオーストリアのトプリッツ湖から発見され事件の全容が明らかになった。この為に英ポンドの価値は下落し、偽造の主力であった5ポンド紙幣は戦後も商店で受け取りを拒否されるなど後々まで影響を及ぼす事になった。 この事件は2007年度にドイツで映画化された「ヒトラーの贋札」に詳しい。TUTAYAで借りられる。

日本でも昭和13年12月陸軍参謀本部に「中国法幣贋造に関する秘密計画書」が提出され、翌年8月には具体的な形となり「対支経済謀略実施計画(杉工作)」として贋札造りが軍事作戦として実行された。製造場所は現在明治大学生田校舎となっている登戸研究所だった。登戸研究所は第九陸軍技術研究所というのが正式名称であるが軍関係の研究所である事を秘匿するためにこう呼ばれたのである。

研究所は三部門に分かれ、
一科:通信機材や風船爆弾など物理部門
二科:秘密カメラ・秘密インキ・毒薬など科学部門
三科:贋札造り
の編成で「秘密」が示すように陸軍中野学校とは密接な関係にあった。

当時の中華民国では昭和10年に幣制改革を実行しそれまで入り乱れていた貨幣を統一し発券銀行を中国銀行・交通銀行・中央銀行・中国農民銀行の4行に絞り込んだ。これらを法幣と呼ぶ。統一されたと言っても各単位4種類の色やデザインの紙幣が流通し、偽札による経済混乱は付け入る隙があると見られた。目標は中国の紙幣発行量の10%である。

登戸には製紙に50名、印刷に200名と最新鋭の印刷機械が集められ、1日10万枚、100万円の贋札が造られた。それはあたかも内閣印刷局がもうひとつ出現したかの様相を呈していた。新品の紙幣が大量に出回ると疑われるのでわざとお札を汚し、折り目をつける機械まで導入されヒモや札束をシールする紙は中国で調達し銭荘(センチャン:中国の施設金融機関でお札のシールに検印を押す)の印まで偽造した。かくして中野学校出身者(スパイ)の手によって中国に持ち込まれた贋札は30億円に達したが、哀しいかな貧乏な日本は通貨制度混乱と言うよりは石油など物資調達に本気でこの紙幣を使用せざるを得なかった。

では当初の目的である偽造通貨大量発行によるインフレーション発生の目的は達せられたのだろうか?
昭和12年の中国法幣発行量は14億円であったが、昭和20年には5569億円にまで達してしまい日本がいくら印刷しても中国のインフレには追いつかなかったのだ。
日本が仕掛けるより先に中国は自身で強烈なインフレに見舞われてしまったのだった。結局贋札は総発行量の1%にも届かなかったのである。



さてどうして中国の通貨単位が「円」なのかと思う人がいるかもしれない。それは僕もそうだったからそう思うのだ。中国の通貨は「元」であったが「円」と表示された。幣制改革当時の100中国円は102~3日本円だった。
参考エントリー:ドルの起源


参考:「陸軍贋幣作戦」、山本憲蔵

2010年11月4日木曜日

FOMCを終えて


FOMCを控えてのエントリーがあったので、「終えて」も書いておく。

FRBは3日のFOMC終了後の声明で量的緩和Ⅱ(QEⅡ)を発表し来年6月まで8ヶ月かけて6000億ドルの国債を買うことを決めた。月当たり750億ドルの購入である。この数字は市場予想の5000億ドルを意識してアナウンスメント効果を狙い1000億ドル多めに見せた数字だろうが、もともとコンセンサスの5000億ドルの期間が曖昧だったために強弱どちらサイドにもインパクトを与えなかった。 NY連銀による補足説明によると住宅ローン担保証券の償還元本の再投資分も含めると、6月までの購入規模は総額8500億-9000億ドルとなり月当たり1100億ドル前後の購入となる。また期間を長めに取り、透明性を高めた事で今後の方針変更にも柔軟に対応できるような発表であったと考えられる。

さらに購入対象国債の償還期間の86%を2.5年から10年以内とし平均残存期間を5~6年としたために30年債は大幅安となっている。
イールド・カーブをスティープ化しインフレ期待を醸成する形を明確にとっているわけだ。
FF金利目標は0から0.25%、FRBはインフレ率の長期目標として1.7%~2%を念頭においている。

これによって予想される市場の動きは、
量的緩和による株式市場の上伸とインフレ期待およびドル安による商品価格の上昇である。

インフレ期待の状況をブレーク・イーブン・インフレ率でみると、
10年が2.19%、30年が2.69%と30年に関しては既に金融危機以前の水準に戻しているが10年はまだ低い。



Bloombergより

つまり下院における共和党圧勝の予測とともにQEⅡの結果は株式・為替・商品市場では既にかなり織り込んできたと考えられる。
しかしながら、それでは反対の方向にベッドするかと言うとそうした手掛りがあるわけでもない。現状が折り込み過ぎであると言う判断もできそうも無いだろう。今後は共和党が影響力を持つ議会もあってQEⅡ進行とともにダラダラとドル安になっていくのでは無いだろうか。
この際中国に対しては自国のインフレ懸念から対ドルでの通貨切り上げを徐々に進めていく圧力になると思う。

2010年11月2日火曜日

昔の株式市場


一昨日のヤマタネのエントリーに関してFacebookのほうでコメントを貰ったので、米相場だけでなく戦前の日本の株式市場についても書いておこうと思う。意外に知らない人が多いのではないかと思う。まあ、知ってたからって儲かるわけでもないけどね。

1878年(明治11年)に渋沢栄一達が設立を出願して始まった東京株式取引所はスタート時から定期取引と現場取引(現物)の2本建てだった。これは米相場の取引慣習が由来で、定期取引と言うのは期米と一緒で基本は差金決済の先物取引のようなものだった。
現場取引は今で言えば即日取引またはキャシュ・オン・デリバリーで約定締結時点で代金と引換に株式を渡した。(後に5日後に変更される)
定期取引は三ヶ月先の差金決済(もしくは現物)が基本であったが証拠金を入れることで受け渡しまでの売買が可能だった。つまり個別銘柄の先物取引とほぼ同じで世界中の古今の市場を見渡しても極めてユニークな制度だった。

1922年(大正11年)に取引所法が改正された際に定期取引は「長期清算取引」と名を変え、新たに受け渡し期日が7日という「短期清算取引」が加わった。しかしこれも変な取引で期日後も1ヶ月は繰り延べ金さえ払えば清算は延長することができた。要するに先物は長期・短期の2本立てになったと言うことだ。実はこの改正時の原敬内閣はNYSE並の現物中心の取引を思い描いていたのだが、現場の運用でいじくりまわされ結局清算取引の種類が増えただけになってしまったそうだ。

ではすべての銘柄に清算取引があったかと言うとそうではなく、資本金や発行株数に制限があり規模の大きい会社が複数銘柄上場すると言う形態で実際には現物だけ上場の企業が一番多かった。銘柄数で言えば(短期>長期>現物)で商いもこの順番だった。出来高もおおよそ9割方が清算取引で現物取引はわずか1割しかなかったのだ。
つまり戦前の日本の株式市場は個別銘柄先物市場とほぼ同じで非常に投機的な「鉄火場」であり、投資家ではなく「株屋」の徘徊する世界だったと言える。こうした理由で戦前の相場師列伝などを見ると一相場で財を築き、次の相場でスッテンテンになる事例が後をたたない事が理解しやすいだろう。
それに勢い短期勝負になるのでファンダメンタルスよりもチャートや需給(資金量)中心の世界だった。発行株数以上に買建てすることもままあったようだが、この戦前の取引所は終戦の八月に立会いが停止される。

第2次世界大戦後日本に来たGHQは銀行・保険にはあまり制限を加えず自由にやらせたが、この日本伝統の投機的市場を「健全な経済活動に悪いもの」として取引所再開は10年後ぐらいにしようと考えていたそうだ。その間兜町では取引所無しの状態で現物の相対取引(集団相対取引)をすすめていた。この場外取引は決済もとどこおりなく公正に活動していることをGHQから評価され「証券民主化」の名のもとに昭和23年に証取法、翌年取引所売買再開を許可されることになる。しかし兜町の相場師達が待ち望んだ定期取引は2度と戻らなかった。
ここでひとつ疑問がわくだろう。相対で場外の売買していたと言う事は取引所集中原則が無いと言うことだ。実際にこの原則が無いことを利用して戦前にPTSを造って取引所を困らせた人間もいたのだが、これはそのうちに。

戦前の株価を調べると、現物のヒストリカルデータにはなかなかお目にかかれない。殆どが「定期」となっているのはこの為だ。しかしだからと言って投機的であるがために戦前の日本の株式市場の発展が妨げられたとは言えない。以前は戦前の日本の産業資本も銀行による間接金融主体であるというのが定説だったが最近の研究では直接金融が重要な地位を占めていたことが明らかになっている。

これにはロンドン市場で一般的だったIPOに対する分割払込制度が寄与していたのではないかと思う。この制度はもちろんNYSEにはなかった。例えば1906年の満州鉄道のIPOでは募集株式10万株に対して何と1億664万株(11,356人の申込)、倍率は1077倍だった。募集価格200円に対して第1回の払込が10%の20円、さらに申込時にはこれに対してわずか5円の証拠金を払えばすんだ。なんと40倍のレバレッジ取引が出来たのだ。もちろん倍率でわかるように超ホット・イッシューだった。

GNPに対する株式時価総額比率の国際比較