2010年11月2日火曜日

昔の株式市場


一昨日のヤマタネのエントリーに関してFacebookのほうでコメントを貰ったので、米相場だけでなく戦前の日本の株式市場についても書いておこうと思う。意外に知らない人が多いのではないかと思う。まあ、知ってたからって儲かるわけでもないけどね。

1878年(明治11年)に渋沢栄一達が設立を出願して始まった東京株式取引所はスタート時から定期取引と現場取引(現物)の2本建てだった。これは米相場の取引慣習が由来で、定期取引と言うのは期米と一緒で基本は差金決済の先物取引のようなものだった。
現場取引は今で言えば即日取引またはキャシュ・オン・デリバリーで約定締結時点で代金と引換に株式を渡した。(後に5日後に変更される)
定期取引は三ヶ月先の差金決済(もしくは現物)が基本であったが証拠金を入れることで受け渡しまでの売買が可能だった。つまり個別銘柄の先物取引とほぼ同じで世界中の古今の市場を見渡しても極めてユニークな制度だった。

1922年(大正11年)に取引所法が改正された際に定期取引は「長期清算取引」と名を変え、新たに受け渡し期日が7日という「短期清算取引」が加わった。しかしこれも変な取引で期日後も1ヶ月は繰り延べ金さえ払えば清算は延長することができた。要するに先物は長期・短期の2本立てになったと言うことだ。実はこの改正時の原敬内閣はNYSE並の現物中心の取引を思い描いていたのだが、現場の運用でいじくりまわされ結局清算取引の種類が増えただけになってしまったそうだ。

ではすべての銘柄に清算取引があったかと言うとそうではなく、資本金や発行株数に制限があり規模の大きい会社が複数銘柄上場すると言う形態で実際には現物だけ上場の企業が一番多かった。銘柄数で言えば(短期>長期>現物)で商いもこの順番だった。出来高もおおよそ9割方が清算取引で現物取引はわずか1割しかなかったのだ。
つまり戦前の日本の株式市場は個別銘柄先物市場とほぼ同じで非常に投機的な「鉄火場」であり、投資家ではなく「株屋」の徘徊する世界だったと言える。こうした理由で戦前の相場師列伝などを見ると一相場で財を築き、次の相場でスッテンテンになる事例が後をたたない事が理解しやすいだろう。
それに勢い短期勝負になるのでファンダメンタルスよりもチャートや需給(資金量)中心の世界だった。発行株数以上に買建てすることもままあったようだが、この戦前の取引所は終戦の八月に立会いが停止される。

第2次世界大戦後日本に来たGHQは銀行・保険にはあまり制限を加えず自由にやらせたが、この日本伝統の投機的市場を「健全な経済活動に悪いもの」として取引所再開は10年後ぐらいにしようと考えていたそうだ。その間兜町では取引所無しの状態で現物の相対取引(集団相対取引)をすすめていた。この場外取引は決済もとどこおりなく公正に活動していることをGHQから評価され「証券民主化」の名のもとに昭和23年に証取法、翌年取引所売買再開を許可されることになる。しかし兜町の相場師達が待ち望んだ定期取引は2度と戻らなかった。
ここでひとつ疑問がわくだろう。相対で場外の売買していたと言う事は取引所集中原則が無いと言うことだ。実際にこの原則が無いことを利用して戦前にPTSを造って取引所を困らせた人間もいたのだが、これはそのうちに。

戦前の株価を調べると、現物のヒストリカルデータにはなかなかお目にかかれない。殆どが「定期」となっているのはこの為だ。しかしだからと言って投機的であるがために戦前の日本の株式市場の発展が妨げられたとは言えない。以前は戦前の日本の産業資本も銀行による間接金融主体であるというのが定説だったが最近の研究では直接金融が重要な地位を占めていたことが明らかになっている。

これにはロンドン市場で一般的だったIPOに対する分割払込制度が寄与していたのではないかと思う。この制度はもちろんNYSEにはなかった。例えば1906年の満州鉄道のIPOでは募集株式10万株に対して何と1億664万株(11,356人の申込)、倍率は1077倍だった。募集価格200円に対して第1回の払込が10%の20円、さらに申込時にはこれに対してわずか5円の証拠金を払えばすんだ。なんと40倍のレバレッジ取引が出来たのだ。もちろん倍率でわかるように超ホット・イッシューだった。

GNPに対する株式時価総額比率の国際比較

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