2010年11月14日日曜日

日露戦争の映画


映画会社「新東宝」は戦後の労働争議でもめる「東宝」を補完し東宝系列の劇場に作品を配給する目的で別働隊として設立されたが、「東宝」は労働争議が収まると自主作品を多く制作し始めたために「新東宝」は梯子をはずされる形になってしまった。

1955年に弁士出身の大手映画興行主(映画館をたくさん保有している人)大蔵貢が新東宝の社長に就任すると東映から「早撮りの巨匠」渡辺邦男をスカウトした。渡辺は早大生時代には強烈な共産主義者であったが、何かのキッカケで共産党嫌いになり天皇中心主義者に変節したと云われている。

大蔵は出演料がコストとして響くと言う理由から1人のスターを中心に映画製作をするスター・システムを否定し、企画そのもので映画を売ると言う経営姿勢だった。テリー伊藤が安いお笑いタレントを大量に使って「オバカ番組」の走りをやったようなものだろう。こうした状況下で大蔵は赤字続きの新東宝にとっては起死回生の一発となる「明治天皇と日露戦争」という天皇を扱う前代未聞の映画を製作することになる。これが1957年のこと。

「昔なら、天皇を映画などで扱ったらたちまち大逆罪、不敬罪で極刑であったろうが、昨今は週刊誌の小説にも登場するご時勢だ」と大蔵は天皇を主人公にした映画を思いついたのだ。これ以前の映画の天皇はせいぜい御簾の内から声だけの出演で、役者をあてがって映画を作るなどとんでもない話だった。新東宝は製作費2億円、フィルムは高価な総天然色シネマスコープとまさにこの作品に社運を賭けた。明治天皇役には「鞍馬天狗」の嵐寛寿郎、「右翼が殺しにきよります、ワテは御免こうむりたい」と躊躇したが、「大丈夫や、ボクかて右翼やないか」と大蔵は説得した。

もとより新東宝は大赤字の会社である、大蔵は制作の渡辺に客を呼べる「娯楽映画」にしろと厳命した。渡辺はそれならばと「明治忠臣蔵」のモチーフで行こうと決めたが、いかんせん当時は明治天皇の人間的エピソードが全くわからない。人物描写ができないのだ。しかたが無いので御製(天皇が詠んだ和歌)を挿入することで心境を暗示する方法を選択したと言う。

実際に封切られてみると、これが予想以上の大ヒットで「君の名は」や「二十四の瞳」を上回る当時の日本映画史上最高位となってしまった。なにしろ明治忠臣蔵の娯楽作品である、評論家による評価はさんざんだった。「芸術作品として拙劣である」、「浪花節を御製にかえた旧式な浪曲映画」、「芸術以前の金儲け主義映画」などなど。

1957年の「キネマ旬報ベストテン」では30位、つまりランク外である。知識人である評論家にしてみれば「こんなものがどうしてヒットするのかわからない」と困った映画であった。
屁理屈をこねる知識人には馬鹿馬鹿しくて何故売れるのかが理解できなくても、感情は別の次元にある。当代随一の知識人和辻哲郎は「あまり出来のいい映画だと思わなかったけれども、どうも涙が出て困った」、評論家大宅荘一も彼に映画を薦めた「文芸春秋」編集長池島信平が泣いたというので、泣いてたまるかとハラを決めて映画館に入りながら不覚の涙を流したという。


司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」は1968年から1972年にかけて産経新聞に連載された。その連載中の1969年には特撮監督円谷英二の遺作となる「日本海大海戦」が東宝で制作されている。この映画では三船演じる東郷平八郎が主役であって、「坂の上の雲」のように秋山真之にフォーカスしていない。
この作品は僕から見れば円谷特撮だけを取り上げても評価されるべき作品であってCG全盛時代の今から見ても映像における「リアリズム」とは何であるか?を考えさせられる作品だ。大枚をはたきCGを駆使した「パール・ハーバー」がどうしても安っぽく見えてしまうから不思議なのだ。

この映画では戦艦三笠用に1/10スケール(全長13メートル)と1/38(同3.5メートル)の2種類の模型が製作され、小さいほうのスケールは他の艦艇約50隻と東宝の大型プールに浮かぶことになった。円谷は自分用の特製カヌーでプールの中を自在に動き回り細かく指図した。これは司馬遼太郎が日本海海戦の部分を書く以前の作品だろうから「坂の上の雲」の海戦シーンの記述にあるいは影響を与えたのかもしれない。

司馬にしろこの映画にしろ「日本は南下するロシアの圧迫からの自衛の為の戦争を起こした」という歴史観が前提となっているためにやはり知識人からは戦争礼賛に繋がるものとして批判を浴びることになる。司馬はこれを警戒して「坂の上の雲」の映像化を封印した。
因みにこの時代の海戦をCG化したものの中ではアレクサンドル・コルチャークを題材としたロシア映画「提督の戦艦」の冒頭部分、WW1におけるロシア水雷艇対ドイツ巡洋艦の戦闘シーンが秀逸である。これも史実とは少し違ってはいるが。

1980年になると映画「二百三高地」が東映で制作される。総制作費15億円。この映画の配給収入は24億円と当時東映史上最高記録だった。日露戦争物は少なくとも日本が勝利しているだけにいつの時代にも受けが良いのだろう。
さだまさしが主題歌を歌い、あおい輝彦、夏目雅子の他、児玉源太郎は丹波哲郎、乃木大将は仲代達也、明治天皇は「世界の三船」である。

評論家による評価は「明治天皇と日露戦争」と同様にやはり高くはない。この頃前年のソ連によるアフガン侵攻など世界は新冷戦時代に突入し、同年の衆参同時選挙で自民圧勝と言う時代背景から日本の軍国化、右傾化が懸念されることになった。つまり日露戦争は「防衛戦争」であるとの歴史観から国民の犠牲もやむを得なかったと擁護してしまう作品だとの懸念も多かったのだ。しかしこれは一度映画を見てみればわかるがどう見ても反戦・厭戦映画でしかない。これを見てよし俺も戦うぞなんて考える若者なぞいやしない。知識人層のこうした映画への反応こそステレオタイプであると言えるだろう。

当時の共産党は「北方ロシアの軍事的脅威に対抗して日本を守るために、軍事力を強化し徴兵制をしけという、現在の反動的政治路線を歴史の映画化という壮大なフィクションに託して正面に押し出したもの」(新聞:赤旗)と評している。この映画のキネマ旬報の評論家によるランクは17位だったが、読者の選出では第1位だった。

シナリオは笠原和夫、若い頃には「美空ひばり」物、その後の東映ヤクザ路線の本を書いた人である。笠原はとにかく史実にこだわった。映画の最後のシーンでありクライマックスでもある乃木大将が明治天皇に報告する部分では「天皇が冷たい顔で乃木の報告を聞いた」と表現したが、当時の東映岡田社長は「お前、最後の最後にそれじゃあ、客入らへんぞ。報告する乃木も報告を聞く明治天皇も皇后も滂沱(ぼうだ:涙がとめどもなく流れ出るさま)と盛大に泣かしてくれや」と変えさせた。結局お年寄りの観客はこのシーンに感動して映画は幅広い年齢層でヒットすることになる。ここでの仲代達也のヨヨと泣き崩れる渾身の演技はこの映画最大の見せ場となっているが笠原は自分で映画を見ていても恥ずかしくなったと言っている。

リアリズムとは何であるか?こうした歴史物語におけるフィクション部分の果たす役割とは何であるだろうか?少なくとも一般の観客はフィクションだとは思わない。

司馬遼太郎は「坂の上の雲」を書く際に「事実のみを書く」事にこだわり、「フィクションを禁じて書くことにした」と晩年に述べている。しかし当時公開されつつあった1次資料を使わなかったために内閣や元老の記述は不正確なものになっているし、ソビエト連邦崩壊後に新たに公開された資料では「事実」そのものが変更を強いられる状況でもある。一方でこの物語は1400万部も販売され、そして現在も売れている。日露戦争に対する一定の国民的コンセンサスを形成してしまったことも事実なのである。

参考:「日露戦争研究の新視点」 Ⅲ-5 映画の中の日露戦争 千葉功

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