2010年12月16日木曜日

インベストメント・バンク 4

ノーザン・パシフィック事件

ノーザン・パシフィック社の発行株式数は普通株75万株と議決権付の優先株75万株、合計150万株でした。従って両方併せて75万株以上確保すれば過半数を握ったことになります。

シフは5月3日の朝の時点では合計74万5810株しか押さえていませんでしたが、ヒルが訪ねてくるまでの間に、事情を知らないモルガン商会のパートナーから3万5千株の優先株を取得していました。よっぽど上手く情報操作していたのでしょう。これでシフは優先株41万580株、普通株37万230株の合計78万810株で過半数を確保しました。  
まさに"A lot of it."でした。


一方ヒルはシフの事務所を出るとモルガン商会に駆け込み対策を立てます。当時のアメリカには5%以上取得したら報告しろなんてルールはありませんから、シフの手の内はわかりません。
しかしモルガンにはこの日の朝に優先株を売ってしまったマヌケなパートナーがいましたから、シフの持ち株のかなりの部分が優先株であると推測しました。
優先株は株主総会を待たずノーザン・パシフィックの役員会決議で償還してしまうことが可能です。そうであれば優先株は取りあえず無視して普通株だけで過半数を確保すれば良いことになります。
モルガン商会の結論は普通株15万株の購入でした。これで普通株の過半数である37万5千株を確保できるはずです。フランスにいるピアポント・モルガンに電報を打って許可を貰いました。5月4日の土曜日でした。

 一方のハリマンも抜け目の無さでは負けてはいません。モルガン商会を過小評価したりするほど馬鹿ではありませんでした。優先株を償還されれば台無しになることは読んでいました。
あと5千株も買えば普通株だけでも過半数を超えることができます。念には念を入れてもうあと4万株ほど確保しておこうと考えました。ハリマンはクーン・ローブ商会のオットー・カーンに4万株の買い注文を執行するように頼んでおきました。

翌日は日曜日でした。注文を頼まれたカーンはセントラルパークに面した65丁目のエマニュエル・シナゴーグで礼拝中のシフに近づきハリマンの注文の可否を聞きました。
シフは「安息日に仕事の話しをするのは不謹慎である。その注文は執行する必要はない。責任はすべて私がとる」と言ったと伝えられています。謎の行動だとも言われ色々と解釈されています。

5月6日月曜日。買い付けの情報が市場に漏れてはいけません。モルガンは静かに、そしてかなり上手く買い付けていましたがノーザン・パシフィックは110ドルから149.75ドルまで50%近くも上昇しました。事情を知らないトレーダーの中には株価の急騰からまとまった株数を空売りする者も大勢いました。「行き過ぎは修正されるべきである」急騰すると条件反射で空売りをしかけるトレーダー達がいるのは今も昔も変わりません。今回ばかりは事情が事情でした。しかし市場ではモルガンとシフが闘っているなんて未だ誰も知りません。
なにしろ普通株は75万株しかないのにシフが37万230株持っていてモルガンが37万5000株まで買い付けようというのです。残りは4千株ほどしかない計算になります。

火曜日にモルガンは目標の15万株を買い終わりましたが、不思議な事にモルガンの買い注文が終了しても株は上がり続けました。何しろ空売り以外に売る人、あるいは売れる人は誰もいません。正確に言えば市場には4千株しかないはずです。売り物が無いので空売りの買戻しが出来ません。もし買い戻したとしてもその相手である売り手は多分それも空売りで株券を持ってはいませんでした。理屈ではシフとモルガン以外にほとんど誰も株券を持ってはいなかったのです。モルガンが買った15万株も受け渡しができるのかどうかわかりませんでした。

水曜日には出来高がさらに増加しました。
木曜日には初値170ドル、途中200ドルで一服しましたが大引け前にはとうとう1000ドルまで上昇してしまいました。普通株だけの時価総額で7億5千万ドルです。まったくどうかしています。トレーダーや投資家はこの株を買い戻す為に他の持ち株を売らざるを得ませんでした。その為ノーザン・パシフィック以外の株はほとんどすべてが惨めに下げてしまいました。モルガンご自慢の∪・Sスティールは朝方40ドルで寄り付きましたが引けは26ドルでしかありませんでした。

この5月9日の大暴落を「1901年の暗黒の木曜日」と呼びます。1929年10月24日(木)の大暴落まで「暗黒の木曜日」とはこの日を指しました。この結果モルガンもシフもそしてその他の投資家も実現損益か評価はともかくとして株価の下落で大損をしてしまいました。
新聞も「巨人同士の対決」としてセンセーショナルにこれを報道しました。2大独占金融グループ、ウォール街の巨人同士の戦いがウォール街を壊滅に押しやってしまいました。東京の真ん中で怪獣同士が戦って東京タワーや国会議事堂をぶっ潰してしまったようなものでした。

結局ノーザン・パシフィック株の空売りについては両陣営とも事後処理に入らざるを得ませんでした、空売り筋は150ドルで「融け合い」(適当な価格で話し合いによって折り合いをつけ決済する事)に入り手を打ちました。その後の株価の戻りは早かったのですが急激な底なしの株価下落に対する株式市場の傷跡は大きいものでした。

7月に入りピアポント・モルガンが欧州から帰るとノーザン・パシフィック鉄道の再編に着手しました。さすがのモルガンも今回の件には懲りてしまいました。優先株の議決権は認めませんでしたが、ここはシフ+ハリマン陣営に対して強引で敵対的な手法は取りませんでした。ハリマンに持株会社ノーザン・パシフィック・セキュリティーズの代表権を与え、今回の騒動の原因となったバーリントン鉄道に対する発言権も与えました。シフ+ハリマンは大陸横断鉄道の太平洋側、北と南両方に発言権を持ったのです。

この事件はモルガンがウォール街を支配下に収めて以来始めての実質上の敗北でした。この時からピアポント・モルガンはクーン・ローブ商会のヤコブ・シフをこれまでの格下の扱いからPAR(同格)に格上げしたと言われています。「見下す」のをやめたのです。

シフが追加の買いを止めた判断は何もお祈りの為だけではなかったのでしょう。シフ・ハリマンの局地戦での容赦ない勝利はモルガンと言うひとまわり大きな巨人からの不必要な遺恨を残す事になったでしょう。シフはあと4770株普通株を買えば過半数を確保できていたのです。でも彼はしませんでした。これはモルガンへのメッセージだったのでしょう。

"Community of interests"

これを境にモルガンは大西洋に目を向け汽船会社の買収を強化します。一方でハリマンとシフは太平洋航路に目を向けました。両社はあいかわらず激しい競争をしていましたが、あまり無茶なことはせず穏やかな協調ができました。この後共同で買収した鉄道が何社かあります。
ハリマンの見据える太平洋のその先には未開の中国北東部である満州が広がり、そこからはユーラシア大陸を横断しヨーロッパへ伸びるシベリア鉄道が視界に入ってきていました。そして日本はその入口で満州鉄道(東清鉄道南満州線)をめぐりロシアと戦い始めようとしていました。

日露戦争の始るこの時代はロンドンのマーチャント・バンクはピークを過ぎ、ニューヨークのインベストメント・バンクが巨大な力を持ち始めていました。日本の戦時公債の発行に当初期待をしていなかったアメリカが参加したのは偶然でも天佑でもありませんでした。
しかしニューヨークはドメスティックな市場であって国際金市場がロンドンであることは今日でも変わりません。

後日談としてノーザン・パシフィック・セキュリティーズ社は1904年に連邦裁判所から違憲判決を受け解散することになりますが、それまでにヒルとの支配権争いに嫌気をさしたハリマンは全株式を利食っていました。この儲けは5千8百万ドルにもおよび彼のユニオン・パシフィックはとてもキャシュ・リッチな会社になりました。日露戦争の始まる時期にハリマンは約1億円の余裕資金を手元に持っていました。


ここではあくまでインベストメント・バンクと日露戦争の関係だけに論点を絞っていますからここで終わりです。アメリカは30年代にグラス・スティーガル法によって一旦銀証分離がなされています。当時のモルガン商会はモルガン・スタンレー証券とJPモルガン銀行に分離して両方とも現在も大手として活躍しています。クーンローブ商会はもともと資金源がドイツであったことから2つの世界大戦で勢力を弱め、1977年にリーマン・ブラザースに吸収されてしまいました。そのリーマンも今はもうありませんからクーン・ローブの名残すら無くなってしまいました。

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2010年12月15日水曜日

インベストメント・バンク 3

ノーザン・パシフィック事件

1901年春、ハリマンの主力保有鉄道であるユニオン・パシフィック鉄道システムをより強固なものにする為に、ハリマンとシフは独立系のシカゴ・バーリントン・クィンシー鉄道(CB&Q)の買収を始めていました。この鉄道は営業マイル数8千マイルの大きな鉄道で、ニューイングランドの伝統的な資本家が経営する最後の大規模鉄道でした。この鉄道がさらに発展するためにはデンバーからロッキ―山脈を超えて西海岸にまで路線を延長する必要がありましたがそのためには多額の資金調達が必要な状況でした。
一方で当時の金融市場がモルガンとシフの2大金融グループによって独占されている以上、こうした独立系の資本家による大規模な資本調達はほぼ不可能でした。つまり2大金融グループは独立系の鉄道を資金的に締め上げて買収するという手法を使っていたのです。

因みにこの鉄道の買収金額は2億ドルでした。当時の為替レートが1ドル=2円ですから、日本円では4億円になります。この金額は日本の国家予算を越えていました。この3年後高橋是清は1億円のファィナンスができずに四苦八苦することになります。

シフがバーリントンの株を買い始めるといつも誰かにオファー(売り板)を取られてしまいます。誰かが意志を持ってもう一方で買い注文を入れていることは確かでした。シフにすればもはや自分に逆らえるのはモルガン以外にはいないはずでした。しかも買収金額は半端ではありません。でもこの頃のシフはモルガンとはうまくやっているつもりでした。

「これは一体誰なのか?」

シフにはビジネスで協力関係にあり友人でもありますが信用の置けない怪しい奴が1人いました。鉄道王のジェームス・ヒル(写真)でした。ヒルは中西部からシアトルに向うグレート・ノーザン鉄道とノーザン・パシフィック鉄道の実質上のオーナーです。オマハからサンフランシスコに出るユニオン・パシフィックとは北と南で競合していました。

シフは直接ヒルの事務所に出向いて聞きました。シフは何でもストレートに聞くタイプです。またそうした手紙もたくさん書いて残しています。

「バーリントンを買っているのはあなたか?」
シフが聞くとヒルは笑いながらこう答えました。

"Absolutely not!"
「私があなたに逆らって買っているわけがないだろう」

しかしこの時ヒルのバックにはハリマンの事をほとんど病的なまでに嫌うモルガンがついていました。モルガンにとってはハリマンのバックにいるシフももちろん気にくわない存在です。シフがモルガンとの関係をどう思おうとモルガンから見れば「まぬけ」と「あの外人」のコンビでしかありませんでした。

ヒルが自分は買っていないと言う以上モルガン以外には考えられません。
シフはモルガンを訪ねてヒルと同じ質問をモルガンにぶつけました。 モルガンは嘘をつきませんし嘘をつく必要もありません。ヒルと一緒にバーリントン鉄道を買っていると答えました。
ヒルは大嘘つきだったのです。

「ミスターモルガン、我々は共通利害者(Community of interests)ではありませんか? バーリントン鉄道はハリマンとヒルで分けあいましょう」

「Community of interests」はシフの決まり文句になります。協調的なバンカーだったのでしょう。

シフとしては二大グループが鉄道につながる金融市場の過半を握っている状況ではお互いがうまくやるべきだと主張したのです。またこの二大グループはこの頃にはお互いのディールで引受をシェアしたりしていましたからシフとしては協調関係にあると信じていました。
しかしモルガンは拒否しました。

ここに対立の構造は明らかになりました。
シフ+ハリマン vs モルガン+ヒル

4月20日にはヒルがバーリントン株の96%を買い占めてしまいます。バーリントンのオーナーと話がついたのでした。ハリマンの提示金額より遥かに高かったと言われています。2億ドルですから随分と高い買い物でした。

ところがハリマンはヒルにコケにされて黙って引き下がるような男ではありませんでした。売られた喧嘩は買わないわけにはいきません。それにバーリントン鉄道はどうしても欲しい。
ヒルがそう出るならば発想の転換でした。ハリマンはバーリントン鉄道を飲み込んだヒルの会社であるノーザン・パシフィック鉄道ごと買収してしまおうと考えました。飲み込んだものをさらに飲み込む。正にパックマンです。しかも考えているだけではなくハリマンは直ぐに買占めを始めました。ヒルがバーリントンをあっさりと買えたのもこのためです。ユニオンパシフィック社では買収資金として6千万ドルの社債発行を決めました。

クーン・ローブと同じ金融集団であるナショナル・シティ・バンク(現シティ)やその頭取であるスティルマンと関係の深いスタンダード石油のロックフェラーも味方につけました。資金的には何も問題はありません。この連中は皆モルガンとは過去にひと悶着がありました。

激情しやすいハリマンが興奮している一方でシフはモルガンと闘ってもよいものか相当に苦悶したようです。しかし一歩でも引けば相手は図にのってくるでしょう。やるしかないのです。

4月30日、シアトルにいたヒルはここ数日のノーザン・パシフィック株が毎日高騰し出来高が異常に膨れ上がっている事に気がつきました。本によっては「顔色の黒い天使が枕元に訪れてニューヨークで悪い事が起こっていると告げた」と書いてあります。
聞けばシフのクーン・ローブ商会は「ノーザン・パシフィックはバーリントンを買ったので業績が伸びる」と市場に広めていました。推奨銘柄だったのです。もちろんこんなものは買収のカモフラージュです。
ヒルはいつもならモルガンに電話して何が起こっているのか調べてもらうところですが、あいにくモルガンは∪・Sスティール案件やバーリントン案件に決着がついたので欧州へ休暇も兼ねた旅行にでかけていました。

 不吉な予感を持ったヒルはとにかくウォール街に行くことにしました。特別列車を仕立て線路上にある他のあらゆるダイヤを全て無視してニューヨークへ向かいました。ノーザン・パシフィックは自分の鉄道ですから好きにできます。ヒルはこの時にアメリカ大陸横断の最短時間を記録したそうですからからよほど慌てていたのでしょう。

5月3日、ヒルはニューヨークに着くとモルガン商会にも寄らずシフの事務所に直接出赴いて今度は彼が単刀直入に聞きました。かつてシフがヒルにしたように。

「俺の鉄道を買っているのはあんたか?」
シフは抜け目のない男ですが、ヒルのように不誠実ではありません。

「ヒル君、君には悪いが、ハリマンは君の大事なノーザン・パシフィック鉄道の経営権を握ってしまったよ」

ヒルは信じませんでした。つい10日ほど前に叩き潰した連中に自分の会社が買われてしまうなんて。しかも自分の会社はバーリントン買収で2億ドルの社債を発行したばかりの借金だらけの会社です。

"All right. Do your damnedest. But you can't get control. Morgan and my friend holds alone holds $40milloon worth of NP, and as far as I know non of them has sold a share"
「そうかい、せいぜい最善を尽くすんだな。でも過半数の株の確保は無理なはずだ。モルガンと私の友人だけで4千万ドル相当のNP株をもっている。それに私の知る限り誰も1株たりとも売ったりはしない」

"That may well be, But we've got a lot of it, Jim"
「多分そうなんでしょうね。でもね、ヒル君、僕らは既にたくさん持っていますよ」

ヒルはシフに一体何株持っているのかを詰めよりますが、シフはただこう答えるだけでした。

"A lot of it, Jim. A lot"

続く

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2010年12月14日火曜日

インベストメント・バンク 2

シフとハリマンの出会い

孤高のJPモルガンに対する挑戦者はクーン・ローブ商会でした。
アメリカの金融資本成立過程を分析した名著に「アメリカ金融資本成立史」呉天降 有斐閣1971年という本があります。今では古本にプレミアムがついています。
この本では20世紀初頭までを鉄道を核とした金融資本グループの形成過程として捉えています。
鉄道から始まり銀行、生保と集約され、それらがインベストメント・バンクを中心にグループ化されたという見方です。

この分析によるとアメリカの金融資本グループは1901年にはほぼ2大グループに集約されていました。
このグループは鉄道マイル数で分けると以下の表のようになります。


高橋是清は「高橋是清自伝(下)」のP204でこう言っています。1904年の5月幸運にもアメリカが日本公債の引受に参加してくれると伝えられた瞬間です。パーズ銀行のシャンド氏が吉報を持って飛び込んできたことになっています。

「私はシャンド氏の言葉を聞いてそのあまりに突然なるに驚いた。何しろシフ氏とは昨夜ヒル氏の宅で始めて紹介されて知り合いとなったばかりで、私はこれまで『クーンロエブ商会』とか『シフ』とかいう名前は聞いたこともなく、従って、シフ氏がどんな地位の人であるか知る由もなかった。」

高橋是清は本当にシフ(写真左)やクーン・ローブ商会を知らなかったのでしょうか?

因みにニューヨーク・タイムスのアーカイブで1900年から日本が日露戦争を始める1904年1月までをシフのフルネームである「Jacob H. Schiff」でニュース検索すると313件ほどヒットがあります。
この疑問は後々解くとしてモルガン対クーンローブの戦いに移りましょう。

ノーザン・パシフィック事件

アメリカでは1901年にも恐慌が起きています。「ノーザン・パシフィック事件」とか、「ノーザン・パシフィック・コーナー(買占め)」と呼ばれる鉄道買占め事件です。経済ファンダメンタルスに関わる根深い事件では無く一過性のテクニカルでスキャンダラスな問題として扱われることも多いのですが、当時のインベストメント・バンクの両雄であるモルガンとシフの関係を把握するには興味深い事件といえます。

チャールズ・ガイストの「ウォールストリートの歴史」では扱っていませんが、ロバート・ソーベルの「ウォール街二百年」やロン・チャーナウの「モルガン家」、シフを書いた"Our Crowd" Stephen Birminghamなどではとても面白く扱っています。但し、書き手の立場によって結構内容が違うのですが、ここは私の解釈で書いてみます。

1893年にアメリカ西部から中部をカバーする大陸横断鉄道ユニオン・パシフィック鉄道(現在もUPとして残っています)が倒産しました。当初モルガンが再建を委任されましたが、モルガンは「荒野を走る錆びた2本の鉄路」と馬鹿にして乗り出さない事を決めました。モルガンがだめならシフへと普通の流れでUPの役員はクーン・ローブ商会のヤコブ・シフに依頼しました。

シフがこれを引受けて再建の為に奔走していると、いつも誰か見えないところで妨害をする者がいました。そこでシフはたまらずモルガンに駆け込んで「妨害をしているのはあなたですか?」とモルガンに直接問い詰めました。モルガンとすればシフを格下に見て相手にしていませんでしたが「そんなボロ株に興味はないが誰がお前の邪魔をしているか調べてやろう」と言って調べてくれたのでした。その妨害をしていたのが鉄道王エドワード・ヘンリー・ハリマン(下写真)でした。

"Our Crowd” Stephen Birminghamによると 「ハリマンは小柄で痩せて病気持ちでいつもおぞましい咳をして口臭も酷かった。語り口も小声で聞き取り辛い。おおよそ人に対する気配りなどできるタイプの人間ではなく当時のウォール街でも評判は極めて悪かった」と表現されています。酷い書き様ですが、モルガンもハリマンを人間的にも産業人としても軽蔑していたと言われています。ただ当時ハリマンの経営する比較的小さな鉄道であるイリノイ・セントラルだけは全米で一番経営効率が良いという評判でした。この時ハリマンは鉄道屋として急伸中でした。

シフはバンカーとしてファィナンス面の世話をしますがスタイルとしては鉄道経営の細部に直接タッチはしませんでした。その為にシフの名前は鉄道王としては表に出にくいのです。ハリマンもバンカー出身(後のブラウン・ブラザース・ハリマン)ですが鉄道経営にはあきれるほどの情熱を捧げていました。モルガンやシフとは違い鉄道の為(もちろんお金も)だけに生きているような男でした。

彼は誰とも上手くやれない男とも言われていましたが、クーン・ローブ商会の番頭格であるオットー・カーンとだけはウマが会ったそうで、そのおかげでシフとハリマンは盟友として手を組むことになります。シフは既にアメリカ金融界でナンバー2の位置にいましたが、シフ+ハリマン・グループの誕生でさらに強力になっていきます。シフはハリマンの鉄道経営能力を高く評価しました、シフは財務面でサポートし、ハリマンがハンド・インで鉄道を経営しました。よく日本の本でシフがハリマンの手先のように書いてありますがそうではありません。シフは二大金融グループのひとつを率いる超大物です。

ハリマンは日露戦争終戦直後に「桂・ハリマン協定」で高橋是清を巻き込み日本とひと悶着起こすことになります。

因みにモルガンはハリマンのことを「まぬけ」と呼び、シフの事を「あの外人」と蔑んでいました。但しこれから書くことになるノーザン・パシフィック事件が終わる前まではのことでした。

続く

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2010年12月12日日曜日

インベストメント・バンク 1

JPモルガン

日本の公債発行の話なのにどうしてマーチャント・バンクやらインベストメント・バンクの話が続くのか?と疑問の読者も多いかもしれません。
私は日露戦争関係の本は良本、トンデモ本も合わせてかなりの数を読みましたが、この当時の世界の金融情勢への理解不足が大きな勘違いを生じさせているケースが多く見られます。そうなると何故か「ルーズベルトの陰謀」だとかそんな話になってしまいがちです。ロンドン対ニューヨークあるいはモルガン対クーン・ローブの位置関係などは非常に重要な要素です。日本の公債発行の話にはこの辺りの金融業界事情の把握は欠かせません。ですからしばらくはこんな話が続くことになります。

アメリカのインベストメント・バンクと呼ばれる金融業者もイギリスと同じようにマーチャント出身が多いのです。当時のアメリカの主な輸出品がコットンであったことからナショナル・シティのセリグマンやリーマンなど綿商人が多いのですが、アメリカでは早い時期に金融に専念しています。移民が増え人口増加があり、鉄道のマイルも国土が広大ですから資金を常に必要としていました。 そうした資金の供給源は圧倒的にイギリスなのですが、フランスやドイツも資金の供給者でした。ロンドン側でマーチャント・バンクが商機として捉えたことはもちろんですがアメリカで独自の業者も育っていきます。そしてこの時代の金融業者の象徴はなんと言ってもJPモルガンでした。

モルガンの時代
 
意外に思うかもしれませんが1904年当時のアメリカには中央銀行はありませんでした。
1776年の建国以来二度ほどそうした試みはありましたが中央集権を嫌う分権主義者達によって毎回取り潰されてきたのでした。現在の連邦中央銀行(FRB)が設立されるのは1913年になってからの事でした。 それまでは個々の銀行が金や銀を準備し兌換紙幣を発行していましたがシステムは安定しませんでした。アメリカの高い経済成長率によって株式市場は長い目で見れば好調だったものの、10年に一度は決まったように大暴落を繰り返していました。


この時代に中央銀行の代役として危機の度にニューヨーク市場を支えていたのは銀行家であるモルガン商会の主ジョン・ピアモント・モルガンだと言われています。その存在は日本の財閥である三菱、三井、住友と言うようなものでは無くもっと独占的で圧倒的な存在でした。
しかしアメリカの歴史がそれほど古くはないように、モルガンの歴史も古いものではありません。
原型はメリーランド州ボルチモアの商人、ジョージ・ピーボディーが1837年にロンドンに移り住んで開いた小さなマーチャント・バンクに由来します。イギリスからアメリカに来たのでは無く、モルガンはアメリカからイギリスに渡って、またアメリカに戻ってきたのでした。

 当時のアメリカは国内開発の資金調達をイギリスに頼り切っていましたので、ピーボディーはロンドンで米国州債を扱って次第に大手業者にのし上がっていきました。ピーボディーもマーチャントの出身ですが取扱う商品は州債、鉄道債などの金融商品で貿易は鉄道用レールの販売がありましたが主なものではありませんでした。
アメリカの実業家や政治家のお上りさんがロンドンにくれば、かつて日本人が得意だった団体旅行のように、オペラに招待したり観光案内したりして、英国の伝統的なマーチャント・バンカーからの蔑視を受けながらもアメリカとイギリス双方に着実に顧客を増やしていきました。

ピーボディーは子供がいませんでしたので跡継ぎを探していました。 1851年このピーボディー商会にパートナーとして入社したアメリカ人ジューニアス・モルガンがジョン・ピアポント・モルガンの父親だったのです。彼は息子であり後にJPモルガンになるジョン・ピアポントも連れてボストンからロンドンに引越してきました。
1857年、息子のピアポントは20歳になるとアメリカに戻りウォール街の銀行で働き始めます。すでにこの頃には父ジューニアスはロンドンのピーボディー商会の実権を握り始めていました。

1861年にピアポントは独立してアメリカにJPモルガン商会を設立。ロンドンのピーボディー商会とニューヨークのJPモルガン商会が連携してイギリスからアメリカへの産業資本調達の仕事に邁進するようになりました。そしてロンドンの会社の名前もピーボディー商会からJSモルガン商会にかわりシティにおいても重要なポジションを獲得するようになります。因みにこの会社は後にモルガン・グレンフェルへと改名されます。
結局ロンドンのマーチャント・バンクが息子達を取引先の各国に派遣したのと同じような形になりました。しかもコア・ビジネスをアメリカに絞り、尚且つユダヤ系ではありませんでした。ロンドンのマーチャント・バンクの出自を見てみると、この時代ではむしろユダヤ系では無いことがユニークだったのでしょう。

南北戦争では父子共同で北軍の債券を扱い、綿貿易の関係から南軍をひいきにするロンドン・ロンバート街からは冷たい扱いを受けたりしましたが、その後の30年間を通じ潤沢な英国資本を背景にモルガンは英国と米国とにおいて大きな発展を遂げる事になりました。

南北戦争が終わるとアメリカの証券ビジネスは国債から鉄道証券(株式+債権:比率はほぼ1対1です)へとプロダクツが大きくシフトします。(下図) 鉄道の時代です。




その他の米国インベストメント・バンクがそうであるようにこの波に一番うまく乗れたのがJPモルガンでした。1890年迄には主要な鉄道会社に重役を送り込み経営に関与するようにまでなりました。

Panic of 1890の影響で海外への投資資金がロンドンに引き上げられたことは前回書きましたがアメリカからも同様に資金が逃げ出します。この当時の海外資金の引き上げは金の流出を意味していました。1895年には米国の正貨(金準備)は900万ドルまでに落ち込み、アメリカがいつ金本位(正確には金銀複本位)を放棄するかが街のカフェやレストランで賭けの対象となるほどの状況に至っってしまいました。この危機に英国NMロスチャイルドとJPモルガンが米国30年債6500万ドルを引き受け、この代金を金でデリバリーする事でアメリカは正貨危機を乗り切るという事件がありました。モルガンは中央銀行の代役を務めたわけです。

 モルガン、ロスチャイルドが金市場操作に乗り込んだとのストーリーを強気材料に、この債券は1895年2月20日に売り出されると、ロンドンでは2時間、ニューヨークでは22分間で売り切れてしまいました。シンジケートは104.5ドルで引受け、初値の112.25ドルで売りさばき大儲けをしました。モルガンはアメリカの金融市場救済を賞される一方で、儲け過ぎを責められる事にもなってしまいました。またこれを教訓にアメリカでもようやく金本位法が成立します。マッキンリー大統領の1900年でした。それまでは米国は金銀複本位だったのです。アメリカは中央銀行も無く金本位も中途半端なまま成長を続けていたのでした。

そしてインベストメント・バンク業界にもベアリング商会によるPanic of 1890が大きく影響を及ぼしています。アメリカから資金が引き上げられると1893年にはアメリカは恐慌に陥りますがこの時に大手を含め多くの鉄道会社が倒産してしまいます。そもそも乱立する鉄道会社は競合しダンピングを繰り返し経営が安定しませんでした。そうした中でJPモルガンは顧客である株主を代表する立場として買収による集約化を進めていきました。
大陸から資金の流入が停止する中でJPモルガンはイギリスからの資金に代わって国内銀行や生保の資金を集め殆ど紙くず同然となった鉄道株を買占めて再建資金を調達し鉄道独占企業体へと変貌していきます。資金の流れが変わったのです。Panic of 1890はアメリカの資本をヨーロッパ頼みから自立させる契機となりました。

アメリカにおける企業合併は1897年の61件から1899年の1200件へと世紀末に飛躍的に増えますが、その頂点とも言える案件がモルガンによる∪Sスティールの買収でしょう。この頃にはウォール街の目は鉄道から鉄鋼やその他の製造業へと拡がりを見せ始めていました。アメリカの産業構成が変わり始めたとも言えます。
買収にはトラストの形態が用いられ、参加企業の株主がその上に設けられる持株会社の発行する「企業合同証券」と交換に株式を信託する形態に替りつつありました。要するに現在のホールディング・カンパニーと同じものです。資本の集約化が簡単になりました。

1900年12月、モルガンは自身の保有するフェデラル製鋼と業界トップのカーネギー製鋼を合併させ、さらに周辺の製鉄、金属会社もこれにくっつけて一つの大鉄鋼会社にしようと計画しました。 カーネギー・ホールにその名を残すカーネギーから彼の会社を買収した価格は4億8千万ドルと言われています。これでカーネギーは個人として間違い無く当時の世界一の金持ちになりました。当時の為替レートは1ドル約2円です。カーネギーが手にした金額は日本円で約9億6000万円に相当し、1903年の日本の全国銀行貯金残高を上回っています。また同年の東京株式市場の時価総額が約10億円ですからカーネギーは1人で日本の全上場銘柄を持ってようなものでした。
またこれによって成立した∪Sスティールは総資産14億ドルの世界最大の上場会社となりますが、これは当時の日本の推定名目国民所得26億円をも上回っていました。日本は国家としても経済力ではカーネギー1人に太刀打ちできなかったわけです。

 モルガンがアメリカとイギリス双方で力を蓄えるようになると、それまでロンドンで対立していたベアリング商会とロスチャイルド家は共通の敵を見つけたように以前ほどは反目しなくなっていきます。ボーア戦争時の1900年、イギリス政府は戦時債券の募集を行います。ロンドンではロスチャイルド、アメリカではモルガンに依頼しました。この時モルガンはロスチャイルドと協調的な態度をとらず独自に高い手数料をイギリスにふっかけましたがイギリスは飲まざるを得ませんでした。このディール以降JPモルガンはイギリスのマーチャント・バンクを見下すようになりました。

ピアポントはビジネスでは抜け目なく利用しても「ユダヤ人嫌い」である事は公言していました。またピアポントはアイルランド人も見下していました。典型的な鼻持ちならないWASPだったのでしょう。
アイルランド出身でニューヨーク銀行社主のジョセフ・ケネディにも嫌な思いをさせ、彼をして息子を大統領にする決心をさせています。彼は夢を実現し米国初のカソリックの大統領を誕生させてしまいました。ピアポントはどうも何でも見下すのが好きだったようです。これは想像でしかありませんがロシア人は尊敬の対象にはならなかったでしょうし、日本人なんかは見下す対象にすら入っていなかったことでしょう。
日露戦争のファィナンスにもモルガンの名前は登場しますが、モルガン側からの積極的なアプローチはありませんでした。しかしあまり知られていませんが、モルガンは日本公債のアメリカ募集分を結構な金額分アンダーライトしていました。これは後で紹介しようと思っていますが。このシリーズを読んでいくと何となく事情がわかってくると思います。

こうして金融界に限らず経済界全般に圧倒的な力を持つに至った孤高のモルガンでしたが、何もウォール街の全員が彼に屈したわけではありませんでした。彼を出し抜いてやろうとする挑戦者は、さすがチャンスの国、アメリカにはおりました。

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2010年12月10日金曜日

マーチャント・バンク 2

日露戦争以前の日本との関わり

綿工業など農業と関連する軽工業の時代であれば輸送手段としての鉄道はそれほど重要ではありませんでしたが、鉄鋼など重工業が絡むと鉄道インフラは欠かせなくなります。鉄鉱石や石炭、鉄鋼製品を輸送する手段がないからです。従って重工業発展の前段階では取引所の主力銘柄は鉄道が中心になります。
1893年のLSE(ロンドン株式市場)では49.4%が鉄道の株・債権、この内半分以上が外国の鉄道銘柄でした。

以前コンソル公債のエントリーで紹介しましたが、当時の英国は低金利の状況が続きました。そのため投資家は高い期待リターンを求めて海外での有力な投資先を模索していました。行き過ぎた例が前回のベアリングによるアルゼンチン投資だったのですが。

こうした状況下で憲法を発布し、議会政治を始め(1890年)、先進国にならい金本位制度を導入(1897年)した新興国日本は投資対象としてとても魅力的に映ったことでしょう。 当時の日本で鉄道会社がファィナンスしようとすると8%近くの金利を要求されましたが、ロンドンの投資家は5%もあれば良いと考えていました。金本位制度が導入されていますから為替リスクは基本的にありませんし、ロンドンの投資家が考えているのは当然ポンド建ての債権です。こうした金利格差が出るのは何らかの参入障壁があるからです。

1901年に九州鉄道と北越鉄道(直江津―新潟)に資材を納入していたバーチ商会から英国外務省に日本の鉄道にファィナンスをしてくれるマーチャント・バンク紹介の依頼がありました。外務大臣のランズダウン卿はこれをベアリング商会のレベルストック卿(絵)に回します。このレベルストック卿は「Panic of 1890」のレベルストック卿の2代目で名前はジョン・ベアリングです。父親は引責辞任しベアリングは生まれ変わりましたが経営はベアリング・ファミリーによって継続されていました。

この頃の日本の法律では外国人は個人として土地や鉱山の所有を認められていませんでしたから、社債発行の際の担保に問題があったのです。鉄道が倒産して社債ホルダーである外人投資家が担保を要求しても所有できないのであれば外資は入ってきません。 べアリングは調査の人間を日本に送り込み法改正の要請・根回しを渋沢栄一等を通じて行います。1903年にはベアリングはロンドンのノートン・ローズ・ノートン法律事務所が日本の弁護士の意見も交えて作成した「鉄道抵当法案」のドラフトを日本に送付しています。

この法案は日露戦争2年目の1905年の第21回帝国議会で通過しますが、1906年には軍事上の理由から鉄道国有化法案がほとんど唐突に可決され現在のJRの前身である国鉄が出来上がってしまったのです。1906年には日露戦争の戦果として獲得した満州鉄道も欧米資本を排除したかたちで設立されていることは偶然ではありません。

しかしこうした担保の整理は鉄道に限らず工場抵当法、鉱業抵当法も同時に施行されましたから、今で言う外人投資家が日本株や債権を買う「外人買い」を誘発することにもなりました。これは一流マーチャント・バンクが主導したというよりもかなり投機的な資金ではありましたが。

日露戦争の戦勝や戦争中市中に放出された資金もあいまって1906年の兜町は大相場になります。翌年にかけてIPOも数多く実施され大日本麦酒、横浜倉庫、藤本ビル・ブローカー(大和証券)、東京毛織、明治生命(株式会社だった)、日清紡績、キリン麦酒、日清製粉、阪神急行、日本製鋼所など現在に名を残す名門企業が数多く設立もしくは上場されました。満州鉄道のIPOもそうです。野村徳七や根津嘉一郎など財を蓄えた相場師も数多く輩出することになります。

こうした状況下でベアリングの2代目レベルストック卿は日本を見つめていましたので、日本がロシアと戦争を始めるとなると戦時公債ビジネスに商機を見出すのは当然のことでした。極東に強く日本に支店がある香港上海銀行と提携して日本国公債ビジネスに取り組むことになります。


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参考文献:「産業革命と企業経営1882―1914:第1次世界大戦前のロンドン金融市場と日本企業」鈴木俊夫 ミネルヴァ書房、その他

2010年12月9日木曜日

マーチャント・バンク


「マーチャント・バンク」は特定の時代のロンドンの金融業の形態を指すような用語になってしまいましたが、往年のマーチャント・バンク達は形を変えながらも未だ滅びたわけではありません。 ドバイ・ワールドの財務アドバイサーにロスチャイルドが就いたと云うような記事も最近FTに出ていましたし、投資顧問やブティック投資銀行には数多くの名前を残しています。 しかし業態として20世紀初頭に占めた金融世界での重要性は現代では見る影もありません。

高橋是清が公債発行の為に赴いた1904年頃のロンドンではマーチャント・バンクが国際金融市場の要の位置にありました。

マーチャント・バンクの発祥はマーチャント=貿易商から来ています。17~18世紀に海上覇権を握っていたオランダのアムステルダムの商人達は貿易取引に関わるうちに為替や手形、船荷証券など貿易金融に必然的に携わるようになっていきました。取引地間での信用関係が重要になるので、一族や子弟を取引地である欧州の各地に派遣していくことになります。ロスチャイルド家が同様に5人の息子達をフランクフルト・パリ・ロンドン・ウィーン・ナポリに派遣したのも、当初は資産保全の危険分散というよりはカウンター・パーティー・リスクの削減が目的であったと思います。

富を蓄えたマーチャントの中に純粋な金融業に手を出すものが登場するのも、支店網をめぐらせ手形・為替業務を行っていたことから必然の流れでもありました。単なる融資から、公債の販売へと広がっていきますが、各国に分散する公債購入者への利子の支払いなどにはこの支店網が重要な役割を果たすことになりました。
しかしこの文脈ではマーチャント業務を放棄して金融だけで業務を行ったと云うイメージが出来てしまい勝ちですが、実際には当時の債権のデフォルト率が高いために、金融依存度が高いと騒動がある度に倒産してしまうような事も多く発生しています。そのためにマーチャント・バンクによってその比率は様々なのですが、20世紀初頭においてもマーチャント業務は中核であり続けたようです。

当時のイギリスの主な輸出品にレールや機関社など鉄道資材がありましたが、他国の鉄道へのファィナンスには資材の輸出が必ずセットでついていましたし武器もそうでした。大雑把に言ってしまえば現在の商社金融に投資銀行を組み合わせたような機能を持っていました。最初は単なる代理店が在庫を自分の思惑で持つようになり、やがて生産者の工場に融資するようになる。また買い手のローンも組みそのうち商品を買わなくても資金だけでも貸し出すようになる。そうした流れだったのでしょう。

その中でも政府向けに大きな貸出をする飛び抜けた存在のマーチャント・バンクが登場してきます。ロスチャイルドはウェリントン公のイベリア半島出兵やクリミア戦争の戦費を調達しましたし、1875年にスエズ運河の利権がフランスに渡ろうとした時には400万ポンドの資金を英国政府のためにすぐに用立てしました。ベアリング商会はワーテルローの大敗後のフランスに賠償金支払いのための資金を調達しています。こうした融資は個人商店による貸出ではなく公債の形で広く投資家を募る形態に変化していきました。また融資額が巨額になるに連れ1社だけで公債発行を引受けるのではなくシンジケートを組みリスクを分散していくようになります。

19世紀末のロンドンのマーチャント・バンクで有力なものは、飛び抜けた存在としてロスチャイルドとベアリングの2つ、その他クラインオート、JSモルガン(モルガン・グレンフェルになる)、シュローダー、日本の公債募集の話の為に敢えて付け加えるならば、スパイヤー、サミュエル、シプレーなどがありました。起源的に言えば彼等は殆どがドイツ系ユダヤ人かアメリカ人です。ロンドン金融界のウィンブルドン現象などは数世紀も前からそうであったのです。こうしたユダヤ人やユグノー達は大陸では常に宗教的被迫害者であったので宗教に寛容なロンドンに集まるのはこれも必然でした。後に大手になるウォーバーグはまだドイツにいました。

彼等は富裕層からの資金を預かっていました。一方で英国の産業革命による中産階級の発生から小口の預金が株式銀行と呼ばれる現代の都市銀行の口座に増加していました。19世紀末には株式銀行が力を蓄え証券発行の分野でマーチャント・バンクと互いに競合するようになっていました。これらの有力なものにはユニオン銀行、パーズ銀行(ミッドランド銀行→RBS)、アジアに特化したHSBC(香港上海銀行)、チャータード銀行、などがありました。

日本が日露戦争以前の1899年にロンドン市場でポンド建て公債を発行した時の発行銀行はHSBC、チャータード、パーズ銀行、横浜正金銀行が幹事団を勤めています。

この中でパーズ銀行は国際業務に弱く国内に支店を多く持つ内国銀行だったのですが、ロンドン店支配人のアラン・シャンドが以前日本に滞在経験があり、「銀行簿記」を日本に始めて紹介するなど日本の銀行業黎明期に教師として多大な貢献をしていました。そうしたことからこの銀行は日銀から井上準之助などをトレーニーとして送るような関係にあり、日本政府としては頼りにしていた銀行だったのです。公債発行にも主導的な役割を果たします。

「Panic of 1890」というのは日本ではあまり有名ではありませんが「ベアリング恐慌」と言われています。ご存知のようにベアリングスはニック・リーソンによって1995年に破綻しますが、実は1890年にも一度破綻しています。当時は英国が低金利であったために高金利を求めて海外投資が一大ブームとなります。そのなかでアルゼンチンへの投資ブームがありベアリングのレベルストック卿がこれにエクポジャーを傾け過ぎたために破綻したと言う事件でした。昔から同じようなことを繰り返しているんですね。これはシステミック・リスクに発展しBOE主導でロスチャイルドやJSモルガンによる緊急融資によって救われるのですが、これを期に英国の対外投資熱が冷え込むと同時にマーチャント・バンクがリスク回避的になるという影響を及ぼしています。この事件は今回のリーマン危機においても話題になりました。

米国では英国からの資金が引き上げられゴールドが不足し金本位制度(正確には金銀本位)の危機に陥ったりしますが、米国はこれを期に産業資本を自国で調達するようになり、米国の投資銀行と英国のマーチャント・バンクの力関係に変化が出始めることになります。

もうひとつ無視できない要素として危機以前にはマーチャント・バンクに人材が輩出したのですが、この時期以降はロスチャイルドやベアリングスにタレントが不足していたと言われています。一方で、アメリカではJPモルガンやクーン・ローブのヤコブ・シフなどが台頭し、イギリスではロバート・フレミング、アレキサンダー・クラインオート、それにマーチャント・バンクという範疇には入りませんがアーネスト・カッセル卿(絵)という個人金融家とも言えるような人物が輩出しロスチャイルドやベアリングと競合関係にありました。

公債募集にロンドンに赴いた高橋是清が接触したのはロスチャイルド、ベアリング、カッセル,そしてHSBC、パーズ銀行といった面々です。


マーチャント・バンクはプライベート企業であった為にリーグ・テーブルやデータの取得は困難です。カッセルに至っては業績や活動記録を自身わざと残さなかったこともあり全容はあまりわかっていません。 日本語で読める本は「マーチャント・バンキングの興隆」スタンレー・チャップマン 有斐閣選書ぐらでしょうか。ここにはデータが結構提供されています。また「日露戦争の新視点:日露戦時公債発行とロンドン市場」鈴木俊夫 成文社、や「産業革命と企業経営1882―1914:第1次世界大戦前のロンドン金融市場と日本企業」鈴木俊夫 ミネルヴァ書房などに当時のベアリング商会の活動等が書かれています。

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2010年12月8日水曜日

日露外債発行リスト


最近ブログの更新をしていませんでしたが、日露戦争時のファィナンス関係の本を読み込んでおりました。かなりネタが溜まってきたので少しずつ書いていきたいと思います。

もしかするとあまりにもマニアックかも知れませんが、国債を海外で募集することについては現代でも参考になることがあるのではないかと思っています。日本は近い将来間違いなく国債の海外募集を迫られることになります。

今回からシリーズとして日露戦争時のグローバル市場での国債発行を追いかけたいと思います。タグは”明治公債発行”にしておきます。

1904年から05年の戦時中を通じて日本は合計4回の戦時公債をロンドン市場で発行しています。また終戦後には戦時に発行した高クーポン債の借換債として2回発行していますから、日露戦争に関しては計6回の発行があったと考えて良いでしょう。 いずれも日本銀行副総裁の高橋是清が財務官として担当し、深井英五が秘書役として同行しています。



上記の表を見ると、日本の場合戦時国債の金利は大きく二つの水準にわかれています。04年の発行は実質金利で7%台、05年は5%台で発行できています。
また1と2では実質金利と手取金利の関係が変なのですが、この理由は後々説明したいと思います。
発行金利と実質金利の違いは当時の金利の計算方法にあります。
以前コンソル公債で説明しましたが、発行金利は簡易法で永久債と同じような計算方法になっています。
つまりクーポン÷価格でバッサリと計算してしまうやり方で、当時の新聞記事を見ますと押し並べてこのやり方で債券発行を論評しています。この時代HPの計算機もエクセルもありませんから仕方が無いでしょう。

日本は日露戦争で15.1億円の戦費を支出しています。(臨時軍事費特別会計)1903年の一般会計歳出が2億5千万円ですから約7倍。戦前に内外合わせて5億円だった国債発行残高は20億円にまでなりました。また当時の全国銀行の預金残高が7億6千万円しかありませんでしたから国外からを募集する以外に手段がなかったのです。 日本の戦時国債の発行額額面合計は8200万ポンド、当時1ポンド=10円ですから約8億円と言いたいところですが、実質は6億8595万円の調達です。調達されたポンドは在外正貨(ゴールド)として金本制度の金準備に充当されます。金準備が50%として通貨発行量としては約2倍の威力を持っていました。

ロシアの方は1904年の一般の歳出が20億円ですから日本の8倍の予算規模を持っていたことがわかります。ちなみに酒税だけでも日本の国家予算を上回る3.82億円もありました。また対外債務は40億円でその内30億円はフランスからでした。

戦争の経費の内訳は陸軍12.8億円、海軍2.3億円、陸軍の経費の80%が徴兵が加わった兵員関係、輸送、旅費で占められ、兵器調達関係は15%ほどしかありません。一見海外から購入した武器などに経費がかかっているような印象を持ちますが、要は広い意味での人件費だったのです。従って大軍を満州に張り付けるには莫大な経費がかかってしまう事になります。戦争末期に児玉源太郎が日本に帰って、早く戦争を止めるように促したのはこの為でした。大砲を撃たなくても、軍をおいておくだけで湯水のように資金は流出して行きます。

公債の発行環境を知るためにまずは当時の資金供給元である欧米の金融業界から見ていくことにしましょう。

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参考文献
「帝政ロシアと外国資本」中山弘正 岩波書店
「日露戦争の新視点」日露戦争の戦費と財政・金融政策 小野圭司 成文社
「国債の歴史」富田俊基 東洋経済
「満州に於ける露国の利権外交史」 ロマーノフ 原書房