2010年12月9日木曜日

マーチャント・バンク


「マーチャント・バンク」は特定の時代のロンドンの金融業の形態を指すような用語になってしまいましたが、往年のマーチャント・バンク達は形を変えながらも未だ滅びたわけではありません。 ドバイ・ワールドの財務アドバイサーにロスチャイルドが就いたと云うような記事も最近FTに出ていましたし、投資顧問やブティック投資銀行には数多くの名前を残しています。 しかし業態として20世紀初頭に占めた金融世界での重要性は現代では見る影もありません。

高橋是清が公債発行の為に赴いた1904年頃のロンドンではマーチャント・バンクが国際金融市場の要の位置にありました。

マーチャント・バンクの発祥はマーチャント=貿易商から来ています。17~18世紀に海上覇権を握っていたオランダのアムステルダムの商人達は貿易取引に関わるうちに為替や手形、船荷証券など貿易金融に必然的に携わるようになっていきました。取引地間での信用関係が重要になるので、一族や子弟を取引地である欧州の各地に派遣していくことになります。ロスチャイルド家が同様に5人の息子達をフランクフルト・パリ・ロンドン・ウィーン・ナポリに派遣したのも、当初は資産保全の危険分散というよりはカウンター・パーティー・リスクの削減が目的であったと思います。

富を蓄えたマーチャントの中に純粋な金融業に手を出すものが登場するのも、支店網をめぐらせ手形・為替業務を行っていたことから必然の流れでもありました。単なる融資から、公債の販売へと広がっていきますが、各国に分散する公債購入者への利子の支払いなどにはこの支店網が重要な役割を果たすことになりました。
しかしこの文脈ではマーチャント業務を放棄して金融だけで業務を行ったと云うイメージが出来てしまい勝ちですが、実際には当時の債権のデフォルト率が高いために、金融依存度が高いと騒動がある度に倒産してしまうような事も多く発生しています。そのためにマーチャント・バンクによってその比率は様々なのですが、20世紀初頭においてもマーチャント業務は中核であり続けたようです。

当時のイギリスの主な輸出品にレールや機関社など鉄道資材がありましたが、他国の鉄道へのファィナンスには資材の輸出が必ずセットでついていましたし武器もそうでした。大雑把に言ってしまえば現在の商社金融に投資銀行を組み合わせたような機能を持っていました。最初は単なる代理店が在庫を自分の思惑で持つようになり、やがて生産者の工場に融資するようになる。また買い手のローンも組みそのうち商品を買わなくても資金だけでも貸し出すようになる。そうした流れだったのでしょう。

その中でも政府向けに大きな貸出をする飛び抜けた存在のマーチャント・バンクが登場してきます。ロスチャイルドはウェリントン公のイベリア半島出兵やクリミア戦争の戦費を調達しましたし、1875年にスエズ運河の利権がフランスに渡ろうとした時には400万ポンドの資金を英国政府のためにすぐに用立てしました。ベアリング商会はワーテルローの大敗後のフランスに賠償金支払いのための資金を調達しています。こうした融資は個人商店による貸出ではなく公債の形で広く投資家を募る形態に変化していきました。また融資額が巨額になるに連れ1社だけで公債発行を引受けるのではなくシンジケートを組みリスクを分散していくようになります。

19世紀末のロンドンのマーチャント・バンクで有力なものは、飛び抜けた存在としてロスチャイルドとベアリングの2つ、その他クラインオート、JSモルガン(モルガン・グレンフェルになる)、シュローダー、日本の公債募集の話の為に敢えて付け加えるならば、スパイヤー、サミュエル、シプレーなどがありました。起源的に言えば彼等は殆どがドイツ系ユダヤ人かアメリカ人です。ロンドン金融界のウィンブルドン現象などは数世紀も前からそうであったのです。こうしたユダヤ人やユグノー達は大陸では常に宗教的被迫害者であったので宗教に寛容なロンドンに集まるのはこれも必然でした。後に大手になるウォーバーグはまだドイツにいました。

彼等は富裕層からの資金を預かっていました。一方で英国の産業革命による中産階級の発生から小口の預金が株式銀行と呼ばれる現代の都市銀行の口座に増加していました。19世紀末には株式銀行が力を蓄え証券発行の分野でマーチャント・バンクと互いに競合するようになっていました。これらの有力なものにはユニオン銀行、パーズ銀行(ミッドランド銀行→RBS)、アジアに特化したHSBC(香港上海銀行)、チャータード銀行、などがありました。

日本が日露戦争以前の1899年にロンドン市場でポンド建て公債を発行した時の発行銀行はHSBC、チャータード、パーズ銀行、横浜正金銀行が幹事団を勤めています。

この中でパーズ銀行は国際業務に弱く国内に支店を多く持つ内国銀行だったのですが、ロンドン店支配人のアラン・シャンドが以前日本に滞在経験があり、「銀行簿記」を日本に始めて紹介するなど日本の銀行業黎明期に教師として多大な貢献をしていました。そうしたことからこの銀行は日銀から井上準之助などをトレーニーとして送るような関係にあり、日本政府としては頼りにしていた銀行だったのです。公債発行にも主導的な役割を果たします。

「Panic of 1890」というのは日本ではあまり有名ではありませんが「ベアリング恐慌」と言われています。ご存知のようにベアリングスはニック・リーソンによって1995年に破綻しますが、実は1890年にも一度破綻しています。当時は英国が低金利であったために高金利を求めて海外投資が一大ブームとなります。そのなかでアルゼンチンへの投資ブームがありベアリングのレベルストック卿がこれにエクポジャーを傾け過ぎたために破綻したと言う事件でした。昔から同じようなことを繰り返しているんですね。これはシステミック・リスクに発展しBOE主導でロスチャイルドやJSモルガンによる緊急融資によって救われるのですが、これを期に英国の対外投資熱が冷え込むと同時にマーチャント・バンクがリスク回避的になるという影響を及ぼしています。この事件は今回のリーマン危機においても話題になりました。

米国では英国からの資金が引き上げられゴールドが不足し金本位制度(正確には金銀本位)の危機に陥ったりしますが、米国はこれを期に産業資本を自国で調達するようになり、米国の投資銀行と英国のマーチャント・バンクの力関係に変化が出始めることになります。

もうひとつ無視できない要素として危機以前にはマーチャント・バンクに人材が輩出したのですが、この時期以降はロスチャイルドやベアリングスにタレントが不足していたと言われています。一方で、アメリカではJPモルガンやクーン・ローブのヤコブ・シフなどが台頭し、イギリスではロバート・フレミング、アレキサンダー・クラインオート、それにマーチャント・バンクという範疇には入りませんがアーネスト・カッセル卿(絵)という個人金融家とも言えるような人物が輩出しロスチャイルドやベアリングと競合関係にありました。

公債募集にロンドンに赴いた高橋是清が接触したのはロスチャイルド、ベアリング、カッセル,そしてHSBC、パーズ銀行といった面々です。


マーチャント・バンクはプライベート企業であった為にリーグ・テーブルやデータの取得は困難です。カッセルに至っては業績や活動記録を自身わざと残さなかったこともあり全容はあまりわかっていません。 日本語で読める本は「マーチャント・バンキングの興隆」スタンレー・チャップマン 有斐閣選書ぐらでしょうか。ここにはデータが結構提供されています。また「日露戦争の新視点:日露戦時公債発行とロンドン市場」鈴木俊夫 成文社、や「産業革命と企業経営1882―1914:第1次世界大戦前のロンドン金融市場と日本企業」鈴木俊夫 ミネルヴァ書房などに当時のベアリング商会の活動等が書かれています。

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