2010年12月10日金曜日

マーチャント・バンク 2

日露戦争以前の日本との関わり

綿工業など農業と関連する軽工業の時代であれば輸送手段としての鉄道はそれほど重要ではありませんでしたが、鉄鋼など重工業が絡むと鉄道インフラは欠かせなくなります。鉄鉱石や石炭、鉄鋼製品を輸送する手段がないからです。従って重工業発展の前段階では取引所の主力銘柄は鉄道が中心になります。
1893年のLSE(ロンドン株式市場)では49.4%が鉄道の株・債権、この内半分以上が外国の鉄道銘柄でした。

以前コンソル公債のエントリーで紹介しましたが、当時の英国は低金利の状況が続きました。そのため投資家は高い期待リターンを求めて海外での有力な投資先を模索していました。行き過ぎた例が前回のベアリングによるアルゼンチン投資だったのですが。

こうした状況下で憲法を発布し、議会政治を始め(1890年)、先進国にならい金本位制度を導入(1897年)した新興国日本は投資対象としてとても魅力的に映ったことでしょう。 当時の日本で鉄道会社がファィナンスしようとすると8%近くの金利を要求されましたが、ロンドンの投資家は5%もあれば良いと考えていました。金本位制度が導入されていますから為替リスクは基本的にありませんし、ロンドンの投資家が考えているのは当然ポンド建ての債権です。こうした金利格差が出るのは何らかの参入障壁があるからです。

1901年に九州鉄道と北越鉄道(直江津―新潟)に資材を納入していたバーチ商会から英国外務省に日本の鉄道にファィナンスをしてくれるマーチャント・バンク紹介の依頼がありました。外務大臣のランズダウン卿はこれをベアリング商会のレベルストック卿(絵)に回します。このレベルストック卿は「Panic of 1890」のレベルストック卿の2代目で名前はジョン・ベアリングです。父親は引責辞任しベアリングは生まれ変わりましたが経営はベアリング・ファミリーによって継続されていました。

この頃の日本の法律では外国人は個人として土地や鉱山の所有を認められていませんでしたから、社債発行の際の担保に問題があったのです。鉄道が倒産して社債ホルダーである外人投資家が担保を要求しても所有できないのであれば外資は入ってきません。 べアリングは調査の人間を日本に送り込み法改正の要請・根回しを渋沢栄一等を通じて行います。1903年にはベアリングはロンドンのノートン・ローズ・ノートン法律事務所が日本の弁護士の意見も交えて作成した「鉄道抵当法案」のドラフトを日本に送付しています。

この法案は日露戦争2年目の1905年の第21回帝国議会で通過しますが、1906年には軍事上の理由から鉄道国有化法案がほとんど唐突に可決され現在のJRの前身である国鉄が出来上がってしまったのです。1906年には日露戦争の戦果として獲得した満州鉄道も欧米資本を排除したかたちで設立されていることは偶然ではありません。

しかしこうした担保の整理は鉄道に限らず工場抵当法、鉱業抵当法も同時に施行されましたから、今で言う外人投資家が日本株や債権を買う「外人買い」を誘発することにもなりました。これは一流マーチャント・バンクが主導したというよりもかなり投機的な資金ではありましたが。

日露戦争の戦勝や戦争中市中に放出された資金もあいまって1906年の兜町は大相場になります。翌年にかけてIPOも数多く実施され大日本麦酒、横浜倉庫、藤本ビル・ブローカー(大和証券)、東京毛織、明治生命(株式会社だった)、日清紡績、キリン麦酒、日清製粉、阪神急行、日本製鋼所など現在に名を残す名門企業が数多く設立もしくは上場されました。満州鉄道のIPOもそうです。野村徳七や根津嘉一郎など財を蓄えた相場師も数多く輩出することになります。

こうした状況下でベアリングの2代目レベルストック卿は日本を見つめていましたので、日本がロシアと戦争を始めるとなると戦時公債ビジネスに商機を見出すのは当然のことでした。極東に強く日本に支店がある香港上海銀行と提携して日本国公債ビジネスに取り組むことになります。


前へ マーチャント・バンク
次へ インベストメント・バンク

参考文献:「産業革命と企業経営1882―1914:第1次世界大戦前のロンドン金融市場と日本企業」鈴木俊夫 ミネルヴァ書房、その他

0 件のコメント: