2010年12月12日日曜日

インベストメント・バンク 1

JPモルガン

日本の公債発行の話なのにどうしてマーチャント・バンクやらインベストメント・バンクの話が続くのか?と疑問の読者も多いかもしれません。
私は日露戦争関係の本は良本、トンデモ本も合わせてかなりの数を読みましたが、この当時の世界の金融情勢への理解不足が大きな勘違いを生じさせているケースが多く見られます。そうなると何故か「ルーズベルトの陰謀」だとかそんな話になってしまいがちです。ロンドン対ニューヨークあるいはモルガン対クーン・ローブの位置関係などは非常に重要な要素です。日本の公債発行の話にはこの辺りの金融業界事情の把握は欠かせません。ですからしばらくはこんな話が続くことになります。

アメリカのインベストメント・バンクと呼ばれる金融業者もイギリスと同じようにマーチャント出身が多いのです。当時のアメリカの主な輸出品がコットンであったことからナショナル・シティのセリグマンやリーマンなど綿商人が多いのですが、アメリカでは早い時期に金融に専念しています。移民が増え人口増加があり、鉄道のマイルも国土が広大ですから資金を常に必要としていました。 そうした資金の供給源は圧倒的にイギリスなのですが、フランスやドイツも資金の供給者でした。ロンドン側でマーチャント・バンクが商機として捉えたことはもちろんですがアメリカで独自の業者も育っていきます。そしてこの時代の金融業者の象徴はなんと言ってもJPモルガンでした。

モルガンの時代
 
意外に思うかもしれませんが1904年当時のアメリカには中央銀行はありませんでした。
1776年の建国以来二度ほどそうした試みはありましたが中央集権を嫌う分権主義者達によって毎回取り潰されてきたのでした。現在の連邦中央銀行(FRB)が設立されるのは1913年になってからの事でした。 それまでは個々の銀行が金や銀を準備し兌換紙幣を発行していましたがシステムは安定しませんでした。アメリカの高い経済成長率によって株式市場は長い目で見れば好調だったものの、10年に一度は決まったように大暴落を繰り返していました。


この時代に中央銀行の代役として危機の度にニューヨーク市場を支えていたのは銀行家であるモルガン商会の主ジョン・ピアモント・モルガンだと言われています。その存在は日本の財閥である三菱、三井、住友と言うようなものでは無くもっと独占的で圧倒的な存在でした。
しかしアメリカの歴史がそれほど古くはないように、モルガンの歴史も古いものではありません。
原型はメリーランド州ボルチモアの商人、ジョージ・ピーボディーが1837年にロンドンに移り住んで開いた小さなマーチャント・バンクに由来します。イギリスからアメリカに来たのでは無く、モルガンはアメリカからイギリスに渡って、またアメリカに戻ってきたのでした。

 当時のアメリカは国内開発の資金調達をイギリスに頼り切っていましたので、ピーボディーはロンドンで米国州債を扱って次第に大手業者にのし上がっていきました。ピーボディーもマーチャントの出身ですが取扱う商品は州債、鉄道債などの金融商品で貿易は鉄道用レールの販売がありましたが主なものではありませんでした。
アメリカの実業家や政治家のお上りさんがロンドンにくれば、かつて日本人が得意だった団体旅行のように、オペラに招待したり観光案内したりして、英国の伝統的なマーチャント・バンカーからの蔑視を受けながらもアメリカとイギリス双方に着実に顧客を増やしていきました。

ピーボディーは子供がいませんでしたので跡継ぎを探していました。 1851年このピーボディー商会にパートナーとして入社したアメリカ人ジューニアス・モルガンがジョン・ピアポント・モルガンの父親だったのです。彼は息子であり後にJPモルガンになるジョン・ピアポントも連れてボストンからロンドンに引越してきました。
1857年、息子のピアポントは20歳になるとアメリカに戻りウォール街の銀行で働き始めます。すでにこの頃には父ジューニアスはロンドンのピーボディー商会の実権を握り始めていました。

1861年にピアポントは独立してアメリカにJPモルガン商会を設立。ロンドンのピーボディー商会とニューヨークのJPモルガン商会が連携してイギリスからアメリカへの産業資本調達の仕事に邁進するようになりました。そしてロンドンの会社の名前もピーボディー商会からJSモルガン商会にかわりシティにおいても重要なポジションを獲得するようになります。因みにこの会社は後にモルガン・グレンフェルへと改名されます。
結局ロンドンのマーチャント・バンクが息子達を取引先の各国に派遣したのと同じような形になりました。しかもコア・ビジネスをアメリカに絞り、尚且つユダヤ系ではありませんでした。ロンドンのマーチャント・バンクの出自を見てみると、この時代ではむしろユダヤ系では無いことがユニークだったのでしょう。

南北戦争では父子共同で北軍の債券を扱い、綿貿易の関係から南軍をひいきにするロンドン・ロンバート街からは冷たい扱いを受けたりしましたが、その後の30年間を通じ潤沢な英国資本を背景にモルガンは英国と米国とにおいて大きな発展を遂げる事になりました。

南北戦争が終わるとアメリカの証券ビジネスは国債から鉄道証券(株式+債権:比率はほぼ1対1です)へとプロダクツが大きくシフトします。(下図) 鉄道の時代です。




その他の米国インベストメント・バンクがそうであるようにこの波に一番うまく乗れたのがJPモルガンでした。1890年迄には主要な鉄道会社に重役を送り込み経営に関与するようにまでなりました。

Panic of 1890の影響で海外への投資資金がロンドンに引き上げられたことは前回書きましたがアメリカからも同様に資金が逃げ出します。この当時の海外資金の引き上げは金の流出を意味していました。1895年には米国の正貨(金準備)は900万ドルまでに落ち込み、アメリカがいつ金本位(正確には金銀複本位)を放棄するかが街のカフェやレストランで賭けの対象となるほどの状況に至っってしまいました。この危機に英国NMロスチャイルドとJPモルガンが米国30年債6500万ドルを引き受け、この代金を金でデリバリーする事でアメリカは正貨危機を乗り切るという事件がありました。モルガンは中央銀行の代役を務めたわけです。

 モルガン、ロスチャイルドが金市場操作に乗り込んだとのストーリーを強気材料に、この債券は1895年2月20日に売り出されると、ロンドンでは2時間、ニューヨークでは22分間で売り切れてしまいました。シンジケートは104.5ドルで引受け、初値の112.25ドルで売りさばき大儲けをしました。モルガンはアメリカの金融市場救済を賞される一方で、儲け過ぎを責められる事にもなってしまいました。またこれを教訓にアメリカでもようやく金本位法が成立します。マッキンリー大統領の1900年でした。それまでは米国は金銀複本位だったのです。アメリカは中央銀行も無く金本位も中途半端なまま成長を続けていたのでした。

そしてインベストメント・バンク業界にもベアリング商会によるPanic of 1890が大きく影響を及ぼしています。アメリカから資金が引き上げられると1893年にはアメリカは恐慌に陥りますがこの時に大手を含め多くの鉄道会社が倒産してしまいます。そもそも乱立する鉄道会社は競合しダンピングを繰り返し経営が安定しませんでした。そうした中でJPモルガンは顧客である株主を代表する立場として買収による集約化を進めていきました。
大陸から資金の流入が停止する中でJPモルガンはイギリスからの資金に代わって国内銀行や生保の資金を集め殆ど紙くず同然となった鉄道株を買占めて再建資金を調達し鉄道独占企業体へと変貌していきます。資金の流れが変わったのです。Panic of 1890はアメリカの資本をヨーロッパ頼みから自立させる契機となりました。

アメリカにおける企業合併は1897年の61件から1899年の1200件へと世紀末に飛躍的に増えますが、その頂点とも言える案件がモルガンによる∪Sスティールの買収でしょう。この頃にはウォール街の目は鉄道から鉄鋼やその他の製造業へと拡がりを見せ始めていました。アメリカの産業構成が変わり始めたとも言えます。
買収にはトラストの形態が用いられ、参加企業の株主がその上に設けられる持株会社の発行する「企業合同証券」と交換に株式を信託する形態に替りつつありました。要するに現在のホールディング・カンパニーと同じものです。資本の集約化が簡単になりました。

1900年12月、モルガンは自身の保有するフェデラル製鋼と業界トップのカーネギー製鋼を合併させ、さらに周辺の製鉄、金属会社もこれにくっつけて一つの大鉄鋼会社にしようと計画しました。 カーネギー・ホールにその名を残すカーネギーから彼の会社を買収した価格は4億8千万ドルと言われています。これでカーネギーは個人として間違い無く当時の世界一の金持ちになりました。当時の為替レートは1ドル約2円です。カーネギーが手にした金額は日本円で約9億6000万円に相当し、1903年の日本の全国銀行貯金残高を上回っています。また同年の東京株式市場の時価総額が約10億円ですからカーネギーは1人で日本の全上場銘柄を持ってようなものでした。
またこれによって成立した∪Sスティールは総資産14億ドルの世界最大の上場会社となりますが、これは当時の日本の推定名目国民所得26億円をも上回っていました。日本は国家としても経済力ではカーネギー1人に太刀打ちできなかったわけです。

 モルガンがアメリカとイギリス双方で力を蓄えるようになると、それまでロンドンで対立していたベアリング商会とロスチャイルド家は共通の敵を見つけたように以前ほどは反目しなくなっていきます。ボーア戦争時の1900年、イギリス政府は戦時債券の募集を行います。ロンドンではロスチャイルド、アメリカではモルガンに依頼しました。この時モルガンはロスチャイルドと協調的な態度をとらず独自に高い手数料をイギリスにふっかけましたがイギリスは飲まざるを得ませんでした。このディール以降JPモルガンはイギリスのマーチャント・バンクを見下すようになりました。

ピアポントはビジネスでは抜け目なく利用しても「ユダヤ人嫌い」である事は公言していました。またピアポントはアイルランド人も見下していました。典型的な鼻持ちならないWASPだったのでしょう。
アイルランド出身でニューヨーク銀行社主のジョセフ・ケネディにも嫌な思いをさせ、彼をして息子を大統領にする決心をさせています。彼は夢を実現し米国初のカソリックの大統領を誕生させてしまいました。ピアポントはどうも何でも見下すのが好きだったようです。これは想像でしかありませんがロシア人は尊敬の対象にはならなかったでしょうし、日本人なんかは見下す対象にすら入っていなかったことでしょう。
日露戦争のファィナンスにもモルガンの名前は登場しますが、モルガン側からの積極的なアプローチはありませんでした。しかしあまり知られていませんが、モルガンは日本公債のアメリカ募集分を結構な金額分アンダーライトしていました。これは後で紹介しようと思っていますが。このシリーズを読んでいくと何となく事情がわかってくると思います。

こうして金融界に限らず経済界全般に圧倒的な力を持つに至った孤高のモルガンでしたが、何もウォール街の全員が彼に屈したわけではありませんでした。彼を出し抜いてやろうとする挑戦者は、さすがチャンスの国、アメリカにはおりました。

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