2010年12月16日木曜日

インベストメント・バンク 4

ノーザン・パシフィック事件

ノーザン・パシフィック社の発行株式数は普通株75万株と議決権付の優先株75万株、合計150万株でした。従って両方併せて75万株以上確保すれば過半数を握ったことになります。

シフは5月3日の朝の時点では合計74万5810株しか押さえていませんでしたが、ヒルが訪ねてくるまでの間に、事情を知らないモルガン商会のパートナーから3万5千株の優先株を取得していました。よっぽど上手く情報操作していたのでしょう。これでシフは優先株41万580株、普通株37万230株の合計78万810株で過半数を確保しました。  
まさに"A lot of it."でした。


一方ヒルはシフの事務所を出るとモルガン商会に駆け込み対策を立てます。当時のアメリカには5%以上取得したら報告しろなんてルールはありませんから、シフの手の内はわかりません。
しかしモルガンにはこの日の朝に優先株を売ってしまったマヌケなパートナーがいましたから、シフの持ち株のかなりの部分が優先株であると推測しました。
優先株は株主総会を待たずノーザン・パシフィックの役員会決議で償還してしまうことが可能です。そうであれば優先株は取りあえず無視して普通株だけで過半数を確保すれば良いことになります。
モルガン商会の結論は普通株15万株の購入でした。これで普通株の過半数である37万5千株を確保できるはずです。フランスにいるピアポント・モルガンに電報を打って許可を貰いました。5月4日の土曜日でした。

 一方のハリマンも抜け目の無さでは負けてはいません。モルガン商会を過小評価したりするほど馬鹿ではありませんでした。優先株を償還されれば台無しになることは読んでいました。
あと5千株も買えば普通株だけでも過半数を超えることができます。念には念を入れてもうあと4万株ほど確保しておこうと考えました。ハリマンはクーン・ローブ商会のオットー・カーンに4万株の買い注文を執行するように頼んでおきました。

翌日は日曜日でした。注文を頼まれたカーンはセントラルパークに面した65丁目のエマニュエル・シナゴーグで礼拝中のシフに近づきハリマンの注文の可否を聞きました。
シフは「安息日に仕事の話しをするのは不謹慎である。その注文は執行する必要はない。責任はすべて私がとる」と言ったと伝えられています。謎の行動だとも言われ色々と解釈されています。

5月6日月曜日。買い付けの情報が市場に漏れてはいけません。モルガンは静かに、そしてかなり上手く買い付けていましたがノーザン・パシフィックは110ドルから149.75ドルまで50%近くも上昇しました。事情を知らないトレーダーの中には株価の急騰からまとまった株数を空売りする者も大勢いました。「行き過ぎは修正されるべきである」急騰すると条件反射で空売りをしかけるトレーダー達がいるのは今も昔も変わりません。今回ばかりは事情が事情でした。しかし市場ではモルガンとシフが闘っているなんて未だ誰も知りません。
なにしろ普通株は75万株しかないのにシフが37万230株持っていてモルガンが37万5000株まで買い付けようというのです。残りは4千株ほどしかない計算になります。

火曜日にモルガンは目標の15万株を買い終わりましたが、不思議な事にモルガンの買い注文が終了しても株は上がり続けました。何しろ空売り以外に売る人、あるいは売れる人は誰もいません。正確に言えば市場には4千株しかないはずです。売り物が無いので空売りの買戻しが出来ません。もし買い戻したとしてもその相手である売り手は多分それも空売りで株券を持ってはいませんでした。理屈ではシフとモルガン以外にほとんど誰も株券を持ってはいなかったのです。モルガンが買った15万株も受け渡しができるのかどうかわかりませんでした。

水曜日には出来高がさらに増加しました。
木曜日には初値170ドル、途中200ドルで一服しましたが大引け前にはとうとう1000ドルまで上昇してしまいました。普通株だけの時価総額で7億5千万ドルです。まったくどうかしています。トレーダーや投資家はこの株を買い戻す為に他の持ち株を売らざるを得ませんでした。その為ノーザン・パシフィック以外の株はほとんどすべてが惨めに下げてしまいました。モルガンご自慢の∪・Sスティールは朝方40ドルで寄り付きましたが引けは26ドルでしかありませんでした。

この5月9日の大暴落を「1901年の暗黒の木曜日」と呼びます。1929年10月24日(木)の大暴落まで「暗黒の木曜日」とはこの日を指しました。この結果モルガンもシフもそしてその他の投資家も実現損益か評価はともかくとして株価の下落で大損をしてしまいました。
新聞も「巨人同士の対決」としてセンセーショナルにこれを報道しました。2大独占金融グループ、ウォール街の巨人同士の戦いがウォール街を壊滅に押しやってしまいました。東京の真ん中で怪獣同士が戦って東京タワーや国会議事堂をぶっ潰してしまったようなものでした。

結局ノーザン・パシフィック株の空売りについては両陣営とも事後処理に入らざるを得ませんでした、空売り筋は150ドルで「融け合い」(適当な価格で話し合いによって折り合いをつけ決済する事)に入り手を打ちました。その後の株価の戻りは早かったのですが急激な底なしの株価下落に対する株式市場の傷跡は大きいものでした。

7月に入りピアポント・モルガンが欧州から帰るとノーザン・パシフィック鉄道の再編に着手しました。さすがのモルガンも今回の件には懲りてしまいました。優先株の議決権は認めませんでしたが、ここはシフ+ハリマン陣営に対して強引で敵対的な手法は取りませんでした。ハリマンに持株会社ノーザン・パシフィック・セキュリティーズの代表権を与え、今回の騒動の原因となったバーリントン鉄道に対する発言権も与えました。シフ+ハリマンは大陸横断鉄道の太平洋側、北と南両方に発言権を持ったのです。

この事件はモルガンがウォール街を支配下に収めて以来始めての実質上の敗北でした。この時からピアポント・モルガンはクーン・ローブ商会のヤコブ・シフをこれまでの格下の扱いからPAR(同格)に格上げしたと言われています。「見下す」のをやめたのです。

シフが追加の買いを止めた判断は何もお祈りの為だけではなかったのでしょう。シフ・ハリマンの局地戦での容赦ない勝利はモルガンと言うひとまわり大きな巨人からの不必要な遺恨を残す事になったでしょう。シフはあと4770株普通株を買えば過半数を確保できていたのです。でも彼はしませんでした。これはモルガンへのメッセージだったのでしょう。

"Community of interests"

これを境にモルガンは大西洋に目を向け汽船会社の買収を強化します。一方でハリマンとシフは太平洋航路に目を向けました。両社はあいかわらず激しい競争をしていましたが、あまり無茶なことはせず穏やかな協調ができました。この後共同で買収した鉄道が何社かあります。
ハリマンの見据える太平洋のその先には未開の中国北東部である満州が広がり、そこからはユーラシア大陸を横断しヨーロッパへ伸びるシベリア鉄道が視界に入ってきていました。そして日本はその入口で満州鉄道(東清鉄道南満州線)をめぐりロシアと戦い始めようとしていました。

日露戦争の始るこの時代はロンドンのマーチャント・バンクはピークを過ぎ、ニューヨークのインベストメント・バンクが巨大な力を持ち始めていました。日本の戦時公債の発行に当初期待をしていなかったアメリカが参加したのは偶然でも天佑でもありませんでした。
しかしニューヨークはドメスティックな市場であって国際金市場がロンドンであることは今日でも変わりません。

後日談としてノーザン・パシフィック・セキュリティーズ社は1904年に連邦裁判所から違憲判決を受け解散することになりますが、それまでにヒルとの支配権争いに嫌気をさしたハリマンは全株式を利食っていました。この儲けは5千8百万ドルにもおよび彼のユニオン・パシフィックはとてもキャシュ・リッチな会社になりました。日露戦争の始まる時期にハリマンは約1億円の余裕資金を手元に持っていました。


ここではあくまでインベストメント・バンクと日露戦争の関係だけに論点を絞っていますからここで終わりです。アメリカは30年代にグラス・スティーガル法によって一旦銀証分離がなされています。当時のモルガン商会はモルガン・スタンレー証券とJPモルガン銀行に分離して両方とも現在も大手として活躍しています。クーンローブ商会はもともと資金源がドイツであったことから2つの世界大戦で勢力を弱め、1977年にリーマン・ブラザースに吸収されてしまいました。そのリーマンも今はもうありませんからクーン・ローブの名残すら無くなってしまいました。

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