2011年1月21日金曜日

オー・ヘンリに見る日露戦争

当時のアメリカでどれほど日露戦争の情報が浸透していたのか興味のある史料があります。この頃のアメリカにはオー・ヘンリと言う「最後の一葉」で日本でも有名な小説家が活躍していましたが、彼の小説には日露戦争がよく登場します。

ヘンリは横領事件で服役していましたが、日露戦争の始まる2年前の1902年からニューヨークに移り住み、当時のニューヨークではメジャーな「ニューヨーク・ワールド」紙に毎週1編の割合で短編小説を書き始めていました。1904年にそれらの短編をまとめた単行本「キャベツ畑と王様」が出版され、1906年にはベストセラーとなる「四百万」が発売されています。この四百万とは当時のニューヨーク市の人口のことでした。

彼の代表作のひとつ「赤い酋長の身代金」は、さしずめ現代の映画「ホーム・アローン」のようなもので、誘拐犯が拐ってきた子供がとんでもない小僧で、逆に犯人がひどい目にあわされる話しです。そのなかでそのとんでもない小僧である子供をなだめるために可哀想な誘拐犯がこう言います。
「もう少し気分がよくなったら日露戦争ごっこをしてロシア兵になってやる(だからしばらくはおとなしくしてくれ)」[1]
ごねる子供を納得させるシーンです。
私が想像するにはこの「日露戦争ごっこ」とは身体の小さい子供が大きな大人を退治して楽しむ遊びなのでしょう。この誘拐犯は日露戦争ごっこで再び酷い目にあわされるに違いありません。こうした遊びが当時のアメリカで流行していた事がよくわかる一節です。

また別の代表作「アラカルトの春」では周辺が騒がしくなった時のメタファーとして「裏の塀の上の猫どもが、奉天に退却するロシア兵のように、そろそろと退却していった」と言うような表現もみられます。ロシア兵が奉天に退却していく様は、「何匹かの猫達がそろそろ」と音もなく歩くようにヘンリは新聞記事からイメージしたのでしょう。

小説「振り子」ではアパートの管理人がいたずら小僧を追い払う様を表現して「ヤールー(鴨緑江)の向こうへでも追い払うように追い払った」と言う表現もあります。シッシッとごく簡単に追い払ったというような意味なのでしょう。

オー・ヘンリは毎週一編の短編小説を書かなければなりませんでした。題材や表現には最新の時事問題や新聞の見出しを飾った言葉が使用されていると考えられます。こうした比喩や表現から当時のアメリカ人の日露戦争に対する関心がよくわかるのではないでしょうか。
高橋も深井も英文の新聞や雑誌によく目を通していたと考えられますから、ヘンリの小説を読んでいたかも知れませんね。

アメリカでは大国のロシアは人気が無く小国の日本は同情されていました。Underdog=勝ち目のない人を応援するというアメリカ人特有の性質もあったでしょう。
鴨緑江や奉天など極東の地名が広く知れ渡るようになり、近所や職場での話題の中に日露戦争と言う言葉はちょっとした流行語になっていたのかもしれません。鴨緑江「ヤールー」などと云う言葉は発音がエキゾチックで非常に覚えやすかったのではないでしょうか。

またアメリカで売り出された日本の公債は小口の投資家が大勢買いました。彼らの投資していた日本公債がさらに日本への感心を産み、それまであまり知られていなかった東洋の小国日本がアメリカではひとつのブームであった形跡がオー・ヘンリの小説に残されています。[2]



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[1] O・ヘンリ短篇集」大久保康雄訳 新潮文庫 p35
[2] カリフォルニア州では1906年、サンフランシスコ市で日本人学童隔離問題が発生していることにも注意は必要です。

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