2011年6月30日木曜日

財政危機脱出のセオリー


今日パラパラとギリシャ問題を整理していたら面白いプレゼンテーション資料が見つかりました。プレゼンテーションは「Civilization」や「The Ascent of the money」の著者であるニーアル・ファーガソンが昨年の3月にワシントンDCのピーターソン・インスティテュートで行ったものです。
プレゼンの題名はFiscal Crises and Imperial Collapses::Historical Perspectives on Current Predicaments、(原文はここにあります)

内容はかいつまむと以下のようになります。

今回のような財政危機とは決して珍しいものでは無く、債券の歴史と同じくらいに古いものである。つまり国家がお金を借りるようになって以来常に発生している問題であるということです。

伝統的に戦争や革命はこうした危機が原因となっている。
財政危機は雷とは異なり同じ場所で起こる傾向があり、それは発展途上国だけではなく先進国も例外では無い。

そして何が財政危機の原因であるのか?
過剰な債務-対GDP、対歳入、対輸出
過剰な利払い-国債費対GDP、税収(歳入)
過剰な外資への依存-対外債務、非居住者内国投資
弱い景気-低成長、民間部門の低投資収益
政治的脆弱性-過剰支出、税収不足は政治的な決定要因
理由なき熱狂-投資家はいつも歴史を忘れる
なるほど、各国それぞれ上記の原因が複合的に昨今の財政危機に影響を及ぼしているのでしょう。政治的脆弱性もギリシャを見ていると特に日本固有のものでもなさそうです。ポピュリズムは財政危機を引き起こします。

アルゼンチンやトルコ、ロシアなどは財政破綻を何度も繰り返している。
ギリシャは1829年の独立以来、デフォルトは5回であるが、51年間も「デフォルト」か「りスケジューリング」の状態にあった。そしてハイパーインフレを4回経験している。

危機脱出の6つのセオリー
1.高い経済成長
2.低い公債金利
3.財政的緊急援助 海外からの緊急融資等
4.財政的痛み、増税、公共サービスのカット
5.シニョリッジ(お札を刷る)
6.デフォルト あらゆる形態でのオリジナル条件への不服従、repudation(拒否)、standstill(行き詰まり),moratorium(支払い停止)、restructuring(債務再編)、rescheduling(リスケジューリング)

しかし残念ながら項目1,2,3はセオリーとしては考えられるが歴史的には有り得ないと言わざるをえない。したがって項目4以下が適用されることになる。

1.高い経済成長
2.低い公債金利
3.財政的緊急援助 海外からの緊急融資等
4.財政的痛み、増税、公共サービスのカット → Cutter
5.シニョリッジ(お札を刷る) → Printer
6.デフォルト あらゆる形態でのオリジナル条件への不服従、repudation(拒否)、standstill(行き詰まり),moratorium(支払い停止)、restructuring(債務再編)、rescheduling(リスケジューリング) → Defaulters

これら4,5,6を個別に見ると、

4.Cutter
極めてまれにしか存在しないが、イギリスに例がある(1815~1914)
予算の余剰、低金利、但しイギリスは高成長(産業革命期)に恵まれた。

5.Printer
財政自主権を持っていること、自国通貨建て債務であること

6.Defaulters
制限された財政主権、巨額の外貨建て債務

ここでギリシャと日本とは財政危機脱出のシナリオが分かれるのでしょう。
日本には外貨建て債務が極めて少ないので、お札をどんどん印刷すれば少なくとも危機脱出は可能であるということです。ギリシャのようになることはありません。また第二次世界大戦の最中でも日本は内国国債募集は消化が可能でした。もっとも当時のロンドン市場上場の日本国債はデフォルト扱いでしたけれど。
こうして考えるのであれば、どうせ最後はお札をじゃんじゃん印刷(例え)することになるのですから、もしもデフレ脱出の可能性が僅かでもあるのであれば今チョットだけ余分にお札を印刷するのも悪くはないのかも知れません。


さて、私はだいぶ端折っていますが、面白いことが書いてあります。

Lessons of  history

What do governments NOT* do with world war size debt burdens?
政府給付(公的年金・保険:Entitlements)のカット
景気刺激の為の所得税、法人税の減税
赤字削減の為の消費税の増税
デフォルトや通貨の減価なく出口を探る

NOT* ナポレオン戦争で累積した政府債務を返却した1815-1913年の英国だけは例外であり。こうした政策を行った。

つまりこの方法を取ったかつての英国だけが脱出に成功したのだけれど、普通の政府はこうした手段をとらずに下記のようにする。

What do governments  USUALLY do with world war size debt burdens?
中央銀行と民間銀行に政府債務を持たせる
海外投資を制限する
政治的弱者へのコミットメントを停止、外人債券所有者へのデフォルト
債券保有者に実質がマイナス金利のボンドを容認させる

これはまさに今皆がやっていること。


このプレゼンテーションはロゴフとラインハートが過去のデフォルトの事例を研究しただけなのと同じように、歴史家が歴史を語っているだけの話でした。何も予想してはいません。

民主党は政党なのか?


これは10日ほど前に知り合いの株式のセールス・トレーダーがメールしてくれた話です。


一昨年、ようやく政権交代を達成した借金体質の「神話の国」のお話。


以下は、前週末17日10時50分配信の日経電子版の記事からの抜粋。
 「首相が突然大連立を打ち出したことで与党内が混乱」
 「債務危機に陥っている同国は、内政も混乱の度を深めている」
 「連立協議は不調に終わり首相は戦略を変え内閣改造を打ち出していた」
 「こうした首相の行動について与党(中略)内でも批判の声が上がり(中略)
与党は16日夜に議員総会を開き、首相は経緯の説明を迫られた」
 「首相は国民の支持を失いつつある」
 「与党が長期的に政権を維持するのは難しいとの見方も浮上している」
 「野党の反対は根強く、与党は打開策を打ち出せない状況。政治的な
混乱が激化すれば同国の信用がさらに低下する懸念も強まる」


さて、この国はどこの国でしょうかと言うのが彼の質問でした。


答えはギリシャなのです。しかし別にこれを日本と答えても誰も違和感を全く感じ無いでしょう。
情けない事に、この手の質問はもはや単なる引っ掛け問題の類でしかありません。


与野党揃っての菅やめろコールの中、対抗馬が一向に見えてきません。
菅首相が何かをやると、「辞任の決まった首相が」と反応する、菅首相にしてみれば、それなら早く替りの人を連れて来いとでも言いたいところでしょう。
ロシアは北方四島エリアでの資源開発を日本に打診してきています、北方領土問題の正念場でしょう。北朝鮮は韓国に対して軍事的報復を行うと言うニュースも入ってきています。原発の実験をするのかもしれませんが、政府としての準備はしておくべきでしょう。そもそもただでさえ震災復興事業の最中、政治的空白など許されるはずもありません。


先日菅首相は総選挙を仄めかしたということでパッシングを浴びていますが、このような状態で有権者は一体誰に投票すれば良いのでしょうか。
小選挙区で仮に気に入った民主党候補に投票しようとしても、比例代表では民主党そのもに投票してしまうことになります。


民主党とは一体全体どういう集団なのでしょうか?内部で殴り合いをしている。有権者にはさっぱり解らなくなっています。マニュフェストは総崩れ、しかもどうも一つの理念のもとに集まった集団だとはとてもではないが思えません。政策的には自民党の一部と民主党の一部の方がよほど近いと感じる人は私だけではないでしょう。もっともこうした整理が出来ないからこそ次期首相候補が選べないでいるのでしょうが。


ここはウィキペディアから借りた方がよさそうです。
「政党とは共通の政治的目的を持つものによって組織される団体である。18世紀のイギリス下院議員エドマンド・バークによれば名誉や徳目による結合であり、私利私欲に基づく人間集団(徒党)ではない」



2011年6月29日水曜日

市場はギリシャ問題を楽観視しているのか?



結論から言えば、デイ・トレーダーを除いて市場関係者は誰もギリシャ問題を楽観視などしていない。

ギリシャ国債の指標銘柄は昨日(28日)、ブルンバーグの表現を借りると「前日比35ベーシスポイント低下の16.45%と、9日以来の低水準。一時は42bp下げ、17日以降で最大の下げとなった。同国債(表面利率6.25%、2020年6月償還)価格は1.03上げ53.795。ギリシャ2年債利回りは87bp低下の28.51%」である。つまり債券価格は額面の50%程度でしかないのである。

そもそも「デフォルト」を一切合切一文も何も支払わない事だと考えている人も多いようだが、歴史的にはそういった事例はロシア革命時にポルシェビキ政権がロシア帝国の債務を全て無効にしたぐらいであって、破綻国家も必ずいくらかは支払うものだ。何故なら復帰後の国際金融市場からの借入れが出来なくなってしまうからだ。

そうした意味でユーロが強烈なインフレ下ではないにもかかわらず国債価格が額面の50%をつけているのは。デフォルトという政治経済用語の定義を議論する以前に実際にはもう既に「死んでいる」のである。もしギリシャがユーロに加盟していないのであればドラクマの切り下げで対応していたはずなのだ。

であればギリシャ国債を買い入れた銀行団は時価評価しているはずだから、この件はもう問題はないではないかと考えるかもしれないが、実際には銀行は今も簿価で評価している。現在はそれを取り繕う作業をしていると考えて良いだろう。従ってショート・カバーこそあれユーロが大躍進などはするはずもない。問題は「デフォルト」という言葉の醸しだす脆弱な他国への影響の方だろう。

またこうした債権の評価をめぐりユーロの政府や銀行団が格闘する姿は我々日本人には既視感のあるものだが、だからと言って溜飲を下げている場合ではないことも確かなのだ。

下にギリシャ問題をめぐる本日現在の日程表を簡単にまとめておいた。
ギリシャ国内の政治問題も重要であるが、フランスの提案した民間銀行によるロール・オーバー案も懸念材料を抱えていることにも注意である。
また実際の「デフォルト」は8月20日の59億ユーロの5年物の償還がポイントになると予想されている。


2011年6月28日火曜日

世界初のオプション取引


オプション取引の入門書等の冒頭において「オプションの歴史」としてよく持ち出されるストーリーがオリーブの搾油機の話です。これはオリーブの実を絞ってオリーブ油を作る機械です。

ギリシャ文明ではタレスという哲学者がオリーブの豊作を予測して、豊作かどうか人々がわかる前に手付金を打ってオリーブ搾油機の使用権を予約しておきました。そしてタレスの予測は的中しオリーブは豊作。オリーブから油を絞るために搾油機は引っ張りだことなって彼は大儲けしたというストーリーです。そしてこれが一般に世界初のオプション取引であったという逸話になっているようです。

細かい条件を付けるならば、この取引はタレスによる相対のコール・オプションの「買い」で、 1)搾油機の使用料は手付金を打った時点で決めてあった。:ストライク・プライス。2)収穫期までの契約だった。:エクスパイア。3)当時の搾油機は農家全員が所有しているわけでは無く普通の農家は搾油機を借りて油を絞っていた。4)オリーブが豊作であれば搾油するオリーブの実の量の増加に応じて搾油機の使用料は値上がりする。ということでしょうか。

しかしよく考えてみれば手付金さえ払うような取引であれば何でもオプション性があるというような話ではありませんか。でも大儲けの話なので投資家をオプション取引に誘導するには良いストーリーと言えるでしょう。

 この逸話はアリストテレス(前384年 - 前322年)の書いた「政治学」の(1259a)というセクションからの引用です。このセクションは「財獲得術の実用面」と邦訳[1]されており、タレスによる財獲得の成功例として紹介されているものです。

 アリストテレスは財獲得術を家政術と商いの術の2つに別け、生活の必要以上に富を求める後者には否定的でした。従って貨幣そのものから財を得るようなマージンや利子に対しても「自然に反するもの」として良い顔はしていません。アリストテレスのこうした考え方は後の11世紀にスコラ学に結びつき、キリスト教会による利子徴収の禁止「徴利禁止問題」へと繋がっていきます。

 哲学者タレスは人々から彼は貧乏なのだから哲学(学問)などは何の役にも立たないと非難された時に、彼は普段から学んでいた天文学の知識を使って翌年のオリーブの豊作を予測しました。そして冬の間にわずかの手付金を支払ってその地域(ミトレスとキオス)にあるオリーブ搾油機を「借り占めて」おいたと言うものです。果たして彼の予想は当たりオリーブは豊作となり大儲けをするのですが、この話の趣旨は、もし望めばタレスは大金持ちにもなれるが、哲学者の関心はそこには無いということにありました。

そしてこの財獲得術のポイントは手付金(オプション)で儲けたことではなく、「借り占め」にあります。もちろんわずかの資金で借り占めを実現したのは手付金のおかげですが、タレスは借り占めによってオリーブ搾油機の使用料を彼の望むようにコントロールできたのです。現代風にいえばファット・マージンなビジネスが出来たのです。

アリストテレスが言いたかったことは「もしだれでも『専売』を自分のために工夫できるのであれば」つまり「独占供給状態を作り出せるのであれば大儲けができる」という点だったのです。
 現代の我々から見て違和感を覚えるのは、アリストテレスは利子所得や商人のマージンに対して否定的であるにもかかわらず、独占状態に関しても、手付金を支払うようなビジネスに対しても肯定的である点です。国家は歳入の補強のためこうした独占ビジネスを有する必要もあるとまで述べています。

フィナンシャル・タイムズの記者であり作家であるジュリアン・テッドはJP モルガンのデリバティブ・チームを描いた愚者の黄金の中でこう書いています。
「原始的な先物やオプション契約の例は、紀元前1750年のメソポタミアの粘土板にも見出せる[2]」これはつまり、手付金さえあれば大抵の場合は原始的なオプション契約と見做せるのです。 

もし搾油機の持ち主が、豊作もあれば不作もある毎年の波の中でなんとかビジネスをやり繰りしていたのであれば、彼は大事な豊作の1年分をわずかな手付金欲しさに失ってしまったことになります。しかしそれでも平均的なストライク・プライスのレベルの使用料は入ってくるでしょうから致命的な被害ではなかったでしょう。これはカバード・コールです。

しかしもしあなたが今年のオリーブは不作になるに決まっていると信じて搾油機を持ってもしないのにわずかな手付金欲しさに使用する権利だけをタレスに売っていたらどういうことになるでしょうか。これはネイキッド・コールの状態です。


多分あなたはとんでもなく高値のついた搾油機を新たに資金を手当して購入しなければならないでしょう。オプションを単なる手付金と考えると理解しやすい側面もあると思います。渡す物もないのに手付金をもらわないこと、ネイキッド・コールは絶対にやらないことです。もっと言えばカバード、ネイキッドにかかわらずオプションの入門書ではオプションの売りは当面の禁止事項として徹底すべきだと私は思っています。


[1]「政治学」アリストテレス、牛田徳子訳、西洋古典叢書 京都大学出版会 p37
[2] P28

2011年6月26日日曜日

コインの発明

バルカン半島からエーゲ海を挟んだ現在のトルコ側にリディア王国という国があり、そこでは紀元前7世紀頃にエレクトロン・コインが作られました。ギリシャ文明の時代の話です。同時期に中国で青銅のコインが開発されていますが、西洋社会ではリディアが世界で初めてコインを作ったことになっています。

 左の写真[1]はリディアのエレクトロン・コイン、3分の1スタテルです。スタテルはメソポタミアの単位シッケルとほぼ同じ8.5グラムで重さを表しました。リデュアでは17グラム程度の大型からその96分の1の小型まで各種のコインが製造されていました。残存しているコインの大半が小型であることから、少額の売買にも使われていたことも推測されていますが、額面が無いので重量で取引されていたのかもしれません。

またコインの裏の形状からは素材を金型にあて裏側からハンマーで打ち出した単純なものであることがわかります。これらは発行者が国なのか個人なのか明確ではありませんし、地中海各地に分散されているわけでもありませんから、あるいは奉納物のようなものだったのかもしれません。

エレクトロンとはリディアで採取できた金と銀との自然合金であり、大きさや重さは統一されていたものの、金銀比重がまちまちだったために早々と姿を消すことになりました。大事なことはこのコイン以降ギリシャを中心とする地中海地方の都市国家では銀を素材とするコインが普及していったことでしょう。銀はメソポタミアでも見たように、秤量貨幣として広く使われた素材で、地中海地方でも地金のまま交易に使用されていました。
 
では何故都市国家達はコインを作ったのでしょうか。アリストテレスは取引においていちいち計量をするわずらわしさがないからであると言っています。解り易い解説です。また輸出品として売れたからであるとの指摘もあります。しかし国家がわざわざ独占して銀貨を発行する目的はコインへの権威付けによる収入が目的だったと考えるのが妥当でしょう。いわゆるシニョリッジ(通貨発行益)です。

 銀貨は同じ重量の銀地銀よりも価値あるものでなければならなかったのです。その為に国家は法制を整え独占に対する挑戦であるコインの偽造には厳しく取締をしました。兵士や公務員の給与はコインで支払われ、税はコインで受け取りました。コインのギリシャ語の「ノミスマ」は法律を意味する「ノモス」と同じ語源です。国家が権威を維持している間は国家の発行する銀貨は銀地銀以上の価値を保てたのでしょう。この問題はすでに貴金属を本位としなくなった現代にも綿々と続く新しい問題でもあるのです。

BC5世紀のアテナイの石に刻まれた国家資産の会計簿には既に銀地金に較べてコインが主流をなしていたことが確認されています[2]。こうして各都市国家間で異なったコインが製造され流通をし始めると交易のために両替商が登場し始めます。ギリシャ文明の中心地アテナイでは質屋と両替商を組み合わせたような初期の銀行に近い形態のビジネスが発生しました。彼らは預金も受け入れましたが、それはセーフ・キーピングが主な目的であって利息は支払われませんでした。

アテナイの両替商はアゴラ(市場)に机を出しビジネスをしていましたが、現代ギリシャ語の「トラベザ:trapezaは「テーブル」と「銀行」の2つの意味を持っています。つまり取引のための装置である机そのものを銀行と呼ぶことになったわけですが、実は世界の金融史の中にはこれとよく似た話があります。エドウィン・グリーンが1989年に書いた「銀行の歴史[3]」では銀行業の起源を中世イタリアのロンバルディア地方においています。そしてこのように説明しています。

「銀行業(banking)という用語は、この事業の起源に関して若干の手がかりを与えてくれる。近代の銀行(bank)という用語は、中世イタリアの市場で用いられた商人の取引台(bench)すなわちイタリア語のbancoに由来する」

付け加えておくならば破産(bankruptcy)は取引台を破壊して2度と取引ができなくなることを語源的に意味しています。また我が日本語の「銀行」は清国の「洋行」から来ています。「洋(ヤン)」=「外国」、「行(ハン)」=「店」で清国では外国人の経営する貿易商社の意味でしたが、明治政府がbankに対して日本語をあてがう上で「両替屋」ではまずかろうと銀の店としたのがその由来です。当時の清国では「銀行」は既に使用されていましたが、明治政府では当初「金行」にしようと言うアイデアもあったようです。もしこちらを採用していれば発音がしにくかったことでしょうし「ニチギン」が「ニチキン」になっていたのかもしれません。

話が随分と横道に入りましたがアテナイに戻りましょう。
貨幣を使用する文化が浸透すると、経済活動が活発化し消費への誘惑が増すのか、あるいは借金がしやすくなるのでしょうか、ローンが増えていきます。ギリシャの都市国家ポリスでは王権は小さく貴族が力を持っていました。従ってローンの貸し手は神殿や王ではなく、貴族が担い民間同士の貸借が発展しました。そして貴族は財力を持って富の集積を計ります。「金利の歴史」を書いたホーマーによるとギリシャ時代の金利情報はこの後のローマ時代よりも豊富なのだそうです。

メソポタミアでもそうであったように、個人ローンの担保は不動産でした。ギリシャでは粘土が少ないのでタブレット文化が浸透せず、契約書の代わりに担保の対象である土地に「ホロイ(horoi)」という石碑をおいていきました。これは境界線という意味ですから、現代日本の土地境界石や杭と同じようなものかもしれませんが、ギリシャではこの石に詳細に借金の説明が掘られていました。曰く何故借金したのか、誰にいつまでに、いくら返さなくてはならないのか等々です。ローンの期限は大体1年から5年が中心だったようですから、いちいち石に掘り込むのも面倒な話だったとは思いますが、貴族にすればそのまま自分の領地の境界線になったのだと考えられます。

一方で貧民の間では不動産を失い、借金の担保に家族や債務者自身がなることも多く、債務不履行による家族ぐるみの奴隷化が進みました。アテナイでは人口の3分の1が奴隷であったようです。

山川出版の高校の教科書「詳説世界史」を詳しくした「詳説世界史研究」ではリデュアに発した貨幣経済の浸透により経済活動が活発化し、こうした経済の発展から取り残された下層市民が貴族によって土地を失い借財に苦しむようになって、BC594年にアテナイ(アテネ)のソロンによってこうした人々(ヘクテモロイ)を救うために借財契約の無効化を伴う徳政令が出されたという文脈[4]になっています。

一方で大英博物館による「お金の歴史全書」ではアテナイのコイン導入はその残存記録の頻度の関係からソロンの改革以降であるとされています[5]。これはこうした話をまとめる時に一番悩ましい問題ですが、私としては多分どちらも正しいのではないかと思います。コインの流通量の問題ではないかと思うのです。いずれにせよこのソロンの改革は記録された最初の「徳政令」であって金融史的には大きなイベントだと思います。

これまでの借財の帳消し、身体を抵当に入れることの禁止。4分の1のデノミ。因みにメソポタミアで見られた金利の上限設定はありませんでした。雑学になりますがソロンはこの時に奴隷の女性をアテナイで買取り、始めての公的売春を制度化したことでも知られています。問題化した奴隷とは元市民であって、本来の奴隷は別に存在していたことには注意が必要でしょう。

アテナイはこうした調子なのですが、ギリシャにおける一方の雄であるスパルタでは贅沢や娯楽は禁止され、貧富の差が生じないように国内での貨幣の使用は一切禁じられていました。当時流通し始めた貨幣が硬派の彼らにどのような目でみられていたか興味深いところです。従ってアテナイにはあった兵士に対する給与の支払いも無くスパルタの兵士は自弁であったそうです。何となく強そうな感じがしますね。

記録によるとBC6~7世紀のギリシャの平均的な貸出金利は10~12%程度でした。原材料の金や銀の増加によって金利は次第に低下傾向を見せます。もちろんこれは通常のローンであって農民の土地を狙った悪質なShark-Loan(高利貸)達は全く別の金利体系を持っていたようで、これは現代社会と同じことです。

BC483年にはアテナイ近郊でラウリウム銀山が発見され銀の供給が増加します。ヘレニズムの時代のBC300年紀前半にはマケドニアのフィリッポスⅡ世がペルシャと戦いトラキアの銀鉱山を押収し、その息子のアレキサンダー大王が遠征先から大量の貴金属を略奪によってギリシャ世界に持ち帰るとこれらの貴金属が貨幣に鋳直されました。

裕福なペルシャ王から略奪した金額は18万タラントと評価されそのすべてが地中海から集められた兵士達に分配されたそうです。このため地中海地方での通貨量が増え、物価はあがりましたが、金利は下がるという現象がおきました。近代経済学ではインフレショーンは金利高を招くはずなのですが、通貨がだぶついてしまったのでしょうか。金利はBC3世紀頃から低下を始めBC2世紀には6~9%程度に下落しています[6]。そしてこの略奪によって得られマケドニア、ロードス島、アンティオキア、セレウキア、アレキサンドリアなど地中海地方に放出された金銀はBC197年にアテナイを占領するローマに引き継がれていきました。ローマ帝国繁栄の資金源になったと推察されます。

因みに1タラントは通貨の単位で銀26キロに相当し労働者の数十年分の賃金と言われています。そして想像がついた読者もいるかもしれませんが、この言葉は才能、能力を意味する英語のtalentとなり、現在のテレビに出演する「タレント」の語源となっています。もっともタレントはアーチストと自らの呼び名を変えつつあるようですが。




[1] Classical Numismatic Group, Inc. http://www.cngcoins.com
[2] 「お金の歴史全書」p42
[3] 「図説 銀行の歴史」エドウィン・グリーン 原書房 1994年
[4] p36,p37
[5] P42
[6] Sidney Homer and Richard Sylla  p42

2011年6月25日土曜日

利息の語源


「社会の粗野な諸時代には牛が商業の共通の媒介者であった」アダム・スミス[1]


企業内の事業仕分けでよく使われるツールにボストン・コンサルティング社のBCGモデルがあります。勉強熱心なサラリーマンであれば一度は見たことがあるのではないでしょうか。企業の製品ポートフォリオを4つに分類して企業戦略を練るツールです。この中では屋台骨となって安定利益を出している製品をCash Cow=「金のなる木」として扱かっています。

天才投資家ウォーレン・バフェットが好む企業はこの辺りの整理がキチンと出来ていて、期待ばかり大きな新製品よりも市場成長率が低くても市場占有率が高く着実に収益を産む「Cash Cow」を沢山持っている企業なのだと思います。

因みに「Cow」とはメスの牛のことです。オス牛は「OX」であり、去勢されていないオス牛を特に「Bull」といいます。こう考えると強気市場を意味する「Bull Market」という言葉も一段とその凄みを増すのかもしれません。

Bullは永遠に続きません、いつかはBearと交替しなければなりませんが、Cowは日々牛乳を生産してくれます。牛乳はチーズになりバターになり、そして子牛を産んでくれます。Bullのような派手さはなくとも着実に複利で増えていく資産なのです。

ブラッド・ビットが主演したハリウッド映画「トロイ」は紀元前8世紀末のギリシャの吟遊詩人ホメロスの歌った「イーリアス」「オデュッセイア」がストーリーのおおもとになっています。時代考証的には青銅器時代の剣であるとか色々と考えさせられますが私の好きな映画のひとつです。

ホメロスは「オデュッセイア」の中で牛を物の価値の基準として扱っていました。

「各種の手仕事に堪能な女奴隷は牛4頭と評価した」
「大きな(ペルシャ製の)三脚(瓶)は牛12頭分の価値」

貨幣の無い古代ギリシャでは牛が価値判断の基準だったようですが、ここでの牛は前述したように「産み出す資産」を意味していました。

そしてこの資産の増加分である「利息」をメソポタミアのシュメール人はmas、エジプトではmsと呼んでいましたが、これは「子牛」と「利息」のどちらの意味でも使っていました。これらは動詞の[msj]=「産む」からきています[2]。先に書いたようにフィリッピンでは豚を2頭借りると3頭にして返さなければなりませんでした。

また現代ギリシャ語で「利子」を意味する「トコス」は同じように「子供」も意味しています。さらに漢字の「利息」の語源も中国の「史記」にある「息は利の如し」に由来し息子は利益につながると言う意味から来ています。「利子」は息子に限らず女子も含めた子供のことでしょう。

「finance」はfin-つまりイタリア映画のエンドロールの最後に出てくる「FINE」=「終わり」が語源であってこれは、債務の期日を意味しています。もうすこし規模の小さなお金の話で使う「pecuniary」はラテン語のpecus=「動物の群れ」が語源です。また「Capital」は首都や主将でわかるように「capt」=Head が一般に語源ですが、資本という意味で使う場合には上記の「pecus」が語源なのだそうです。途中経過はわかりませんが。

つまり「利息」という言葉や概念は家畜、特に牛を由来としているのです。そして牛は古代ギリシャでは貨幣の役割をしていたとも考えられます。でも牛は持ち運びには不便(勝手に歩くといえば歩きますが)だし、バラバラにすると単なる「肉」になってしまいます。そこで貴金属を使ったり、貨幣の発明となるのでしょが。。。

ギリシャ文明における貨幣の発明の前フリで書いていましたが、すっかり長くなってきましたのでここで一旦区切っておきます。ついでですから株式の「Equity」はラテン語のaequitasこれは公正とか平等の意味です。持分は等しく権利を持つと言う意味でしょう。イコールがイメージしやすいかもしれません。また債券の「Debt」はラテン語のdebitumこれは正に「負っているもの」。またde-には誰か第3者とは「区別しておくもの」の意味があります。

因みに昔知人とBCGモデルについて話していたところ、モデルのCash Cowはヒンドゥー教の聖なる牛であると彼が言っていました。知ったかぶりには注意しておきましょう。(知人が正解)



[1] 「古代ギリシャの農業と経済」岩片磯雄 大明堂 p226
[2]  “A History of Interst Rate” 4th edition Sidney Homer and Richard Sylla ,Wiley, 2005. p20

2011年6月22日水曜日

メソポタミアの金融取引

数字や文字にタブレットのような記録媒体が発明されるとメソポタミアでは金融取引の記録が出現するようになります。

シュメールやバビロニアの神殿では農民に対して余剰物資である麦や銀を貸し出すようになりました。貨幣の発明はギリシャ文明を待たなければなりませんが、メソポタミアでは麦と並んで銀が秤量貨幣として重量に応じて貨幣の役割をしていました。 江戸時代に鬼平の400石など武士の給与が米で計算される一方で金製の小判や銀貨のみならず銀の延板が貨幣として用いられていたのと同じことです。都市国家の神殿(政府)が市民に穀物や銀を制度的に貸し出す事は少し強引ながら公的金融の起源とも言えるでしょう。そして麦や銀の貸借は民間にも広がっていきました。神殿が貧民に対して無利子で貸し出すこともありましたが、一般的には神殿も民間も金利を徴収しました。ハムラビ法典ではすでに上限金利が設定されていました。

「もし商人が穀物を貸借契約に供した時には穀物1クールにつき60クーの利息を徴収する。もし銀を貸借契約に供したときには、銀1シケルにつき6分の1シケルと6シェの利息を徴収する」
「もし商人が違反して1クールに対し60クーの利息あるいは1銀シケルに対して6分の1シケルと6シェの利息を超過して徴収したときは、商人は与えたものを失う」

ここでの麦60クーは1クールの3分の1ですから33.33%の金利になります。一方で銀の方はずいぶん中途半端な金利にも見えますがこれは正確に20%に相当します。

当時の重量の単位を見てみると、
1シケル=8.28g
1セウ=0.138g=1/60シケル
1シェ=0.046g=1/180シケル
利息=1/6シケル+6/180シケル=36/180シケル=1/5シケル
シュメール人は60進法を絶妙にあやつります。

利息に上限が設定されていたということは、利息を巡って揉め事が多かったであろうことが想像されます。法の外で活躍する高利貸しは歴史上一番古い形態であることは間違いありません。
また発掘された記録からはこの金利は上限であって実際にはネゴシアブルでもう少し低めに決められていたようです。


BC1823年にシッパール 、シャマシュ神の神殿で発見された借入を記録したタブレット があります。
「イリ=カダリの子であるブズルムはシャマシュ神から38と16分の1シケルを受領した。彼はシャマシュ神が定めた率で利子を支払うだろう。収穫の時、彼は銀とその利子とを返済するだろう」
ここでの貸し出し金利は神殿の定めた金利ですから20%だったのでしょう。期間については「収穫の時」とあります。麦の収穫は年1回であったことから貸借契約の期間は1年以内であること、また借入の目的が麦の耕作にあることもわかります。

こうした貸し出しの記録である貸借契約書は保証人を立ち会いのもと神殿の公証人によってタブレットに記録され債権者によって保管されました。その際にタブレットが偽造されないように印章が捺印されました。これは現代の我々の印鑑のような形態ではなく、側面に模様の刻まれた円柱形の印鑑(シリンダー)を粘土の上に押し付けてころがし模様をつけていました。(写真[1])このシリンダーは遠くエジプトやインドでも発見されており、シュメールやバビロニアの交易範囲の広さを示すとともに印鑑がバビロニアの重要な輸出品であったとも考えられる根拠になっています。

こうして作成された貸借契約は次第に譲渡可能なものになっていきますが、譲渡にあたっては公証人によって記録される必要がありました。しかしながら貸借契約書の譲渡が可能であるということは利付の証券の原形とも言えるのではないでしょうか。

またこの契約では担保が設定されていませんが、シュメールやバビロニアでは担保付も担保なしの債務もありました。担保には不動産の他、木製のドアを含めてあらゆる財産、妻、子供、親戚、所有していた奴隷などがあてられ、債務不履行の場合には人間の担保は奴隷にされました。上記の契約の場合、持ち物を全て出して、足りなければ債務者本人が奴隷になることもありました。
奴隷身分に落ちた場合ですがシュメールやバビロニアにおいては救済処置が施され奴隷の期限は3年に限られていました。また妻の資産も個別に守られていて夫との共同資産の場合、夫は勝手に妻の資産を担保提供することはできず貸借契約には妻の認証も必要とされたとあります。

さて、この33.33%の金利は果たして高いのでしょうか低いのでしょうか。。シドニー・ホーマーの著書「A History of Interst Rate」[2]では通貨や銀など代替物を使用しない穀物や家畜の現物貸しの金利水準としていくつかの興味深い比較対象を例示しています。

1960年頃のインドでは穀物種子の貸付の場合には2倍返し、つまり100%が標準であったそうです。この当時ルピー・ベースでの金利は24%~36%でした。20世紀初頭のインドシナでは50%。フィリッピンではライス・ローンが100%だったし豚を1頭借りれば2頭にして返す必要があったそうです。そうした比較からはシュメールの金利は非常に穏やかなものであったといえるのかもしれません。

銀を借りた場合の20%は少なくとも現代のアメリカの消費者金融[3]よりはずっと低い貸し出し金利ですし、貸金業法施行以前の日本のグレーゾーン金利の水準よりも低い値です。しかしシュメールやバビロニアは王権によって秩序を保たれた都市国家という狭い社会の中での信用(金利)です。この金利が現代と比較して高いのか安いのかは保留にすべきでしょう。またここには日本人が苦手なエリジブル(eligible:融資適格要件)という概念がありません。しかし借り逃げが容易な現代と比較して、メソポタミアの奴隷にされてしまうペナルティーには返済に対して相当なプレッシャーがかかったことでしょう。

では何故穀物の方が銀の借入よりも利息が高いのでしょうか。麦のような穀物の場合、種子を蒔く時期の麦の価格は麦の溢れかえっている収穫時よりも高いと予想されます。つまり季節要因による価格下落分が織り込まれていたとも考えられます。またハムラビ法典では不可抗力条項が設定され災害時の不作には元金・利息分とも免除されると書いてあります。天災リスクまで貸し手責任であるならば、麦の利息が高いのは仕方がないのかもしれません。

また麦と銀の交換比率は自由市場で決まるわけではなくたびたび改訂されているものの神殿が公定価格を決めていました。しかし凶作時に大インフレの記録もあることからこれらが常に公定価格どおりに交換されたとは思えません。しょせん銀は食べることができませんから飢饉には麦の価格が上昇したのでしょう。

ハムラビ王の手紙の中には身代金を支払って捕虜を買い戻すように指示した文書が残っています[4]
「敵が捕虜として捕えた、マニヌムの子シーン・アナ・ダムル・リッパリスを買い戻してくれるように。そのために、捕らえていた人々のもとから(身代金を支払って)彼を連れ戻した代理業者に、町の神殿の宝庫から調達した銀10シケル[5]を届けるように」
人質を身代金で買い戻す習慣があったこと、代理業者(エージェント)がいたこと等非常に興味深い文書です。因みに銀10シケル(83グラム)は当時の奴隷売買の相場であったそうです。これを書いている2011年6月の銀の小売価格がグラム約105円ですから現代の価値では奴隷一人8715円という計算になります。これはあまり参考にはなりませんが、当時銀が非常に貴重であったことは想像できそうです。またハムラビ法典では強盗事件で殺された被害者の遺族に対して市(都市国家)が銀1マナ(60シケル)を支払うとあります。これだと52、290円になります。

BC13世紀には鉄製武器を持ったヒッタイト王国が勢力を拡張しエジプトからオリエントに至るまで鉄を普及させます。そして各王国の栄枯盛衰が激しくなります。北メソポタミアにBC2000年頃から住み着いていたアッシリアが勢力を増しBC8世紀頃になると征服活動に拍車がかかってきます。「旧約聖書」で好戦的といわれたアッシリアの残虐さは彼らの残したレリーフに数多く残されていますが、バビロンもBC732年からBC625年の間はアッシリアの占領下に入ります。アッシリアは占領地域を圧政下におき苛酷な占領政策を実施しました。データを見ると占領下での金利は銀ベースで20%~40%と高目です。

アッシリアが撤退しメソポタミア文明も終盤のBC625年からの新バビロニア時代に入るといよいよ民間の銀行活動が盛んになってきます。
マーチャント・バンクの起源ともいわれ後年のロスチャイルドとも比較されるエジビ家(The Egibi Sons)やユダヤ系のムラッシュ家(les Murashu)などの大地主が登場してきます。王(政府)に対する資金の貸付け、小切手、為替手形、さらには不動産ローンの買い取り、ベンチャー投資なども広く行われていたようです[6]。しかし預かった資金を貸し出しに回すということは行っていなかったようで、その為に彼らは銀行の起源としては扱われないのです。また奴隷自身がお金を借りて主人から自分自身を買い戻すローンもあったようです。

1879年のニューヨーク・タイムズでは”Egibii & Co., The Oldest Bankers[7]”のタイトルでこの当時発見されたエジビ家のタブレットに書かれたドキュメントを分析しています。シンプルな金銭貸借であること。第3者の保証があること。元本と金利の支払い先は契約当事者ではなく他の者であること。支払地も他の場所であること。この内容から当時既にかなり高度な金融取引がなされていたことが伺えるとあり、この記事の当時ヨーロッパで隆盛を誇っていたロスチャイルドにエジビ家を例えたのでしょう。

エジビ家は5世代、150年に渡って繁栄しましたが、新バビロニア王国は先に書いたようにペルシャのアケメネス王朝キュロス2世によって滅ぼされ、都市としてのバビロンも徐々に勢力を失います、そのアケメネス朝もBC330年にはアレキサンダー大王が来襲し滅ぼされ、その後バビロンはAD3世紀頃には廃墟となり砂の中に埋没してしまいました。

新バビロニアの時代には既に地中海やギリシャ方面に世界の中心が移動しつつありました。長年の貿易によって周辺地域から集められたバビロニアの富である金銀は地中海方面に持ち去られてしまいます。そしてこの頃にギリシャ文明は世界初の貨幣を生み出します。





[1] Public dimain wiki “cylinder seal” http://en.wikipedia.org/wiki/Cylinder_seal
[2] Sidney Homer and Richard Sylla ,
[3] Cash store $100につき1日1ドルと言うレートもある。これは年率365%になる。
[4] 「メソポタミア」ジャン・ポテロ 法政大学出版会 1998年 p247
[5] 1シケル=8.36g 60シケル=1ミナ 501.6g
[6] Sidney Homer and Richard Sylla  p28
[7] “Egibi & Co., The Oldest Bankers”The New York Times Nov.30,1879

2011年6月20日月曜日

文字とタブレット


メソポタミア文明のシュメール人はBC3500年頃からチグリス、ユーフラテス川下流域に住み着きました。灌漑農耕を始め、村落を成し、やがていくつかの都市国家が形成されていきます。そこではリーダーが出現し都市国家の王となり神殿が作られます。神殿は政治を司るだけでは無く、収穫された穀物やその他の物産などが寄付や税として集められた倉庫でもありました。余剰生産物の増加に伴い農民の他に農業に直接従事しない神官、戦士、職人、商人などが登場してきますので穀物(食物)の再分配をしなければなりませんでした。いわば記録に残された徴税制度の始まりとも言えるでしょう。

もしも仮に読者のあなたが文字や数字のない時代の穀物倉庫の管理人で、王から遠征のために1000人の兵の30日分の食料を準備せよと命ぜられたらならば一体どうするでしょうか。倉庫(神殿)にどれだけの麦の在庫があるのかどうすれば管理できるでしょうか。
例えば倉庫に麦を運び込んだ人夫の人数だけ壁に縦に線を刻んで管理するとしましょう。王から命令を受けるとその線の数を数えて麦の量を推定します。今度は出庫した麦の分だけさらに壁を削って刻まれた線を消してしまうのでしょうか。そしてまた収穫期に入庫があれば同じ場所に線を刻む。そのうちに壁が削りとられて無くなってしまうかもしれません。


シュメール人はもう少しスマートでした。
まず穀物の貯蔵量を記録するためにトークンと呼ばれるものが作られました。最初は泥団子のようなものでした。一定量の麦に対して1個のトークンを作りトークンの数を数えることで在庫管理をしました。「おはじき」みたいな物でした。つまり仮に10単位の麦が収められると10個のトークンが神殿の記録棚に置かれ倉庫の在庫管理に使われたのです。これであれば出庫の時にトークンを棚から取り除いてしまえば済みます。足し算も引き算も簡単にできます。そして記録棚のトークンの数が増えてくるに従い、いちいち数えるのが面倒になってきますから、今度は管理しやすいようにバラバラのトークンを封筒に入れて、整理をして管理するようになります。(写真参照[1]

 これはまさに世界初の封筒なのですが、粘土で出来た封筒だったのです。我々も大量の小銭を数える時には10枚ずつ山にして数えやすくしたりしますが、それと同じことです。そして封筒で一定量のトークンを包んでしまうと今度は中に入れてあるトークンの数がわからなくなるので封筒の表には中にあるトークンの数を記入しなければならなくなります。

最初は単純に数の分だけ線を引いただけでしたが、これが次第に数字となって行ったと考えられています。10本の線を引き、10の単位には「◯」など他の記号をあてるようになりました。こうして数字で数が管理できるようになると、やがて中にわざわざトークンを入れた粘土の封筒を作るまでも無く、薄い粘土の板に数字だけを書きこめば記録としては充分に機能を持つようになっていきます。

また神殿に貯蔵される品物は麦だけではありませんでした。麦といっても大麦もあれば小麦もあります。青銅器の時代です、銀、銅などの金属や木材やレンガなどもありました。そこで次のステップとして品目を分別する為に絵文字が発明されました。品物を表す絵と数字があれば大概の物は管理可能です。

しかし絵文字だけでは情報量に限界がありました。例えば誰が納入したのか、いつ出荷したのかなどです。やがて絵文字は物を表す文字となり発生言語にも文字があてがわれ、文章が形成されていきます。シュメールではこうした文章情報はタブレット(写真参照[2])と呼ばれる記憶装置に刻み込まれ、シュメール人は現代の我々に貴重な情報を残してくれることになったのです。数字や文字の発明は倉庫の在庫管理、会計記録の作成が当初の目的でした。

穀物は年に一度収穫されますから個々の記録が照合され決算報告書が年に一度作成されるようになりました。しかし当時は未だ現在のアラビア数字はありませんから、我々の目にする決算報告のように文字と数字が分離されて表として書かれているわけではなく、文章の中に数字が混じった状態であって、現代の決算報告書の文章部分だけのようなイメージでした[3]。数字は計算のために書かれているのではなく、計算はトークンや算盤の一種を使って行われていました。

シュメールには1から59まで数字がありました。60進法が使われていたのです。さらにその数字をよく見ると、10以上では1桁目と2桁目が組み合わせになっていることがわかります。これは「位取り」が行われていて10進法も併用されていたことがわかります。しかし0の概念はまだありませんでした。

60と言う数字は分配の用途には実に便利な数字です。50と比較してそれぞれの約数の数を見てみるとよくわかります。
60は30、20、15、12、10、6、5、4、3、2の10個。50では25、10、5、2の4個しかありません。人類は時間や角度を測る時、あるいは飲み物や卵を買う時に使うダースなど、シュメールやバビロニア方式の60進法を現在も使用し続けています。(数字表[4]

メソポタミアの南部では穀物こそ豊富でしたが、金属や石材、木材のような原材料は持っていませんでした。記録によると財産目録には干しレンガでできた家とともにドアが独立した財産品目として記録されています。木製のドアが非常に貴重品であったことがわかるのです。穀物以外に原材料の乏しいシュメールが繁栄するためには、現代でいう「技術立国」とならざるを得ませんでした。したがって周辺地域と活発に交易が行われ、木材や銀、銅、青銅、毛製品、毛皮、羊毛などの原材料が輸入され、それらを加工し家具や手工芸品、楽器などを製品として輸出する交易を行っていました。

 タブレットの記録も最初は勘定書というような神殿の在庫管理が主要な目的だったのですが、交易がなされるようになると売買契約書や引渡証などが増えてきます。また家畜の数や収穫高、人々が働いた日数や食料の分配の記録、奴隷売買に関するものと範囲を広げ精緻化されて行きます。契約があればそれを破棄したり違約する者が現れ調停や裁判も必要になります。

タブレットの特徴はこうした日々の経済活動が記録される一方で政治の歴史等の記録は少なく「信頼すべき編年史すら書けない状態」なのだそうです[5]。文字で記録すべきものと記録する必要の無いものが分けられていたようです。確かに我々も習慣として日常では数字だけをメモしたりします。

BC2800年には既に不動産取引がタブレットに記録されています。メソポタミアでは土地は当初神殿(王)が保有していましたが、後に個人によっても所有されるようになりました。取引は立会人(証人)を立てタブレットに記録され保管されます。ハムラビ法典の7条では契約書なしで所有権を移転させると受け取った側は盗人になるとあります。神殿は公証人役場もかねていました。

タブレットの中には数字の計算方法を記述したものもありました。洪水が頻発するチグリス・ユーフラテス下流域の南部メソポタミアでは流された土地を再整備するための測量も重要な技術だったのです。土地測量に関するタブレットには幾何学上の符号も記されているものもありますし、三角法の定理や数学の演習問題、天文学、平方根、立方根も既に計算されていました。

こうしたタブレットの記述に特殊技能としての「書記」という技術が必要になると専門の学校が設立されるようになります。シュメールではBC3000年頃に神殿付属の王立学校が誕生しています。もちろん人類最初の学校になるでしょう。しかし注目されるべきはこうした学校は神学校ではなく実務家養成の為の技術学校であったことです。この学校を卒業するとエリート高級官僚への将来が約束されていました。成績の悪い息子の為に親が教師に賄賂を送った記録までタブレットは残しています[6]。人類初の記録に残った賄賂になるのでしょうか。

こうしてシュメール人は文字を発達させ文章を成し、会計の記録に留まらず「ギルガメシュ叙事詩」のような物語まで作りだすことになります。

続く


[1] © Marie-Lan Nguyen / Wikimedia Commons  http://en.wikipedia.org/wiki/Accountancy
[2]  © Marie-Lan Nguyen / Wikimedia Commons  http://en.wikipedia.org/wiki/Accountancy
[3] 「簿記の生成と現代化」J.H.ラフマン 晃洋書房、2000
[4] GNU Free Documentation License. “Babylonian numerals”wiki  http://en.wikipedia.org/wiki/Babylonian_numerals
[5] 「シュメール」H・ウーリッヒ アリアドネ企画 p168
[6] 「シュメール」H・ウーリッヒ アリアドネ企画 p172

2011年6月17日金曜日

西洋文明とメソポタミア文明


お酒を歴史の古い順から並べると、先ず最初に登場するのは蜂蜜を原料としたミール酒だと言われています。これは蜂蜜を水で薄めると簡単に発酵するので人類が一番作り易かった酒ではないかと考えられているからです。次がぶどうを原料とするワイン、そして麦から出来たビールと続きます。ワインはBC5400年頃の壺に残滓が付着していた事が既に報告されています。また日本の縄文期においても山ぶどうを原料とするワインがあったと考えられています。

2011年の最近のニュースではUCLAの発掘隊がアルメニア南部でワインの醸造施設を発見しています。醸造施設としてはこれまでの最古であった古代エジプトのBC3100年をなんと1000年も記録更新しBC4100年頃と推定されています。1000年と一口に言いますが10世紀もさかのぼってしまったのです。しかしこれは遺跡であって文字による記録はそこにはありませんでした。お酒の発明は文字の発明よりもずっと古いのです。今夜は読まなければいけない資料があるのについつい飲みに行ってしまう。これは人類の歴史に沿った行動だと言えるでしょう。もちろん人類が進化している事を無視すればの話ですが。

どんなお酒の歴史の本でも必ず登場してくるのが、「メソポタミアのハムラビ法典ではビールを提供する酒場のルールも決められていた」という下りです。これはもうこの手の本ではすっかり「お約束」のようなものになっていますが、それでも私は見るたびに刮目せざるをえません。ハムラビ法典は紀元前1750年に書かれたと推定されています。その内容は、その頃から居酒屋があり、居酒屋の主人は女性であった。そこには犯罪者がよく紛れ込んだ。質の悪いビールを出すと罰を受けた。また神殿(役所)につかえる女性公務員はアルバイトで居酒屋を経営してはいけなかった。ツケでビールを売ったときの支払いについて。などなど。ハムラビ法典の条文は全部で282条[1]ありますが、酒場の記述は108~111条に書かれています[2]

何故エジプト、インダス、黄河など他の世界4大文明に比べてメソポタミアは常に引き合いに出されるのでしょうか。それはメソポタミア文明において世界で初めて文字が発明され、さらにその楔形の文字が刻まれた粘土板(タブレット)が現代にまで鮮やかに残されているからなのです。

メソポタミアにあったものはおおよそ何でも世界で初めての記述になるのです。法律、辞書、物語、参考書、問題集、数学、測量学、天文学、医学、簿記、不動産取引契約、金銭消費貸借契約、不動産や船舶リース取引、担保、金利、お酒、お料理のレシピ、などなどきりがありません。メソポタミアで発見されたタブレットは既に50万枚を越えさらに新たな発見が続いています。その記述内容は日記や政治などよりもむしろ大麦や不動産の売買や在庫の記録など経済活動に関わる記述がその約80%を占めているのです。文字の発明の必然性は「会計の目的」にあったと考えてよいでしょう。

また世界最古と言われた(私は高校でそう教わりました)前出のハムラビ法典もその後新たに発見されたタブレットの解明によって現在ではそれ以前にあったシュメール法典(BC2113)を継承したものだということも明確になっています。知らなかったのは私だけかもしれませんが、ハムラビ法典は既に「世界最古の法典」では無くなっているのです。また発見された同時代の裁判の判例を記したタブレットにハムラビ法典を参照した例は無く、法と言うよりも判例集のようなものであったのではないかと推定されています。しかしこれでハムラビ法典の価値が下がったわけではありません。ハムラビ法典は書かれて以降も1000年もの間コピーされ続けメソポタミアの都市国家の各地で何度も記述されているのです。

我々日本人は「卑弥呼」がいた事をよく知っています。しかしその都の所在地は大和なのか九州なのか、あるいは別の場所なのか未だに特定できないでいます。また日本の最古の書物は聖徳太子の法華義疏(615年頃)であり、歴史書 では古事記(712年)でしかありません。その「古事記」では日本の起源を初代天皇である神武天皇の即位、西暦ではBC660年としていますが、何かそれを証明する遺跡が見つかったわけでもありません。我々はそれを一種の伝説だと考えています。

同じように中近世の西洋人から見ればメソポタミア文明は世界最古の書籍である(彼らはそう信じていた)「旧約聖書」にこそ伝承として記述があるものの、位置を特定できない伝説の場所だったのです。ノアの方舟やバベル(バビロン)の塔、バビロニアの都バビロン、そしてキリスト教、イスラム教、ユダヤ教の聖典の始祖アブラハムの生誕の地などです。一方でエジプト文明は地中海に面した地理的な事情もあり、ギリシャ、ローマ時代以降も西洋人の目の前で歴史を刻んでいました。ビジブルな存在だったのです。

歴史用語に先史時代(Prehistory)というものがあります。これは文書記録が残された有史時代以前の時代区分にあたります。つまり歴史としての記録があるのかどうかの違いです。この概念は19世紀に生まれました。中世のキリスト教歴史観では天地創造とアダムとイヴ誕生以来の歴史は普遍史(Universal History)として扱われていました。変だなと思っても異議申立てはしてはならなかったのです。メソポタミアは普遍史の中の世界でしかありませんでした。少し乱暴ですが「古事記」に書かれた日本の神話イザナギ、イザナミの神と同じだと考えればよいのではないでしょうか。

現在のイラクにあたるチグリス、ユーフラテス川に挟まれたメソポタミア地域と西洋文明の繋がりは西暦363年のローマ皇帝ユリアヌスがチグリス河畔で没して以降、歴史の闇の中に消えてしまいました。そして実際にメソポタミアはバビロンの都ともども本当に砂の中に埋もれてしまったのでした。メソポタミアはヘロドトスの「歴史」などギリシャの文献や旧約聖書の中の記述だけの世界になってしまったのです。


現在のイラン中央部にペルセポリスという紀元前4世紀頃のアケメネス朝ペルシャ帝国の首都(後でわかったことです)の廃墟がありました、そしてそこには未知の3種類の楔形文字で刻まれた石碑が歳月を経て残されていました。西洋文明とメソポタミア文明の歴史が断絶して1300年も後の1620年にここを旅したイタリア人がこの文字を筆写して西洋、キリスト教世界に持ち帰りました。1774年にはカールステン・ニーブールという人物がこれを書籍で紹介するとヨーロッパでは一気にこの得体の知れない文字の翻訳熱が盛り上がりました。

このペルセポリスの碑文に書かれた3種類の楔形文字は第1の書体では40文字(文字の種類)、第2は100文字、第3は500を越える文字からなっており、どれも言語は違えど文章の中身は同じだと想定されました。電車に日本語と英語と中国語で注意書きがしてあるのと同じだと思えばいいでしょう。そこで当時の学者達は文字数の少ない第1種から解析を始めました。似たような言語を探したり、繰り返し使用される単語を「王」という単語であると推定したりするのです。第1種は様々な苦労の末1802年に解析され「古代ペルシャ語」と名づけられました。そして第2種はエラム王国で使われていた「エラム語[3]」であることがわかりました。こうして学者達は最も複雑な第3種の文字の解析に集中することになります。

この頃、19世紀半ばには第3種の文字で書かれたタブレットや碑文が既に他にも数多く発見され始めていました。そして旧約聖書ではBC722年に好戦的なアッシリア人がイスラエル王国を、また新バビロニア王国が南のユダヤ人国家であるユダをBC586年に滅ぼした[4]と伝えていたので、多分アッシリア人のものであろうこの文字を解析すれば旧約聖書の伝説が解明されるかもしれないと期待されたのです。その為にエジプトの「エジプト学」に対してメソポタミアは「アッシリア学」と呼ばれるようになりました。[5]
もしWebで粘土板の検索をするのであれば、”Cray Tablet” よりも”Assyrian Tablet”、あるいは”Ceneiform tablet”の方が見つけやすいでしょう。そしてこの当時はアッシリア人こそがメソポタミアに初めて住んだ民族だと考えられていたのです。

第3種文字の翻訳ができたとの報告が増えてくると、1857年にロンドン王立アジア学会は新しく発見された第3種文字で書かれた碑文の翻訳を4人の学者に依頼しました。4人はお互いに相談することを禁じられ別々に翻訳をしましたが、翻訳の結果は4人とも仔細に至るまで一致したのです。果たしてこの第3種文字(アッシリア・バビロニア語)の翻訳は完成し、続々と発掘される粘土板の文書が解明されていくことになりました。

しかし「アッシリア学」と言うネーミングは少し勇み足だったようです。この後メソポタミアにはもっと古くから別の人種が住み早くから開墾され既に文字が存在していたことが次第に明らかになっていきました。これがシュメール人です。博物館等でエジプトを扱えば「エジプト展」(もちろん古王国、中王国、新王国とはありますが)なのにメソポタミア展では「アッシリア」、「バビロニア」、「シュメール」などとテーマがバラバラになるのはこの為だと思います。文献検索でも「メソポタミア」だけでは肝心な書籍にはアクセスできません。

この文字の解明によって明らかになる様々な史実は歴史学会のみならず「聖書」を文字どおり「バイブル」とする西洋文明にとっては大変インパクトのある出来事だったのですが、1872年にジョージ・スミスが「洪水神話」の翻訳を発表するとそれこそ一大ショックが西洋文明を襲いました。これは所謂「ノアの方舟」の話でした。そしてこの神話は「ギルガメッシュ叙情詩」と言う物語の一部分でしかないことも判明するのです。当時のヨーロッパでは旧約聖書こそが世界最古の書物と信じられていたのにもっと古い書物があったことになるのです。

そして主人公のギルガメッシュはBC2600年のシュメールの王がモデルでした。最古の写本はBC2000年のものまで発見されています。この発見はちょうど日本が明治維新を経て新橋・横浜間に鉄道が開通した頃の話です。日本が西洋文明に触れて外的ショックを受けている頃、彼らはメソポタミアという古くて新しい彼ら自身の出自である文明と接してショックを受けていたのでした。

その後旧約聖書に書かれていた幻の都市バビロンは1899年から1917年にかけて発掘され存在が確認されました。そこには7層、高さ90メートルの螺旋状の階段を持つと想定されるバベルの塔の基礎部分が残され、空中庭園のレリーフも見つかりました。そして前出のハムラビ法典が1901年~2年にかけてエラム王国の古都で発見されます。これはエラムが戦利品としてバビロンから持ち帰ったものでした。こうして普遍史の中の伝説は文書による記録と遺跡の揃った有史のものとなっていくのです。西洋文明にとってメソポタミアの研究とは旧約聖書の「謎解き」をしているようなものだったのでしょう。

NHKスペシャル「四大文明」によると四大文明のひとつであるメソポタミアの中にさらに「四大文明」があったと解説しています。それは古い順に「シュメール」、「アッカド」、「バビロニア」、「アッシリア」です。[6]

現在の研究ではBC8500年頃からこの地域で農耕牧畜が開始され、BC5500年にはウバイド人によってメソポタミア南部で灌漑農耕が発展、神殿も出現していたとされます。しかしこれは文明には数えられません。BC3500年頃にシュメール人がウバイド人にかわり南部地域に住み始め都市を築き数字と文字が発明され文明と呼ばれるものが出現します。

BC1900年頃に「シュメール」にかわり北部地域に在った「アッカド」も統合し「バビロニア」帝国が成立し、これがBC732年まで続きます。この間北部ではアッシリアが勢力を保ちBC732年からBC625年までの短い間に「アッシリア」が一旦南北を支配します。
山川出版の高校の教科書を少し詳しくした「詳説世界史研究」の図ではこの四大文明のどれかが交替でメソポタミアを支配したわけではなくお互いに入り組んで存在していたことがわかります。[7]

そしてBC625年からBC539年にメソポタミア文明最後の国である新バビロニア王朝が成立し、ペルシャのアケメネス王朝キュロス2世によって滅ぼされます。ユニークな名前ばかり並べられても読者も困るだろうと思いますが。試験をするわけでもないので憶える必要はありません。「シュメール」があって文字を発明し、「バビロニア」がハムラビ法典です。支配が入れ替わっても「バビロニア」は「シュメール」の文明を継承しました。そしてそれぞれの文明は断絶せずに綿々と連なっているのです。最初に発見されたペルセポリスの碑文は三種の言語で書かれていましたし、シュメール語はバビロニアの時代にも近世ヨーロッパのラテン語教養のように扱われていました。各言語を繋ぐ辞書も多く発見されています。

メソポタミア文明を滅ぼしたアケメネス朝ペルシャはギリシャのアレキサンダー大王に侵略され、アレキサンダー大王はバビロンの都で死亡します。その後のメソポタミア文明の地域はペルシャ、イスラムの世界に組み込まれ西洋文明から見れば歴史の中に埋没してしまいます。バビロンの都は廃墟となり本当に砂の中に埋もれてしまうのです。メソポタミアを支えた運河や灌漑によって潤った南部の畑は塩害によって砂漠となってしまいます。湾岸戦争後、発掘調査は頓挫していますが、ヨルダンやトルコなどの周辺地域では今でも古くて新しいタブレットが多数発見され続けているのです。

そしてそのタブレットには金融市場の歴史にまつわる数多くの事実が書かれていました。

(続く)


[1] この条文の番号は後に翻訳者が便宜上振ったものであって、ハムラビ法典の条文に番号があったわけでは無い。
[2] 日本語のサイト ハンムラビ法典全文現代日本語訳 http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Himawari/5054/
英語のサイト エール大学 アバロン・プロジェクト http://avalon.law.yale.edu/ancient/hamframe.asp
[3] BC2000頃に文字を発明したと考えられるイラン高原ザグロス山脈沿いの民族。
[4] バビロン捕囚として有名
[5] 「メソポタミア文明」ジャン・ボッテロ 知の再発見シリーズ 創元社
[6] 「四大文明:メソポタミア」松本健 NHK出版
[7] 「詳説世界史研究」山川出版 p16