2011年6月17日金曜日

西洋文明とメソポタミア文明


お酒を歴史の古い順から並べると、先ず最初に登場するのは蜂蜜を原料としたミール酒だと言われています。これは蜂蜜を水で薄めると簡単に発酵するので人類が一番作り易かった酒ではないかと考えられているからです。次がぶどうを原料とするワイン、そして麦から出来たビールと続きます。ワインはBC5400年頃の壺に残滓が付着していた事が既に報告されています。また日本の縄文期においても山ぶどうを原料とするワインがあったと考えられています。

2011年の最近のニュースではUCLAの発掘隊がアルメニア南部でワインの醸造施設を発見しています。醸造施設としてはこれまでの最古であった古代エジプトのBC3100年をなんと1000年も記録更新しBC4100年頃と推定されています。1000年と一口に言いますが10世紀もさかのぼってしまったのです。しかしこれは遺跡であって文字による記録はそこにはありませんでした。お酒の発明は文字の発明よりもずっと古いのです。今夜は読まなければいけない資料があるのについつい飲みに行ってしまう。これは人類の歴史に沿った行動だと言えるでしょう。もちろん人類が進化している事を無視すればの話ですが。

どんなお酒の歴史の本でも必ず登場してくるのが、「メソポタミアのハムラビ法典ではビールを提供する酒場のルールも決められていた」という下りです。これはもうこの手の本ではすっかり「お約束」のようなものになっていますが、それでも私は見るたびに刮目せざるをえません。ハムラビ法典は紀元前1750年に書かれたと推定されています。その内容は、その頃から居酒屋があり、居酒屋の主人は女性であった。そこには犯罪者がよく紛れ込んだ。質の悪いビールを出すと罰を受けた。また神殿(役所)につかえる女性公務員はアルバイトで居酒屋を経営してはいけなかった。ツケでビールを売ったときの支払いについて。などなど。ハムラビ法典の条文は全部で282条[1]ありますが、酒場の記述は108~111条に書かれています[2]

何故エジプト、インダス、黄河など他の世界4大文明に比べてメソポタミアは常に引き合いに出されるのでしょうか。それはメソポタミア文明において世界で初めて文字が発明され、さらにその楔形の文字が刻まれた粘土板(タブレット)が現代にまで鮮やかに残されているからなのです。

メソポタミアにあったものはおおよそ何でも世界で初めての記述になるのです。法律、辞書、物語、参考書、問題集、数学、測量学、天文学、医学、簿記、不動産取引契約、金銭消費貸借契約、不動産や船舶リース取引、担保、金利、お酒、お料理のレシピ、などなどきりがありません。メソポタミアで発見されたタブレットは既に50万枚を越えさらに新たな発見が続いています。その記述内容は日記や政治などよりもむしろ大麦や不動産の売買や在庫の記録など経済活動に関わる記述がその約80%を占めているのです。文字の発明の必然性は「会計の目的」にあったと考えてよいでしょう。

また世界最古と言われた(私は高校でそう教わりました)前出のハムラビ法典もその後新たに発見されたタブレットの解明によって現在ではそれ以前にあったシュメール法典(BC2113)を継承したものだということも明確になっています。知らなかったのは私だけかもしれませんが、ハムラビ法典は既に「世界最古の法典」では無くなっているのです。また発見された同時代の裁判の判例を記したタブレットにハムラビ法典を参照した例は無く、法と言うよりも判例集のようなものであったのではないかと推定されています。しかしこれでハムラビ法典の価値が下がったわけではありません。ハムラビ法典は書かれて以降も1000年もの間コピーされ続けメソポタミアの都市国家の各地で何度も記述されているのです。

我々日本人は「卑弥呼」がいた事をよく知っています。しかしその都の所在地は大和なのか九州なのか、あるいは別の場所なのか未だに特定できないでいます。また日本の最古の書物は聖徳太子の法華義疏(615年頃)であり、歴史書 では古事記(712年)でしかありません。その「古事記」では日本の起源を初代天皇である神武天皇の即位、西暦ではBC660年としていますが、何かそれを証明する遺跡が見つかったわけでもありません。我々はそれを一種の伝説だと考えています。

同じように中近世の西洋人から見ればメソポタミア文明は世界最古の書籍である(彼らはそう信じていた)「旧約聖書」にこそ伝承として記述があるものの、位置を特定できない伝説の場所だったのです。ノアの方舟やバベル(バビロン)の塔、バビロニアの都バビロン、そしてキリスト教、イスラム教、ユダヤ教の聖典の始祖アブラハムの生誕の地などです。一方でエジプト文明は地中海に面した地理的な事情もあり、ギリシャ、ローマ時代以降も西洋人の目の前で歴史を刻んでいました。ビジブルな存在だったのです。

歴史用語に先史時代(Prehistory)というものがあります。これは文書記録が残された有史時代以前の時代区分にあたります。つまり歴史としての記録があるのかどうかの違いです。この概念は19世紀に生まれました。中世のキリスト教歴史観では天地創造とアダムとイヴ誕生以来の歴史は普遍史(Universal History)として扱われていました。変だなと思っても異議申立てはしてはならなかったのです。メソポタミアは普遍史の中の世界でしかありませんでした。少し乱暴ですが「古事記」に書かれた日本の神話イザナギ、イザナミの神と同じだと考えればよいのではないでしょうか。

現在のイラクにあたるチグリス、ユーフラテス川に挟まれたメソポタミア地域と西洋文明の繋がりは西暦363年のローマ皇帝ユリアヌスがチグリス河畔で没して以降、歴史の闇の中に消えてしまいました。そして実際にメソポタミアはバビロンの都ともども本当に砂の中に埋もれてしまったのでした。メソポタミアはヘロドトスの「歴史」などギリシャの文献や旧約聖書の中の記述だけの世界になってしまったのです。


現在のイラン中央部にペルセポリスという紀元前4世紀頃のアケメネス朝ペルシャ帝国の首都(後でわかったことです)の廃墟がありました、そしてそこには未知の3種類の楔形文字で刻まれた石碑が歳月を経て残されていました。西洋文明とメソポタミア文明の歴史が断絶して1300年も後の1620年にここを旅したイタリア人がこの文字を筆写して西洋、キリスト教世界に持ち帰りました。1774年にはカールステン・ニーブールという人物がこれを書籍で紹介するとヨーロッパでは一気にこの得体の知れない文字の翻訳熱が盛り上がりました。

このペルセポリスの碑文に書かれた3種類の楔形文字は第1の書体では40文字(文字の種類)、第2は100文字、第3は500を越える文字からなっており、どれも言語は違えど文章の中身は同じだと想定されました。電車に日本語と英語と中国語で注意書きがしてあるのと同じだと思えばいいでしょう。そこで当時の学者達は文字数の少ない第1種から解析を始めました。似たような言語を探したり、繰り返し使用される単語を「王」という単語であると推定したりするのです。第1種は様々な苦労の末1802年に解析され「古代ペルシャ語」と名づけられました。そして第2種はエラム王国で使われていた「エラム語[3]」であることがわかりました。こうして学者達は最も複雑な第3種の文字の解析に集中することになります。

この頃、19世紀半ばには第3種の文字で書かれたタブレットや碑文が既に他にも数多く発見され始めていました。そして旧約聖書ではBC722年に好戦的なアッシリア人がイスラエル王国を、また新バビロニア王国が南のユダヤ人国家であるユダをBC586年に滅ぼした[4]と伝えていたので、多分アッシリア人のものであろうこの文字を解析すれば旧約聖書の伝説が解明されるかもしれないと期待されたのです。その為にエジプトの「エジプト学」に対してメソポタミアは「アッシリア学」と呼ばれるようになりました。[5]
もしWebで粘土板の検索をするのであれば、”Cray Tablet” よりも”Assyrian Tablet”、あるいは”Ceneiform tablet”の方が見つけやすいでしょう。そしてこの当時はアッシリア人こそがメソポタミアに初めて住んだ民族だと考えられていたのです。

第3種文字の翻訳ができたとの報告が増えてくると、1857年にロンドン王立アジア学会は新しく発見された第3種文字で書かれた碑文の翻訳を4人の学者に依頼しました。4人はお互いに相談することを禁じられ別々に翻訳をしましたが、翻訳の結果は4人とも仔細に至るまで一致したのです。果たしてこの第3種文字(アッシリア・バビロニア語)の翻訳は完成し、続々と発掘される粘土板の文書が解明されていくことになりました。

しかし「アッシリア学」と言うネーミングは少し勇み足だったようです。この後メソポタミアにはもっと古くから別の人種が住み早くから開墾され既に文字が存在していたことが次第に明らかになっていきました。これがシュメール人です。博物館等でエジプトを扱えば「エジプト展」(もちろん古王国、中王国、新王国とはありますが)なのにメソポタミア展では「アッシリア」、「バビロニア」、「シュメール」などとテーマがバラバラになるのはこの為だと思います。文献検索でも「メソポタミア」だけでは肝心な書籍にはアクセスできません。

この文字の解明によって明らかになる様々な史実は歴史学会のみならず「聖書」を文字どおり「バイブル」とする西洋文明にとっては大変インパクトのある出来事だったのですが、1872年にジョージ・スミスが「洪水神話」の翻訳を発表するとそれこそ一大ショックが西洋文明を襲いました。これは所謂「ノアの方舟」の話でした。そしてこの神話は「ギルガメッシュ叙情詩」と言う物語の一部分でしかないことも判明するのです。当時のヨーロッパでは旧約聖書こそが世界最古の書物と信じられていたのにもっと古い書物があったことになるのです。

そして主人公のギルガメッシュはBC2600年のシュメールの王がモデルでした。最古の写本はBC2000年のものまで発見されています。この発見はちょうど日本が明治維新を経て新橋・横浜間に鉄道が開通した頃の話です。日本が西洋文明に触れて外的ショックを受けている頃、彼らはメソポタミアという古くて新しい彼ら自身の出自である文明と接してショックを受けていたのでした。

その後旧約聖書に書かれていた幻の都市バビロンは1899年から1917年にかけて発掘され存在が確認されました。そこには7層、高さ90メートルの螺旋状の階段を持つと想定されるバベルの塔の基礎部分が残され、空中庭園のレリーフも見つかりました。そして前出のハムラビ法典が1901年~2年にかけてエラム王国の古都で発見されます。これはエラムが戦利品としてバビロンから持ち帰ったものでした。こうして普遍史の中の伝説は文書による記録と遺跡の揃った有史のものとなっていくのです。西洋文明にとってメソポタミアの研究とは旧約聖書の「謎解き」をしているようなものだったのでしょう。

NHKスペシャル「四大文明」によると四大文明のひとつであるメソポタミアの中にさらに「四大文明」があったと解説しています。それは古い順に「シュメール」、「アッカド」、「バビロニア」、「アッシリア」です。[6]

現在の研究ではBC8500年頃からこの地域で農耕牧畜が開始され、BC5500年にはウバイド人によってメソポタミア南部で灌漑農耕が発展、神殿も出現していたとされます。しかしこれは文明には数えられません。BC3500年頃にシュメール人がウバイド人にかわり南部地域に住み始め都市を築き数字と文字が発明され文明と呼ばれるものが出現します。

BC1900年頃に「シュメール」にかわり北部地域に在った「アッカド」も統合し「バビロニア」帝国が成立し、これがBC732年まで続きます。この間北部ではアッシリアが勢力を保ちBC732年からBC625年までの短い間に「アッシリア」が一旦南北を支配します。
山川出版の高校の教科書を少し詳しくした「詳説世界史研究」の図ではこの四大文明のどれかが交替でメソポタミアを支配したわけではなくお互いに入り組んで存在していたことがわかります。[7]

そしてBC625年からBC539年にメソポタミア文明最後の国である新バビロニア王朝が成立し、ペルシャのアケメネス王朝キュロス2世によって滅ぼされます。ユニークな名前ばかり並べられても読者も困るだろうと思いますが。試験をするわけでもないので憶える必要はありません。「シュメール」があって文字を発明し、「バビロニア」がハムラビ法典です。支配が入れ替わっても「バビロニア」は「シュメール」の文明を継承しました。そしてそれぞれの文明は断絶せずに綿々と連なっているのです。最初に発見されたペルセポリスの碑文は三種の言語で書かれていましたし、シュメール語はバビロニアの時代にも近世ヨーロッパのラテン語教養のように扱われていました。各言語を繋ぐ辞書も多く発見されています。

メソポタミア文明を滅ぼしたアケメネス朝ペルシャはギリシャのアレキサンダー大王に侵略され、アレキサンダー大王はバビロンの都で死亡します。その後のメソポタミア文明の地域はペルシャ、イスラムの世界に組み込まれ西洋文明から見れば歴史の中に埋没してしまいます。バビロンの都は廃墟となり本当に砂の中に埋もれてしまうのです。メソポタミアを支えた運河や灌漑によって潤った南部の畑は塩害によって砂漠となってしまいます。湾岸戦争後、発掘調査は頓挫していますが、ヨルダンやトルコなどの周辺地域では今でも古くて新しいタブレットが多数発見され続けているのです。

そしてそのタブレットには金融市場の歴史にまつわる数多くの事実が書かれていました。

(続く)


[1] この条文の番号は後に翻訳者が便宜上振ったものであって、ハムラビ法典の条文に番号があったわけでは無い。
[2] 日本語のサイト ハンムラビ法典全文現代日本語訳 http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Himawari/5054/
英語のサイト エール大学 アバロン・プロジェクト http://avalon.law.yale.edu/ancient/hamframe.asp
[3] BC2000頃に文字を発明したと考えられるイラン高原ザグロス山脈沿いの民族。
[4] バビロン捕囚として有名
[5] 「メソポタミア文明」ジャン・ボッテロ 知の再発見シリーズ 創元社
[6] 「四大文明:メソポタミア」松本健 NHK出版
[7] 「詳説世界史研究」山川出版 p16

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