2011年6月20日月曜日

文字とタブレット


メソポタミア文明のシュメール人はBC3500年頃からチグリス、ユーフラテス川下流域に住み着きました。灌漑農耕を始め、村落を成し、やがていくつかの都市国家が形成されていきます。そこではリーダーが出現し都市国家の王となり神殿が作られます。神殿は政治を司るだけでは無く、収穫された穀物やその他の物産などが寄付や税として集められた倉庫でもありました。余剰生産物の増加に伴い農民の他に農業に直接従事しない神官、戦士、職人、商人などが登場してきますので穀物(食物)の再分配をしなければなりませんでした。いわば記録に残された徴税制度の始まりとも言えるでしょう。

もしも仮に読者のあなたが文字や数字のない時代の穀物倉庫の管理人で、王から遠征のために1000人の兵の30日分の食料を準備せよと命ぜられたらならば一体どうするでしょうか。倉庫(神殿)にどれだけの麦の在庫があるのかどうすれば管理できるでしょうか。
例えば倉庫に麦を運び込んだ人夫の人数だけ壁に縦に線を刻んで管理するとしましょう。王から命令を受けるとその線の数を数えて麦の量を推定します。今度は出庫した麦の分だけさらに壁を削って刻まれた線を消してしまうのでしょうか。そしてまた収穫期に入庫があれば同じ場所に線を刻む。そのうちに壁が削りとられて無くなってしまうかもしれません。


シュメール人はもう少しスマートでした。
まず穀物の貯蔵量を記録するためにトークンと呼ばれるものが作られました。最初は泥団子のようなものでした。一定量の麦に対して1個のトークンを作りトークンの数を数えることで在庫管理をしました。「おはじき」みたいな物でした。つまり仮に10単位の麦が収められると10個のトークンが神殿の記録棚に置かれ倉庫の在庫管理に使われたのです。これであれば出庫の時にトークンを棚から取り除いてしまえば済みます。足し算も引き算も簡単にできます。そして記録棚のトークンの数が増えてくるに従い、いちいち数えるのが面倒になってきますから、今度は管理しやすいようにバラバラのトークンを封筒に入れて、整理をして管理するようになります。(写真参照[1]

 これはまさに世界初の封筒なのですが、粘土で出来た封筒だったのです。我々も大量の小銭を数える時には10枚ずつ山にして数えやすくしたりしますが、それと同じことです。そして封筒で一定量のトークンを包んでしまうと今度は中に入れてあるトークンの数がわからなくなるので封筒の表には中にあるトークンの数を記入しなければならなくなります。

最初は単純に数の分だけ線を引いただけでしたが、これが次第に数字となって行ったと考えられています。10本の線を引き、10の単位には「◯」など他の記号をあてるようになりました。こうして数字で数が管理できるようになると、やがて中にわざわざトークンを入れた粘土の封筒を作るまでも無く、薄い粘土の板に数字だけを書きこめば記録としては充分に機能を持つようになっていきます。

また神殿に貯蔵される品物は麦だけではありませんでした。麦といっても大麦もあれば小麦もあります。青銅器の時代です、銀、銅などの金属や木材やレンガなどもありました。そこで次のステップとして品目を分別する為に絵文字が発明されました。品物を表す絵と数字があれば大概の物は管理可能です。

しかし絵文字だけでは情報量に限界がありました。例えば誰が納入したのか、いつ出荷したのかなどです。やがて絵文字は物を表す文字となり発生言語にも文字があてがわれ、文章が形成されていきます。シュメールではこうした文章情報はタブレット(写真参照[2])と呼ばれる記憶装置に刻み込まれ、シュメール人は現代の我々に貴重な情報を残してくれることになったのです。数字や文字の発明は倉庫の在庫管理、会計記録の作成が当初の目的でした。

穀物は年に一度収穫されますから個々の記録が照合され決算報告書が年に一度作成されるようになりました。しかし当時は未だ現在のアラビア数字はありませんから、我々の目にする決算報告のように文字と数字が分離されて表として書かれているわけではなく、文章の中に数字が混じった状態であって、現代の決算報告書の文章部分だけのようなイメージでした[3]。数字は計算のために書かれているのではなく、計算はトークンや算盤の一種を使って行われていました。

シュメールには1から59まで数字がありました。60進法が使われていたのです。さらにその数字をよく見ると、10以上では1桁目と2桁目が組み合わせになっていることがわかります。これは「位取り」が行われていて10進法も併用されていたことがわかります。しかし0の概念はまだありませんでした。

60と言う数字は分配の用途には実に便利な数字です。50と比較してそれぞれの約数の数を見てみるとよくわかります。
60は30、20、15、12、10、6、5、4、3、2の10個。50では25、10、5、2の4個しかありません。人類は時間や角度を測る時、あるいは飲み物や卵を買う時に使うダースなど、シュメールやバビロニア方式の60進法を現在も使用し続けています。(数字表[4]

メソポタミアの南部では穀物こそ豊富でしたが、金属や石材、木材のような原材料は持っていませんでした。記録によると財産目録には干しレンガでできた家とともにドアが独立した財産品目として記録されています。木製のドアが非常に貴重品であったことがわかるのです。穀物以外に原材料の乏しいシュメールが繁栄するためには、現代でいう「技術立国」とならざるを得ませんでした。したがって周辺地域と活発に交易が行われ、木材や銀、銅、青銅、毛製品、毛皮、羊毛などの原材料が輸入され、それらを加工し家具や手工芸品、楽器などを製品として輸出する交易を行っていました。

 タブレットの記録も最初は勘定書というような神殿の在庫管理が主要な目的だったのですが、交易がなされるようになると売買契約書や引渡証などが増えてきます。また家畜の数や収穫高、人々が働いた日数や食料の分配の記録、奴隷売買に関するものと範囲を広げ精緻化されて行きます。契約があればそれを破棄したり違約する者が現れ調停や裁判も必要になります。

タブレットの特徴はこうした日々の経済活動が記録される一方で政治の歴史等の記録は少なく「信頼すべき編年史すら書けない状態」なのだそうです[5]。文字で記録すべきものと記録する必要の無いものが分けられていたようです。確かに我々も習慣として日常では数字だけをメモしたりします。

BC2800年には既に不動産取引がタブレットに記録されています。メソポタミアでは土地は当初神殿(王)が保有していましたが、後に個人によっても所有されるようになりました。取引は立会人(証人)を立てタブレットに記録され保管されます。ハムラビ法典の7条では契約書なしで所有権を移転させると受け取った側は盗人になるとあります。神殿は公証人役場もかねていました。

タブレットの中には数字の計算方法を記述したものもありました。洪水が頻発するチグリス・ユーフラテス下流域の南部メソポタミアでは流された土地を再整備するための測量も重要な技術だったのです。土地測量に関するタブレットには幾何学上の符号も記されているものもありますし、三角法の定理や数学の演習問題、天文学、平方根、立方根も既に計算されていました。

こうしたタブレットの記述に特殊技能としての「書記」という技術が必要になると専門の学校が設立されるようになります。シュメールではBC3000年頃に神殿付属の王立学校が誕生しています。もちろん人類最初の学校になるでしょう。しかし注目されるべきはこうした学校は神学校ではなく実務家養成の為の技術学校であったことです。この学校を卒業するとエリート高級官僚への将来が約束されていました。成績の悪い息子の為に親が教師に賄賂を送った記録までタブレットは残しています[6]。人類初の記録に残った賄賂になるのでしょうか。

こうしてシュメール人は文字を発達させ文章を成し、会計の記録に留まらず「ギルガメシュ叙事詩」のような物語まで作りだすことになります。

続く


[1] © Marie-Lan Nguyen / Wikimedia Commons  http://en.wikipedia.org/wiki/Accountancy
[2]  © Marie-Lan Nguyen / Wikimedia Commons  http://en.wikipedia.org/wiki/Accountancy
[3] 「簿記の生成と現代化」J.H.ラフマン 晃洋書房、2000
[4] GNU Free Documentation License. “Babylonian numerals”wiki  http://en.wikipedia.org/wiki/Babylonian_numerals
[5] 「シュメール」H・ウーリッヒ アリアドネ企画 p168
[6] 「シュメール」H・ウーリッヒ アリアドネ企画 p172

0 件のコメント: