2011年6月22日水曜日

メソポタミアの金融取引

数字や文字にタブレットのような記録媒体が発明されるとメソポタミアでは金融取引の記録が出現するようになります。

シュメールやバビロニアの神殿では農民に対して余剰物資である麦や銀を貸し出すようになりました。貨幣の発明はギリシャ文明を待たなければなりませんが、メソポタミアでは麦と並んで銀が秤量貨幣として重量に応じて貨幣の役割をしていました。 江戸時代に鬼平の400石など武士の給与が米で計算される一方で金製の小判や銀貨のみならず銀の延板が貨幣として用いられていたのと同じことです。都市国家の神殿(政府)が市民に穀物や銀を制度的に貸し出す事は少し強引ながら公的金融の起源とも言えるでしょう。そして麦や銀の貸借は民間にも広がっていきました。神殿が貧民に対して無利子で貸し出すこともありましたが、一般的には神殿も民間も金利を徴収しました。ハムラビ法典ではすでに上限金利が設定されていました。

「もし商人が穀物を貸借契約に供した時には穀物1クールにつき60クーの利息を徴収する。もし銀を貸借契約に供したときには、銀1シケルにつき6分の1シケルと6シェの利息を徴収する」
「もし商人が違反して1クールに対し60クーの利息あるいは1銀シケルに対して6分の1シケルと6シェの利息を超過して徴収したときは、商人は与えたものを失う」

ここでの麦60クーは1クールの3分の1ですから33.33%の金利になります。一方で銀の方はずいぶん中途半端な金利にも見えますがこれは正確に20%に相当します。

当時の重量の単位を見てみると、
1シケル=8.28g
1セウ=0.138g=1/60シケル
1シェ=0.046g=1/180シケル
利息=1/6シケル+6/180シケル=36/180シケル=1/5シケル
シュメール人は60進法を絶妙にあやつります。

利息に上限が設定されていたということは、利息を巡って揉め事が多かったであろうことが想像されます。法の外で活躍する高利貸しは歴史上一番古い形態であることは間違いありません。
また発掘された記録からはこの金利は上限であって実際にはネゴシアブルでもう少し低めに決められていたようです。


BC1823年にシッパール 、シャマシュ神の神殿で発見された借入を記録したタブレット があります。
「イリ=カダリの子であるブズルムはシャマシュ神から38と16分の1シケルを受領した。彼はシャマシュ神が定めた率で利子を支払うだろう。収穫の時、彼は銀とその利子とを返済するだろう」
ここでの貸し出し金利は神殿の定めた金利ですから20%だったのでしょう。期間については「収穫の時」とあります。麦の収穫は年1回であったことから貸借契約の期間は1年以内であること、また借入の目的が麦の耕作にあることもわかります。

こうした貸し出しの記録である貸借契約書は保証人を立ち会いのもと神殿の公証人によってタブレットに記録され債権者によって保管されました。その際にタブレットが偽造されないように印章が捺印されました。これは現代の我々の印鑑のような形態ではなく、側面に模様の刻まれた円柱形の印鑑(シリンダー)を粘土の上に押し付けてころがし模様をつけていました。(写真[1])このシリンダーは遠くエジプトやインドでも発見されており、シュメールやバビロニアの交易範囲の広さを示すとともに印鑑がバビロニアの重要な輸出品であったとも考えられる根拠になっています。

こうして作成された貸借契約は次第に譲渡可能なものになっていきますが、譲渡にあたっては公証人によって記録される必要がありました。しかしながら貸借契約書の譲渡が可能であるということは利付の証券の原形とも言えるのではないでしょうか。

またこの契約では担保が設定されていませんが、シュメールやバビロニアでは担保付も担保なしの債務もありました。担保には不動産の他、木製のドアを含めてあらゆる財産、妻、子供、親戚、所有していた奴隷などがあてられ、債務不履行の場合には人間の担保は奴隷にされました。上記の契約の場合、持ち物を全て出して、足りなければ債務者本人が奴隷になることもありました。
奴隷身分に落ちた場合ですがシュメールやバビロニアにおいては救済処置が施され奴隷の期限は3年に限られていました。また妻の資産も個別に守られていて夫との共同資産の場合、夫は勝手に妻の資産を担保提供することはできず貸借契約には妻の認証も必要とされたとあります。

さて、この33.33%の金利は果たして高いのでしょうか低いのでしょうか。。シドニー・ホーマーの著書「A History of Interst Rate」[2]では通貨や銀など代替物を使用しない穀物や家畜の現物貸しの金利水準としていくつかの興味深い比較対象を例示しています。

1960年頃のインドでは穀物種子の貸付の場合には2倍返し、つまり100%が標準であったそうです。この当時ルピー・ベースでの金利は24%~36%でした。20世紀初頭のインドシナでは50%。フィリッピンではライス・ローンが100%だったし豚を1頭借りれば2頭にして返す必要があったそうです。そうした比較からはシュメールの金利は非常に穏やかなものであったといえるのかもしれません。

銀を借りた場合の20%は少なくとも現代のアメリカの消費者金融[3]よりはずっと低い貸し出し金利ですし、貸金業法施行以前の日本のグレーゾーン金利の水準よりも低い値です。しかしシュメールやバビロニアは王権によって秩序を保たれた都市国家という狭い社会の中での信用(金利)です。この金利が現代と比較して高いのか安いのかは保留にすべきでしょう。またここには日本人が苦手なエリジブル(eligible:融資適格要件)という概念がありません。しかし借り逃げが容易な現代と比較して、メソポタミアの奴隷にされてしまうペナルティーには返済に対して相当なプレッシャーがかかったことでしょう。

では何故穀物の方が銀の借入よりも利息が高いのでしょうか。麦のような穀物の場合、種子を蒔く時期の麦の価格は麦の溢れかえっている収穫時よりも高いと予想されます。つまり季節要因による価格下落分が織り込まれていたとも考えられます。またハムラビ法典では不可抗力条項が設定され災害時の不作には元金・利息分とも免除されると書いてあります。天災リスクまで貸し手責任であるならば、麦の利息が高いのは仕方がないのかもしれません。

また麦と銀の交換比率は自由市場で決まるわけではなくたびたび改訂されているものの神殿が公定価格を決めていました。しかし凶作時に大インフレの記録もあることからこれらが常に公定価格どおりに交換されたとは思えません。しょせん銀は食べることができませんから飢饉には麦の価格が上昇したのでしょう。

ハムラビ王の手紙の中には身代金を支払って捕虜を買い戻すように指示した文書が残っています[4]
「敵が捕虜として捕えた、マニヌムの子シーン・アナ・ダムル・リッパリスを買い戻してくれるように。そのために、捕らえていた人々のもとから(身代金を支払って)彼を連れ戻した代理業者に、町の神殿の宝庫から調達した銀10シケル[5]を届けるように」
人質を身代金で買い戻す習慣があったこと、代理業者(エージェント)がいたこと等非常に興味深い文書です。因みに銀10シケル(83グラム)は当時の奴隷売買の相場であったそうです。これを書いている2011年6月の銀の小売価格がグラム約105円ですから現代の価値では奴隷一人8715円という計算になります。これはあまり参考にはなりませんが、当時銀が非常に貴重であったことは想像できそうです。またハムラビ法典では強盗事件で殺された被害者の遺族に対して市(都市国家)が銀1マナ(60シケル)を支払うとあります。これだと52、290円になります。

BC13世紀には鉄製武器を持ったヒッタイト王国が勢力を拡張しエジプトからオリエントに至るまで鉄を普及させます。そして各王国の栄枯盛衰が激しくなります。北メソポタミアにBC2000年頃から住み着いていたアッシリアが勢力を増しBC8世紀頃になると征服活動に拍車がかかってきます。「旧約聖書」で好戦的といわれたアッシリアの残虐さは彼らの残したレリーフに数多く残されていますが、バビロンもBC732年からBC625年の間はアッシリアの占領下に入ります。アッシリアは占領地域を圧政下におき苛酷な占領政策を実施しました。データを見ると占領下での金利は銀ベースで20%~40%と高目です。

アッシリアが撤退しメソポタミア文明も終盤のBC625年からの新バビロニア時代に入るといよいよ民間の銀行活動が盛んになってきます。
マーチャント・バンクの起源ともいわれ後年のロスチャイルドとも比較されるエジビ家(The Egibi Sons)やユダヤ系のムラッシュ家(les Murashu)などの大地主が登場してきます。王(政府)に対する資金の貸付け、小切手、為替手形、さらには不動産ローンの買い取り、ベンチャー投資なども広く行われていたようです[6]。しかし預かった資金を貸し出しに回すということは行っていなかったようで、その為に彼らは銀行の起源としては扱われないのです。また奴隷自身がお金を借りて主人から自分自身を買い戻すローンもあったようです。

1879年のニューヨーク・タイムズでは”Egibii & Co., The Oldest Bankers[7]”のタイトルでこの当時発見されたエジビ家のタブレットに書かれたドキュメントを分析しています。シンプルな金銭貸借であること。第3者の保証があること。元本と金利の支払い先は契約当事者ではなく他の者であること。支払地も他の場所であること。この内容から当時既にかなり高度な金融取引がなされていたことが伺えるとあり、この記事の当時ヨーロッパで隆盛を誇っていたロスチャイルドにエジビ家を例えたのでしょう。

エジビ家は5世代、150年に渡って繁栄しましたが、新バビロニア王国は先に書いたようにペルシャのアケメネス王朝キュロス2世によって滅ぼされ、都市としてのバビロンも徐々に勢力を失います、そのアケメネス朝もBC330年にはアレキサンダー大王が来襲し滅ぼされ、その後バビロンはAD3世紀頃には廃墟となり砂の中に埋没してしまいました。

新バビロニアの時代には既に地中海やギリシャ方面に世界の中心が移動しつつありました。長年の貿易によって周辺地域から集められたバビロニアの富である金銀は地中海方面に持ち去られてしまいます。そしてこの頃にギリシャ文明は世界初の貨幣を生み出します。





[1] Public dimain wiki “cylinder seal” http://en.wikipedia.org/wiki/Cylinder_seal
[2] Sidney Homer and Richard Sylla ,
[3] Cash store $100につき1日1ドルと言うレートもある。これは年率365%になる。
[4] 「メソポタミア」ジャン・ポテロ 法政大学出版会 1998年 p247
[5] 1シケル=8.36g 60シケル=1ミナ 501.6g
[6] Sidney Homer and Richard Sylla  p28
[7] “Egibi & Co., The Oldest Bankers”The New York Times Nov.30,1879

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