2011年7月15日金曜日

ベリーニ


まだ晩御飯には少し早いかなという時間で、特にどこにも行くあての無い時には決まってお邪魔するショット・バーが銀座にある。このバーは普通のショット・バーとは少し変わっていてカクテルはやらない。その代わりにバック・バーにはかなりマニアックでレアなブランデーや、スコッチ・ウィスキーが揃えてある。

カクテルをやらない理由はリキュール類に人口着色料や保存剤などが混ざっていたりするからで、せっかく時代に耐えた良いスピリッツをそんなものと混ぜてしまうには忍びないからだ。もっとも最近はこうしたリキュール類も随分と変わってきてはいるが。

とにかくマスターのこだわりは半端ではないのだが、ブレンデッド・ウィスキーの古いもの、俗にオールド・ボトルといわれるスコッチには眼がない。

何故古いブレンデッドが良いのか。それは先ず第一に壜詰めをした段階でウィスキーの熟成は止まっているはずなのだが、それでも時を経て年代を感じさせるまろやかな味になること。第二にブレンデッドというのはモルト・ウィスキーを何種類もブレンドしてつくるのであるが、もうすでに閉鎖した蒸溜所や、製造工程を合理化して風味の変わってしまった古いモルト・ウィスキーが混ざっていたりするからだ。本当に味の違いがわかるのかと言われれば僕も少し怪しいのだが、それでも古いラベルを眺めながら、「ああこれはタリスカーがまだフロア・モルティングをやっていた頃の香りだ」とか言いながら飲む。とても奥深いマニアックな世界なのである。

従ってちゃらちゃらとシェーカーなどを振り回し、ピンクやブルーのカクテルを出して女の子から「おいしーい」なんて言われるのは、この店のマスターの美学からは決して許されることではないのである。酒はストイックであるべきだ。そうした理由でこのバーはカクテルをやらない。断じてやらないのである。


その日は夏の暑い盛りだった。冷たいビールも良いが、その日僕はジン・リッキーを注文した。腹が膨らむ感じがあまり好きでは無い。カクテルをやらないそのバーは時間がまだ早かったので他に客は誰もいなかった。

この店はカクテルはやらないが、ジン・トニックやジン・リッキーぐらいであれば作ってくれるのである。そりゃそうだろう。とりあえずはバーなんだから。僕はカクテルで有名な店ではウィスキーの水割りばかり飲むのだが、この店にくると何故だか無性にカクテルが飲みたくなるのである。チューブ(真空管)のマッキントッシュにタンノイのスピーカーの組み合わせからは、エディ・ヒギンスの When you wish upon a starが小さく優しく、まるで北アルプスの標高の高いところにある谷川のせせらぎのようにキラキラと流れ出ていた。


一組のカップルがドアを開けた。外の騒音と熱気がわずかにバーに侵入した。
男はガタイのしっかりしたそれ風の、しかも着ているスーツや身につけているアクセサリーからは、その世界では並ではないであろう大物風の人物だった。ジェルで固めた髪型は怖そうだが優しい目のいい顔をしてた。女のほうは外見に少し疲れの出始める年齢の、僕が思うに多分銀座ではない街のホステスだったろう。痩せ過ぎで、ブランドだが妙にくすんだ中間色の多いあまり品のよくないプリントのワンピースを着ていた。そしてどこか少し不機嫌な様子だったのだ。

2人はいっしょに入り口に近いカウンターに座り、疲れた女はすぐに細身のタバコに火をつけ、男はきっと苦労の末に禁煙に成功したのだろう。女との間にあった灰皿をまるで汚い物にでも触れるように女の方へ押しやった。そしてその並でないそれ風の男はすごく横柄にマスターに注文したのである。マスターにすれば歓迎せざる客だろう。彼の美意識から「XXX関係の方の入店はお断りします」の白いプラスチックのプレートを入り口に貼っておかなかったことを後悔したに違いない。そのプレートに何らかの効果があるのかどうかは別問題として。

「おい、こいつには何か甘いカクテルを、俺には美味いウィスキーを作ってくれ」

男はそう言いながらバック・バーを見渡すと一群のオールド・ボトルに目をやった。

「おっ、デュワースのオールド・ボトルがあるじゃないか、俺にはそれをストレートでくれ。チェーサーもな」

きっぱりとカクテルをお断りしようとしていたマスターの機先を制した格好だった。しかも何か甘いカクテルだとさ。

「カクテルはやりません」

マスターはきっぱりと言ったつもりが、声が少々上ずった。スピーチ馴れしない奴が突然のご指名にうろたえて発する最初の一言みたいな響きだった。包み隠さずに言うならば僕も怖かった。何しろ迫力が違うのだ、この並でないそれ風の男は。僕もイザとなればマスターを見捨てて飛び出すつもりで頭の中で逃走の段取りを整理していたぐらいだ。最初から勝利の可能性がないような戦いなど決してしてはいけない。逃げて生き延びよ。さすれば、また再び戦えるではないか。

足元においていた使い込んだ銀座タニザワのダレスバッグも隣のスツールに持ち上げておいた。もちろんいつでも持ち出せるようにだ。そして僕はえへんと咳をしてマスターの注意をひくと、自分のグラスを指さして声を出さずに口だけを動かして「いくら?」と聞いたのだ。マスターは僕を睨みつけながら、かすれた小さな声で「今は帰しませんヨ」と今までにみたことも無いほどの毅然とした態度で言った。

「おい、銀座のショット・バーでカクテルをやらないなんて聞いたこともないぞ」

バー・カウンターの上においたマスターの指先が小刻みに震えていた。バック・ミュージックがツェッペリンの「Stairway to Heaven」でなくてよかった。

「うちはやらないと言ったらやりません、文句があるならどうぞお引き取り下さい」

善良な一般市民に喧嘩を売ってるのは明らかにマスターの方だ。そうしちゃいけないと思いながら清原にビーン・ボールを投げてしまう経験の足りない投手のようだった。このマスター命がいくらあっても足りないぞと僕は思ったが、並じゃないそれ風の男はやはり並ではなかった。

「そうか。では桃のネクターはあるか?」

「無添加のものが御座います」

「シャンパンのグラス売りはあるのか?」

「御座います。もしよろしければスプマンテも御用意できます」
スプマンテはイタリアの発泡ワインである。とくに辛口は桃との相性が良い。


「じゃカクテルはもういいよ。ここはあんたの店だ。俺はあんたのやり方を尊重するよ。でもな、お願いがあるんだ。ちょっとお手数だがフルート型のシャンパングラスにスプマンテを注ぎ、桃のネクターを少しだけ入れてくれないか」

マスターはまるでにわかにスポット・ライトを当てられたタップ・ダンサーのように普段どおりにきびきびと働きスプマンテの小瓶を開けたが、それでも少しだけ動きがこわばっているのがわかった。グラスの中を4回転ほどゆっくりとマドラーでステアすると、頼まれもしないのにシロップを少しだけ足したのだ。ベリーニ・カクテルのレシピだ。

「ベ。ご注文の品でございます」

ピンク色の綺麗な液体が入ったグラスをバージニア・スリムの白いフィルターを口紅で汚しながら吸っていた疲れたホステスの前に差し出した。マスターはあやうくベリーニと言ってしまうところだったが、何とかギリギリのところで持ちこたえたのだった。何を持ちこたえたかって? カクテルを出さない矜持であり美学だよ。

「おいし~い」

疲れたホステスが一口飲むと彼女の顔にみるみる喜色が浮かんだ。多分今日1日のうちで最高の笑顔なんだろう。可愛いい女じゃないか。

並じゃないそれ風の男のそんな彼女に答えるやさしい笑顔もまた良かった。お酒の力でお客様がこんなに笑顔を見せてくれるのだ。バーマン冥利につきる。バーマンとしてはこれ以上の喜びはあるまい。包み隠さずに言うならば、僕はなんだかこの並ではないそれ風の男と少し疲れの見える銀座じゃないホステス風の女の2人が好きになりそうなぐらいだったのだ。当然のことだがダレス・バックはもう一度足元に戻しておいた。スクランブル体勢は解除されたのだ。

「おい、マスター美味かったぞ。お勘定してくれ」

2人は一杯だけ飲むとあっさりと帰ろうとした。銀座のショット・バーにつきものの、外人客とよく揉め事の種になるカバー・チャージもものともしない。食事の前にバーで喉をすこし濡らしただけ。あるいは禁煙のお寿司屋に入る前に女性に一服させておいたのかもしれない。ハッキリ言ってとても格好のいい飲み方だ。

ところがマスターは何を考えたのか、ろくに計算もせずに人差し指でカウンターを「トン」と叩くと、やはりすこしばかり上ずった声で、

「一万円で御座います」

ときっぱり言ったのだ。(後で聞くと2度と来ないでくれという意味でツイ言ってしまったらしいのだがボッてもせいぜい5000円までだろう)

並じゃないそれ風の男は「安いじゃないか」と皮肉な笑顔で一万円のピン札をカウンターにおくと、さっきまで疲れていた女を優しくエスコートして出て行った。多分耳元で「タバコはそろそろ止めた方がいいぞ、銀座は怖いところだぞ、一万円もボラれちゃうぞ」って小さい声で言っていたのかもしれない。

「また来たらイヤだなあ」というマスターに、僕は「もう多分来ないと思うし、もしまた今度来るようなことがあればそれはとても恐ろしいことだと思うよ」と諭してあげたのだ。

エディ・ヒギンスはちょうど同じアルバムの10曲目、Againを弾いていた。

「でも怖かったですねー」
と言うから
「僕は今となってはあんたのほうがずっと怖いと思うよ」
と諭したのである。

そして僕は口直しにマスターにベリーニを注文した。疲れ気味の不機嫌な女を可愛い女にしてしまうあの魔法のカクテルを飲みたくなったのだ。

「うちはカクテルはやりませんよ」

「じゃカクテルはもういいよ。ここはあんたの店だ。でもね。お願いがあるんだ。スプマンテはあるかな? ちょっとお手数だけど。。。。

You don't know what love is,  by Eddie Higgins

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7 件のコメント:

e さんのコメント...

以前ここで読んだバーの話でメーカーズマークを知った者です。ハイボールがよりおいしい季節になりました。
このバーのお話も粋でしゃれてて素敵ですね。カクテルの本のコラムにそのまま載せたいようなニヤリ感があります。

Porco さんのコメント...

今ちょっとお堅い文章をドップリと書かなければならなくて、自分の為の口直しに書いたものですが、気に入っていただけたならとても嬉しいです。

匿名 さんのコメント...

いつも楽しませていただいているが、今回は秀逸と。相手がそれなりの方でよかったですねえ。「あんたのほうが怖い」

匿名 さんのコメント...

はじめまして。
私はtwitterから貴殿のブログに辿り着きました。
今回のエントリー、なんだかバーの持つ不思議な世界観がにじみ出ていておもしろかったです。
店長の返しも逸脱ですが、「今になってはあんたのほうが恐い」という返しもなかなかw

Porco さんのコメント...

コメント有難うございます。実はこれ最初に書いてから何度も書きなおしているのです。書き直すのが楽しみと入っては変ですが。最後は長くなりすぎて話の緊張感が薄くなってしまったので今度は大幅にカットしてみたのがこのコメントの時間です。

Porco さんのコメント...

この話は多少の脚色はありますが、本当にあった話です。念のため。ちなみにこの並じゃないそれ風の人は僕の隣にすわっていました。

ttori さんのコメント...

毎度かっこいいなあ、と思います。それなりな怖い人も、実はお互い様、と。私もこんなカッコイイ酒飲みになりたいです。