2011年7月24日日曜日

合百とバケツ・ショップ

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明治の41年というから西暦では1908年。秋も深まり出し鎧橋たもとの紅葉も染まり始めていた。
東京株式市場も日露戦争後のバブルが破綻し、それに少し先立ってニューヨーク市場も大暴落していた頃の話である。


日本橋兜町は商いも薄く、街も人の出が少なくすっかり閑散としていた。当時は市場が活況になると関東煮や焼き鳥などの屋台が取引所横の道に出店し、まるでお祭り気分だったのでこうなるとなおさら寂しさが街を覆うのだった。


そんな折一人の老相場師が手代を一人連れて蛎殻町の株式仲買人の店を回っていた。
この老人は昔、この界隈ではでそこそこに幅を利かしたこともあったが、大物相場師というわけでもない。最近はこまめに仲買人の店を訪ねては頼まれもしない歩合外交員のようなことをして、知り合いの注文を仲買店に取り次ぎ細々と食いつないでいたのだった。しかしそれもこうも市場が閑散では日々の暮らし向きも悪くなるばかりである。


この当時の仲買人の店構えはまだ木造の商家造りで入り口には土間があり、そこに机と電話、お客用の椅子がおかれ、小上がりには番頭が構え奥は畳敷きで座敷もあった。日露戦争以前は主人も奉公人もこの店に住見暮らし昔ながらの職住一致であったが、路面電車が営業を始めたこの頃には主人は住居用に別の家を構え、店には通勤するようになっていた。そんな店にこの食い詰めそうな爺さんが入ってきたのであった。


「はいはい、すみませんよ、私本日から一枚屋の店を開店することになりまして、開店祝いのご祝儀に注文を集めて回っているところでございます。10枚で10円。いやいや1枚からでも受けてたちますよ」
「おい爺さん、一枚1円もいいけれど、その一枚屋ってのは一体全体どういう商売だい?」
爺さんいかに顔馴染みとはいえ、1円というのは決して小銭ではない。いかに仲買人の金回りが良いからと言っても、何かわけのわからないものを買ってくれといわれてもハイそうですかとはいかない。
「こりゃ、大変失礼しました。ポンキでございます」
「ポンキ?」
店主は米穀取引所のある蛎殻町で丁稚の時から働いていた。ポンキが懐かしい言葉だったから素っ頓狂に声を張り上げた。昔から米相場のあるところには必ずついてまわるのが、合百、両算、ポンキといった裏相場だった。

合百には様々なパターンがあり単純に市場の値段を使って売り買いをあわせるものもあれば、相場の末尾の数字を当てる殆どルーレットみたいな純粋な博打物もあった。両算は一定期間後の上か下かを当てる単純な丁半博打のようなものだった。そこへいくとポンキは少し変わっていた。現代風に言えば「買い」はブル・スプレッド、「売り」はベア・スプレッドに該当する。


120円の株があるとする。爺さんから10枚10円で買うと、先ず爺さんが2円を手数料として抜く。
買い手から見ると株が2円上昇して122円からイン・ザ・マネー(利益が出始める)になる。もし順調に株価が上がって132円を抜いても利益は10円がマックスである。一方で株価が全く動かなければ手数料の2円を引いた8円が戻ってくるし、株価112円までは価格に応じて何がしか戻ってくる。そしてもし112円以下に株価沈んで利益がゼロ以下になっても爺さんに支払った10円以上に損をすることはない。


「さあさ、ご主人や番頭さんは10枚はつきあってくださいよ。丁稚の方は1枚からでも結構でござんすよ」
店のものがこの爺さんの突飛な提案の勢いに圧倒されている中、爺さんはさすがに手馴れたものでものの二、三分もすると店に来ていたお客も含めてそこそこの注文を集めてしまった。
あつめた金は首から下げた大きめのがま口に放りこんで、後ろに控えていた手代がどこそこの誰が一二〇円で何枚と大福帳みたいなものに順次記帳していく。銘柄は取引所の株式である東株である。ここでは受け渡し証も何もあったものではない。爺さんの怪しげな信用一本であった。


「ではどうも、ありがとうございました。どちら様も御免なすって、御免なすって」
「おい、爺さん、御免なすってじゃないでしょう。あんた今、新規開店って言ってたけど店はどこにあるんだい?」


「こりゃ大変失礼しました。大事なことをすっかり忘れておりました。坂本町公園の手前にミルクホールがありますが、ご存知ですよね。私の連れておりますこの男、私どもの番頭でございますが、この男がミルクホールの隅のテーブルにいつも座っていますので、何かございましたらいつでもどうぞお声がけをお願いします」


まあこれでは体のいい詐欺みたいなものだが、爺さんの長い間の信用で大目に見てもらってるようなものだったのだろう。まだまだ兜町(しま)もおおらかな時代だった。これは現代風に言えば刑法第185条の賭博罪「偶然の勝負に関し、財物を賭ける罪。50万円以下の罰金または科料に処せられる」で爺さんはお縄頂戴といったところだろう。


この取引の客からみた損益をグラフ化すると下図のようになる。
爺さんとしてはこれをオプションで複製してやればいいことになる。もちろんオプション市場があればの話であるが。オプションの期間は爺さんの番頭がミルクホールに10日もいるとは思えないし、兜・蛎殻町の人間がそれほど気長だとも思えない。勝負は10日がせいぜいだろう、期間10日ボラティリティを仮に30%、現値120円とおくと、
112円のコールは8.4円になる。これは爺さん買うとして、132円のコールはたったの7銭しか値打ちが無いから売る意味が無いだろう。したがってコール・オプションの売り買いの組み合わせであるブル・スプレッド戦略にする意味が無いのでここは単なるコール・ポジションを取ることになる。これはあくまで理論値での話である。 


爺さんとしては10円マイナス8.4円=1.6円のスプレッドの儲けになる。
すると爺さんのペイアウトは以下のようになる。東株が132円を越えて上昇してくれれば丸儲けになるのだ。
しかし残念ながらこの時代にオプションは無い。正確に言えばオプション・プライシング理論は未だ無い。さらに正確にいうならばこの取引の8年ほど前にパリ大学でパシェリエがポアンカレに提出した博士論文「投機の理論」においてオプション・プライシングは言及されていたのだが、この論文の価値を認めてもらえるようになるまでは後70年も待たなければならなかった。パリのパシェリエの本棚にはあったが、ポアンカレ以外誰も知らなかった。ましてや値打ちのあるものだとは思われていなかったのだ。


この取引の状況を敢えて言えならば爺さんがリスクを背負いオプションをマーケット・メークしていたことになる。爺さんにすれば自分をヘッジするためには「買い」の注文に対してとにかく反対の売買である「売り」の注文を集めることだっただろう。客の「売り」の場合は108円で客の10円の儲け20円戻し、128円で掛金はゼロになる。


売りと買いが同枚数の場合の爺さんのペイアウトとP/Lをグラフにすると以下のようになる。
と、まあ爺さんは結構難しいことをやっていたわけだ。ミルクホールのテーブルの上で。


この後この爺さんがどうなったのか、残念ながら「兜町盛衰記」は何も伝えていない。しかし彼は根っからの兜町(しま)の人間である。多分、相場に熱くなって強気か弱気かはわからないが客と同方向にかけてどこかで破綻してしまったに違いない。それに蛎殻町は賭場を仕切る佃政親分の縄張りでもあった、爺さんのポンキ屋も見方を変えればミルクホールで開帳しているに過ぎない。もぐりの博打をいつまでも大目には見てはくれなかったかもしれない。腕の一本もへし折られて地方へでも流れていったのだろうか。此頃の兜町の記録を見ていると証拠金を支払わずにトンづらを決めて仲買店に多少の迷惑をかけても、しばらく経って戻ってきて、挨拶さえしっかりしていれば許される気風もあったようである。

因みにこの当時の高等小学校校長の月給が40円。衆議院議員が180円。日銀総裁が500円。一口10円は決して小さい金額ではなかった。


続く

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