2011年10月21日金曜日

金・銀・銅の日本史


西洋の古いコインと東洋の古いコインの差は歴然としている。西洋のものは金や銀の小さな塊りを台座にのせハンマーで打ち付けることによって刻印がなされる。「バン」と打刻するのである。一方で中国文化圏の日本や南はベトナムまでコインは溶解した金属を鋳型に流しこむ鋳物なのである。従って和同開珎に穴が開いているように打刻方式ではできない四角い穴が中央に開いていたりするのだが、西洋のコインにはこうした穴は一般的に開いていない。

この穴は便利に使われた。穴に紐を通し100枚単位でまとめたものを緡銭(さしせん)と呼び蓄銭する際に使われることになった。歴史書を読むとよく銭何貫というような表現が出てくるがこれは一般に銭1000枚を表している。貫は重さではなく貫く(つらぬく)ほうの意味が由来である。

広島県福山市の草戸千軒町遺跡からは地下の瓶から13世紀後半の1万2951枚の銭(北宋銭)が発見された。これらは合計130緡からなり一緡は83枚から107枚にばらついてはいたが10緡1塊の合計枚数はおしなべて970枚であった。これは短陌とか省陌と呼ばれ97枚をもって100枚とするという当時の東アジア全域での商習慣からきている。小銭をまとめあげれば3%の手数料がもらえると考えてもいいだろう。

さて、草戸千軒町遺跡から発見された銭は中国は北宋のものだった。日本では708年の和同開珎を始めとして958年の乾元大宝まで皇朝十二銭と呼ばれる十二種類の銅貨が年をおって鋳造された。しかし政府はコインの品位低下にもかかわらず発行ごとにデノミを実施したためにすっかり貨幣としての信用を失ってしまう。日本では十一世紀初頭をもって貨幣の使用の記録は歴史からなくなってしまい物物交換の世界に逆戻りしてしまったのである。その後は十二世紀後半、平清盛による日宋貿易により大量の宋銭が輸入されて再び日本に貨幣経済が戻ることになった。現在確認されている出土備蓄銭だけでも350万枚もあるそうだから、これがほんの一部分とすればいかに大量に銭が輸入されたのか、まさに想像を絶する量である。その後日本で銭の鋳造が再開されるのは徳川幕府まで待たなければならなかった。いわゆる貨幣の空白期である。

20世紀に高校で日本史を学んだ者は、日本最古の銭を「和同開珎」と習っている。しかしいま、山川出版の「もう一度読む山川日本史」(これはベストセラーだそうだ)をもう一度読むとさらに古い銭として「富本銭」が書き加えられている。

富本銭:1999年(平成11年)に、奈良県の飛鳥池遺跡で富本銭とその破片など33点が、7世紀後半の地層から出土した。これにより富本銭が、それまで最古の貨幣とされた708年鋳造の和銅開珎より古いことが明らかとなった。「日本書紀」の683年の記述に、「今より以降、必ず銅銭を用いよ」とあり、これが富本銭と考えられる。

この年は同時に大英博物館においてもそのコレクションの中から富本銭が発見されたが、これが古いものであるのか江戸時代に作られたレプリカであるのかは行ってみないとわからない。因みに大英博物館のHPでは珍しい銀製の和同開珎が日本最初のコインとして表示されている。Silver Wad tsho coin。残念ながら西洋の本では、大英博物館のジョナサン・ウィリアムスにしろピーター・バーンスタインやフリードマンにしろ東洋の貨幣にはさほどの興味を示してはいないのである。

金・銀・銅の日本史 (岩波新書)」を読んだ。著者の村上隆氏は、飛鳥池遺跡で富本銭の調査を行ったその人である。この本は銭の歴史に限らず、金銀銅を中心とする日本の金属史がコンパクトにまとめられている。材料や製造法から歴史の謎を解いていく。まさに歴史学の科捜研みたいな人である。読後には日本の高度な「もの作り」の原点がここに凝縮されているような感想を持った。お薦めの1冊である。

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