2011年11月11日金曜日

ユーロ問題111111


イタリアは財政黒字である。実際は長期的な成長過程では金利は成長率を上回っているものであるが、プライマリーバランスがちょうど均衡しているときに成長率が金利よりも高ければ財政赤字は減少していく。これが「ドーマー条件」と呼ばれるものだ。簡単に言えば金利が高くとも成長率がさらに高ければ何とかなるのである。

イタリアの実質金利は4.5%、2000年から07年の実質成長率が1.5%であるから現実には「ドーマー条件」を満たしておらず、今後の歳出削減や政府資産売却、3%ほどの経済成長の上乗せが必要となるわけだが、ユーロ圏の銀行が信用を収縮している段階でそうした成長は非現実的だと断定せざるを得ないだろう。政府高官で「イタリアの金利はユーロ統合以前の水準に戻っただけだ」と発言する人もいたが、だとすればユーロ統合後の低い金利とそれによる債務の積上げは無理なファイナンスであったことを裏付けるだけの話だ。

FTはルービニ教授が挙げる4つの選択肢を記事にしていた。
1.積極的な金融緩和 ユーロ安によってユーロ中核国の景気刺激を追求する
2.周縁国(既にイタリアも含む)の構造改革とデフレ調整、実質的な名目賃金の切り下げである。
3.中核国が競争力の無い周縁国に恒久的に融資し続ける道
4.ダメな国はデフォルトし、ユーロを解体する道

1.は現在の問題を持つ国に対しては間接的な効果しか持ち得ないし時間軸的に市場が待ってはくれないだろう。
2.ギリシャのデモを見るまでも無く、そもそもこうした財政規律を守れないような国の議会が仮に名目賃金の切り下げに同意したとしても実行は困難に違いない。
3.これは金財分離がユーロ問題の本質である中で、ユーロがあたかもひとつの政府であるように振る舞うわけでこんな事ができるのならば事態は現在のようにはこじれてはいない。クルーグマンはECBが問題国の債務を多少引き受けても現状ではハイパー・インフレにはならないと発言したようだが、問題はそこには無い。第一リスボン条約にECB引き受けによる国債発行を禁止する項目を盛り込ませたドイツが納得するわけがない。

となると俄に4のケースが現実に肉眼で見えるような距離までやってきたように思える。ドイツ・キリスト教民主同盟(CDU:メルケル首相の党)はユーロ離脱の手続き作りを既に開始しており来週の党大会の議題にするようである。手続きの前にそうした事態への対処策作りが肝心だとは思うのだけれど。

「イタリアは政府債務が巨額だがそのほとんどは国内資金によってファイナンスされているので国債が売り崩されることは無い」と長い間信じられていた。



2011年11月10日木曜日

北極海航路と中国


今朝の日本経済新聞第三面に「中国、北極圏で足場固め:資源・航路開拓狙う」という記事があった。

デンマークに属するグリーンランドが自治権を拡大、周辺に埋蔵する原油・天然ガスを始めとする鉱物資源の開発について外国政府と直接交渉ができるようになった為、中国が接近しているという記事だ。また近年の地球温暖化によって北極海の氷が溶け北極圏航路(北東航路)の実用化に現実味が出てきたというポイントも指摘されている。北東航路を取れば欧州―極東の距離はスエズ運河経由よりも40%も短くなるのだ。

時代は遡ってスペインやポルトガル、そこに集う北イタリアの商人、探検家達がマルコ・ポーロの東方見聞録を頼りに欧州から中国への航路を模索していた頃、当時の地図から見当をつけるならば、コロンブスのように西へひたすら帆走するという考えや、南アフリカを回って東行するというアイデアと同時にヨーロッパの北回りで中国へ辿りつけるのではないかと考える冒険家はいた。

1553年5月10日、スペイン・ポルトガルが南回りの航路を確保し、種子島には既に鉄砲が伝来していた。そんな頃ロンドンのサー・ヒュー・ウィロビーとリチャード・チャンセラーの率いる3隻の船が毛織物と18ヶ月分の食料品を満載して北東に向かって航海を始めた。北極海を抜け相手はキャセイ(中国)の目論見だった。アテもないのに大した冒険心である。200名の投資家から集められた資金は6千ポンド。投資家もかなりのリスク・テイカーであるが、当時アメリカ銀の欧州への流入が中部ヨーロッパ銀山の衰退を招き欧州全体が不況に陥り毛織物の販売先に苦慮していたのである。要するにイチかバチかのチェレンジだったのだろう。

この航海は失敗に終わりウィロビーは凍死したもののチャンセラーは何とか白海のアリハンゲリスクから命からがらモスクワまでたどり着きイワン雷帝と面談、中国には辿りつけなかったが英露の通商路を開くことに成功したのである。実は1530年代からイギリス商人と船乗りは何度かこのルートにチャレンジしては失敗を続けていたのだった。

英国の最初の特許会社は「東インド会社」ではなく1555年の「モスクワ会社」である。イワン雷帝との通商を独占権として特許状会社を設立、売買可能な株式を売りだしたのであった。とは言っても残っている記録では1689年のロンドンで取引が可能だった株式は全部で15社で合計時価総額90万ポンドだったとあるから、本格的に頻繁に株式が売買されていたわけでもない。いずれにせよこの「モスクワ会社」はパッとしないまま1630年代には表舞台から消え去ったとある。

しかしそれにしても16世紀末の三浦按針も南アメリカ・ホーン岬越えで日本に辿りつているし、彼らの冒険心には全くあきれてしまうのである。


とまあ、こんな事を書きながら以前この時代の北東航路に関する面白い本を読んだのだがそれが何であったかが思い出せないでいる。海運の歴史だったか、ロシア海軍の歴史だったか今夜は眠れないかもしれない。

参考エントリー 三浦按針の生きた時代

2011年11月5日土曜日

ビジネス・アイのコラム

ここのところなかなか忙しくてブログの更新が思うようにならない。

そこで最近フジサンケイ・ビジネス・アイに書いたコラムをリストしておく。

12.26 自然利子率の低下に見舞われた世界

12.06 ドイツはどこで折れるのだろうか

11.03 われわれはもはや横暴なる王である

10.21 市場との戦いは少しも終わっていない 

10.05 理想と現実の差に荒れるユーロ

09.14 リーマン・ショック3年 善意が惨禍をもたらす因果