2011年11月10日木曜日

北極海航路と中国


今朝の日本経済新聞第三面に「中国、北極圏で足場固め:資源・航路開拓狙う」という記事があった。

デンマークに属するグリーンランドが自治権を拡大、周辺に埋蔵する原油・天然ガスを始めとする鉱物資源の開発について外国政府と直接交渉ができるようになった為、中国が接近しているという記事だ。また近年の地球温暖化によって北極海の氷が溶け北極圏航路(北東航路)の実用化に現実味が出てきたというポイントも指摘されている。北東航路を取れば欧州―極東の距離はスエズ運河経由よりも40%も短くなるのだ。

時代は遡ってスペインやポルトガル、そこに集う北イタリアの商人、探検家達がマルコ・ポーロの東方見聞録を頼りに欧州から中国への航路を模索していた頃、当時の地図から見当をつけるならば、コロンブスのように西へひたすら帆走するという考えや、南アフリカを回って東行するというアイデアと同時にヨーロッパの北回りで中国へ辿りつけるのではないかと考える冒険家はいた。

1553年5月10日、スペイン・ポルトガルが南回りの航路を確保し、種子島には既に鉄砲が伝来していた。そんな頃ロンドンのサー・ヒュー・ウィロビーとリチャード・チャンセラーの率いる3隻の船が毛織物と18ヶ月分の食料品を満載して北東に向かって航海を始めた。北極海を抜け相手はキャセイ(中国)の目論見だった。アテもないのに大した冒険心である。200名の投資家から集められた資金は6千ポンド。投資家もかなりのリスク・テイカーであるが、当時アメリカ銀の欧州への流入が中部ヨーロッパ銀山の衰退を招き欧州全体が不況に陥り毛織物の販売先に苦慮していたのである。要するにイチかバチかのチェレンジだったのだろう。

この航海は失敗に終わりウィロビーは凍死したもののチャンセラーは何とか白海のアリハンゲリスクから命からがらモスクワまでたどり着きイワン雷帝と面談、中国には辿りつけなかったが英露の通商路を開くことに成功したのである。実は1530年代からイギリス商人と船乗りは何度かこのルートにチャレンジしては失敗を続けていたのだった。

英国の最初の特許会社は「東インド会社」ではなく1555年の「モスクワ会社」である。イワン雷帝との通商を独占権として特許状会社を設立、売買可能な株式を売りだしたのであった。とは言っても残っている記録では1689年のロンドンで取引が可能だった株式は全部で15社で合計時価総額90万ポンドだったとあるから、本格的に頻繁に株式が売買されていたわけでもない。いずれにせよこの「モスクワ会社」はパッとしないまま1630年代には表舞台から消え去ったとある。

しかしそれにしても16世紀末の三浦按針も南アメリカ・ホーン岬越えで日本に辿りつているし、彼らの冒険心には全くあきれてしまうのである。


とまあ、こんな事を書きながら以前この時代の北東航路に関する面白い本を読んだのだがそれが何であったかが思い出せないでいる。海運の歴史だったか、ロシア海軍の歴史だったか今夜は眠れないかもしれない。

参考エントリー 三浦按針の生きた時代

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