2012年12月25日火曜日

週刊「ダイヤモンド」ベスト経済書


いかにも自慢気で少々気恥ずかしいのだけれど、多分人生にもう一度は無いことだと思うので記念としてブログに記録しておきます。

拙著「日露戦争、資金調達の戦い-高橋是清と欧米バンカー達」が週刊「ダイヤモンド」2012年、「ベスト経済書」の第9位に選出されました。経済学者、経営学者、エコノミスト139人の投票だそうです。誇りに思います。

リンク
年末年始に読みたい経済学者・経営学者・エコノミスト139人が選んだ2012年の『ベスト経済書』

それで、次はどうしたとよく聞かれます。
現在は「投資家のための金融史」を完結することに力を入れています。

最初にこれを企画した時にはもう少し楽だと考えていました。これまで読んできた本の「おさらい」をしながら書き進めようと考えていたのです。でも、読むのと書くのでは大違い。結局物凄い量の本を読み直すことになっています。

また途中でいくつか経済史的なレポートの仕事を頂戴して、またまた勉強をしている感じです。年初には少し長めの読み物が経済誌に掲載されると思います。

というような理由で、今夜はクリスマス・イブだったけれど、ウィルキンソンのソーダ水を飲みながら、1978年発売の相場格言集「株式実戦訓」田中穣著をパラパラとめくっています。第3章の題名は「酔歩理論のウソとマコト」、ランダム・ウォークってこんなふうに書いていたんですかね?面白い本ですよ。多分これに関しては何も書かないと思いますけれど。

ハッピー・ホリディ。

Porco

追記
2012年経済書 エコノミスト7人「お薦めの1冊」 日本経済新聞電子版
同志社大学教授の鹿野嘉昭さんが推薦してくれています。


2012年12月13日木曜日

【ビジネスアイコラム】高橋財政と先人の戒め


【ビジネスアイコラム】高橋財政と先人の戒め 12月12日掲載


高橋是清は昭和7年から10年にかけて蔵相として日本国債の日銀引き受けを行った。高橋は昭和恐慌から日本経済を脱出させた手腕が称賛される一方で、日銀引き受けという安易なマネタイズの手法を考えついたことが、戦後のハイパー・インフレにつながったと非難されることもある。

高橋の日銀引き受けを振り返ると、昭和8年に12億100万円の国債を発行し、その92%を日銀に引き受けさせたが、一方で日銀はその引き受け額の71%を年内に市中で売却している。この比率は翌年には前年の積み残しも含めて128%にまで高まり、最終的には4年間の引受分27億6700万円のうち85%を期間内に市場で売却してしまっている。決して日銀に国債を引き受けさせ輪転機で紙幣をどんどん刷ったというわけではなかった。

高橋は日銀副総裁の深井英五と相談し、「生産力と通貨との均衡を主たる目標として通貨の運営を按配(あんばい)すべし」と、通貨の発行量に細心の注意を払った。単なる日銀引受によるシニョリッジ(通貨発行益)を容認してはいなかった。市場での大量の国債販売が困難であったため一度日銀が引き受け、後に市場に売却していったのだ。

ところがこの手法は、よほどの人物が運用しなければ歯止めがきかなくなる。増税に頼らず簡単に財政資金が調達できるように見えるからだ。後に実際に安易な日銀引き受けによるマネタイズがなされ、納税者は厳しいインフレで税を支払うことになった。そして後世への戒めとして昭和22年に財政法第5条ができて日銀引き受けが禁止されたのである。

今話題になっている「国債を日銀に買ってもらう」という話は、「日銀引き受け」なのかあるいは「買いオペ」なのかが問題なのではない。たとえば国債を発行し、直接誰かに買ってもらって一晩保有してもらう。それを翌日に多少の手数料を上乗せして日銀が買えば、「日銀引き受け」にはならないとの解釈も可能である。が、財政法第5条は趣旨としてマネタイズを禁じているのであって、言葉遊びをすべきではない。日銀に余分に紙幣を発行してもらうということは、先人の知恵である財政法の趣旨を乗り越えるということなのである。

もっとも、何も過去の因習にとらわれることはない。今は過去に例のないデフレ状態が続いている。マネタイズによってインフレを誘発するような政策が必ずしも否定されるわけではない。何もしないよりはよほどよいだろう。しかしその運用には細心の注意が要求されることは間違いない。軽々しく語るべき問題ではないのだ。

東日本大震災で、先人の戒めを軽んじたことが悔やまれた。三陸海岸大津波記念碑にはこう書かれている。「高き住居は児孫に和楽/想え惨禍の大津波/此処より下に家を建てるな」。教えを守った石碑の地元は救われた。

2012年12月5日水曜日

【投資家のための金融史】ニクソン・ショックと金融テクノロジー


第5章 第二次世界大戦前後の証券市場  ビジネスアイ

 11話 ニクソン・ショックと金融テクノロジー

1971年の8月15日、日曜日。くしくも日本の終戦記念日にあたるこの日、ニクソン大統領は「90日間の給与と価格の統制、10%の輸入課徴金」をテレビとラジオで語った。同時にアメリカの「黄金の60年代」も終焉(しゅうえん)を迎え、戦後の回復が著しい西ドイツと日本からの輸入超過と金の流出に悩む米国はドルと金の兌換(だかん)を停止すると発表した。これが「ニクソン・ショック」であり、ドルを基軸とする金本位制であるブレトン・ウッズ体制の崩壊の始まりだった。

ウォール街はニクソンの政策を評価し翌日は3%と暴騰し、9月初旬までは株高で答えたが、やがてこれは単なるドル安ではなくアメリカという国の没落であり、ドルの暴落だと気づくことになる。日本は他国が為替介入を様子見する中、律義にも一国だけでドルを買い支えようとして巨額の損を被った。年末には事態収拾のためにスミソニアン博物館で会合が持たれ、日本は1ドル308円の固定相場のリセット(スミソニアン体制)を受け入れたが、その後、結局ドル円はこの水準も保てず、73年には変動相場制度へと移行したのである。これ以降為替レートは市場に任せることになった。

 

ドル建てで石油を販売していた石油輸出国機構(OPEC)は、実質の収入減からドル建ての石油価格を大幅に上げることになった。アメリカでは石油をはじめとする輸入物価が上昇し、インフレはさらに悪化した。少し前まで小さなポンコツとみられていた日本車はその燃費の良さから買われ始め、ウォール街ではエクソンなどの石油株セクターだけが上昇し、国際資本市場にはオイル・マネーが台頭してきた。

米国にとっては苦難の時代だったが、悪いことばかりではない。ニクソン・ショックはドルの下落によってアメリカの凋落(ちょうらく)ぶりを示す一方、金融テクノロジーの発達を促すことにもなった。のちの米金融産業繁栄の下地が形作られたのだ。

ニクソン・ショックに先立つ1967年にシカゴ大学のミルトン・フリードマン教授は、イギリス政府によるポンド切り下げを予想してシカゴの銀行にポンドの空売りを勧めたことがあった。彼はこの話をエッセーで紹介したが、それを見たシカゴ・マーカンタイル取引所(CME)はフリードマンに「外国通貨の先物市場の必要性」という論文執筆を依頼して1972年には財務省とFRBから国際通貨市場(IMM)開設の許可をもらったのである。ニクソン・ショックはシカゴに通貨先物市場を生み出した。

翌年、シカゴ商品取引所(CBT)は個別株式オプションを開始し、その後は金やジニーメイ債、米国長期債、原油、通貨オプションと派生商品が次々と市場に上場されていった。しかし極めつけは76年のユーロドル金利先物である。金利には現物も有価証券もない。これは、初めての実物の受け渡しが不可能な商品であった。したがって差金決済以外に受け渡しの方法がなかったのである。

先物取引は、形式的ではあるにせよ現物の受け渡しがあることで賭博とは一線を引いていた。パチンコ玉を店内では金銭と交換できないのと同じだ。いったん物に変えて換金しなければならない。90年代にデリバティブスに関してマスコミによって金融技術の内外格差がしきりに喧伝(けんでん)されたが、日系証券会社が関連商品を取り扱えなかった理由は、店頭デリバティブスが法的にグレーな状態にあり、国内刑法185条の賭博罪がネックになっていたからである。

米国では金利先物が81年に後追いながら適法とされると、翌年のSP500指数先物上場に結びついた。500全銘柄の現物受け渡しは最少単位でも25億円となるため、先物としての商品化は不可能だった。しかしこうなればボラティリティであろうが何であろうが、商品化が可能になった。

また69年にはテレレート、73年にはロイターのスクリーン・サービスと、為替の24時間取引に対応するためのサービスが誕生した。ニクソン・ショックはグローバルな情報機器の発達をも促したのである。

2012年12月1日土曜日

【投資家のための金融史】投資信託の盛衰と証券恐慌


第二次世界大戦前後の証券市場   ビジネスアイ

 10話 戦後の投資信託の盛衰と証券恐慌

戦前に発売した投資信託は1950(昭和25)年5月末にはすべてを償還した。しかし49年5月に再開した株式市場は、再開に向けての買われ過ぎや財閥解体に伴う放出株の影響で、最初の1年で約40%も下落した。

そこで新たな株式の買い手として官民協調の上で投資信託の復活が図られ、51年6月に「証券投資信託法」が成立。野村、日興、大和、山一の4社によって、戦後の新たな株式投信の募集が開始された。当初は年間30億円ほど集まればとのもくろみであったが、最初の1カ月で33億円、初年度は予想を大きく上回る合計133億円が集まった。


当時の投信の資産構成は株式87.7%、公社債0.6%、その他11.7%とほとんどが株式だった。日経平均はこの月から53年1月までの1年半の間に3.5倍になるほどの大相場を演じたので、投信は人気を呼んだ。26年発売2年償還の投信26本の中で最高のものは2.6倍になり、最低でも60%の償還益と年率12.5%の収益分配金があったのである。収益分配金は配当利息収入のみを原資とし、株価の値上がり益をあてることはできなかった。

その後も曲折はあったが、投信は運用資産残高を順調に伸ばし、61年には残高が1兆円を超えた。個人金融資産に占める株式投信の比率は17.6%となり、10世帯に1世帯は投信保有者だった。株式市場の時価総額は55年の1兆1000億円から61年には6兆4300億円となり「証券よこんにちは」のキャッチフレーズのもと「買えばもうかる」空前の株式ブームである。



ブラジル大会を前に、オリンピック前には株価が上がると信じている向きも多いが、64年の東京オリンピックの場合の日経平均は開催3年前に既にピークを打ち、開会式のころには構造不況という言葉が市場を覆っていた。労働力不足から賃金が生産性の伸びを上回り、インフレ懸念が台頭し、これに対し金融引き締めに入る一方で、他人資本依存度の高さから企業はちょっとした不況でも簡単に債務超過になる弱い体質だった。

63年7月、金流出に悩むアメリカはケネディ大統領が資本流出抑制のため金利平衡税を導入して外国への投資に課税すると同時にバイ・アメリカン政策を発動した。日本の厳しい為替管理の制約にもかかわらずソニーがニューヨークにADRを上場し、外国人買いが増加していた時期だけに、こうした材料は相場に大きくマイナスに働いた。

これ以降日本法人の外貨建て証券発行はニューヨークからロンドンにシフトすることとなり、日系証券の海外進出がアメリカからロンドン主導に変わった。ケネディ大統領はこの年の11月に暗殺され、株式市場をさらに冷え込ませた。

     
投資信託の残高は株式市場と連動して61年からすでに増加が鈍り始めたが、64年に多くの事業会社が減配になり投信の分配金が1年定期預金の5.5%を下回るようになると解約が殺到した。65年3月末に山崎豊子の「華麗なる一族」のモデルとなった山陽特殊鋼が倒産すると、日経平均は1200円を割り、中小証券の破綻が続く中、同年5月21日にはとうとう山一証券が破綻の危機に瀕(ひん)し、日銀特融による救済策が実行された。証券恐慌である。

これをきっかけに公定歩合の引き下げがあり、ようやく市場はアク抜けして回復に向かうことになった。

山一危機の要因として、自己売買益への過度の依存とともに他社比較で借り入れと支払利息の多い点が指摘された。当時は「運用預かり」という制度があった。これは現代から見ると信じられない制度だが、品貸料を支払って顧客から借りた国公債、公社債を担保に証券会社が別に借入をする制度で、この資金で流動性の悪い資産を組み込み、顧客からの担保証券返還要求にこたえられないケースが山一の問題を深刻にした。

「運用預かり」は田中角栄大蔵大臣によって廃止された。その後投信残高は株式市場が回復しても減り続け、62年のピーク時の1兆2349億円から69年5月の5098億円(59%減)まで減少。その後も株式市場の売り要因となったのである。2011年の個人金融資産に占める投資信託の比率は3.1%しかない。


追記:文中「個人金融資産に占める株式投信の比率は17.6%」の部分ですが、ご指摘を受けまして出典元を調査しなおしますが、日銀データでは61年の個人金融資産が16.9兆円、投信残高のピークが1兆2349億円(7.9%)ですからこのような高い比率にはならないと思います。とりあえず。(2012/12/01)

2012年11月29日木曜日

【投資家のための金融史】日本の高度経済成長

第5章 第二次世界大戦前後の証券市場  ビジネスアイ

 9話 欧米に追いついた日本の高度経済成長

1955年から70年ごろまで、日本の実質経済成長率は年率10%にも及ぶ期間が続いた。「高度成長期」である。80年以降の中国の成長率もこれに近いので、今でもなにかと比較されたり、中国の成長段階を占う材料にされたりする。

アンガス・マディソンの1人当たり実質GDPでみると、日本は第二次世界大戦で大きく毀損(きそん)し米国の10分の1に当たる1346ドルまで下落した。その後56年に戦前の水準を回復すると70年には65%、90年には80%の水準まで米国を追い上げることになる。高度成長の理由に焼け跡から立ち上がった日本人の頑張りと勤勉さもあるが、戦前の日本人も勤勉だった。



 

国外から見た日本の高度成長の要因をアンドルー・ゴードンの大学生用現代日本史のテキスト「日本の200年」(みすず書房)を参考に記述すると、戦前と異なる点はまず、敗戦で軍が解体され米軍の安全保障の傘と平和憲法によって軍事支出が抑制されたこと。またアメリカの「黄金の60年代」のように他国の経済が堅調な中で、米国主導のGATT(関税および貿易に関する一般協定)による開かれた戦後の貿易システムの存在もあった。

手ごろなコストでの先進技術のライセンス取得は製品の模倣をしやすくしたし、ブレトン・ウッズ体制によって固定化された為替レートがやがて円安になったため、これがあたかも輸出補助金のような役割も果たした。中東から安価で安定したエネルギーの供給があったことも大きかった。

こうした優位性が、71年のニクソン・ショック以降に変調をきたした。変動為替相場への移行に伴って円安の優位性を失い、その後の石油ショックによって安価で安定したエネルギー供給の利点が損なわれると、日本の成長率が目に見えて低下したことがグラフから読み取れる。グラフは縦軸が対数値になっており、グラフの線の傾斜がが成長率を表している。


       
視点を変えて日本国内から見た場合はどうなるか。吉川洋著「日本経済とマクロ経済学」(東洋経済新報社)は「農村の“過剰人口”が枯渇したことによる人口移動の低下、その結果としての世帯数伸び率の急速な鈍化、あるいは既存の耐久消費財の普及率が高まったことと、こうした条件変化を背景とする国内需要の低迷によって利潤率および設備投資の趨勢的低下がもたらされた」と説明されている。どちらも正しいのだろう。

この日本の成長率の屈折点はちょうど、イギリスやドイツ、フランスなどヨーロッパ先進国の1人当たり実質GDPの水準だった。追い抜けそうで、抜けないのである。

またどうしても日本は輸出主導のイメージが強いが、50年代から70年代にかけての日本の輸出はGNPの11%程度であり、これは欧州先進国の半分の水準だった。ドル獲得のために輸出は重要だったが、成長の原動力は国内市場の消費財需要の伸びだったのだ。

戦後の日本では、占領軍が戦前の統治体制をそのまま利用したこともあり、戦時体制の延長で大蔵省が産業界への資本投下を調整し、通商産業省が民間企業の事業計画に介入した。法律でもない「行政指導」は「日本株式会社」とともに海外で有名になったが、それは一定の役割を果たしたのである。

資本主義を標榜(ひょうぼう)しながら国家が資産配分を統制していた姿は、他国から見れば現代の中国に重なったのかもしれない。日本は、80年に1人当たり実質GDPでイギリスに追いつくと、バブル経済の中でアメリカの水準に迫り出した。しかしながら一見順風満帆そうに見える日本の「高度成長期」にも、株価は一本調子で上昇したわけではない。次回は64年の東京オリンピック直後に発生した証券恐慌を扱う。

2012年11月28日水曜日

【投資家のための金融史】黄金の60年代と利回り革命

第5章 第二次世界大戦前後の証券市場
 
 8話 黄金の60年代と利回り革命 ビジネスアイ
 
ジャック・レモン演じるバクスターは、ニューヨークの保険会社に務める独身のサラリーマンである。上司の不倫のために自分のアパートの部屋を貸してゴマをすっていたら、上司の不倫の相手は自分のあこがれの人だった。
 
ビリー・ワイルダー監督の名作「アパートの鍵貸します」が撮られた1960年ごろのアメリカでは会社人間が跋扈(ばっこ)し、日本のバブル期と同様にサラリーマンの上司は不倫ばかりしていた。バクスターは今でいう家畜ならぬ「社畜」だった。会社にしがみついていれば人生はバラ色だと信じていたのだ。
 
その翌年にワイルダー監督は、ジェームス・ギャグニーを主演に据え「ワン・ツー・スリー」というドタバタ・コメディーを撮った。これはベルリン・コカ・コーラの超会社人間の支社長が主役である。ベルリンの壁ができる前に、色仕掛けで共産圏にコカ・コーラを売り込もうという強引なストーリーだが、家庭サービスに厳しいはずのアメリカ人の奥様もモーレツ社員の夫の仕事に対してそれなりの理解を見せている。「コカ・コーラ帝国主義」とも揶揄(やゆ)され、アメリカ製品を世界に販売しまくったこの時代は、バブル期の日本と何かと共通点が多い。
 
 
第二次世界大戦後の米株式市場は戦後のインフレ懸念からしばらくはもたついた展開となったが、1952年に5代も続いた民主党政権も終わりアイゼンハワーが大統領になると、NYダウは250ポイント近辺の水準から66年2月9日の995.15ポイントまで約15年間にわたってブルマーケットが続くことになった。ベルリン・コカ・コーラのように、ブレトン・ウッズ体制下で覇権通貨となったドルを背景にして、アメリカの企業は世界中に展開し多国籍企業となった。
 
「熱狂の20年代」に対して「黄金の60年代(シクスティーズ)」と呼ばれる時代である。
 
戦時中に国債販売促進によって拡大した証券保有者層の行き場のなかった貯蓄が、テレビや宇宙など新しいテクノロジーの登場とともに株式市場になだれ込んだ。ポリオワクチン、冷凍食品、プラスチック・レコードなどこの時期に新しいテクノロジーで新商品を開発した企業は記録的な増収増益を果たしている。戦争から帰った若者は結婚し、郊外に家を建て、家電と車を買った。
 
 
         
証券業界も積極的なマーケティングを展開した。メリル・リンチ証券はアナリストを大量に採用し、投資家には無料で調査リポートを配った。また日本の投信にあたるミューチュアル・ファンドが大きく成長した。
 
昔からアメリカの証券業界では「ミューチュアル・ファンドは売られたのであり、買われたのではなかった」といわれている。50年の資産残高は25億ドル、70年には600億ドルになっていた。セールスマンたちは美しく印刷された資料を手に、歩合制で売り歩いたが、メリルだけは強引な販売を禁じ、固定制だった。
 
50年にはGMが従業員に普通株式を組み入れる年金基金を提案し、その後GMを見習う企業によって8000件の年金プランが作られた。それ以前の年金は、株式などに投資しなかった。教員保険年金協会(TIAA)は株式投資の可能なCREFを創設し、会員の株式への需要に対応することになった。
 
こうして投信や年金などの機関投資家を通じて一貫して株式の個人資産への組み入れが進行する中で、派手なパフォーマンス(成績というよりは振る舞い)を売りにしたゴーゴーファンドが現れた。こうしたファンド・マネージャーたちの一部は70年代に入って相場が停滞した後も生き残った。そして「健全」というコンセンサスを得た特定の銘柄群とそれ以外の銘柄による二重相場が出現し、ニフティ・フィフティ(すばらしい50銘柄)相場と呼ばれるようになった。
 
株式投資が大衆化し、機関投資家の株式組み入れが進んだこの時期に「配当革命」が起こった。株式は誕生以来、その不確定な投資家収益のために債券利回りよりも高い配当利回りが要求されてきたのだが、株式は長期保有により、その成長の果実を受け入れられるとの認識のもとに、この時代に初めて利回りの逆転現象が起きたのである。
 
 
そして2012年の今はそれが50年ぶりに再び逆転しようとしている。つまり株式の成長の果実に対する確信が揺らぎ始めたのだ。
 
 

2012年11月22日木曜日

【投資家のための金融史】大戦時のNY市場

第5章 第二次世界大戦前後の証券市場

 6話 下落から上昇へ 大戦時のNY市場 ビジネスアイへのリンク

1930年代の大恐慌の影響で過剰なバブルを招いた自由放任への反省から、アメリカでは経済に対する政府関与が深まった。米国に限らない。各国は互いに保護主義に走り、ブロック経済を構築し、不況を長引かせる結果となった。

英仏はヒトラーの脅威が増す中で38年のミュンヘン協定において「これ以上の領土的要求は行わない」約束でチェコのズデーデン地方の帰属をドイツに託した。第一次世界大戦に懲りた英仏の戦争回避のための融和策だった。ヒトラーに弱腰を見透かされるかたちとなったこの判断を、後の英首相チャーチルは、第二次世界大戦の原因の一つとなったと厳しく指弾している。

当時の自由主義経済圏に対する脅威はドイツだけではなく、共産主義のロシアの台頭もあった。極東では領土的野心に燃える日本が国家社会主義的な動きを強め、ドイツと同調し始めてもいた。

国土が焦土と化したわれわれ日本人からみると、アメリカの金融史は第二次世界大戦に対して淡泊である。この時期、後に「独占委員会」と呼ばれる「暫定全国経済委員会:TNEC」が大きなイシューとなっている。グラス・スティーガルで分離されたモルガン商会とモルガン・スタンレー証券が結局は裏で連携してほとんどの引受案件を独占しているのではないかとの疑惑である。モルガン商会がモルガン・スタンレー証券の優先株を売却して両者の関係が断ち切られたのは日本が真珠湾に奇襲をかけているころだった。

アメリカの第二次世界大戦の戦費は3410億ドルで第一次世界大戦の約10倍。金融史では軽くとも、経済史ではとてつもなく重い数字だ。米国民には厳しい経済統制と重税がのしかかった。

米国はハワイなど一部を除いて国土が戦場にならなかったこともあり、戦争景気によって失業問題が解消し賃金が上昇した。しかし日常品には配給制度があったし、統制経済によって自動車や家電は生産制限され国民には稼いだお金の支出先がなかった。そのためこうした余剰資金は日本と同じように、貯蓄や戦時国債の購入に向かった。経済成長とインフレにもかかわらず、消費者ローンは40年の83億ドルから45年には57億ドルへ減少し、一方で貯蓄性の生命保険は1155億ドルから1518億ドルに増加した。

国債は7回にわたる国債募集運動を通じて1850億ドルが売りに出された。日本の投資信託の5億円とは規模が違い過ぎた。アメリカの戦記映画である「父親たちの星条旗」や「メンフィス・ベル」には、前線から満期除隊した英雄が国債募集キャンペーンで全米ツアーを行うシーンが出てくる。



日本はドイツから2年遅れて41年12月に参戦したが、間もなくドイツ軍のソ連での快進撃は停滞し始めた。日本海軍も翌年6月のミッドウェー海戦で大敗するとその後は積極的な攻勢は影をひそめて守勢に入った。

 ニューヨーク・ダウは40年5月のヒトラーによるフランス侵攻以来下落を続けていたが、日本参戦後の42年4月に底を打つと、その後は修正を交えながらも終戦にむけて一方的に上昇を続けた。日本がアメリカの株式市場に脅威を与えたのは4カ月間だけだった。ウォール街は出征兵士も多く、商いは閑散として女性のパートタイマーばかりが目立つようになっていたが、この風景は兜町と同じである。

終戦の年の45年のGDPは「熱狂の20年代」の倍に、また税前法人利益は2.5倍にもなっていたが、45年末のダウは192.91ポイントであり、20年代の高値381.17ポイントの約半分でしかなかった。

 アメリカの個人は消費者ローンを返済し、国債を買い、貯蓄を作った。金融環境はいかにも株式市場になだれ込みそうにも見えたのだが、大暴落時の記憶による株式市場への不信感や、戦後すぐに発生したソ連による共産主義台頭への不安感、労働運動の盛り上がりなどから、しばらくは株式投資に積極的になれなかったのである。


2012年11月19日月曜日

Kindle Paperwhite届きました。


本日アマゾンからKindle Paperwhite が配達された。3Gのついていないバージョンで本体価格が7980円、電源アダプターが990円、アマゾンのレザー・カバーが3499円でしめて12,469円(税込)である。本体価格と比較してカバーが高いと感じるかもしれないが手に持った感触はすこぶる宜しい。むしろiPhoneと共有でき、PCのUSBにつないでもOKの電源アダプターが無駄だったと思っている。

Twitterでレビューを書けとのリクエストがあったし、買おうかどうか迷っている人がいるのであればレビューを見たいのは当然だろうから書いておくことにした。ただし3G付が良いのかどうかは未だわからない。何しろ今日届いたばかりだから、このレビューはあくまでファースト・インプレッションでしかない。

僕は外出時に必ず本が必要な人間である。しかも必ず紙のブックカバーが必要で、欲をいえば丸善で購入時につけてくれる茶色の紙のカバーが好みである。丸善は最近白いカバーになったので僕は茶色い紙を使いまわしして、今では擦り切れてボロボロになっている。

外出時に連れ出す本はハード・カバー本は滅多になく、新書、文庫、選書のどれかであり、何冊かにカバーをつけて常時待機させてあるのだが、その中にはカバーはかけてあるのだが、あまり面白くなくて途中で読むのを止めた本も混じっている。外出時に慌てて(大体慌てる)適当に本を選ぶと、面白くない本が混じっていることもあって、その時は恐ろしく手持ち無沙汰になってしまう。で、あまり手持ち無沙汰だと、読む本もないことだし帰りに一杯やっていくかということになって、結果として非常に脳と肝臓に悪いのである。

まあ、管理が悪いだけなのだけれど、一旦そうした本のカバーをはずして本棚か処分行きに決定してしまうと今後二度と読むことが無い。そう思うと処分を躊躇してしまうのだ。Kindleは一冊分の重量でそうした問題を解決してくれるし、また家の中でも非常に手軽だ。


今回は配達されてすぐに「日露戦争、資金調達の戦い」を購入してダウンロードしておいた。これはKindle読者から見て拙著がどう見えるのかのモニターのためと「お前、本書いたんだってな」とさして親しくもなかった昔の知り合いに「お前」と声をかけられた時の宣伝用である。

さて肝心のKindleの評価であるが、本をよく読む人でiPadやアンドロイドを持ち歩いていない人は「絶対に買い」である。これはもう何の間違いも無いし、考えるまでも無い。こんなコストパーフォーマンスの良い商品はこれまであまり見たことが無い。画面は充分にきれいだし、重量もOKである。

別にハードウェアが安いといっているのではない。使い方としては青空文庫がとても身近になる。夏目漱石、僕の好きな織田作之助、その他数えきれない、つまり読み切れないほどの名作が無料で揃っている。これが8千円ですべて自由に読めるなんて、しかも外出時にKindle一冊持てばOKだなんて信じられるかい?

例えば青空文庫には魯山人だけでもかなりの作品がある。鰹節やうなぎの調理法の話だけでも8千円の価値は飛び越えている。もしも「おいしんぼ知識レベル」の知ったかぶりがいて鼻についたとしても、チャッチャッと読んで魯山人で対抗できるなんて最高だよ。

僕の兄のようにiPadやNexusも買う人は多分これも買うのだろうからそれでいいとして。僕としてはあまりガジェットを持たない人で本好きに是非買ってほしいと思う。文庫本を一冊鞄に入れておくつもりで。



2012年11月17日土曜日

【投資家のための金融史】 戦争の足音と東京市場

 第5章 第二次世界大戦前後の証券市場 ビジネスアイへのリンク

 3話 戦争の足音と東京市場

高橋蔵相が1936年の2・26事件によって暗殺されると、日本は軍事予算を拡大し、翌年には盧溝橋事件によって日中戦争に突入した。日中戦争の遂行には原油や鉄鉱石などの1次資源と技術的に高度な工作機械などの製品輸入が必要であり、そのためには基軸通貨であるドルの確保が必須だった。

戦中のお寺の鐘やマンホール、果ては台所の流し台まで供出させられた金属類回収令は有名だが、金も新聞社などの主導で37年ごろから硬貨、指輪、時計、宝石などの国民による自主的な供出が行われた(金献納運動)。これらはただではなく一定価格の円で対価が支払われたのだが、国にとって必要なものはドルと交換可能な金であり、一方で円の紙幣なら印刷すればよかったのである。

                
英国でも、41年に米国の武器貸与法が成立し輸入代金が不要になるまでは、米からの輸入品に対してドルが必要だったので、国内のドル建て証券保有者から政府がポンド建てで証券を購入し、それを米で売却しドルに変えていた。日本と同じようなことをしていたわけだ。

日本は石油やくず鉄、希少金属を含む戦略物資のほとんどをアメリカから購入していた。だから常識的にはアメリカとの戦争は考えられなかったが、盟友ナチス・ドイツが、ブロック経済化の延長でヨーロッパでのアウタルキー(自給自足経済:自存自衛の基礎)を実現しつつある状況から影響を受けた。

日本はインドネシアの原油や中国大陸を含む東亜全域にわたる大日本帝国独自のアウタルキーを確立し、米英依存脱却を目指すことになった。そうした動き自体が、今度はアメリカによる経済制裁を誘発し、日本としてはさらなるアウタルキー確立に向かわざるを得なくなるという悪循環が生まれ、最終的には戦争に至った。

41年7月、日本の南部仏印進駐に応じてアメリカは日本の在米金融資産を凍結した。ニューヨーク外為市場から円が消え、連銀は日本に対して窓口を閉じた。日本はたとえ金を持っていてもドルとは交換できず、石油など戦略物資の購入は決済不可能となったのである。

  
日本の大蔵大臣はドル建て外債の債務利払い継続を発表したが日本帝国外債は買い手がつかず額面の20~30%に低落してしまった。日本は金銭での交易ができなくなった以上、大きく譲歩するか、略奪するか以外に国家存亡の道は残されていなかった。



東京株式市場は開戦初頭の真珠湾攻撃や香港、シンガポール占領に応じて上昇基調となった。好調な戦争の滑り出しに、兜町の中にはニューヨークやロンドンのように東京市場が大東亜共栄圏の金融の中心地として繁栄を謳歌(おうか)すると真剣に考え始める者もいたし、近いうちにわが国土になるであろうオーストラリアへの移住を考える気の早い人もいたそうである。

ミッドウェー海戦の敗北は国民に知らされず、日本協同証券や日本興業銀行による株式買い上げなどにより株価は開戦後1年の間は強含みに推移した。

43年3月に入ると政府は日本証券取引所法案によって金融市場の統制強化を目的に全国取引所を国有化してしまった。日本証券市場開闢(かいびゃく)以来の東京・大阪両取引所株は兜町や北浜の人々に惜しまれながら上場廃止となったのである。「兜町盛衰記」によれば、このころから兜町では大本営発表のニュースを信用しなくなったそうだ。

株式市場は、自由な場所でしか栄えることはない。買い支え機関によって株価は値を保ったが、円でろくにものが買えない以上これは画に描いた餅だったのだ。

2012年11月15日木曜日

【投資家のための金融史】 番宣


現在フジサンケイグループの日刊紙であるビジネスアイに【投資家のための金融史】を連載しています。7月から月に約10話のペースで始めて明日でちょうど50話になります。記念に何かしようというわけではありませんが、明日以降の4つの話は第2次世界大戦の頃の話となります。ちょっと番宣をしておこうと思いこの記事を書きました。

 

「第5章3話 戦争の足音と東京市場」では当時の東株新指数という株価指数を使って第2次世界大戦のイベントと株価をチャートの上で追いかけてみました。残念ながら戦中の兜町には女性とお年寄りしかいなかったそうで、まともな取り組みがあったのかは疑問ですけれど。

「4話 戦前の投資信託」では多分普段あまり目にすることは無いと思うのですが戦前の投資信託について説明しておきました。一般の書籍にはなかなか資料が無いのですが「野村證券五十年史」に詳しくデータが掲載されていました。こうしたデータは「日露戦争、資金調達の戦い」執筆時に調べておいたものです。このあたりの話を書いていて思ったのですが、例えばほとんど唯一と考えられている証券市場の歴史書「日本証券史」などでは、書籍を購入してくれる層である当時の証券会社や金融機関に気を使って事実は曲げられて書いてあります。それが何であるかは僕はいいませんが、戦前の投資信託が戦後の投資信託の礎などにはならなかったことだけは確かです。だから誰も書かないのだと思います。

「5話 焼け跡の2つの株式ブーム」これもあまり良い話ではありませんが、戦後の預金封鎖の話です。このあたりはどうしても黒歴史に近く決して良い話ではありません。児島襄さんの「日本占領」第2巻には進駐軍の若手将校グループが預金封鎖を利用して儲けようとして逮捕された話なんかが登場します。ただこの辺りの話は今のお金儲けにも通じるところがあります。今回は字数制限で細かくは書けませんでしたが。

「6話 第2次世界大戦とニューヨーク市場」はニューヨーク・ダウと第2次世界大戦のイベントを重ねて簡単に書いてあります。アメリカの金融史関連の本の愛好者は気がついているかもしれませんが、彼らの第2次世界大戦の記述は拍子抜けするほど軽い。金融史的なイベントが多くなかったというのはあるのでしょうけれどね。また日本はこの頃の話をあまり残したがっていない(いなかった)ようにも感じるのです。

記事はWEB上ではビジネスアイか、Facebookの【投資家のための金融史】で読むことができます。

このシリーズの書籍化の話はすすんでおりますが、多分今後の僕の努力次第ということになるかと思います。

2012年11月12日月曜日

かわはぎと葱の小鍋


昔銀座に愛想こそ無いがとても美味しくて小さい割烹があった。オーナー兼板長は吉兆で修行したと常連からいわれていたが、当時の僕は吉兆が嵐山吉兆や大阪吉兆とかにいくつも別れていることすら知らなかったので、どこの吉兆だったかはわからない。しかしこの店の凄いところは高級食材のメニューではなく、卵焼きやしめ鯖などのありきたりの食材でものすごく美味しく料理を出すことにあった。お値段は高級食材を出す店並の値段だったのだけれど。

10年ほど前のある日。ちょうど今の時期。11月の第2週目だったと思う。メニューにかわはぎの小鍋があった。小さい土鍋に昆布をひいて、かわはぎと白ねぎだけでポン酢でいただくのである。肝とかはよくすり潰して使うが、彼は肝を使わなかった。そしてこれがもう、とんでもなく美味しかったのだ。彼が言うには11月の一時期だけかわはぎがフグよりも美味しくなる瞬間があるのだそうだ。あれから11月になると自分でかわはぎを買って試してみたが、残念ながら僕がやっても全くお話にならないのである。でも「鍋の具材はシンプルに」はそれ以降実践しているし、利尻の上等な昆布は買いだめしてある。

http://www.suginamigaku.org/
土鍋の小鍋をつつくのを池波正太郎は常夜鍋と呼んでレシピをたくさん書き残している。お燗をちびりちびりと飲(や)りながら自分一人用の鍋をつつく。薄くスライスした豚肉と葱だけのシンプルなものをすすめていた。願わくば火消しの親分なんかが時代劇で使っている長火鉢なんかがあると良いのだろうなと思う。

ところで読者のあなたは鍋とかシチューやスープの発祥がほぼ間違いなく日本だったということをご存知だろうか。多分、知る知らないより以前にあまりそんなことを考えたことが無いのではないかと思うのだが。シチューやスープなんてあまりに包括的過ぎるし、そんなもの世界中のどこででも自然発生的に始まったのではないかと考えるのではないだろうか。僕も煮炊きを始めたのが地球上のどの辺りの人間かだなんて思いつきもしなかった。

しかし物事は少し違うアングルからとらえると退屈なものも光輝いて見えることもある。それは何かというと縄文土器のことだ。(縄文土器は退屈じゃないけれど)

我々は学校で日本史の最初の頃に例外なく縄文時代と弥生時代を習うわけだが、僕には先生から煮炊きは日本人が世界のどの地域よりも早い時期に行なっていたなどと教わった記憶が無い。僕の高校時代はサボってばかりいたので、もしかしたら僕の記憶に無いだけかもしれないので、念のためwikiの縄文時代を読んでみたが、全体として時代を細かく記述してはいるものの、そうした世界史の中での特異な位置づけを強調してはいない。

農耕生活に入る以前の人類は獲物を追って移動を繰り返す狩猟採取生活をしていた。これが紀元前1万年頃の中石器時代後期、氷河期の終わり頃に地球が暖かくなり気候が安定してくると定住し穀物の耕作が始まった。地域によって時期が異なるがメソポタミアでいえば定住して農耕が始まるのは紀元前9千年頃である。人類は狩猟生活で移動している間は土器を持たなかった。これは何故かといえば土器などは重たくて移動に適してはいなかったからだ。

ところが日本の縄文時代というのは稲が日本に到来する前の話で縄文土器の古いものは紀元前1万6千5百年クラスのものもある。メソポタミアよりも数千年も古いのだ。日本の狩猟採集生活は浜辺の貝、魚や木の実を食べていたから早くから定住して縄文土器を作った。こうした土器の内側からは食物の貯蔵だけではなく煮炊きした跡が残されている。世界の他の民族は定住するまで土器を持たなかった。そして単純に考えてスープやシチューは鍋がなければ作れないわけで、だとすると世界でも珍しく土器を持っていた日本が間違いなく世界で一番初めにシチューやスープを調理したということになるわけだ。なんだか凄い。ような気がする。 あんまり人前で言わない方がよいかもしれないけれど。


2012年11月10日土曜日

マッカーシズムと映画


ビジネスアイに連載中の【投資家のための金融史】は、当初あまり肩の凝らない話にして、ちょっとばかり楽をしようと考えて書き始めたのだが、どうしても参考にする書籍を読みなおしたり、あるいは少し記憶が曖昧になった関連する映画などを見直したりしているうちに、本来の目的を離れて別件で深みにはまってしまうことがよく起こる。こうして連載を続けていると、現実にはそういった無駄とも思える調査に時間の多くをとられているのが実情で、その為に悶え苦しむ時も多いのだ

Audrey_Hepburn_Roman_Holiday_cropped.jpg
オードリー・ヘップバーンの「ローマの休日」はハリウッドのマッカーシズム(赤狩り)と関係していることで有名だ。本来の脚本はダルトン・トランボなのだけれど、彼はこの脚本を仕上げた直後に赤狩りでハリウッドを追われてしまうので、当初の映画のエンドロールの脚本のところにはイアン・マクラーレン・ハンターが名前を貸してくれてトランボは原稿料だけをもらった。そしてこれが真実のトランボに書き換えられるのは50年後の2003年の映画「ローマの休日」50周年記念の時だったのだ。僕の持っているデジタル・エディットのDVDはトランボになっている。
 

この話を聞いた時には、「名前を貸す」程度の話は大したことだとは思わなかったのだけれども、ハリウッドのマッカーシズムをテーマに取り上げた映画を観た後では、この考えが変わった。
 
映画とは、ひとつはロバート・デ・ニーロの「真実の瞬間:原題Guilty by suspicion 1991年」だ。これはマーティン・スコセッシが俳優として友情出演しているのだが、この映画に映しだされる当時の赤狩りの厳しいこと。自らが共産党員ではないことを宣誓して、それを証明するためには誰か友達を当局に売らなければ証明ができない。「奴は共産党員ですぜ」とね。不快なシーンがえんえんと続く。
 
またもうひとつの映画はジョージ・クルーニーの「グッドナイト&グッドラック:2005年」だ。これは赤狩りの張本人であるマッカーシー議員の非道をCBSの報道番組が追い詰めていく話だけれども、これも局と番組に対する政府筋からの圧力は半端じゃない。もうとにかく奴は共産党員だといえばすべてOKみたいな話なのだ。
 
「あなたは12年前にソ連に衣料品や缶詰などを援助物資として送る会合に参加していましたね?」
「ええ、当時はソ連は我々の味方だったはずだ」
「その時会合に参加していたお知り合いの名前を挙げて下さい」
とこんな感じなのだ。会合に参加していたら共産党員なのである。

つまり「名前を貸す」という行為そのものがバレたりすると大変なことになったに違いない、懲役刑にでもなりそうなことなのである。イアン・マクラーレン・ハンターの行為は非常に勇気のあることだったわけだ。

そして実は「ローマの休日」のクレジットには何の目的なのか変わった文言が挿入されている。

『この映画はすべてイタリア・ローマで撮影され、録音された』

これは監督のジャン・ハーマー・ワイラーが赤狩りのブラックリストにのっていたプロデュサーのレスター・コーニックを使うために、ハリウッドでは何かと横槍が入るので、干渉を避けようとローマ・ロケを敢行したからということになっている。

 
さて、何故僕がこんな長い話をダラダラと書いているのかというと、今朝読んだ本に関連している。それは猪木武徳さんの「戦後世界経済史―自由と平等の視点から (中公新書) 」だ。この中にマーシャル・プラン(欧州復興計画)の記述があって、そこにはこう書いてある。
 
「アメリカの提供した米国では使えないドル(凍結ドル)があったために『ローマの休日』はパラマウントがこの資金を使って製作した映画である。従ってオープニングの字幕には『この映画はすべてイタリア・ローマで撮影され、録音された』と書いてあるのだ」

どっちの記述が正しいかではなく、どちらも正しいのだと思う。パラマウントは凍結資金を使って製作して欲しかったし、ワイラー監督にとっては、赤狩りの犠牲となってハリウッドを追われる仲間を金銭的に援助するためのチャンスとして渡りに船だったのだろう。かくしてローマ・ロケの名作が生まれ、美しくも正しい大女優、オードリー・ヘップバーンが誕生したわけだ。

では何故マッカーシズムを調べていたかというと、それはブレトン・ウッズ協定だ。ブレトン・ウッズ協定はそれ以前の予備折衝の段階から英国はケインズを送り込み、アメリカはハリー・デクスター・ホワイトというニューディーラーの官僚を折衝に当たらせた。
 
ケインズはその当時すでに大変な権威であり、デクスターなどは弟子みたいなものなのだが、いかんせん第2次世界大戦で英国は疲弊し発言権がなくなっていたので米国主導でまとめられてしまった。というのがブレトン・ウッズ協定だ。

このハリー・デクスター・ホワイトが後にマッカーシズムによってソ連のスパイ嫌疑をかけられることになるのでデクスターを調べていたところ、マッカーシズムをよく知るために映画を2本観ることになってしまったという、長い割に内容の薄い話でした。どちらの映画も秀作ですが「ローマの休日」なら何度観てもOKです。


 

2012年11月7日水曜日

【ビジネスアイ・コラム】田中文科相不認可問題


大臣の一声で認可左右 自由主義の否定にもつながる危険な権力行使 MSN産経

2012.11.7 11:16

 18世紀初頭のロンドンは株式ブームに沸いていた。新規ベンチャー企業が続々と設立されていたのだ。自分の会社へ資金が回らなくなることを恐れた南海会社のジョン・ブラントは政治力を発揮して1720年6月に「The Bubble Act(泡沫(ほうまつ)会社禁止法)」を成立させた。質の悪い会社の誕生を阻止するために設立特許取得に厳しいハードルを設けたのである(特許主義)。(フジサンケイビジネスアイ
 
http://www.library.hbs.edu/hc/historicalreturns/fb/slide3.html
 
これ以降、英国では新規会社設立には膨大な費用と時間が要求されるようになり、政治家や有力者とのコネが重要な要素となった。この法律は100年後に廃止されるが、18世紀英国の株式会社の発展を阻害したとされている。そして皮肉なことにジョン・ブラントの南海会社は質の悪い会社の代表として「南海バブル」と呼ばれ、歴史に名を残すことになった。
 特許主義や認可主義は、許認可を官庁の裁量に依存することになり、かつての国家社会主義国や共産圏諸国のように進歩や発展が役所の能力の範囲に限定されかねない。広く人知を集める資本主義社会には向いていないのである。腐敗も生じやすい。

 そこで考えられた方法が準則主義である。参入は自由が原則であるが、淘汰(とうた)による退出もある。低品質なものを排除するために一定のガイドラインを設けて開示し、それらをクリアしたものに関しては基本的に平等に認可しようという方法である。ここでは既得権益者による反対圧力も、有力政治家のコネも、天下りの受け入れも不要である(はずだ)。

従って逆にいうならば、もしも基準のクリアが明確な申請者に対して認可を与えないのであれば、それ相当の特別の事由が必要になる。さもなければすべてが裁量次第ということになってしまうからだ。

 筆者は専門家ではないが、文部科学省のHPによると日本の大学設置基準においても規制緩和がすすめられ、すでに認可を得るためにクリアすべき規則や法的な問題点が明示され準則化されている。申請から当局の審査、学生募集、開校までのおおよその時間的ガイドラインも示されているようだ。

 一方で規制緩和により多くの大学が開校され大学の質の低下が指摘されている。少子化もあって今後は大学の破綻も予想される。これらは間違いなく今後取り組むべき課題である。

 準則主義にのっとり準備をすすめていた3大学の認可が田中真紀子文科相によって否定された。新基準の下、もう一度審査するということのようだが、この問題は大臣の許認可における裁量権の逸脱の問題だけでなく、準則主義、ひいては自由主義の否定につながる非常に危険な権力行使である。大学設立に一定の基準を設けるのは当然である。質の低下が問題であるならば準則の基準を上げればよい。しかし大臣の鶴の一声で自由の府であるべき大学の認可が左右される国など真っ平ごめんなのである。

以上は本日のフジサンケイ・ビジネスアイ掲載の拙コラムから。

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この記事は田中文科相による3大学の不認可のニュースを受けて11月4日に書いたものです。紙の新聞のコラムの記事はネットとは違い緊急でもないケース以外ではどうしても書いてから掲載までに時間差があります。

5日、6日とマスコミでは僕の予想を上回って田中文科相への非難が盛り上がってきたので、記事の差し替えを提案しようと思って編集長に電話したのですが「まだいけるのではないか」ということで、相談して少しだけ訂正を入れてもらいました。

それが既得権益者による反対圧力も、有力政治家のコネも、天下りの受け入れも不要である(はずだ)。の(はずだ)です。

大学関係者の中には前職を辞めて転職してきた教員や進学予定者のように無辜(むこ)の人達が大勢いるわけですが、本来の規制緩和、自由競争の趣旨を逆用して利権に群がる人達も大勢いることは確かです。田中文科相のやり方は唐突で強引ですが、逆にそうした手法が「悪い奴ら」の所業を隠してしまわないかが心配になってきました。つまりあまり田中文科相を攻めるのに血道をあげ過ぎないで本質も見ておこうよ。と考えたのです。

文科省川平官房長は「行政手続き上、不認可の処分を出すとの決定はまだしていない。新しい基準の下で審査し、認可か不認可か決める」と発言しています。また「大学側に誤解を与えたならば訂正して謝罪する」とも述べています。「誤解」したのは不認可とされた3大学ではなく、「誤解」しているのはどう見ても文科省の方です。大臣の発言が行政手続きと何らの関係もないのであれば、大臣は行政に関する発言を今後は止めるべきです。さもなければ「誤解」だらけになるでしょう。

それにしても驚くべきは民主党の危機管理です。田中文科相は官邸にも報告済みということでしたが(これがウソということは無いでしょう)このような事態になることぐらい予想できそうなものです。
平時の経済戦争のみならず、今のように尖閣で緊張している時に現内閣は戦争をも含む外交問題への対処能力があるのかどうか本当に疑わしいと思うのです。相手に間違ったメッセージを送って誤解ばかりさせてしまうのではないでしょうか。読者は民主党外交最高顧問が誰だかご存知ですか?

しかしながら日本国民の悲しみは、「ならば誰の内閣ならば安心か」という選択肢が思いつかないところにあるのでしょう。学校法人であれば淘汰されていけば良いだけですが、国の方はそうもいきません。

 

2012年10月16日火曜日

チャップリンと菊池寛と無声映画


今朝のビジネスアイに連載中の【投資家のための金融史】は45話目で「1929年の大暴落」の話でした。

ビジネスアイ【投資家のための金融史】大暴落とチャプリンの「街の灯」

今回は大暴落を1500字前後でどう書けばよいのか相当に悩みました。何冊か本を読みなおしたりして書くのに相当時間がかかりましたが、アウトプットの分量はリンクにあるとおりです。今なら大暴落に関する大抵の質問には答えられると思いますが、文章では表現しきれませんでした。それでも今朝印刷されたビジネスアイを見ると1600字を超えてしまっているので編集の方には紙面の配分でかなり無理をして頂いているのがよくわかります。

昨年のヒット映画にミッシェル・アザナヴィシウス監督の「アーティスト」があります。映画界が無声映画からトーキーに移行していく時代に、それについて行けないスターの苦悩とそれにまつわるロマンスをテーマにした映画です。稀に見る「後味」の良い映画ですので是非ご覧ください。

チャップリンは当初音付きの映画を否定しました。こんな子ども騙しなものは芸術では無いと考えたのです。確かに黎明期の映画の音響はひどいものだったそうです。それでも世の中がすべからくトーキーに変わる中、「街の灯」はあえて無声を選びました。実際にはセリフが音声で無いだけで音響の機能は使っています。チャップリンはドイツでの試写会はアインシュタインと見ています。仲が良かったのですね。

日本でも菊池寛が同じ年の1929年6月(昭和4年)に「発声映画時代」というエッセイをサンデー毎日に書いています。

「トーキーといふものは、1つの新しい発明として確かに驚くべきもので、一度は見ておいてもいいものだらう。しかし、今、日本に来初めているアメリカ物のトーキーが将来の映画界を支配するものとは思はれない」

菊池寛はトーキーはトーキーで無声映画は無声映画で別物の芸術として両者発展していくのではないかと考えていたようです。さらに彼はトーキーは金がかかるそうだから、資本の貧弱な日本では無理だろうと感想を述べています。当時の日本の経済的立ち位置の縮図ですね。

トーキーに否定的だったのはチャップリンが特別だったわけでは無いのです。

2012年10月11日木曜日

第4章9話 日露戦争に見る国際協調融資


ビジネスアイのサイトにはグラフがついていないので、ここに掲載しておきます。


日露戦争に見る国際協調融資

 日本人にとっての日露戦争は司馬遼太郎のベストセラー小説「坂の上の雲」の影響が強く、児玉源太郎の指導による明治陸軍の精強さと東郷元帥による日本海海戦の奇跡的な勝利が大きく印象に残ってしまうが、高橋是清による戦費調達の貢献度はそれに劣らない。

 交戦国であるロシアと日本は1897年の同じ年に金本位制を採用し、為替をイギリスなど先進国と固定した。当時、金本位制を採用するということは「承認の印章」と呼ばれ、先進国の証しでもあったし、国際資本市場で資金調達するための基本条件でもあった。

               ■     □

 両国とも開戦が決定するとすぐに金本位制維持の決定を発表した。これは自国の為替レート下落による戦争物資輸入への影響を考慮したからである。
 日本は日英同盟を手がかりに、英国政府が保証をつけて債券発行のサポートをしてくれるものと考えていた。しかし英国は南アフリカのボーア戦争の財政負担の影響から脱しておらず、日本にとっては期待はずれだった。

 アカデミズムの世界では、日露戦争は「第0次世界大戦」とも例えられる。産業革命以降初めての本格的な機械化戦争という意味である。前例のない規模となったこの戦争について、日露両国ともその認識が甘く、戦費を過小評価していたのである。

 日本は日英同盟によってロンドン市場で起債したが、ロシアは露仏同盟の関係からパリ市場で起債した。グラフは両国国債のロンドン市場における利回りの推移である。


 1904年2月の開戦時に日本国債は大きく売られ、両者のスプレッドは2.23%にまで達したが、当初絶望的だと考えられていた日本の起債が米国金融業者であるクーン・ローブ商会によってアメリカで募集されることが決定されると、一気に1%までに低下した。

その後、旅順要塞の陥落など日本の戦果もさることながら、1905年1月の「血の日曜日事件」などロシアの内乱によってフランス革命時のデフォルトが意識され、当初ロシア寄りであったフランスやドイツの離反を招き、日本よりもむしろロシア側の債券発行が困難になっていった。そして最後に日本海海戦での日本の圧倒的な勝利が、戦費面でのロシアの戦争継続を困難ならしめ、講和の席につかざるを得なくさせたのである。最終的に日露両国のスプレッドはほぼゼロになった。

 日本は戦中に4回の国債、戦後には借り換え債を2回発行した。第1回から3回は英国と米国市場、第4回にはドイツが加わり、戦後の第5回の発行では英、米、仏、独と先進国すべての市場で債券を同時発行する初めての大規模国際協調資金調達となった。日露戦争は日本の国際金融市場へのデビューでもあったのだ。

               ■     □

 日本は開戦前に5600万円だった公債残高が戦後の1907年には22億7000万円にまで膨らんだ。ポーツマス条約でロシアから賠償金を取れなかったために戦後の国債費は国家予算の3割にも達し、高い水準を維持した軍事費とともに国家予算を圧迫し続けた。日本はその後の第一次世界大戦の特需によって借金を返済するが、同じように債務を重ねたロシアは革命によってデフォルトを起こしてしまうのであった。

 日露戦争のファイナンスと当時の日本国財務官である高橋是清の活躍は拙著「日露戦争、資金調達の戦い」(新潮選書)に詳しい。

2012年10月3日水曜日

【ビジネスアイコラム】市場は尖閣の先を見通しているのか


【ビジネスアイコラム】市場は尖閣の先を見通しているのか

英誌エコノミスト9月22日号の表紙はいささかショッキングだった。紺碧の東シナ海に浮かぶ尖閣諸島を真ん中に「こんなちっぽけな島のためにアジアは本当に戦争をするのだろうか?」と問いかけている。当の英国は30年ほど前に大西洋上のちっぽけなフォークランド諸島のために現実に軍を動員し、1000人を超える死傷者を出しながら勝利しているのだから、軽いたとえ話と切り捨てることはできない。

多数の市場参加者たちによる予想や思惑が凝縮された株式市場の価格形成には、将来を予見する不思議な力があると、一部では信じられている。株価は景気に先行して動き、実体経済はその1年後に追随する。確かに株価が上昇して投資家の可処分所得が増加し消費が刺激され景気が回復するというプロセスはある。あるいは企業業績がピークを打つ前に既に株価は高値を形成して下落していたということもままある。現代でもこうした市場観測をするアナリストもいる。株価がすべてを知っているという考え方だ。

経済学者のポール・サミュエルソンは株価の予見性をこう評した。「株式市場は過去5回の不況を9回も予測した」。つまりまるっきり外れるわけではないが、信頼できるインディケーターでもないのである。

7月に他界した元モルガン・スタンレーの著名ストラテジスト、バートン・ビッグス氏は2008年に出版した「富・戦争・叡知 」(日本経済新聞出版社)の中で株式市場の持つ予見性について、第二次世界大戦を題材に分析している。イギリスの株価は、ドイツ軍の勢力がまだ圧倒的だったフランスの降伏やダンケルクの撤退時点で底を打ち、その後の戦勝を予見している。またニューヨーク・ダウもミッドウェーの前の珊瑚海海戦時点で底を打っていた。

一方、第一次世界大戦については1910年出版のノーマン・エンジェル「大いなる幻想」が「戦争は廃れて過去のものになり、支配下民族の搾取ではなく貿易と産業が国の繁栄の鍵になる。軍事侵略の莫大なコストから得られるものはなにもない。人類はこの現実を理解し始めていてナショナリズムの情念は急速に弱まってきている」と述べた。100年前も誰もまともな国が経済的に引き合わない戦争などをはじめるとは考えもしなかったのである。

ニューヨーク・ダウ指数も戦争をまったく予見していなかった。フェルディナント大公夫妻がサラエボでセルビア人の青年によって暗殺されたのが1914年7月28日火曜日。ダウは29日に値を保ったものの7月30日に突然7%下落すると翌日からは休場となり、12月に再開されたときにはさらに21%も下落していた。投資家はサラエボ事件が世界大戦になるとは考えなかったのだ。

相場格言にニーチェの言葉がある。「個人が狂うことはあまりないが、集団はだいたい狂っている」(作家 板谷敏彦)

2012年9月30日日曜日

第4章4話 金本位制度2

投資家のための金融史から
バックナンバーはこちら

フジサンケイ・ビジネスアイ9月29日号より WEB版にチャートがないためブログにエントリーしておきます。

第4章4話 金本位制度2

 国際通貨会議と先進各国の追随

 1867年は、日本では慶応2年にあたる。大政奉還があり、年末には坂本龍馬が暗殺された年である。この年は西洋史もあわただしかった。スエズ運河が開通し、パリでは万国博覧会が開催され、日本からは薩摩藩が出品し、幕府からは渋沢栄一が渡仏している。そのパリでは欧州20カ国とアメリカが集まって国際通貨会議が開催された。そんなころから通貨会議は開催されていたのである。

 この国際会議では世界的な通貨同盟への支持が表明された。通貨制度の差から発生する為替リスクや取引コストが、自由貿易を阻害すると考えられていたからである。経済面での理念は現代のユーロに近い。

 ナポレオン戦争後の各国の復興資金は、ロンドン市場でポンド建て各国公債として調達された。また国際貿易においても金兌換が保証されたポンドを介在させることが多かった(調達されたポンドは決済用にそのままロンドンの銀行口座に残されることが多かった)。ロンドンは国際金融市場の中心として繁栄していたのである。特にイギリス国債のコンソル公債は現代でいうリスク・フリー・レートに相当し、当時は一番安全な貸出先で一番低い金利だった。

 このころの金銀比価相場は、当時金銀複本位制をとるフランスの定めた比率1対15.5で安定していた。各国はイギリスの繁栄を横目に金本位制導入を模索したが、本位通貨である金を入手するための財政処置が必要だった。

普仏戦争(1870~71年)がきっかけとなった。ドイツはフランスからの賠償金を金で受け取り、1871年に金本位制に移行した。これをきっかけにスカンディナビア諸国は72年に北欧経済会議を経て順次金本位制へ移行し、フランスもイタリア、ベルギー、スイスと一緒に1878年に金本位制へ移行したのである。

各国は紙幣と金との兌換準備のために銀を売り、金を買った。その様子は、じわじわと上昇する金銀比価のチャートに見ることができる。1890年代の30を超える水準は最後の大国アメリカの金本位制への移行の軌跡である。(19世紀末には南アフリカで金が産出され金銀比価はようやく落ち着くことになる。)
金銀比価=金価格÷銀価格

各国が金本位制を採用しても安定した制度運用というのはなかなか困難だった。

イタリア、スペイン、ギリシャ、ポルトガルなど(ユーロ問題でもおなじみの名前だが)は、戦争や通常歳費の浪費による国債発行残高の増加により、途中で金本位制を停止している。しかし各国は貿易取引のメリットから、それぞれ金本位制への復帰をめざした。

第一次世界大戦が勃発すると、各国は大量の戦費調達のために国債を発行し、調達した資金を軍事費に使用して通貨発行量を増やした。もはや紙幣と金との兌換は維持できなくなったのだ。

日本は1897年に、日清戦争での賠償金をもとに金本位制を採用した。その後の日露戦争の戦費調達のための外債発行は、金本位制を採用していなければ不可能だった。ポーツマス会議でロシアから賠償金を取れなかった日本はその後も兌換用の金準備の維持で苦労したが、地理的に戦禍に巻き込まれなかった第一次世界大戦の特需によって輸出が伸び、正貨である外貨を調達することができた。

しかし世界が金兌換を停止している中で一国だけ開放することはできない。日本も第一次世界大戦中に円の金兌換を停止したが、大戦後は関東大震災を経て金本位制復帰へのタイミングが遅れ、後の濱口雄幸、井上準之助の金解禁と高橋是清による金兌換停止へと連なっていくのである。


2012年9月20日木曜日

投資家のための金融史 第4章再開


大変ながらくお待たせしました。


 フジサンケイ・ビジネスアイに連載中の「投資家のための金融史が来週の25日火曜日から再開されます。Facebookにページを造ってありますので、WEB掲載分を読むのでしたらコチラがおすすめです。

再開まで少し長引いたのは一度書いたものを書き直したからです。1章を10話以内に収めようとするとさすがにかなり無理がきてしまいます。4章では日本の証券市場を入れることができませんでしたが、それも重要度から考えると仕方がないと考えています。

以下が目次です。第4章は全部で13話の予定です。

第4章 近代-米国の台頭
 1.スコティッシュ・ウィドウズとコンソル公債
 2.アムステルダムからロンドンへ
 3.金本位制度① ニュートンが銀でなく金にした
 4.金本位制度② 各国の追随
 5.有限責任制-株式市場発展の基礎
 6.鉄道と株式市場
 7.南北戦争とリテール・セールス
 8.メディアとダウ・ジョーンズ株価指数
 9.日露戦争にみる国際協調融資
 10.第1次世界大戦と有価証券の大衆化
 11.大暴落とチャップリンの「街の灯」
 12.長期投資の幻と株価の回復
 13.ペコラ委員会とグラス・スティーガル法

チャップリンは確認の意味で軽く調べようとしていたら、どっぷりとはまってしまいました。チャップリンのちょっとした言葉にあまり注目されなかった当時の経済情勢がよく反映されていたりするのです。お楽しみに。

Porco

2012年9月12日水曜日

【ビジネスアイコラム】歴史から教訓を学ぶには

2012年9月12日発売フジサンケイ ビジネスアイの一面コラムに掲載された記事です。
【ビジネスアイコラム】歴史から教訓を学ぶには


「ザ・ビッグ・ピクチャー」という米国の人気投資ブログで最近、1994年にペンシルベニア大学のジェレミー・シーゲル教授が書いた「Stocks For The Long Run」(邦訳:株式投資 第4版 日経BP社)が取り上げられた。この本は当時のベストセラーで、経済誌ビジネスウイークの書評でも「あらゆる時代を通じてベスト10に入る投資本の一つだ」と絶賛を受けたこともある。日本でもシーゲル教授の信奉者は多い。ロジックもしっかりしており、ファン層も知的である。

シーゲル教授は短期投資ならともかく、証券投資は保有期間が長くなるにつれ、株式のリターンは常に債券より有利であるだけではなく、インフレ率を控除するとリスクさえも低くなると主張した(ここでいうリターンとは配当を再投資したトータル・リターンである。税率は考慮されていない)。

The Big Picture "Revisiting Stocks for the Long Run"より

 この本のデータでは、1871年から1993年までのどの30年間をサンプルにとっても、株式投資がもたらすリターンは債券投資を上回っていた。日本でも「長期投資のすすめ」といった出版物やウェブ上の記事を多く見かけるが、そうした見解の一つの根拠になっていることが多い。

ところが、81年から2011年の9月までの30年間を調べると、1カ月間から30年間のどの期間を振り返っても、株式投資(SP500)のリターンは債券投資を下回っていたのである。もちろん30年ぐらいでは長期投資とはいえないなどと主張する向きもあるかもしれないが、しかしながらシーゲル教授自身、30年を目安としていたのである。

 こうなると日本はどうだったのか?と興味がわいてくるのは当然だろう。実は、日本でもこうしたトータル・リターンのデータはいくつか一般に公表されている。残念ながら認知度は低いが。

日興パーフォーマンス・インデックスより
Copyright 2005 NIKKO FINANCIAL INTELLIGENCE, Inc.
 

上記のグラフは日興パフォーマンス・インデックスのHPから作成した。シーゲル教授の本の出版された時期の日本はバブル崩壊後の株価低迷期だった。当時は株価回復期待が強く、年金基金の株式組み入れ比率が米国に比較して低すぎるなどの批判もよく見られたものだった。しかし、結果はグラフのとおりである。株式の長期投資を推奨する人は、決してこのグラフを使わないだろう。

では、今後は債券に大きく投資すべきかといえば、それでは逆に、シーゲル教授の教訓を軽んじてしまうことになる。私にとって、シーゲル教授の著書の中で一番印象に残っている文章は、著名投資家であり、金融に関する数々の著作を持つピーター・バーンスタインが書いた前書きである。彼はこうわれわれを戒める。「過去のデータがいかに教訓的であろうと、それは過去のできごとにすぎない」と。

2012年9月10日月曜日

逆利回り革命【週間金融財政事情マーケットを読む】


マーケットを読む (株式市場)
国債利回りと株式配当利回りの逆転現象

日本の株式市場では1998年と2003年に10年国債利回りが一時的に株式配当利回りを下回る事態が出現した。これは通常は起こらないことであったから、株式が割安であることを示すインディケーターとして機能し、このタイミングで株を買えば上昇相場に乗ることができた。
 
 
 
ところが、08年のリーマン・ショック時に3度目の配当・国債利回りの逆転現象が起こり、それ以降は株式配当利回りが国債利回りよりも高いことが常態化してしまった。そして、最近では日本の後を追うかのように、米国株式市場でも同様の現象がみられる。
 
 
 
 
債券とは債務者がいつ元本を返済するか、利息を支払うかを特定化した契約である。一方、株式の配当は取締役会の議決により、配当金の支払い義務すらない。その意味で、債権者に比べて株主の権利は弱く、株式は債券よりも高い利回りを提供する必要があるともいえる。


 
こうした考え方は、近代的株式市場が誕生して以来、1950年代までは極めて一般的なものだった。安全な国債よりも危険な株の配当利回りの方が低いということは受け入れがたい話だったのである。
 
ところが、1959年に国債利回りが株式配当利回りを上回ると、それ以降は元に戻らなくなってしまった。この歴史的な利回りの逆転現象は「利回り革命」と呼ばれた。当時の日本市場も米国に追随してこの革命を経験した。そして、現在は「逆利回り革命」が起こっている。
 
図表からも分かるように、今回は国債利回りの一方的な低下が逆転の主要因である。このため、人為的な低金利政策が「金融抑圧」とセットで語られることも多い。これに対し、「利回り革命」当時は配当よりもキャピタル・ゲインを重視する傾向が現れ、株式のバリュエーションに変化が生じた。歴史的にみても例外的な株式ブームだったのである。
 
当時の株式ブームを彩る一つめの特徴は機関化である。50年代はグラス・スティーガル法など30年代の制度改革を受け、有力な個人の銀行が支配する構造から機関化現象が進行していた。ミューチュアル・ファンド、年金基金、保険、財団等の信託が保有する株式は49年末の95億ドルから58年末には440億ドル、60年末には705億ドルに急成長した。とくにミューチュアル・ファンドは50年の25億ドルから60年には170億ドルに達し、ファンド保有者は350万人を越えた。月決め定額10ドル払いの積み立て型のファンドも登場し、「大衆資本主義」と呼ばれたのである。
 

二つめは「人口ボーナス」である。60年度の米国人口ピラミッドは35歳から40歳が最も多く、世代別のピークを形成していた。彼らは後のベビー・ブーマーの親である。最も人口の多い塊が40歳にさしかかると家を建て、大型家庭用品を揃えるために、大量の消費をするといわれており、当時の人口構成は株式市場が盛り上がる要件を満たしていた。
 
三つめは「成長株投資」である。57年10月にソビエトが人工衛星を地球周回軌道に乗せると「宇宙戦争」が米国政府公認となり、同年年末相場は「スプートニク相場」といわれ、防衛関連の航空や電子株の買いを呼んだ。この動きはやがて成長株投資となり、ゴーゴーファンドや70年代初頭のニフティ・フィフティ銘柄に結びつく。米国株式PERはその逆数である益回りの制約を解かれ、100倍の値も容易にとるようになった。
 
四つめは「インフレ懸念」である。ガガーリンが61年に有人宇宙飛行を達成するに及んで米ソ間の緊張が増し、連邦政府の防衛支出は経済成長を超える勢いで加速し、市場はインフレ懸念を持つに至った。60年以降、CPI(消費者物価指数)が趨勢的に上昇局面に入り、同時に国債利回りも80年代前半のピークに向けて上昇を始める。インフレ懸念は元本や利払いが固定化された債券よりも、持分資産を表象し、将来キャッシュ・フローのインフレ調整が可能な株式に有利となったのである。
 
さて、第一の「投資の機関化」と第二の「人口ボーナス」に関して、現在の状況は当時と逆である。先進国の高齢化は、機関投資家(年金基金や投資信託で蓄えられた老後の貯蓄)の換金売りを増加させる。したがって、PERの逆数である益利回りも配当利回りと同様に上昇するだろう。
 
一方、インフレによって政府債務返済圧力を和らげる政策(金融抑圧)が各国によって本当に採用されるならば、インフレ懸念は配当金額がフレキシブルな株式に有利に働くかもしれない。ただし、極端で破壊的なインフレは不況と企業の倒産を招き、株式投資にも打撃となろう。
 
「利回り革命」は回帰性、つまり極端に振れたものが元に戻ることを前提とした投資手法の妥当性に疑問を投げかけた。50年代以前は株式配当利回りのほうが国債利回りよりも高くて当然であり、逆転した状況はいつか再び元に戻ると強く信じられていた(延長類推バイアス)。しかし、時として通常の状態自体が変化することもあるのである。




この記事は「週間金融財政事情2012年8月27日号」に掲載された記事です。掲載後3週間が経過しましたので出版社のご好意でここに転載させていただいてます。

2012年9月7日金曜日

元祖ミント・ジュレップ


「夏はビールに限る」とよく人は言う。しかしこれは多分1杯目のビールが喉を通過した直後のコメントに違いない。コップに残った中途半端な温度のビールほど不味いものもない。作家の池波正太郎は生ぬるくならないようにビールとは小さめのグラスに少しずつ継ぎ足して飲むものだと断じている。きっと氏のおかげで銀座の少々高めの割烹などでは、ビールはやたらと小さいグラスでサーブされるようになったのだと思う。

ビールの適温は6度から8度であって、それ以下では風味が損なわれるとか言うが、夏場はキンキンに冷えたビールこそがおいしい。バーベキューをする時に氷の浮いたバケツに入っている缶ビールなどは最高においしいものだ。


苦味の少ないバドワイザーみたいな淡白なビールは摂氏2度くらいがお奨めらしい、夏のビールは冷えた淡白な味がいい。クアーズもいいし、東海岸ならばローリングロックはおすすめだ。コメの混じった日本のビールも6度とかいわないで冷たいほうが美味しいと個人的には思っている。

真夏の街にまだ熱さの残る夕方にショット・バーに飛び込んでカクテルも悪くない。ジン・フィズやジン・リッキーなんかもお奨めだが、暑い地域で暑い季節のカクテルといえばミント・ジュレップをはずすわけにはいかないだろう。潰したミントに砂糖とソーダ水とバーボン、ここにクラッシュド・アイスをこれでもかと詰め込みよくステアする。そして最後にミントの若芽をデコレートしてストローを添える。
このカクテルにはブランデーやジンのバリエーションもあるが、発祥がアメリカ南部なのでやはりバーボンがふさわしいだろう。ケンタッキー・ダービーの公式のカクテルだし、南北両カロライナ州はミント・ジュレップこそは彼らのカクテルであると主張している。また観光客で賑わうニューオリンズでも名物なのである。起源は18世紀終わりから19世紀初頭と言われているように歴史的にも随分古いのである。
しかしどうなのだろう、このカクテルにはクラッシュド・アイスが必要である。生温いバーボンに砂糖とミントなんか入れたら薬になってしまうだろう。つまりだ。冷蔵庫が発明されるまでこのカクテルは夏のケンタッキーやニューオリンズや南北カロライナでは作れないはずなのだ。どう考えても。
製氷装置が発明されて実用に供されるのは1870年代の初めで、船に冷蔵庫が設置されたのは同じく70年代の後半である。だとしたら、それまでの間灼熱の地でミント・ジュレップを作るバーマンは一体どうやって氷を調達していたのだろうか?



ミルトン・フリードマンはその著書「貨幣の悪戯」の中で貨幣量の変化について説明するためにオーストラリアの古い金鉱街の掲示板に貼ってあった一枚のポスターを引き合いに出した。そのポスターにはこう記してあった。

「氷、それも冬期にマサチューセッツのウォーデン湖から切り出された氷がおがくずに包まれて船倉に積み込まれた。船は南アメリカの南端を回り、遥かメルボルン目指して広大な太平洋を約1万5千マイルも航海してきた。メルボルンに着くや氷は荷馬車に移され、この金鉱街を目指して百数十マイルを疾走した。幸運なる、富める新参の金鉱労働者よ、黄金の飲み物で喉の渇きを癒そうではないか。。。」


貨幣量の変化への示唆はこの氷が高価なものであったことから想像してもらうとして、なんとマサチューセッツからメルボルンまで氷を運んでいたのである。
記述は無いが19世紀前半の時代と航路から見てこれは帆船である。ボストンとオーストラリア間では石炭補給の関係から20世紀に入るまで帆船のほうが経済効率がよかったのである。
実はこの氷会社はボストンの氷王と呼ばれたフレデリック・チューダーのチューダー・アイス・カンパニーのことである。アメリカ南部やカリビアン地方、はるかインドにまで氷を輸送した。当初は氷の歩留まりが悪く採算に乗らず苦労はしたものの、後に経験を積みビジネスは大成功して大金持ちになった。もっともその後にコーヒー相場に失敗して破産したらしいのだが。

彼は1815年にはキューバのハバナに(マルガリータの発明に関与したに違いない)、その翌年にはチャールストン(サウス・カロライナ)、サバナ(ジョージア)、ニューオリンズ(ルイジアナ)にマサチューセッツの氷をとどけている。

何のことはない、つまりはチューダーが氷を届けた場所がミント・ジュレップの元祖だと名乗っているわけだ。 と思う。

追記:テキーラ・ベースのマルガリータではなく、キューバであればラム・ベースの「ダイキリ」か「モヒート」が正解かな。ダイキリは古いからヘミング・ウェイの愛したフローズン・ダイキリの発明に関与したが正しいのだろう。



2012年8月10日金曜日

【ビジネスアイコラム】100年前の五輪日本選手団


「日本の金栗四三選手、ただいまゴールインしました。タイム、54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3。これをもちまして第5回ストックホルム・オリンピック大会の全日程を終了します」。昨年末に発刊された佐山和夫の「箱根駅伝に賭けた夢 「消えたオリンピック走者」金栗四三がおこした奇跡 」には、1967年に開かれたストックホルム五輪(1912年)55周年記念式典の様子がこう描かれている。

 なぜ金栗選手の記録がマラソンの最長時間記録であって、ストックホルム大会が終了までに55年もの月日を費やしたのかは同書を読んでいただくとして、この大会は日本人が黄色人種としては初めてオリンピックに参加した大会だった。

 講道館柔道の創始者、嘉納治五郎がクーベルタン男爵に口説かれて国際オリンピック委員会(IOC)理事に就任し、2人の選手団とともに入場行進をしている写真があるが、あまりの小人数に同情が飛んだという。

 日本の2選手は、薩摩出身の警視総監、三島通庸の息子、三島弥彦(東京帝大)、そして東京高等師範学校に在学中の金栗だった。

アメリカ選手団174人は米国から乗りつけたモルガン系IMM社の豪華客船フィンランド号をストックホルム港に停泊させ、そのまま選手の宿泊施設とした。同社系列のタイタニック号はこの年の4月に沈没しているが、夏場は氷山がないので乗客はみな安心していたそうである。食事の心配はないし体育館やプールはもちろん、コルク舗装のランニング用トラックまでが装備されていた。

 一方、日本選手団の参加費は自腹だった。今となっては考えられないが、文部省も官立学校の生徒が欧米のスポーツ・ショーごときに参加することをよろこばなかったのだ。三島は金持ちだったが、金栗は友人から「友情基金」を贈られた。手元に予算明細があるが、合計で1420円。現在では1000万円ぐらいだろうか。

三島も金栗もシベリア鉄道でウラジオストクから10日以上も狭い2等車に缶詰にされ、到着後は疲労で数日は身体が動かなかった。安宿での宿泊にコメのない食事。胸を患った同行監督の病状悪化に、夜がこない白夜。下手な復讐モノの映画のシナリオを見ているような艱難(かんなん)辛苦の数々である。金栗は日本の予選では世界記録を出していた。日本の新聞はストックホルムが例年になく暑いので、マラソンでの白人不利、金栗有利を伝えていたが…。

 近ごろ、日本衰退論が喧(かまびす)しい。サッカーの強い国は経済的にはどうなのかと、ひねり出したような悲観論まである。しかし歴史を振り返りつつ水泳やフェンシングなどの団体戦での日本の健闘を見て思うことは、チームとしての強さである。たとえ金メダルを取るような突出した個人が現れなくとも、われわれ日本人は三島や金栗の原点から、まだまだ進化し続けている。

コラムに書ききれなかったこと。

実はこの前の1908年第4回大会はロンドン大会だった。日本は日露戦争で勝利した高揚感はあったもののオリンピックまでは手が回らなかったのだろう。参加していない。
その代わりに大阪毎日新聞は相馬勘次郎という特派記者を送りこんだ。
そしてこのときマラソンの記事を5回連載で書いていた。

この時のマラソンは競技場にイタリアのドラントが1位で帰ってきたのだが、ゴールを目の前にしたところで力尽きて倒れてしまう。何度か起き上がってゴールを目指すがまた倒れ、ついには他の人が手を貸し起き上がり何とかゴールするのであるが、これで失格となる。

記事には「悲劇、悲劇、大悲劇」とある。翌朝のロンドンの新聞は午前9時にはすべて売り切れ、
その夜にはロンドンの主な劇場でこの競争の活動写真を上映したそうだ。動画になった最初のオリンピックである。
この相馬記者はこの一件におおいに感動し、日本に帰ってマラソン大会を開催することになる。大阪毎日なので神戸から大阪までのレースだったようである。1等賞金300円となかなかの金額。

こうしたことがその次の第5回ストックホルム大会出場への布石になったのだ。


この金栗四三氏は箱根駅伝のMVPに贈られる金栗四三杯にその名前を残している。




2012年7月29日日曜日

日本初のオリンピック入場式


嘉納治五郎記念国債
スポーツ研究・交流センターHPより

今手元に「柔道百年の歴史」と言う本があり、ページ84に1912年、第5回ストックホルムオリンピックの入場式の日本選手団の写真がある。

左のシルクハットをお持ちの方が講道館柔道の創始者嘉納治五郎、クーベルタンに口説かれてIOCの委員になった。

選手は2名で旗手の三島弥彦(東大)が短距離、旗の影で顔が隠れているが、JAPANではなくNIPPONの国名標を持つのが長距離の金栗四三(高等師範)である。この人は箱根駅伝創設に尽力し、今では箱根駅伝の最優秀選手に金栗四三杯が贈られるようになっている。

これが日本が始めてオリンピックに参加した時の入場行進の写真なのである。選手派遣の資金に困って選手は2名しか送れなかったし、文部省は英米のスポーツ・ショーに官立学校の生徒がいくとは何事かと全く無理解だった。 両選手の面白いエピソードはwikiにたっぷりと掲載されているので読まれるとよいと思う。


僕がこの本を手にした理由はオリンピックの歴史を調べるためではない。拙著「日露戦争、資金調達の戦い」の読後感想文や書評の中で、金子堅太郎とルーズベルトの昵懇ぶりに感銘を受けた読者もいらしたようであるが、同書には書けなかったが、このルーズベルトの周辺には実に様々な面白いエピソードが転がっているので、そうした事実を資料として確認したかったからだ


例えば講道館の四天王である山下義韶。日露戦争開戦の2年前、明治35年に渡米し開戦2年目の1905年3月29日にセオドア・ルーズベルトの前で身長165センチの山下が2メートルのレスラーを押さえ込みで倒した。このためルーズベルトはその場で年棒4000ドル(8000円、帝国海軍中尉の年棒が400円)でアナポリスの海軍兵学校に柔道師範として雇い入れたと伝えられている。

そしてスポーツ好きのルーズベルトは書斎に畳を入れて柔道を習うようになるのだが、この時に日本公使館付き海軍武官竹下勇中佐も時には稽古をつけ、大統領夫妻と昵懇の間柄になるのである。アポ無しでホワイトハウスを訪問できる前代未聞の外国駐在武官として他国から羨望の的だったようだ。竹下は旅順港閉塞作戦で有名な広瀬と同期である。

この本には山下義韶がアメリカの鉄道王サミュエル・ヒルの招聘に応じて渡米したと書いてあるが、サミュエル・ヒルという鉄道王はいない。ジェームス・ヒルの間違いだろう。イギリスにはヒル・サミュエルがいたからどこかで錯誤したのかもしれない。

さて、拙著では405ページ以下の「ハリマンの豪華なパーティー」でハリマンが日本から呼んだとしてやはり講道館四天王の一人富田常次郎が登場するが(出典はNYTの記事)、この本(柔道百年の歴史)では、1904年に彼が後輩の前田光世を連れてアメリカに赴きシアトルを中心として柔道の普及につくしたとなっている。

しかしながら同時にこの本では、ハリマンのパーティーと同時におこなわれたコロンビア大学での彼のエキビジョン(これはハリマンのスポンサーシップである)の様子の写真、またその時のプログラムが掲載されている。

いつかどこかで調べたいが残念ながら今は時間がない。

本書は入手困難だが、図書館に行けばたいがい置いてあると思う。


追記:参考にしたサイト 意志力道場-卓話室1



2012年7月25日水曜日

NHKスペシャル 映像の世紀


別にNHKの宣伝をしようというのではないが、NHKオンデマンド をご存知だろうか。


私はこのサービスの中で現在「特選ライブラリー」を購入している。これはサンデルの授業(特にジョン・ロックのところ)を見る目的で購入しのだけれど、「坂の上の雲」などその他にも色々と面白い映像がたくさんある。


昨日たまたま見ていた「NHKスペシャル 映像の世紀 第11集世界が見た明治・大正・昭和 (1996年)」はとても面白かった。


日本の動画としての映像は1898年からあるそうで、この番組のテーマが「明治から大正・昭和へ。奇跡的な速さで発展を遂げた日本。外国人のカメラマンと記者が残した記録から世界が見つめた「JAPAN」に迫ります」とあるから外人の撮った日本ということになる。外人の目から見た日本。そして現代の私の目から見る日本である。


日露戦争の説明ではアメリカで流行った映画として「A JAPANESE OUTPOST ON THE YALU RIVER」が「遼陽の英雄」とともに紹介されていた。どちらも大ヒットだったそうである。拙著ではアメリカにおいていかに日露戦争の情報が浸透していたかについて小説家オー・ヘンリーを紹介して一話を割いたが、映画が大ヒットしていたとは私もうかつだったと思う。しかしネットで「A JAPANESE OUTPOST ON THE YALU RIVER」を検索しても何も出てこない。これはアメリカの大きな図書館にでも行く必要がありそうだ。


この映像には当時の蕎麦屋の屋台(リヤカーではなく担ぐ屋台)も登場する。落語「時そば」に出てきそうなやつだ。丼が小さくて軽そうなのが印象に残った。


それともうひとつ。当時のニューヨークの様子の映像も紹介されている。注目すべきは出来たての地下鉄ブロードウェイ線のグランドセントラル駅と、路面電車である。


線路の間の溝に注目 出所: http://www.vscaler.com/transit_model_3.html 


正確に言えばこれは路面電車ではなく、サンフランシスコのケーブルカーと同じ原理のケーブルカーである。坂を登らないだけだ。線路の間に第3軌道が地下にあってそこに動くワイヤーがある。ケーブルカーは発車時にそれを掴んで動くのである。したがってどこかに何箇所かワイヤーを動かす動力棟(Power House)があったはずだ。 言っている意味わかります?


因みにサンフランシスコ・ケーブル・カーのwiki 日本語版はない。




追記:ブロッガーが新しくなってから文字の一部の背景が白くなる現象が出ています。バグだと思います。

2012年7月24日火曜日

インド洋の風


本日のフジサンケイ・ビジネスアイの「投資家のための金融史」は中世の「パクス・イスラミカ」について書いたのだが、インド洋のモンスーンに関して少し説明不足なので付け足しておこう。

地図はインド洋の風の向きを示している。夏には中近東からインドに向けて季節風が吹き、冬には反対方向に風が吹く。現代のように急ぐ旅ではないから交易船は一年に一度往復できれば充分なのである。


夏の風に乗ってインドへ行き、冬の風で帰る。そしてマダガスカルくらいの緯度には東南貿易風が吹いている。迷い込んでもマダガスカルかアフリカ東海岸へは連れていってくれる。これは何もムスリムが最初に発見したのでは無く、イスラム教よりもよほど古くから知られていた。ローマの通貨が南インドで大量に発見されている。インド洋の案内書で一番古いものに紀元前40年頃の「エリュトゥラー海案内記」がある。私は読んだことがないがこれも文庫化されている。


観光地で有名なモルジブなどもこうした風の交易路の中心にあり、特産の子安貝はインド洋沿岸や中国で古くから貨幣として重宝された。アフリカサハラ砂漠以南でもモルジブの貝が貨幣として使われていたところがあるほどだ。

本文で紹介した「イブン・バットゥータの世界大旅行―14世紀イスラームの時空を生きる (平凡社新書) 」はこの道の権威、家島彦一氏によって新書にまとめられて出版されている。これは面白い本だ。また海運史関係のサイトでは篠原 陽一氏が「海上交易の世界と歴史」に貴重な資料を執筆されている。

さて、この地図を見ていて何か気がつかないだろうか? 

東南貿易風のせいで西洋人はなかなかオーストラリアに辿りつけなかったのである。スペイン人は16世紀にはすでにメキシコからフィリッピンへの航路を確保していたが、オーストラリアは南過ぎた。イギリスのキャプテン・ドレークは南アメリカをぐるっと回ってアジア経由で欧州へ帰還したがオーストラリアには気づかなかった。

スコットランド人のジェームス・クックがシドニーに上陸して領有を宣言したのは1770年、アメリカ合衆国が独立する6年前、日本では鬼平がうな重やかきあげ天蕎麦を食べながら盗賊を捕まえている頃である。そういえば鬼平が寿司を食べているのを見たことがない。「おい、大将、今日は何か良いタネはあるか?」とは聞かないのである。

1752年に当時のもっとも輝かしい科学者であるピエール・ルイ・モロード・ドゥ・モベルテュイがオーストラリアについてこう書いている。オーストラリアとは?

「誰でも知っていることだが、南半球には未知の空間があり、そこには既知の4つの大陸のどれよりも大きい世界の新しい部分が存在しているらしい。地球上のほかの部分にはこれより大きな空間はない。しかし、これがすべて連続した海洋で占有されているというより、そこに陸地が存在している可能性のほうがはるかに大きい」(世界探検全史 上 道の発見者たち :フェリペ・フェルナンデス・アルメスト)

風は人類の歴史におおきく影響を及ぼした。