2012年2月12日日曜日

そうだ、佐倉に行こう


日曜日は佐倉に散歩に行ってきました。千葉県佐倉市。長島茂雄選手の出身校が佐倉高校なので、それで有名と言ったほうが全国的には通りが良いかもしれません。
僕はここには何度か来ています。結構お気に入りの場所でもあります。

歩くのにちょうど良い範囲(ちょっときつめかもしれない)の中に佐倉城址が状態の良いまま公園になり、城下町も面影を色濃く残しています。維新後陸軍が連隊をおいていたから保存状態が良いのでしょう。武家屋敷も保護されていて、ここで連隊長を5年も務めた児玉源太郎旧邸跡もあります。また幕末の城主が日米修好条約に絡んだ老中堀田正睦です。維新後に建てられた堀田家の邸宅も保存されています。実はこの佐倉藩は家格が高く全国でも一番多くの老中を出した藩でもあるのです。

老中堀田正睦は蘭学好きで有名で、高野長英に師事し長崎留学を果たした佐藤泰然を佐倉にスカウトし病院兼蘭医学塾の佐倉順天堂を開かせます。これが後の順天堂病院・大学になりますが、当時の建物が保存されています。

この佐藤泰然の次男は良順。松本家に養子に入り将軍侍医、初代の陸軍医学総監となります。司馬遼太郎「胡蝶の夢」で松本良順として有名ですが、新撰組ファンの暦女の間でも人気のキャラのようです。

さらに泰然の五男坊は董(ただす)。林家に養子に出て後の初代英国大使(それまでは公使だった)、外務大臣である林董となります。函館五稜郭に篭る旧幕府軍。そこから各国領事館に発信される英文の文章はあまりにも見事であったために、旧幕軍にはイギリス人が混ざっていると信じられていました。確かにフランス人士官は混じっていましたがイギリス人はいませんでした。このレターを書いていたのが林董だったのです。

函館(箱館)が陥落した時に、明治政府はこの男の英語力に目をつけますが、林は頑として特別扱いを拒み仲間と一緒に弘前藩預かり禁固の身となります。この頑な態度が薩摩人の気にいるところとなり、後の出世へと繋がったと司馬遼太郎は書いています。

日露戦争当時、林董は英国公使でした。今度発売になる拙著にも、日英間の外務省公式電文と一緒にかなりの頻度で登場してきます。

さて、この佐倉の街、ここまでだけでも充分に面白いのに、とどめとして国立歴史民族博物館があります。ここはスケールが大きいので1日で見ることは難しい。見学は2回ぐらいにわけたほうが無難でしょう。

第一展示室(原始・古代)の案内書から、

暦博では平成5年ごろから、炭素14年代測定結果に基づき、旧石器~縄文~弥生時代を中心に年代観の見直しを行なってきました。その結果、縄文時代の始まりが今から1万6千年~1万5千年前、弥生時代の始まりが3千年前、と従来の年代観よりも大幅に古くなることを突き止めました。

どうでしょう。縄文時代が約2千年、弥生時代は5百年ほど従来よりも開始時期が古くなります。歴史は我々が学生時代に習ったものとは随分変わりつつあるのです。
ついでと言っては何ですが、暦博のレストランは充実しています。米は古代米を使っていますね。僕はあまり好きではありませんが。またブックストアも海外の博物館に負けていません。本屋は充実しています。

何故か佐倉のアピールをしてしまいましたが、私は総武線快速JR佐倉駅(観光案内所でマップをくれる)から徒歩で坂を登り、街を歩き博物館を最後にして京成佐倉駅に坂を下り抜けていきます。10キロぐらいでしょうか。京成線とJRの間にある小高い丘の上が街になっているのです。これからは暑すぎず、寒すぎず、歩くのに良い季節になると思います。好奇心旺盛な正岡子規も総武鉄道が佐倉まで開通した時にさっそく訪ねて句を残しています。

霜枯れの佐倉見上ぐるの道かな
常磐木や冬されまさる城の跡

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