2012年4月17日火曜日

原発危機の経済学


政府は閣僚会議において関西電力大飯原子力発電所の再稼働を地元自治体に要請することを決めた。

一方で14,15日実施の朝日新聞世論調査では野田内閣大飯原発再稼働妥当の判断に対し賛成28%、反対55%と国民の支持は得られていない。その理由として同調査では「政府が決めた暫定的な安全基準を」信頼するが17%、信頼しない70%という調査も行なっている。こうした状況下で、民主党の仙谷由人政調会長代行は16日の名古屋市内での講演で、原発の再稼働をめぐり「原発を一切動かさないということであれば、ある意味、日本が集団自殺をするようなものになる」と述べ、この発言が問題化している。

何が問題なのか?原発停止が日本の集団自殺を意味するという合理的な理由が充分に説明されていないからだろう。「原発を一切動かさないということであれば」を「民主党が政権を持ち続けるのであれば」に入れ替えた方が残念ながら昨今はよほどに説得力があるのだ。

「原子力は火力や水力よりもはるかに安全である。原発で死んだ人はいないが、中国の炭鉱では毎年数千人が死ぬ」。確かにこの論のように年間何名死亡というリスクを数字に一元化すればそうかもしれないが、避難地域に指定されて、現実に居住地を追われた人の映像をテレビなどで見る度に、そうは単純に納得できるものではないだろうと思うのである。成田空港建設の時の三里塚闘争を思い出しても先祖代々の土地の立ち退きなんてそれほど簡単なものでは無いだろうに、彼らには果たして立派な代替地が提供されるのだろうか?とか思ってしまうのだ。

「戦争はあまりにも重大な問題であり、軍隊に任せられるような問題ではない」はフランスの政治家ジョージ・クレマンソーの言葉である。同様に政治家は原子力工学の専門家ではなくとも、現在と未来の国民のために原子力発電の将来に関して意思決定をしなければならない。それにも拘らず、国民は政府から開示される情報を信頼していないというのが朝日新聞の世論調査の結果であった。つまり肝心の政治家のクレディビリティが低すぎるのである。

さて、原子力問題は一体どうなっているのだ?と悩んでいたのはもちろん貴方や僕だけではない、経済学者の斎藤誠氏もそうだった。そこで氏が社会学者の立場として、つまり意思決定しなければならない政治家になり代わって、原子力工学の専門家でも無いのに今回の原発危機を整理しなおしたのが「原発危機の経済学 」である。僕は優秀な社会科学者が技術的な問題に立ち入るのは当然だと考える。

氏がTVでヘリコプターから事故のあった原子炉格納容器に放水しているのを見ながら疑問におもった事、これは僕も疑問に思ったことだ。一体どれくらいの量の水が原子炉の冷却に必要なのか?僕と違って彼は突き詰めていった。なんと百キロワット出力の原子炉一基につき毎秒海水20トンだそうである(2次系冷却水)。これは実に荒川や多摩川の水量に匹敵する。

こうして原発の耐用年数や使用済み燃料の問題など疑問なアイテムをひとつひとつ明確にし、今後の原子力発電所の問題を考察したのが本書である。確かに建屋の崩壊した原子炉の上部に使用済み燃料棒の貯蔵プールが存在したのは記憶に新しい。何故そのような危険なものが建屋の上部のプールという不安定な場所に設置されていたのか。そしてそれが何を示唆しているのか、そもそも原子力発電のコストはいくらなのか? この本はあなたの目や耳の代わりとなって探っていってくれるのである。 

原子力は放棄を決めてもこれまでのサンクコストだけでは無く、これからも数十年単位で手間とコストがかかる。これほど危険な物の運営が経済的インセンティブを失ってしまってメインテナンスの品質は保証されるのだろうか。同書は経済学の立場から原子力政策がどうあるべきかが冷静に考察されている。折しも、本日からこの本のコンテンツについて斎藤誠氏と池上氏との対談が始まった。

池上彰の「学問のススメ」 エコノミストは工学的に「福島原発」を究明する

日々のニュースのヘッド・ラインに憤慨するだけでは無く、この本は日本の原子力政策のあり方を考える上で是非押さえておきたい良書である。

2012年4月12日木曜日

エクイタブル事件 cut5

拙著からカットされた部分の5回目、最終回である。

第五章、ポーツマス会議の直前の「珍客万来、米国の紳商」ページ349の中に本来は入るはずだった一文である。ハリマンという人間は財界ではどうもゴロツキのような扱いも受けていたようで、スキャンダラスなことをたくさんしている。米国エクイタブル事件は投資銀行傘下の銀行や保険会社の資産(お客から集めたもの)を自分の都合で様々な有価証券を買い取らせ、お財布替わりに使っていたという、これ以降、いつの時代にもありそうな事件である。金融史的にはエクイタブル保険と言えば、世界の生命保険の走りである英国のエクィタブル、所謂オールド・エクィタブルを指すが、これはアメリカである。


シフの盟友である鉄道王エドワード・ハリマンは八月三十一日にシベリア号で横浜に到着した。こちらは九月三日の國民新聞が、「米国紳商の来遊」と伝えている。
「米国ユニオン太平洋鉄道会社及太平洋郵船会社の大株主にして社長たるイー・エッチ・ハリマン氏は、家族及社員数名を伴い、東西両洋汽船会社支配人ジューエン氏と共に八月三十一日横浜入港のサイベリア号にて来着し、二日午後五時二〇分新橋着特別列車にて入京したり・・・」

以下カットした。

本来はハリマンは七月に出発の予定であったが「エクイタブル事件」に巻き込まれ出発が一ヶ月遅れてしまった。エクイタブル生命はもともとクーン・ローブ金融グループの保険会社だったが、ハーバード大学卒業の跡継ぎ息子であるジェームス・ハーゼン・ハイドが派手なパーティーに耽り世間から無能の烙印を押されたことに事件が始まった。

彼はノーザン・パシフィック事件でシフと敵対したジェームス・ヒルに率いられた金融業者達に会長の座を追われ、1000株の発行済み株式のうち502株をトーマス・ライアンに売却してしまった。そこをハリマンが「お前は不正に入手したのではないか」とライアンを脅しその半分を取得したというスキャンダラスな事件だった。まるでヤクザと代わり映えがない。

これを嗅ぎつけたニューヨーク・ワールド紙は、これは前出のオー・ヘンリが週に一回短編を書いていた新聞であるが、昔そこで働いたことのあるライアンに同情的でハリマン一派の不正取引をしつこく追求した。ハリマンがウォール街で評判の悪い人間であった事がよくわかるだろう。ハリマンと仲が良かったクーン・ローブ商会のオットー・カーンが企業情報の開示を求めていたのとは全く対照的なのである。やがてこの問題は、何故ハリマン達が生命保険会社の支配に固執するのかと追求され、ニューヨーク州ではアームストロング委員会が設立され保険業界全体の問題へと進展していった。

この委員会はJPモルガンやクーン・ローブ商会などの金融グループは買収や証券引受で本来保険加入者のものである保険会社の資産をお財布がわりに使っているのではないかという問題提起を行った。つまり保険加入者の資金をバンカー達が自分達に都合よく利用しているだけではないかという疑惑である。この時期のアメリカの強気市場の背景に機関投資家による市場参入があったが、その裏にはこのような問題もあったのである。

これはハリマンだけに限らず、モルガンもシフも調べを受けることになる。実際こうした保険会社は投資銀行に資産をいいように使われて皆業績が低迷していたのである。

以上をカットした。


2012年4月10日火曜日

人生に悩んだら 「日本史」に聞こう



「本を出版するとアマゾンのランキングが気になって仕事が手に付かなくなりますよ」。これは知り合いの出版経験のある新聞記者の方の忠告だった。自分はそんなことは無いと思ってはいたのだけれど、現実となるとやっぱり気になるものだ。チェックばかりしている。

例えば4月10日17時35分現在、拙著はアマゾン全体で1885位、日本史で13位、明治・大正に時代を区切れば1位。

日本史で1位の「読むだけですっきりわかる日本史(宝島文庫)」は全体では152位、4位の與那覇潤氏の「中国化する日本 日中『文明の衝突』一千年史」が全体では537位と言ったところ。もうすこし広く歴史・地理の分野での1位はマクニールの「世界史」。これは文庫化されたものだが、全体でも41位、決して歴史物が売れないというわけではない。この本は文庫本のジャンルの中でも、文庫本化された村上春樹の「1Q84」を抑えて全体で2位にいる。良いものは売れるのだ。

それで、こうして神経質に落ち着きなく拙著のランキングをチェックしていると、そこは僕も元来の本好きである。上位にいる本ってどんな本なのかと、ついついマウスの左ボタンをプチっとしてしまうのである。(全くの利敵行為である)

1位の「日本近代史」は週末に朝日新聞だと思うけれど、確か井上寿一さんの書評が出ていた。未だ読んでいないけれどこれは本を確保した。
2位の「読むだけでスッキリわかる日本史」、これは悪いけれど立ち読みさせてもらった。売れる理由はよくわかる。
3位の「日本の歴史を読みなおす」網野善彦は最近読んだ。丸善の店員さんによれば「今読んでいる本を取り敢えず停止して、これを先に読みなさい」とあったが、確かにそれは一理ある。古い(僕らで言えば高校で習った)教科書から見れば、話が全然違うことになる。ついでに網野氏の関連図書を随分読むことになった。その結果4位の本がよくわかるようになった。
4位の「中国化する日本」は今や話題の図書。ビジネスアイのコラムで取り上げたら2ちゃんねるで僕がボコボコにされた思い出深い本である。

5位の「人生に悩んだら「日本史」に聞こう 幸せの種は歴史の中にある」、
何だか胡散臭い本だなあ、と思ったけれど、とりあえず買ってみた。何しろ26レビューあって、星5つが25、星4つが1つである。

しかし実際に本を手にとると「博多の歴女と天才コピーライターが初コラボ」と書いてある。何だか益々胡散臭いじゃないか。

僕は、これは、歴史うんちくトリビア感動編か、と決めつけてすっかり甘く見ていたのである。

前半は既に知っている話が多くて「はいはい」と読んでいたのだけれど、全220ページの内100ページあたり、「もっとも寒い時期に咲く梅を春の季語にした日本人」あたりから引き込まれ始めていたのだろうね。後で思えば。

「宇喜多秀家&豪姫+前田家」、このあたりから不覚にも目が潤み始めた。続くトルコの話、ポーランドの話、完全に著者の術中にはまってしまった。涙滂沱として禁ぜずなのである。

結論からいうと、この本はとても良い。何かしら元気が出るし、日本人であることがうれしくなる。そしてあとがきを読んで読者をしめつけるかのような文章の迫力の根源がどこにあったのかがわかったような気がした。

お奨めです。



2012年4月9日月曜日

ハンブルグ・ヴァーブルヒ銀行



僕みたいに今まで何もそうしたことのなかった人間が、大体周囲の人間の予想の外に本を書いたりすると、色々な事が起こるものだ。

先ず第一に、昔の知り合いから「本を出版したの?」と連絡が入る。そしてそこには必ず「お前が?」と入る。あるいは、僕も本を売りたいものだから色々な人に告知する。それは高校の同窓会であったり、大学の同窓会であったり、以前勤めていた会社だったりする。「20年ぶりに電話が来たと思ったら本の押し売りか」。また今だとFacebookやTwitterがあるから、これで知り合いをタグっていくという手段もあるだろう、これは今回随分とシツコイ程に使わせてもらった。

そう言ったこと以外にも、全然見知らぬ人から手紙を貰ったりもする。今回は及能正男(きゅうのうまさお)先生から拙著を読んでの感想のお手紙と貴重な資料を頂戴した。

及能先生は僕がこの業界に入った85年頃、金融経済用語辞典や国際金融関係の参考書を書かれていらっしゃった方である。1957年から87年まで30年間を三井銀行にて13年間の駐在員を含む国際部員として過ごされ、後に西南学院大学の経済学部教授になられたとある。駐在員の大先輩でもある。

お手紙を披露するわけにはいかないが、金融業界、あるいは研究者の先輩としての慈愛に満ちた素晴らしい手紙である。そしてご送付頂いた資料はハンブルグ・ヴァーブルヒ家の資料だった。先生は1963年に三井銀行西独トレーニーとしてドレスナー銀行とハンブルグのヴリンクマン・ヴィルツ銀行(個人銀行)の両行に派遣されていたのである。

このヴリンクマン・ヴィルツ銀行こそが現在M.M.ヴァーブルヒ銀行となり、そしてヴリンクマン・ヴィルツ銀行と呼ばれる以前には、すなわちヒトラーによってユダヤ人銀行家がドイツから追放される以前にはウォーバーグ銀行と呼ばれていたものである。ヴァーブルヒとはウォーバーグのドイツ語読みである。そして先生はマックス・ウォーバーグの長子エリックとお知り合いだった。

日露戦争当時、ニューヨークのクーン・ローブ商会ヤコブ・シフから「日本公債をドイツは引き受けるか?」と電報が打たれたが、それを受けたマックス・ウォーバーグの銀行なのである。ヒトラー政権下でのドイツ在住ユダヤ人がどのような目にあったのか、銀行名の復活にはどれほど労苦を要求されたのか、1964年当時でも未だウォーバーグの名前は取り戻せていなかった。今ではロン・チャーナウの「ウォーバーグ‐ユダヤ財閥の興亡」にこの辺りの事情は詳しいが、先生の送付してくださった資料は拙著の中でマックス・ウォーバーグを軽く扱ってしまった私への優しい叱責であったのではないかと解釈している。

しかし先生の書かれたレポートの一つには、例のマックスが日本公債の引受の是非をウィルヘルム2世に問う場面もあり、その一節は「天佑譚」であって、いわいる「講談」の域になっていると先生ご自身も認めているが、それは専門外だから知らぬとも先生は書いていらっしゃったのだwww。大変貴重な論文を頂戴しました。素直に嬉しく思います。有難う御座います。


ダウ・ジョーンズ株価指数 cut4


本日も拙著からカットされた部分。

これは第五章、日本海海戦も日本の勝利に終わり、高橋是清がシフとドイツのウォーバーグを中心に第四回の公債募集を行う「シフとの関係で乗り切った第四回公債発行」の後に続くはずのエピソードだった。気前よく日本公債を引き受けるシフのマザーマーケットであるニューヨーク市場が好調であったことを、ダウ・ジョーンズ指数の歴史を交えながら説明しようとした文章である。私としては「O.ヘンリの見た日露戦争」の部分のカットが先だろうと思ったのだけれど、編集者の濃いめの文学分(鉄分みたいなもの)がヘンリのカットを渋ったのでダウ指数が除外された。以下カット、

ダウ・ジョーンズ株価指数

ヤコブ・シフが高橋の申し出をこうも気前良く引受けてくれたのは何故だろうか。もちろん開戦当初と違い日本陸海軍の実力は数々の戦勝で証明されつつあった。またロシアは国内に革命という問題を抱え始めていた。しかし日本は僅か一年間のうちに既に一般会計の二倍に当たる5億2千万円もの外貨を調達していた。ここでさらに3億円というのはいかにも多い金額である。
しかもこれはヤコブ・シフ個人の資金では無く、公募の形式をとり広く一般投資家から資金を募っているのであるからアメリカ証券市場全般の環境も見ておかなければならないだろう。

十九世紀の終わりごろ、正確に言えば一八八二年、ニューヨーク、ウォール街にチャールズ・ダウとエドワード・ジョーンズ、二人でダウ・ジョーンズになるが、ここにもう一人チャールズ・バーグストレッサーを加えて、ダウ・ジョーンズ・アンド・カンパニーとなった会社が登場した。彼らは当初株価や債権の引け値を集計した「カスタマー・アフタヌーン・レター」という手書きの「フリムジ」と呼ばれるコピーを株式市場の引け後に配布していた。そしてこの手書きのフリムジが八九年には「ウォール・ストリート・ジャーナル」とその名前を変えたのである。また九六年になるとチャールズ・ダウは市場全体の動きを捉える為に主要銘柄の平均値を算出したダウ・ジョーンズ平均株価指数を発表した。
ダウ・ジョーンズ平均株価指数には工業株と鉄道株の二種類があったが、工業株価指数は当初十二銘柄、鉄道株指数は二〇銘柄で構成されていた。因みに当初の工業株十二銘柄のうち現在もダウ平均に採用されているのはジェネラル・エレクトリックGE一銘柄だけである。
一方で鉄道株指数の方も航空会社もまだなかったので二〇銘柄の内十八銘柄が鉄道株で、残りは高橋是清がアメリカと日本を往復する際に乗船していた北米航路の太平洋郵船会社、それに電報会社であるウェスタン・ユニオンがメンバーだった。
その後この新聞社は一九〇二年にクラレンス・バロンによって13万ドルで買収されその後の躍進に繋がっていくのであるが、13万ドルは日本円で65万円でしかない。当時の日本の気のきいた相場師でも買えるようなまだまだ小さな規模の会社だったのである。
話が少し横道にそれたがこのチャールズ・ダウのおかげで現代の我々は当時のニューヨーク市場の日々の株価指数を見ることができるのである。因みにロンドン市場に平均株価指数であるFT30が登場するのは一九三五年であり、日経平均の登場は一九五〇年である。

次頁のグラフは一九〇三年九月から一九〇七年末までのダウ・ジョーンズ株価指数である。左軸が工業株指数、右軸が鉄道株指数である。そして灰色の部分が日露戦争の期間に相当する。日露戦争の期間はニューヨーク市場の強気相場に符号していた。

この期間のニューヨークの強気市場を説明する要因として金融史的には3つの顕著な動きが見られた。

一.機関投資家の登場。
一九〇〇年に全銀行の資産が107億9千万ドル、生命保険会社が17億4千万ドルだったものが、一九〇七年にはそれぞれ181億5千万ドル、29億3千万ドルと急拡大している。これらの資産は株式に向かったのである。

二.個人投資家の台頭と金融ジャーナリズムの発達。
先出のウォール・ストリート・ジャーナルやその他にも現代の「フォーブス」や「フォーチュン」に相当する数多くの相場解説の新聞・雑誌が発刊された時期であった。こうした金融ジャーナリズムの発達はウォール街のプロフェッショナルだけではなく個人投資家にも読まれ広く情報が行き渡るようになった。日本公債の募集においても個人による小口の応募が多かったのは既に触れたとおりである。

三.企業情報の開示の進展
この時期は企業による情報開示もまだまだ誇れるようなものではなかったようだが、一八九六年にニューヨーク州公認会計士制度が創設され、一九〇〇年にニューヨーク証券取引所は上場企業に対して損益計算書、貸借対照表の提出を要求した。そして一九〇二年には合衆国公認会計士連合協会が成立している。
こうしたなかでクーン・ローブ商会のオットー・カーンは次のように発言していた。企業リサーチに力を注いでいたクーン・ローブ商会の姿勢がよくわかる一文である。
「われわれはもっともっと営業状況に関する秘密主義から脱却し、民主主義のなかに飛び込んでもまれる必要がある。そして一般大衆を理解するとともに、一般大衆からも理解されるようにしなければならない」

ヤコブ・シフが高橋是清の要求を受け入れてくれた背景にはこうした米国の強気市場の存在があった。またこうした米国の強気市場の中、株式投資によって得た余剰資金を使い勢いに乗って自らの分野で世界制覇を目論む事業家もいたのである。アメリカのフロンティア・スピリットを体現化したような男。

鉄道王ハリマンである。

ここで次のエピソードである「珍客萬来」につながっていくはずだった。



2012年4月8日日曜日

広軌から狭軌へ、そして標準軌へ  cut3


本日もページ数の関係で拙著に入れきれずカットされた部分である。

これは第五章267ページ 旅順陥落のエピソードのところ。 余談として鉄道の軌間(2本のレールの幅)について書いた部分である。「坂の上の雲」で遼陽から旅順に向かう児玉源太郎が列車内で洋食を食べようというシーンがあり、そこでの記述がロシア製の貨車となっている。しかし史実ではロシア製の幅広の広軌の機関車は旅順要塞が降伏するまで1両も鹵獲できず、日本軍は国内から機関車を持ち込み、占領した線路の幅をいちいち日本本土と同じ狭軌に付け替えなければならなかった。

そしてこの部分はまさに余談だったので、カットする時にはいの一番にカットの憂き目にあったのである。鉄分の多い読者には申し訳がなかった。

日本軍は旅順要塞攻略戦に13万名が参加、死傷者59,304名、死傷率45.6%という恐るべき数字を残してようやく旅順要塞を陥落させたのである。

以下カットされた部分

すこし余談になる。
参謀長児玉源太郎が遼陽の満州軍司令部から旅順に向かったのは鉄道だった。
ロシアの鉄道線路の軌間(二本のレール間の幅)は1524ミリで広軌と呼ばれている。日本の鉄道は新橋・横浜間に鉄道が開通して以来、予算も充分に無かったこともあり輸送力は落ちるがコストの安い1067ミリの狭軌を選択していた。これは現在のJRの在来線の線路幅である。

日本の占領区域ではロシアは既に車両ごと撤退するか破壊しており、残った車両で使えるものは僅かしか残っていなかった。第一肝心の機関車がなかったのである。日本が広軌の機関車を鹵獲するのは旅順要塞陥落後の話だった。広軌の機関車をいきなり製造できるわけもなく、とりあえず占領区域には日本から大量の機関車と車両を持ち込むことになった。しかしこれらも線路の軌間が異なるのでこのままでは使用できなかった。

日本は占領した地域から順に日本の規格である狭軌に改軌工事を施していかなければならなかった。まだ自動車の普及しない日露戦争当時では鉄道が最も有力な軍隊の機動力だったので何をおいても優先されたのである。

日本から機関車を持ち込むと言ってもただでさえ戦争による物資輸送で国内の鉄道も逼迫している状況だった。また機関車の国産化は始まっているとはいえまだ生産能力は低く、結局外国から輸入しなければならなかったのである。

2120形 英国ノースブリティシュ社
日露戦争の臨時軍事費の支出の中で米国に312両、英国に178両の機関車が発注され、合計1051万円が計上されている。納品されたのはポーツマス会議以降になってしまったのであるが、こうしたことも正貨を減らす原因となったのである。

世界の大半の鉄道軌間は標準軌を採用しており幅は1435ミリであった。欧州も米国も中国も朝鮮半島もアメリカも基本的にこれを採用している。ロシアと日本が特殊だったのである。

ロシアが標準軌を採用せずにわざわざ広軌を選択したのは標準軌を採用する欧州他国から攻めこまれた時に敵に鉄道を簡単には使用させなくするという防御的な意図があった。ナポレオンのロシア侵攻によほど懲りていたと言えるだろう。一八七〇年の普仏戦争においてビスマルク率いるプロシア軍が鉄道の機動力を自在に活用した戦略でフランスを打ち破ると、戦争における鉄道の占める重要性は格段に高くなっていたのである。

軍の移動は線路沿いに行われるので、大きな会戦も必然的に鉄道の要衝となる。満州における日露の会戦は大連から遼陽、奉天、鉄嶺とハルビンに至る東清鉄道南満州支線を北上するように生起している。日本軍は改軌工事をしながら進軍して行ったのである。

ところが日露戦争終結後、日本が満州鉄道を設立するにあたっては、輸送力の問題から狭軌では不足とされたのと、中国や朝鮮に既に敷設されている鉄道と軌間を共通にする為に、狭軌に直したばかりの軌間をご苦労な事にもう一度標準軌である1435ミリに改軌する事となってしまった。戦時中に英米に発注した狭軌の機関車はもちろん日本に送り返され、今度は新たに標準軌の機関車や客車、レールを海外に発注することになったのである。

以上

旅順陥落の話に戻る。
一月三日のベルツの日記。
「東京はもちろん、旅順陥落の慶びで大騒ぎだ。夜、全市にイルミネーションが施された。銀座は壮観を呈している。趣向をこらして飾り立てられた電車は、まるで妖精のようだ」
半年前から電球が売り切れるほど待ち焦がれた祝賀の準備はようやく出番となったのであった。
しかし戦争は当初考えていたよりもはるかに時間のかかるものになった。陸軍兵を大陸に貼りつけている以上時間の経過はコストの上昇を意味した。

2012年4月4日水曜日

「日進」と「春日」 cut2


本日も拙著からカットされた部分を紹介する。

これは第三章の「シベリア鉄道とロシア南下策」と「一九〇四年の兜町大暴落」の間にはさまるエピソードである。当ブログの昔からの読者は似たようなエントリーを既に読んだかもしれない。

「日進」と「春日」はアルゼンチンがジェノバの造船所、アンサルド社に発注した装甲巡洋艦である。「高橋是清自伝」中にある、両艦の正貨決済の部分を詳しく調べたかったのだが、なかなか良い資料に巡り合えなくて困った。すると、たまたま以前から所有していたアルゼンチン海軍マヌエル・ドメック・ガルシア大佐の日本海海戦観戦記の冒頭に少し詳しく書いてあったので、そこから当時のブラジル領事館員である堀口九萬一をたぐる事ができ話しが展開できるようになった。この堀口九萬一は詩人堀口大学の実父である。色々と苦労して(楽しかったが)調べたのだが結局はこのエピソードを自分自身でカットすることになった。本来であればこのエピソードで戦時期における正貨(ゴールド)による決済の重要性を強調する意図だった。


以下カットした部分

「日進」と「春日」

少し時代をさかのぼる。富国強兵策のもと、日本では日清戦争が始まる前年の一八九三年の第四回帝国議会において海軍の建艦予算を巡り政府と衆議院の対立が激化した。「金もないのに軍艦を造るな」というのである。そこで明治天皇が「和協の詔勅」を出し、皇室の費用を節約して毎年30万円を拠出するとともに官僚の給料を1割減棒することを条件に議会に働きかけ海軍拡張計画が成立した。この予算によって後に日露戦争で活躍することになる戦艦「富士」と「八島」(どちらも竣工は1897年)がイギリスに発注された。

その後日清戦争で得た賠償金をもとに一八九六年から一九〇五年までの海軍一〇ヵ年計画が予算2億1310万円で策定され、先の2隻の戦艦に加え新たに戦艦4隻、装甲巡洋艦6隻が建造されることになる。これが対ロシア海軍との海戦を想定した戦艦「三笠」他の六六艦隊である。

一九〇三年に入りロシアとの緊張が高まり、いざ開戦が近づくと海軍としては1隻でも多くの主力艦が欲しいところである。これはロシアにとっても同じことだった。もしお金ですぐに買える完成品があるのならば是非とも買っておきたい。当時の戦艦は発注してから引渡しまで3~4年は見ておかなくてはならなかったので最新型の主力艦が今すぐ買えるというのはとても魅力的な話だったのである。


日露戦争の始まる三ヶ月前の一九〇三年十一月に、国境紛争によって長く緊張関係にあったアルゼンチンとチリの間でイギリスの仲介によって合意が成立し、両国が建艦中である軍艦が不要になる事態が発生した。当時チリ海軍はイギリスで2隻を建造中であったが、これはイギリス海軍が買取った。もう一方のアルゼンチン海軍はイタリア・ジェノバのアンサルド社で「モレノ」、「リバタビア」の2隻の装甲巡洋艦を建造中で既に完成間際の状態だった。これは日本のみならずロシアとしても是非とも買い入れたいところだったのである。

一九〇三年十二月二十日に日本と同盟関係にある在日イギリス公使館からアドバイスを受けた小村外務大臣は在ブラジル日本公使館に「アルゼンチンと装甲巡洋艦2隻の購入交渉を開始せよ」と訓令電報を打った。当時の日本はアルゼンチンに領事館がなかったので近隣のブラジル領事館に電報を打ったのである。一方でチリとの紛争を解決して同国と良好な関係にあったイギリスはアルゼンチンに対して両艦を日本に譲渡するように示唆した。また小村は同時に林董在英国公使に対し艦船購入の支払いのための資金150万ポンドが横浜正金銀行ロンドン支店にあるかどうかを問い合せた。ロシアとの競合上アルゼンチンへの支払いはキャシュが条件だったのである。キャシュとは英国ポンドであり、これはゴールドでもあった。林は横浜正金銀行山川ロンドン支店長に問い合わせ、在外正貨である日本政府保有の支払い可能なポンドの残高を確認した。この当時日本銀行にはロンドン支店はなく横浜正金銀行が代理店をしていたのである。

十二月二十五日にはブラジルにいた堀口九萬一臨時代理公使(詩人堀口大学の父)がアルゼンチンのフリオ・ロカ大統領と会見。アルゼンチンは両艦を日本に譲渡することを約束してくれたのだった。

これを受けて海軍は早速フランス公使館付武官であった竹内平太郎大佐とベルリンに留学中であった鈴木貫太郎中佐に極秘にジェノバのアンサルド社へ向かうように指示を出し、2人は「モレノ」=「日進」、「リバタビア」=「春日」の回航委員に任命された。彼ら2人がイタリアから日本まで両艦を移送する責任者となったのである。鈴木貫太郎は後に太平洋戦争終結時の第四十二代内閣総理大臣となる。

回航委員は決まっても肝心の乗組員を日本から呼び寄せる時間はなかった。日露開戦は既に目前に迫っていた。そこで帝国海軍はイギリスのアームストロング社と回航請負契約を結んだのだが、これが100万ポンドの契約だった。モレノとリバタビアの購入代金が150万ポンドだから合計で250万ポンドになる。日本円で2500万円の出費だった。一九〇三年の日本の一般会計が約2億5千万円だったのでこの金額はなんとその10%にも相当するのである。

十二月二十七日、曾根荒助大蔵大臣は山本権兵衛海軍大臣の購入要請に対し、国会と閣議を経るような通常の手続きをとる余裕は無いと判断し購入条件であった即金での支払い(艦船の分)を自己の責任で決めてしまう。曾根は林董在英公使に連絡し当時の政府支出をロンドンで担当していた横浜正金銀行に支払を命じたのだった。

ところがここで問題が生じた。林在英国公使が山川横浜正金ロンドン支店長に相談した時に、契約時の手付金15万ポンド、その後年内に全額の150万ポンドの支払いが必要であると話していたのだが、山川とすれば150万ポンドなどと言う大金がロンドン支店にあるわけも無く、てっきり手付金の15万ポンドがあるのかと聞かれたと勘違いしていたのだった。当時の横浜正金銀行ロンドン支店に15万ポンドならあったのだが150万ポンドの即金での支払いは不可能だったのである。
円をポンドにする為にはゴールドの移送が必要となる。艦船売却契約は林公使のサインで既に執行されている。もしもポンドでの支払いが出来ずに契約不履行になるならば林公使は契約を解約しイギリスから退去しなければならない事態となったのである。ロシアとの開戦を目前にして日本の在英国公使がロンドンから退去するなどあってはならない事だった。

日本時間十二月二十九日夜、日本銀行副総裁高橋是清は大蔵大臣邸に呼びつけられた。そこでは曾根大蔵大臣、阪谷大蔵次官、相馬横浜正金銀行頭取が揃って対策を立てていた。高橋は既にこの頃からこうした外貨にからむ非常事態には頼りになる人材だったのだろう。彼の自伝によれば高橋は即座にアイデアを出した。
1.林公使に公使の資格で約束手形を振り出しアルゼンチンに渡す。
2.もし先方が担保を要求するのであれば日銀所有のポンド建て日本国債200万ポンドを横浜正金に貸出し、正金はそれを担保にあてること。

アルゼンチンがこの条件を呑んでくれたので危機は回避された。つまりアルゼンチンが即金の条件を大目にみてくれたということなのである。艦船の譲渡といい、急な支払条件の緩和といい日本は随分とアルゼンチンには借りがあるものなのだ。
しかし問題はそこではない。輸入代金決済に伴う正貨の必要性は予想されていたとはいえこの事件は政府にとって大きな教訓となった。いざ開戦となり日本が正貨不足によって戦争に必要な物資の代金が支払えなければどういうことになるか。戦争の継続は不可能なのだ。政府の財務関係者はこの事件で身をもってこのことを思い知ったのだった。

回航契約を請け負った英国アームストロング社では回航艦長に英国海軍リー予備中佐とペインター予備少佐を任命し、急遽ロンドンで水兵・船員の募集を行った。甲板部はイギリス人、機関部はイタリア人(多分造船所の人間だろう)の構成で編成を完了する。

日本の回航委員が宿泊していたアンサルド造船所を見下ろすジェノバの丘の上のホテルでは、同時にロシアの在イタリア国ムラビヨフ公使も滞在し両艦の艤装の進行状況を見張っていた。

ちょうどその頃ロシア海軍の戦艦「オスラービア」、巡洋艦「ドミトリー・ドンスコイ」、「アヴローラ」は駆逐艦等も従え艦隊を編成してバルト海から極東へ回航中だった。極東での日本との緊張を見据え旅順にある太平洋艦隊を補強しようとしていたのである。「オスラービア」は地中海を航行中に船底を擦過(海底で船底をこすってしまう事故)し修理中にこの事件に遭遇した。修理を終えた「オスラービア」はアンサルド造船所沖を遊弋しこの両艦の出航を待っていた。いざ開戦となれば2隻の新造艦を撃沈する腹だったといわれている。

明けて一九〇四年一月七日、アルゼンチン海軍の艤装委員長マヌエル・ドメック・ガルシア大佐と日本代表団の松尾海軍総監の間で関係文書に署名、両艦の引渡しが完了する。翌日「日進」、「春日」は艦籍をイギリスとし両艦はユニオンジャックを船尾に掲げて出航した。ロシア艦隊は前方を遮り航海を妨害したが途中で地中海のイギリス海軍基地であるマルタ島からイギリス巡洋艦「キング・アルフレッド」が両艦隊の中間に入り3国の艦船が1列になってスエズ運河に向うことになった。
 イギリス政府は先にスエズ運河に到着したロシア艦隊に給炭用の艀が予約済みであるという理由で石炭の積込みを後回しにした。当時スエズ運河入り口の都市ポートサイドの港湾はイギリスが管理していたのである。ここでロシア戦艦「オスラービア」他は極東への回航をキャンセルしてバルト海に呼び戻された。この戦艦は後にバルチック艦隊として編成し直され日本海海戦に臨むことになる。そして護衛についた英国巡洋艦「キング・アルフレッド」はスリランカ沖で別れオーストラリアに向かっていった。

「日進」と「春日」はシンガポールを経て日露開戦から約1週間後の二月十六日に横須賀に到着した。日本国民のその歓迎ぶりは大変なものだった。当日の新聞の一面は全てこの記事で埋まり、絵葉書が飛ぶように売れ、全国各地の国民から感謝状とお土産物が山のように乗組員に届けられた。芸者は手配され、歓迎門までも作られたそうである。明治天皇はリー中佐とペインター少佐に旭日勲章を授けている。

山本権兵衛海軍大臣がロシアとの開戦を引き伸ばしたのはこの両艦が日本に無事に到着するのを確認するためだったとも言われている。「日進」と「春日」は後に連合艦隊にとって必要不可欠な存在となり日本海海戦では活躍することになるのである
引渡しに立ち会ったアルゼンチン海軍のガルシア大佐はその後日露戦争の観戦武官として日本に派遣され、日本海海戦の時には「日進」に乗艦している。彼は後にアルゼンチン海軍大臣にまで出世するが終生日本びいきで通した。

ブエノスアイレス、フロリーダ街にあるアルゼンチン海軍セントロ・ナバール(日本帝国海軍の水交社にあたる)の2階のロビーには現在も富士山をバックに日本海軍の軍艦旗をあげて堂々と進む「日進」と「春日」の大きな油絵が飾られているそうである。

2012年4月3日火曜日

電信とThe Times cut 1



以前このブログの中でも書いたが、新潮選書の装丁では480ページ前後が物理的に限界だということで、拙著「日露戦争、資金調達の戦い」は最終校正で30ページ近く原稿のカットを余儀無くされた。そのカットした記事の中にはリサーチにかなりの時間をかけた項目もあったが、泣く泣くカットせざるをえなかった次第である。ライフネット生命の出口社長とお話している時にもカットされた部分が話題になったのだが、当ブログで順次紹介していこうと思う。

第1回は、拙著の45ページのところだ。コンピューターの誕生時に、証券市場はいち早くこれを取り入れたのだが、もちろん電信の時もそうだったというストーリーの強化のための逸話とともに英国の新聞であるタイムズの歴史も書いておいた。


 コンピューターの誕生時もそうであったように金融市場は昔から新しい技術をいち早く取り入れてきた。当時の最先端の通信技術である有線による電信の発達は迅速な情報の集中を生みロンドン市場の集中化に拍車をかけた。一八五〇年には英仏間のドーバー海峡に海底ケーブルが敷設され大陸とロンバード街は数時間で証券価格が確認できるようになった。離れていても債券の価格が把握でき発注も口座振替による決済もできるようになるとロンドン市場の流通発行市場としての利便性は大いに増すこととなったのである。

以下はカットした部分

英米間の大西洋の海底ケーブルはアメリカ人サイラス・フィールドによる当時のベンチャー企業が行っていた。一八五八年八月に英国ビクトリア女王からの最初のメッセージが米国ブキャナン大統領に電信され一旦大成功を収めるのだが、翌九月にはぷっつりと断線している。
このケーブルの復旧にはその後八年も要し今日では電信の大西洋横断の記録は一八六六年とされている。いずれにせよ高橋是清の出張した日露戦争のこの時期には既に大西洋は海底ケーブルで結ばれ、太平洋では開戦直前の一九〇三年にフィリッピンとアメリカとの間に海底ケーブルが敷設されていた。アメリカ発の電報はユーラシア大陸を経由することなく太平洋を渡り、フィリッピン、上海、長崎を経由して東京まで既に達していたのである。またこうした電信技術の発達はタイムズやロイター通信など新聞や情報産業の発達を促し世界の出来事は先ずロンドンに集中し、その後情報に加工され世界に再配信されて行くようになっていたのである。

タイムズは一七八五年ジョン・ウォルターによって創刊された世界最古の日刊紙である。奇しくも日本海海戦を遡る一〇〇年前にあたる一八〇五年のトラファルガー海戦ではタイムズ独自のネットワークから、英国海軍の公式報告の数日前に海戦の勝利を報道しその信頼を高めている。

一八一四年にはそれまでの人力から蒸気機械による印刷機を導入して印刷速度と量を飛躍的に高める事に成功し、その結果販売部数の大幅増を達成した。そうなるとタイムズは新聞の販売だけで経営が成り立つようになり、それまでの新聞社の一般的な収益源であった政党や個人からの賄賂に頼る必要性がなくなったとされている。そしてその事がタイムズのコンテンツの中立性と正確性をより高める事にもなったのである。

一八五三年のロシア・トルコ戦争においては、ロシア皇帝はタイムズによって正式文書より早く英国の参戦を知る事となった。そうした理由でタイムズは英語圏のみならず世界中で政治家や外交官、軍人、実業家などに広く読まれるようになり、この時代にはその他の新聞とは隔絶した権威を持っていた。少なくとも当時一般的であった買収して都合の良い記事を書かすことのできる新聞ではなかったのである。また日露戦争の頃には国際関係のニュースでニューヨーク・タイムズとの共同記事も多く見られるようになっている。ニューヨーク・タイムズは当初ロンドン・タイムズを目指していたのだろう。

タイムズは今日ではルパード・マードックの傘下に入ってしまったが、ザ・タイムズのホーム・ページにあるアーカイブは200年以上の過去に遡って安価に紙面検索ができる。本書の成立もこれに負うところが大きいのである。


以上、

因みに、当ブログの左上のアイコンはティッカー・マシーン、電信によって約定のついた株価がテープに印字される。これによって全米の取引所でほぼ同じ価格を知ることができるようになったのである。 現在でもティッカーは新幹線車内のニュースなどにも応用され見ることができる。

Slow Marketとはこのティッカー・テープの流れが遅い事を意味し出来高が少ないという意味である。

2012年4月2日月曜日

國語元年 井上ひさし



時は明治七年、東京は麹町番町、ここはご維新前は幕府旗本の屋敷町であった。徳川家が駿府に転封になった後、個別の事情は様々であるが、空いた屋敷は新政府によって接収され、維新政府高官に割り当てられた。そんな中の一軒に南郷清之輔(川谷拓三)の屋敷があった。南郷清之輔は長州萩の足軽出身、さえない男であるが品川弥二郎のつてもあり民部省に職を得た。そして縁あって薩摩の南郷家に養子縁組したのだが、旧姓の方はわからない。

清之輔は文部省四等出仕というから、軍隊で言えば将軍一歩手前の大佐級である。最近の日本の会社は執行役員とか何かとややこしいが、会社で言えば役員前の部長と言ったところだろうか、彼の若いながらも高い地位は、西郷隆盛とコネのある義父の猟官運動によるものだそうだ。国家公務員一種試験の前身である高等文官試験の開始が明治二十六年、そのまた前進である高等試験が明治二十年だから、この頃はまだまだ藩閥とそれに纏わる全くのコネの世界である。但し西洋文明の急激な輸入時期、恒常的に人材不足であったので、外国語が出来さえすれば、賊軍であろうとなかろうといくらでも出世の緒(いとぐち)はつかめたのだろうが、それはこの清之輔とは関係がない。

こうしたある日、清之輔は文部大臣から「全国統一話し言葉の制定」を命ぜられる。なるほど書き言葉は「候文」(そうろうぶん)があったので文字さえわかれば全国的な意思疎通はいくらでも可能である。しかし話し言葉はそうはいかない。帝国陸軍では「自分は東京の出身であります」などという言い方をするが、これは長州弁である。西郷隆盛が薩摩に下野して以降、黎明期の帝国陸軍幹部は長州人ばかりとなった。軍隊では末端の戦闘命令は「話し言葉」なので、実用上長州弁が陸軍独特の「話し方」になったのは不思議では無いのである。

さて、「全国統一話し言葉の制定」を命ぜられた清之輔の一家は一筋縄ではいかなかった。なにしろこれは井上ひさしの戯曲である。

同居の義父南郷重左衛門(浜村純)は元薩摩藩士、本人の弁では「東北土人」を20人も切ったとなかなか豪胆ではあるが、一方ではとても繊細な男である。もちろん薩摩弁だ。薩摩への愛情は人一倍強い。設定では明治十年の西南役では西郷隆盛に同調し、田原坂で討ち死にするような男なのである。そしてその娘、清之輔の妻光(ちあきなおみ)も勿論薩摩弁だ。長州、薩摩と維新の両雄揃ったところで、ここに使用人達が出てくる、

女中頭の加津(山岡久乃)が元旗本の妻女で江戸山の手言葉。
吉原にもいた女中高橋たね(賀原夏子)が江戸下町言葉。
女中恩田ちよ(島田加穂)も神田の生まれの下町言葉。
馬丁弥平(名古屋章)が岩手県は遠野弁。
書生広沢修一郎(大橋吾郎)が名古屋弁。
下男太吉(松熊信義)が津軽弁。

そして、ここに米沢出身の女中奉公大竹ふみ(石田えり)がやってくるところから物語は始まるのだが。ただでさえお互いに言葉が通じないこの世帯に、さらに、京都弁を話す居候裏辻芝亭公民(すまけい)と会津弁を話す強盗若林虎三郎(佐藤慶)が住み着いてしまうというドタバタ劇である。これでは誰かが口を開けば必ず何かが起こることだろう。

会津出身の強盗虎三郎が住み着いた晩に、夜中にガサガサと音がする、
ふみ「台所さだれかえるんだでば、ヌスビトではあんめーか」
ちよ「ヌスット?ヌスットなら若林虎三郎という歴としたのが、住み着いているわさ」
なんてやりとりがある。

また、義父重左衛門がふんどしを探している。
「わしのツイダナいちめー足らんが~」(俺のふんどしが一枚足らない)
「ツイダナって何だ?」
山の手「ハダマキのことですよ」
下町「シオタビさぁ」
居候「京都ではシタノモノどす」
清之輔「山口ではヘコじゃ」
強盗「会津ではヘコシどいうもや」
書生「名古屋ではマワシだぎゃーも」
馬丁「遠野ではフンドス」
大阪「フンドス?なんやエッチュウフンドシのことやんか」
一同出揃ったところで、ちょっと美人で可愛らしい米沢出身の女中奉公人石田えりが、
「おらもおもえだしたじょ、ゴエンキョサ(ご隠居様)のケツワリキンカクシ(尻割り金隠し)なら洗いなおしたべな」

米沢弁のこのすざましいストレートな呼び名に一同シーンとなるのである。

江戸幕府は全国諸侯276ヵ国の門をピタリと閉めてしまった、言葉が違ってしまうのは当たり前じゃないか、山をひとつ隔てた米沢と会津だけでも大違いだ。それを今度は一気に開こうという話だ、簡単に済むわけがないのである。言葉は文化そのものだから誰もが皆お国言葉に愛着がある。明日からフンドシをケツワリキンカクシと呼べと言われても真っ平御免被りたいに決まってる。これってまさに最近はやりの「江戸時代化」から「中国化」だろう。土地と身分に束縛されなくなって、一番最初に、それぞれ独自の「言葉」がぶつかり合うのである。

この芝居では「言葉」の問題がテーマであるが、少々強引に世界標準にさらけ出されようとする現代日本にあてはめてみるならば、さしずめ正規・非正規雇用の社会保障の一本化(身分の一本化)、あるいはジェンダー間格差の是正だろうか、楽天にユニクロと英語使用の圧力も迫ってきている。與那覇潤の使用する「中国化」という言葉、出口社長の主張する「女性の労働参加率の向上」など、よく考えて見ればどちらも実は根っこのところは同じで、こうした新しい時代への対応策を言っているのだと、こんなドラマを見ていて改めて感じ入る次第なのである。いや実に面白いドラマだった。


国語元年 (中公文庫) は文庫本で、あるいはNHKのTVドラマのDVD(國語元年 DVD-BOX )で見ることができる。それぞれシナリオは少し異なる。ドラマは本当によく出来ていて、演技派の役者が多い中、妻女役のちあきなおみの”ぼけ”の演技は絶品である。



2012年4月1日日曜日

アンドルー・ゴードン



実は拙著「日露戦争、資金調達の戦い: 高橋是清と欧米バンカーたち (新潮選書) 」を書いた後に、お世話になった記者の方から、紙上で僕は「金融」に詳しい上に「歴史」にも詳しいと紹介してくれた。そこで僕としては本当に歴史なんかに詳しいのだろうかと少し自問自答することになった。もちろん拙著は金融の本であると同時に歴史の本であることは間違いない。それに僕は確かに金融史やそれに纏わる読み物は好きで大抵のメジャーな図書は内外問わずに読んでいるつもりだったのだが、「歴史」あるいは「歴史学」と言い換えても良いかもしれないが、そうした専門的見地からの「歴史」に自分は本当に詳しいのだろうか?と少し疑問を持ってしまったのだ。どうしてかというと、こと「金融」に関しては僕自身で専門性を自己認識できるからである。

僕は団塊世代よりは若いのだけれども、司馬遼太郎のファンであるし、その著書は一応全部読んでいるつもりだ(つもりだというのはこの前「俄」を読んでいなかったことに気がついたからだ)。それに池波正太郎や子母沢寛なんかも家に沢山本があったせいでこの手は随分と読んだ。ところが、これらは「歴史小説」であって、世俗的なサラリーマンをしてきた中では「明治維新」や「戦国時代」、あるいは「日露戦争」に関しては、僕は詳しい人だったわけだけれど、歴史?って、あらためていわれると、これはチョット違うのではないかと自分自身で思い当たったわけだ。そこで今年に入ってからは一発奮起して「歴史」の本を集中的に読んでいる。それはブローデルだとか、ウォーラーステイン、カール・シュミット、ジャレド・ダイヤモンド、フェリペ・フェルナンデスなど、日本史では柳田國男、網野善彦、岡田英弘などだ。言い方を換えると僕は今までこうした基礎的な歴史本を読んだことが無かったのだ。「歴史に詳しい」なんて言えやしないのである。本当はいちいちブログに読書感想文でも書けば良いのだろうけれど、自分でなかなかグリップ感が出ない以上、そうそう記事が書けるものでは無い。

しかし、あまりエントリーの間を開けているのもどうかと思うので、近況報告として最近読んだ本を1冊(上下2冊)紹介しておきたい。それは、アンドルー・ゴードン著の「日本の200年〈上〉―徳川時代から現代まで 上下」(The Modern History of Japan)という本で、これはハーバード大の歴史学部長であるアメリカ人歴史家の書いた日本の近・現代史のテキストだ。英語で日本の歴史を学ぼうとする学生のみならず、スペイン語版、ハングル版、中国語版が出版されている。と言えば、これがどういう性格を持ち、我々が関わり合いを持つであろう外国人の見る日本史観にどのような影響を及ぼすのかは想像できるだろう。会社仲間と一杯やる時の歴史話は外国人と話す時に英訳するのに困るものだ。何故なら外国人は司馬遼太郎をほとんど読まないだろうから。逆に言えば、様々な国の人間が集まった場で「日本史」について話題になった時、これを読んでいないと話しのベンチマーク(基準点)を日本人である自分だけが失ってしまうことになりかねない。

それともうひとつ、多分僕だけの問題では無いと思うのだが、学校の授業という意味ではまともに「現代史」というものを習っていない。同年代の人は二二六事件、大政翼賛会あたりでモヤモヤと消えてしまっているのでは無いだろうか。東京裁判、安保、田中角栄、戦後の経済史などは読書やテレビを通じて習う機会も多いが体系立てて現代史を語れる人は意外に少ないのでは無いだろうか。

ここまでだけでかなり長くなってしまった。書きたいことは山ほどあるのだけれど、これは書籍の紹介である。読んでもらえば解決するだろう。僕が一番印象に残ったのはジェンダー問題の扱いが日本の歴史書と大きく違う点だろう。歴史的認識が違うことは現実の世界にもちろん反映され、日本を特異な国のひとつにしていることは間違い無い。

この本のまえがきに以下のように書いてある。

日本のいわゆる「歴史修正主義者」たちの集団、「新しい歴史教科書を作る会」は、一九九〇年代の末にアメリカのアジア学会の会員に送ったパンフレットのなかで次のように主張した。「それぞれの国は、他の国々とは異なる独自の歴史認識をもっている。さまざまな国が歴史認識を共有することは不可能である」。

はたしでそうであろうか、本書はこれとは違う精神に立って、つまり、私達のだれもが、それぞれの国の歴史について共通理解に到達することに関心をもち、そうした共通理解について考え、それに向けて努力する義務を共有している、という想定に立って書かれている。

これまでこうした書籍に触れていなかった日本人には不快な部分もあるだろうと思うが、本書の趣旨はこれにつきるのである。