2012年4月1日日曜日

アンドルー・ゴードン



実は拙著「日露戦争、資金調達の戦い: 高橋是清と欧米バンカーたち (新潮選書) 」を書いた後に、お世話になった記者の方から、紙上で僕は「金融」に詳しい上に「歴史」にも詳しいと紹介してくれた。そこで僕としては本当に歴史なんかに詳しいのだろうかと少し自問自答することになった。もちろん拙著は金融の本であると同時に歴史の本であることは間違いない。それに僕は確かに金融史やそれに纏わる読み物は好きで大抵のメジャーな図書は内外問わずに読んでいるつもりだったのだが、「歴史」あるいは「歴史学」と言い換えても良いかもしれないが、そうした専門的見地からの「歴史」に自分は本当に詳しいのだろうか?と少し疑問を持ってしまったのだ。どうしてかというと、こと「金融」に関しては僕自身で専門性を自己認識できるからである。

僕は団塊世代よりは若いのだけれども、司馬遼太郎のファンであるし、その著書は一応全部読んでいるつもりだ(つもりだというのはこの前「俄」を読んでいなかったことに気がついたからだ)。それに池波正太郎や子母沢寛なんかも家に沢山本があったせいでこの手は随分と読んだ。ところが、これらは「歴史小説」であって、世俗的なサラリーマンをしてきた中では「明治維新」や「戦国時代」、あるいは「日露戦争」に関しては、僕は詳しい人だったわけだけれど、歴史?って、あらためていわれると、これはチョット違うのではないかと自分自身で思い当たったわけだ。そこで今年に入ってからは一発奮起して「歴史」の本を集中的に読んでいる。それはブローデルだとか、ウォーラーステイン、カール・シュミット、ジャレド・ダイヤモンド、フェリペ・フェルナンデスなど、日本史では柳田國男、網野善彦、岡田英弘などだ。言い方を換えると僕は今までこうした基礎的な歴史本を読んだことが無かったのだ。「歴史に詳しい」なんて言えやしないのである。本当はいちいちブログに読書感想文でも書けば良いのだろうけれど、自分でなかなかグリップ感が出ない以上、そうそう記事が書けるものでは無い。

しかし、あまりエントリーの間を開けているのもどうかと思うので、近況報告として最近読んだ本を1冊(上下2冊)紹介しておきたい。それは、アンドルー・ゴードン著の「日本の200年〈上〉―徳川時代から現代まで 上下」(The Modern History of Japan)という本で、これはハーバード大の歴史学部長であるアメリカ人歴史家の書いた日本の近・現代史のテキストだ。英語で日本の歴史を学ぼうとする学生のみならず、スペイン語版、ハングル版、中国語版が出版されている。と言えば、これがどういう性格を持ち、我々が関わり合いを持つであろう外国人の見る日本史観にどのような影響を及ぼすのかは想像できるだろう。会社仲間と一杯やる時の歴史話は外国人と話す時に英訳するのに困るものだ。何故なら外国人は司馬遼太郎をほとんど読まないだろうから。逆に言えば、様々な国の人間が集まった場で「日本史」について話題になった時、これを読んでいないと話しのベンチマーク(基準点)を日本人である自分だけが失ってしまうことになりかねない。

それともうひとつ、多分僕だけの問題では無いと思うのだが、学校の授業という意味ではまともに「現代史」というものを習っていない。同年代の人は二二六事件、大政翼賛会あたりでモヤモヤと消えてしまっているのでは無いだろうか。東京裁判、安保、田中角栄、戦後の経済史などは読書やテレビを通じて習う機会も多いが体系立てて現代史を語れる人は意外に少ないのでは無いだろうか。

ここまでだけでかなり長くなってしまった。書きたいことは山ほどあるのだけれど、これは書籍の紹介である。読んでもらえば解決するだろう。僕が一番印象に残ったのはジェンダー問題の扱いが日本の歴史書と大きく違う点だろう。歴史的認識が違うことは現実の世界にもちろん反映され、日本を特異な国のひとつにしていることは間違い無い。

この本のまえがきに以下のように書いてある。

日本のいわゆる「歴史修正主義者」たちの集団、「新しい歴史教科書を作る会」は、一九九〇年代の末にアメリカのアジア学会の会員に送ったパンフレットのなかで次のように主張した。「それぞれの国は、他の国々とは異なる独自の歴史認識をもっている。さまざまな国が歴史認識を共有することは不可能である」。

はたしでそうであろうか、本書はこれとは違う精神に立って、つまり、私達のだれもが、それぞれの国の歴史について共通理解に到達することに関心をもち、そうした共通理解について考え、それに向けて努力する義務を共有している、という想定に立って書かれている。

これまでこうした書籍に触れていなかった日本人には不快な部分もあるだろうと思うが、本書の趣旨はこれにつきるのである。


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