2012年4月2日月曜日

國語元年 井上ひさし



時は明治七年、東京は麹町番町、ここはご維新前は幕府旗本の屋敷町であった。徳川家が駿府に転封になった後、個別の事情は様々であるが、空いた屋敷は新政府によって接収され、維新政府高官に割り当てられた。そんな中の一軒に南郷清之輔(川谷拓三)の屋敷があった。南郷清之輔は長州萩の足軽出身、さえない男であるが品川弥二郎のつてもあり民部省に職を得た。そして縁あって薩摩の南郷家に養子縁組したのだが、旧姓の方はわからない。

清之輔は文部省四等出仕というから、軍隊で言えば将軍一歩手前の大佐級である。最近の日本の会社は執行役員とか何かとややこしいが、会社で言えば役員前の部長と言ったところだろうか、彼の若いながらも高い地位は、西郷隆盛とコネのある義父の猟官運動によるものだそうだ。国家公務員一種試験の前身である高等文官試験の開始が明治二十六年、そのまた前進である高等試験が明治二十年だから、この頃はまだまだ藩閥とそれに纏わる全くのコネの世界である。但し西洋文明の急激な輸入時期、恒常的に人材不足であったので、外国語が出来さえすれば、賊軍であろうとなかろうといくらでも出世の緒(いとぐち)はつかめたのだろうが、それはこの清之輔とは関係がない。

こうしたある日、清之輔は文部大臣から「全国統一話し言葉の制定」を命ぜられる。なるほど書き言葉は「候文」(そうろうぶん)があったので文字さえわかれば全国的な意思疎通はいくらでも可能である。しかし話し言葉はそうはいかない。帝国陸軍では「自分は東京の出身であります」などという言い方をするが、これは長州弁である。西郷隆盛が薩摩に下野して以降、黎明期の帝国陸軍幹部は長州人ばかりとなった。軍隊では末端の戦闘命令は「話し言葉」なので、実用上長州弁が陸軍独特の「話し方」になったのは不思議では無いのである。

さて、「全国統一話し言葉の制定」を命ぜられた清之輔の一家は一筋縄ではいかなかった。なにしろこれは井上ひさしの戯曲である。

同居の義父南郷重左衛門(浜村純)は元薩摩藩士、本人の弁では「東北土人」を20人も切ったとなかなか豪胆ではあるが、一方ではとても繊細な男である。もちろん薩摩弁だ。薩摩への愛情は人一倍強い。設定では明治十年の西南役では西郷隆盛に同調し、田原坂で討ち死にするような男なのである。そしてその娘、清之輔の妻光(ちあきなおみ)も勿論薩摩弁だ。長州、薩摩と維新の両雄揃ったところで、ここに使用人達が出てくる、

女中頭の加津(山岡久乃)が元旗本の妻女で江戸山の手言葉。
吉原にもいた女中高橋たね(賀原夏子)が江戸下町言葉。
女中恩田ちよ(島田加穂)も神田の生まれの下町言葉。
馬丁弥平(名古屋章)が岩手県は遠野弁。
書生広沢修一郎(大橋吾郎)が名古屋弁。
下男太吉(松熊信義)が津軽弁。

そして、ここに米沢出身の女中奉公大竹ふみ(石田えり)がやってくるところから物語は始まるのだが。ただでさえお互いに言葉が通じないこの世帯に、さらに、京都弁を話す居候裏辻芝亭公民(すまけい)と会津弁を話す強盗若林虎三郎(佐藤慶)が住み着いてしまうというドタバタ劇である。これでは誰かが口を開けば必ず何かが起こることだろう。

会津出身の強盗虎三郎が住み着いた晩に、夜中にガサガサと音がする、
ふみ「台所さだれかえるんだでば、ヌスビトではあんめーか」
ちよ「ヌスット?ヌスットなら若林虎三郎という歴としたのが、住み着いているわさ」
なんてやりとりがある。

また、義父重左衛門がふんどしを探している。
「わしのツイダナいちめー足らんが~」(俺のふんどしが一枚足らない)
「ツイダナって何だ?」
山の手「ハダマキのことですよ」
下町「シオタビさぁ」
居候「京都ではシタノモノどす」
清之輔「山口ではヘコじゃ」
強盗「会津ではヘコシどいうもや」
書生「名古屋ではマワシだぎゃーも」
馬丁「遠野ではフンドス」
大阪「フンドス?なんやエッチュウフンドシのことやんか」
一同出揃ったところで、ちょっと美人で可愛らしい米沢出身の女中奉公人石田えりが、
「おらもおもえだしたじょ、ゴエンキョサ(ご隠居様)のケツワリキンカクシ(尻割り金隠し)なら洗いなおしたべな」

米沢弁のこのすざましいストレートな呼び名に一同シーンとなるのである。

江戸幕府は全国諸侯276ヵ国の門をピタリと閉めてしまった、言葉が違ってしまうのは当たり前じゃないか、山をひとつ隔てた米沢と会津だけでも大違いだ。それを今度は一気に開こうという話だ、簡単に済むわけがないのである。言葉は文化そのものだから誰もが皆お国言葉に愛着がある。明日からフンドシをケツワリキンカクシと呼べと言われても真っ平御免被りたいに決まってる。これってまさに最近はやりの「江戸時代化」から「中国化」だろう。土地と身分に束縛されなくなって、一番最初に、それぞれ独自の「言葉」がぶつかり合うのである。

この芝居では「言葉」の問題がテーマであるが、少々強引に世界標準にさらけ出されようとする現代日本にあてはめてみるならば、さしずめ正規・非正規雇用の社会保障の一本化(身分の一本化)、あるいはジェンダー間格差の是正だろうか、楽天にユニクロと英語使用の圧力も迫ってきている。與那覇潤の使用する「中国化」という言葉、出口社長の主張する「女性の労働参加率の向上」など、よく考えて見ればどちらも実は根っこのところは同じで、こうした新しい時代への対応策を言っているのだと、こんなドラマを見ていて改めて感じ入る次第なのである。いや実に面白いドラマだった。


国語元年 (中公文庫) は文庫本で、あるいはNHKのTVドラマのDVD(國語元年 DVD-BOX )で見ることができる。それぞれシナリオは少し異なる。ドラマは本当によく出来ていて、演技派の役者が多い中、妻女役のちあきなおみの”ぼけ”の演技は絶品である。



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