2012年4月4日水曜日

「日進」と「春日」 cut2


本日も拙著からカットされた部分を紹介する。

これは第三章の「シベリア鉄道とロシア南下策」と「一九〇四年の兜町大暴落」の間にはさまるエピソードである。当ブログの昔からの読者は似たようなエントリーを既に読んだかもしれない。

「日進」と「春日」はアルゼンチンがジェノバの造船所、アンサルド社に発注した装甲巡洋艦である。「高橋是清自伝」中にある、両艦の正貨決済の部分を詳しく調べたかったのだが、なかなか良い資料に巡り合えなくて困った。すると、たまたま以前から所有していたアルゼンチン海軍マヌエル・ドメック・ガルシア大佐の日本海海戦観戦記の冒頭に少し詳しく書いてあったので、そこから当時のブラジル領事館員である堀口九萬一をたぐる事ができ話しが展開できるようになった。この堀口九萬一は詩人堀口大学の実父である。色々と苦労して(楽しかったが)調べたのだが結局はこのエピソードを自分自身でカットすることになった。本来であればこのエピソードで戦時期における正貨(ゴールド)による決済の重要性を強調する意図だった。


以下カットした部分

「日進」と「春日」

少し時代をさかのぼる。富国強兵策のもと、日本では日清戦争が始まる前年の一八九三年の第四回帝国議会において海軍の建艦予算を巡り政府と衆議院の対立が激化した。「金もないのに軍艦を造るな」というのである。そこで明治天皇が「和協の詔勅」を出し、皇室の費用を節約して毎年30万円を拠出するとともに官僚の給料を1割減棒することを条件に議会に働きかけ海軍拡張計画が成立した。この予算によって後に日露戦争で活躍することになる戦艦「富士」と「八島」(どちらも竣工は1897年)がイギリスに発注された。

その後日清戦争で得た賠償金をもとに一八九六年から一九〇五年までの海軍一〇ヵ年計画が予算2億1310万円で策定され、先の2隻の戦艦に加え新たに戦艦4隻、装甲巡洋艦6隻が建造されることになる。これが対ロシア海軍との海戦を想定した戦艦「三笠」他の六六艦隊である。

一九〇三年に入りロシアとの緊張が高まり、いざ開戦が近づくと海軍としては1隻でも多くの主力艦が欲しいところである。これはロシアにとっても同じことだった。もしお金ですぐに買える完成品があるのならば是非とも買っておきたい。当時の戦艦は発注してから引渡しまで3~4年は見ておかなくてはならなかったので最新型の主力艦が今すぐ買えるというのはとても魅力的な話だったのである。


日露戦争の始まる三ヶ月前の一九〇三年十一月に、国境紛争によって長く緊張関係にあったアルゼンチンとチリの間でイギリスの仲介によって合意が成立し、両国が建艦中である軍艦が不要になる事態が発生した。当時チリ海軍はイギリスで2隻を建造中であったが、これはイギリス海軍が買取った。もう一方のアルゼンチン海軍はイタリア・ジェノバのアンサルド社で「モレノ」、「リバタビア」の2隻の装甲巡洋艦を建造中で既に完成間際の状態だった。これは日本のみならずロシアとしても是非とも買い入れたいところだったのである。

一九〇三年十二月二十日に日本と同盟関係にある在日イギリス公使館からアドバイスを受けた小村外務大臣は在ブラジル日本公使館に「アルゼンチンと装甲巡洋艦2隻の購入交渉を開始せよ」と訓令電報を打った。当時の日本はアルゼンチンに領事館がなかったので近隣のブラジル領事館に電報を打ったのである。一方でチリとの紛争を解決して同国と良好な関係にあったイギリスはアルゼンチンに対して両艦を日本に譲渡するように示唆した。また小村は同時に林董在英国公使に対し艦船購入の支払いのための資金150万ポンドが横浜正金銀行ロンドン支店にあるかどうかを問い合せた。ロシアとの競合上アルゼンチンへの支払いはキャシュが条件だったのである。キャシュとは英国ポンドであり、これはゴールドでもあった。林は横浜正金銀行山川ロンドン支店長に問い合わせ、在外正貨である日本政府保有の支払い可能なポンドの残高を確認した。この当時日本銀行にはロンドン支店はなく横浜正金銀行が代理店をしていたのである。

十二月二十五日にはブラジルにいた堀口九萬一臨時代理公使(詩人堀口大学の父)がアルゼンチンのフリオ・ロカ大統領と会見。アルゼンチンは両艦を日本に譲渡することを約束してくれたのだった。

これを受けて海軍は早速フランス公使館付武官であった竹内平太郎大佐とベルリンに留学中であった鈴木貫太郎中佐に極秘にジェノバのアンサルド社へ向かうように指示を出し、2人は「モレノ」=「日進」、「リバタビア」=「春日」の回航委員に任命された。彼ら2人がイタリアから日本まで両艦を移送する責任者となったのである。鈴木貫太郎は後に太平洋戦争終結時の第四十二代内閣総理大臣となる。

回航委員は決まっても肝心の乗組員を日本から呼び寄せる時間はなかった。日露開戦は既に目前に迫っていた。そこで帝国海軍はイギリスのアームストロング社と回航請負契約を結んだのだが、これが100万ポンドの契約だった。モレノとリバタビアの購入代金が150万ポンドだから合計で250万ポンドになる。日本円で2500万円の出費だった。一九〇三年の日本の一般会計が約2億5千万円だったのでこの金額はなんとその10%にも相当するのである。

十二月二十七日、曾根荒助大蔵大臣は山本権兵衛海軍大臣の購入要請に対し、国会と閣議を経るような通常の手続きをとる余裕は無いと判断し購入条件であった即金での支払い(艦船の分)を自己の責任で決めてしまう。曾根は林董在英公使に連絡し当時の政府支出をロンドンで担当していた横浜正金銀行に支払を命じたのだった。

ところがここで問題が生じた。林在英国公使が山川横浜正金ロンドン支店長に相談した時に、契約時の手付金15万ポンド、その後年内に全額の150万ポンドの支払いが必要であると話していたのだが、山川とすれば150万ポンドなどと言う大金がロンドン支店にあるわけも無く、てっきり手付金の15万ポンドがあるのかと聞かれたと勘違いしていたのだった。当時の横浜正金銀行ロンドン支店に15万ポンドならあったのだが150万ポンドの即金での支払いは不可能だったのである。
円をポンドにする為にはゴールドの移送が必要となる。艦船売却契約は林公使のサインで既に執行されている。もしもポンドでの支払いが出来ずに契約不履行になるならば林公使は契約を解約しイギリスから退去しなければならない事態となったのである。ロシアとの開戦を目前にして日本の在英国公使がロンドンから退去するなどあってはならない事だった。

日本時間十二月二十九日夜、日本銀行副総裁高橋是清は大蔵大臣邸に呼びつけられた。そこでは曾根大蔵大臣、阪谷大蔵次官、相馬横浜正金銀行頭取が揃って対策を立てていた。高橋は既にこの頃からこうした外貨にからむ非常事態には頼りになる人材だったのだろう。彼の自伝によれば高橋は即座にアイデアを出した。
1.林公使に公使の資格で約束手形を振り出しアルゼンチンに渡す。
2.もし先方が担保を要求するのであれば日銀所有のポンド建て日本国債200万ポンドを横浜正金に貸出し、正金はそれを担保にあてること。

アルゼンチンがこの条件を呑んでくれたので危機は回避された。つまりアルゼンチンが即金の条件を大目にみてくれたということなのである。艦船の譲渡といい、急な支払条件の緩和といい日本は随分とアルゼンチンには借りがあるものなのだ。
しかし問題はそこではない。輸入代金決済に伴う正貨の必要性は予想されていたとはいえこの事件は政府にとって大きな教訓となった。いざ開戦となり日本が正貨不足によって戦争に必要な物資の代金が支払えなければどういうことになるか。戦争の継続は不可能なのだ。政府の財務関係者はこの事件で身をもってこのことを思い知ったのだった。

回航契約を請け負った英国アームストロング社では回航艦長に英国海軍リー予備中佐とペインター予備少佐を任命し、急遽ロンドンで水兵・船員の募集を行った。甲板部はイギリス人、機関部はイタリア人(多分造船所の人間だろう)の構成で編成を完了する。

日本の回航委員が宿泊していたアンサルド造船所を見下ろすジェノバの丘の上のホテルでは、同時にロシアの在イタリア国ムラビヨフ公使も滞在し両艦の艤装の進行状況を見張っていた。

ちょうどその頃ロシア海軍の戦艦「オスラービア」、巡洋艦「ドミトリー・ドンスコイ」、「アヴローラ」は駆逐艦等も従え艦隊を編成してバルト海から極東へ回航中だった。極東での日本との緊張を見据え旅順にある太平洋艦隊を補強しようとしていたのである。「オスラービア」は地中海を航行中に船底を擦過(海底で船底をこすってしまう事故)し修理中にこの事件に遭遇した。修理を終えた「オスラービア」はアンサルド造船所沖を遊弋しこの両艦の出航を待っていた。いざ開戦となれば2隻の新造艦を撃沈する腹だったといわれている。

明けて一九〇四年一月七日、アルゼンチン海軍の艤装委員長マヌエル・ドメック・ガルシア大佐と日本代表団の松尾海軍総監の間で関係文書に署名、両艦の引渡しが完了する。翌日「日進」、「春日」は艦籍をイギリスとし両艦はユニオンジャックを船尾に掲げて出航した。ロシア艦隊は前方を遮り航海を妨害したが途中で地中海のイギリス海軍基地であるマルタ島からイギリス巡洋艦「キング・アルフレッド」が両艦隊の中間に入り3国の艦船が1列になってスエズ運河に向うことになった。
 イギリス政府は先にスエズ運河に到着したロシア艦隊に給炭用の艀が予約済みであるという理由で石炭の積込みを後回しにした。当時スエズ運河入り口の都市ポートサイドの港湾はイギリスが管理していたのである。ここでロシア戦艦「オスラービア」他は極東への回航をキャンセルしてバルト海に呼び戻された。この戦艦は後にバルチック艦隊として編成し直され日本海海戦に臨むことになる。そして護衛についた英国巡洋艦「キング・アルフレッド」はスリランカ沖で別れオーストラリアに向かっていった。

「日進」と「春日」はシンガポールを経て日露開戦から約1週間後の二月十六日に横須賀に到着した。日本国民のその歓迎ぶりは大変なものだった。当日の新聞の一面は全てこの記事で埋まり、絵葉書が飛ぶように売れ、全国各地の国民から感謝状とお土産物が山のように乗組員に届けられた。芸者は手配され、歓迎門までも作られたそうである。明治天皇はリー中佐とペインター少佐に旭日勲章を授けている。

山本権兵衛海軍大臣がロシアとの開戦を引き伸ばしたのはこの両艦が日本に無事に到着するのを確認するためだったとも言われている。「日進」と「春日」は後に連合艦隊にとって必要不可欠な存在となり日本海海戦では活躍することになるのである
引渡しに立ち会ったアルゼンチン海軍のガルシア大佐はその後日露戦争の観戦武官として日本に派遣され、日本海海戦の時には「日進」に乗艦している。彼は後にアルゼンチン海軍大臣にまで出世するが終生日本びいきで通した。

ブエノスアイレス、フロリーダ街にあるアルゼンチン海軍セントロ・ナバール(日本帝国海軍の水交社にあたる)の2階のロビーには現在も富士山をバックに日本海軍の軍艦旗をあげて堂々と進む「日進」と「春日」の大きな油絵が飾られているそうである。

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