2012年4月8日日曜日

広軌から狭軌へ、そして標準軌へ  cut3


本日もページ数の関係で拙著に入れきれずカットされた部分である。

これは第五章267ページ 旅順陥落のエピソードのところ。 余談として鉄道の軌間(2本のレールの幅)について書いた部分である。「坂の上の雲」で遼陽から旅順に向かう児玉源太郎が列車内で洋食を食べようというシーンがあり、そこでの記述がロシア製の貨車となっている。しかし史実ではロシア製の幅広の広軌の機関車は旅順要塞が降伏するまで1両も鹵獲できず、日本軍は国内から機関車を持ち込み、占領した線路の幅をいちいち日本本土と同じ狭軌に付け替えなければならなかった。

そしてこの部分はまさに余談だったので、カットする時にはいの一番にカットの憂き目にあったのである。鉄分の多い読者には申し訳がなかった。

日本軍は旅順要塞攻略戦に13万名が参加、死傷者59,304名、死傷率45.6%という恐るべき数字を残してようやく旅順要塞を陥落させたのである。

以下カットされた部分

すこし余談になる。
参謀長児玉源太郎が遼陽の満州軍司令部から旅順に向かったのは鉄道だった。
ロシアの鉄道線路の軌間(二本のレール間の幅)は1524ミリで広軌と呼ばれている。日本の鉄道は新橋・横浜間に鉄道が開通して以来、予算も充分に無かったこともあり輸送力は落ちるがコストの安い1067ミリの狭軌を選択していた。これは現在のJRの在来線の線路幅である。

日本の占領区域ではロシアは既に車両ごと撤退するか破壊しており、残った車両で使えるものは僅かしか残っていなかった。第一肝心の機関車がなかったのである。日本が広軌の機関車を鹵獲するのは旅順要塞陥落後の話だった。広軌の機関車をいきなり製造できるわけもなく、とりあえず占領区域には日本から大量の機関車と車両を持ち込むことになった。しかしこれらも線路の軌間が異なるのでこのままでは使用できなかった。

日本は占領した地域から順に日本の規格である狭軌に改軌工事を施していかなければならなかった。まだ自動車の普及しない日露戦争当時では鉄道が最も有力な軍隊の機動力だったので何をおいても優先されたのである。

日本から機関車を持ち込むと言ってもただでさえ戦争による物資輸送で国内の鉄道も逼迫している状況だった。また機関車の国産化は始まっているとはいえまだ生産能力は低く、結局外国から輸入しなければならなかったのである。

2120形 英国ノースブリティシュ社
日露戦争の臨時軍事費の支出の中で米国に312両、英国に178両の機関車が発注され、合計1051万円が計上されている。納品されたのはポーツマス会議以降になってしまったのであるが、こうしたことも正貨を減らす原因となったのである。

世界の大半の鉄道軌間は標準軌を採用しており幅は1435ミリであった。欧州も米国も中国も朝鮮半島もアメリカも基本的にこれを採用している。ロシアと日本が特殊だったのである。

ロシアが標準軌を採用せずにわざわざ広軌を選択したのは標準軌を採用する欧州他国から攻めこまれた時に敵に鉄道を簡単には使用させなくするという防御的な意図があった。ナポレオンのロシア侵攻によほど懲りていたと言えるだろう。一八七〇年の普仏戦争においてビスマルク率いるプロシア軍が鉄道の機動力を自在に活用した戦略でフランスを打ち破ると、戦争における鉄道の占める重要性は格段に高くなっていたのである。

軍の移動は線路沿いに行われるので、大きな会戦も必然的に鉄道の要衝となる。満州における日露の会戦は大連から遼陽、奉天、鉄嶺とハルビンに至る東清鉄道南満州支線を北上するように生起している。日本軍は改軌工事をしながら進軍して行ったのである。

ところが日露戦争終結後、日本が満州鉄道を設立するにあたっては、輸送力の問題から狭軌では不足とされたのと、中国や朝鮮に既に敷設されている鉄道と軌間を共通にする為に、狭軌に直したばかりの軌間をご苦労な事にもう一度標準軌である1435ミリに改軌する事となってしまった。戦時中に英米に発注した狭軌の機関車はもちろん日本に送り返され、今度は新たに標準軌の機関車や客車、レールを海外に発注することになったのである。

以上

旅順陥落の話に戻る。
一月三日のベルツの日記。
「東京はもちろん、旅順陥落の慶びで大騒ぎだ。夜、全市にイルミネーションが施された。銀座は壮観を呈している。趣向をこらして飾り立てられた電車は、まるで妖精のようだ」
半年前から電球が売り切れるほど待ち焦がれた祝賀の準備はようやく出番となったのであった。
しかし戦争は当初考えていたよりもはるかに時間のかかるものになった。陸軍兵を大陸に貼りつけている以上時間の経過はコストの上昇を意味した。

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