2012年7月29日日曜日

日本初のオリンピック入場式


嘉納治五郎記念国債
スポーツ研究・交流センターHPより

今手元に「柔道百年の歴史」と言う本があり、ページ84に1912年、第5回ストックホルムオリンピックの入場式の日本選手団の写真がある。

左のシルクハットをお持ちの方が講道館柔道の創始者嘉納治五郎、クーベルタンに口説かれてIOCの委員になった。

選手は2名で旗手の三島弥彦(東大)が短距離、旗の影で顔が隠れているが、JAPANではなくNIPPONの国名標を持つのが長距離の金栗四三(高等師範)である。この人は箱根駅伝創設に尽力し、今では箱根駅伝の最優秀選手に金栗四三杯が贈られるようになっている。

これが日本が始めてオリンピックに参加した時の入場行進の写真なのである。選手派遣の資金に困って選手は2名しか送れなかったし、文部省は英米のスポーツ・ショーに官立学校の生徒がいくとは何事かと全く無理解だった。 両選手の面白いエピソードはwikiにたっぷりと掲載されているので読まれるとよいと思う。


僕がこの本を手にした理由はオリンピックの歴史を調べるためではない。拙著「日露戦争、資金調達の戦い」の読後感想文や書評の中で、金子堅太郎とルーズベルトの昵懇ぶりに感銘を受けた読者もいらしたようであるが、同書には書けなかったが、このルーズベルトの周辺には実に様々な面白いエピソードが転がっているので、そうした事実を資料として確認したかったからだ


例えば講道館の四天王である山下義韶。日露戦争開戦の2年前、明治35年に渡米し開戦2年目の1905年3月29日にセオドア・ルーズベルトの前で身長165センチの山下が2メートルのレスラーを押さえ込みで倒した。このためルーズベルトはその場で年棒4000ドル(8000円、帝国海軍中尉の年棒が400円)でアナポリスの海軍兵学校に柔道師範として雇い入れたと伝えられている。

そしてスポーツ好きのルーズベルトは書斎に畳を入れて柔道を習うようになるのだが、この時に日本公使館付き海軍武官竹下勇中佐も時には稽古をつけ、大統領夫妻と昵懇の間柄になるのである。アポ無しでホワイトハウスを訪問できる前代未聞の外国駐在武官として他国から羨望の的だったようだ。竹下は旅順港閉塞作戦で有名な広瀬と同期である。

この本には山下義韶がアメリカの鉄道王サミュエル・ヒルの招聘に応じて渡米したと書いてあるが、サミュエル・ヒルという鉄道王はいない。ジェームス・ヒルの間違いだろう。イギリスにはヒル・サミュエルがいたからどこかで錯誤したのかもしれない。

さて、拙著では405ページ以下の「ハリマンの豪華なパーティー」でハリマンが日本から呼んだとしてやはり講道館四天王の一人富田常次郎が登場するが(出典はNYTの記事)、この本(柔道百年の歴史)では、1904年に彼が後輩の前田光世を連れてアメリカに赴きシアトルを中心として柔道の普及につくしたとなっている。

しかしながら同時にこの本では、ハリマンのパーティーと同時におこなわれたコロンビア大学での彼のエキビジョン(これはハリマンのスポンサーシップである)の様子の写真、またその時のプログラムが掲載されている。

いつかどこかで調べたいが残念ながら今は時間がない。

本書は入手困難だが、図書館に行けばたいがい置いてあると思う。


追記:参考にしたサイト 意志力道場-卓話室1



2012年7月25日水曜日

NHKスペシャル 映像の世紀


別にNHKの宣伝をしようというのではないが、NHKオンデマンド をご存知だろうか。


私はこのサービスの中で現在「特選ライブラリー」を購入している。これはサンデルの授業(特にジョン・ロックのところ)を見る目的で購入しのだけれど、「坂の上の雲」などその他にも色々と面白い映像がたくさんある。


昨日たまたま見ていた「NHKスペシャル 映像の世紀 第11集世界が見た明治・大正・昭和 (1996年)」はとても面白かった。


日本の動画としての映像は1898年からあるそうで、この番組のテーマが「明治から大正・昭和へ。奇跡的な速さで発展を遂げた日本。外国人のカメラマンと記者が残した記録から世界が見つめた「JAPAN」に迫ります」とあるから外人の撮った日本ということになる。外人の目から見た日本。そして現代の私の目から見る日本である。


日露戦争の説明ではアメリカで流行った映画として「A JAPANESE OUTPOST ON THE YALU RIVER」が「遼陽の英雄」とともに紹介されていた。どちらも大ヒットだったそうである。拙著ではアメリカにおいていかに日露戦争の情報が浸透していたかについて小説家オー・ヘンリーを紹介して一話を割いたが、映画が大ヒットしていたとは私もうかつだったと思う。しかしネットで「A JAPANESE OUTPOST ON THE YALU RIVER」を検索しても何も出てこない。これはアメリカの大きな図書館にでも行く必要がありそうだ。


この映像には当時の蕎麦屋の屋台(リヤカーではなく担ぐ屋台)も登場する。落語「時そば」に出てきそうなやつだ。丼が小さくて軽そうなのが印象に残った。


それともうひとつ。当時のニューヨークの様子の映像も紹介されている。注目すべきは出来たての地下鉄ブロードウェイ線のグランドセントラル駅と、路面電車である。


線路の間の溝に注目 出所: http://www.vscaler.com/transit_model_3.html 


正確に言えばこれは路面電車ではなく、サンフランシスコのケーブルカーと同じ原理のケーブルカーである。坂を登らないだけだ。線路の間に第3軌道が地下にあってそこに動くワイヤーがある。ケーブルカーは発車時にそれを掴んで動くのである。したがってどこかに何箇所かワイヤーを動かす動力棟(Power House)があったはずだ。 言っている意味わかります?


因みにサンフランシスコ・ケーブル・カーのwiki 日本語版はない。




追記:ブロッガーが新しくなってから文字の一部の背景が白くなる現象が出ています。バグだと思います。

2012年7月24日火曜日

インド洋の風


本日のフジサンケイ・ビジネスアイの「投資家のための金融史」は中世の「パクス・イスラミカ」について書いたのだが、インド洋のモンスーンに関して少し説明不足なので付け足しておこう。

地図はインド洋の風の向きを示している。夏には中近東からインドに向けて季節風が吹き、冬には反対方向に風が吹く。現代のように急ぐ旅ではないから交易船は一年に一度往復できれば充分なのである。


夏の風に乗ってインドへ行き、冬の風で帰る。そしてマダガスカルくらいの緯度には東南貿易風が吹いている。迷い込んでもマダガスカルかアフリカ東海岸へは連れていってくれる。これは何もムスリムが最初に発見したのでは無く、イスラム教よりもよほど古くから知られていた。ローマの通貨が南インドで大量に発見されている。インド洋の案内書で一番古いものに紀元前40年頃の「エリュトゥラー海案内記」がある。私は読んだことがないがこれも文庫化されている。


観光地で有名なモルジブなどもこうした風の交易路の中心にあり、特産の子安貝はインド洋沿岸や中国で古くから貨幣として重宝された。アフリカサハラ砂漠以南でもモルジブの貝が貨幣として使われていたところがあるほどだ。

本文で紹介した「イブン・バットゥータの世界大旅行―14世紀イスラームの時空を生きる (平凡社新書) 」はこの道の権威、家島彦一氏によって新書にまとめられて出版されている。これは面白い本だ。また海運史関係のサイトでは篠原 陽一氏が「海上交易の世界と歴史」に貴重な資料を執筆されている。

さて、この地図を見ていて何か気がつかないだろうか? 

東南貿易風のせいで西洋人はなかなかオーストラリアに辿りつけなかったのである。スペイン人は16世紀にはすでにメキシコからフィリッピンへの航路を確保していたが、オーストラリアは南過ぎた。イギリスのキャプテン・ドレークは南アメリカをぐるっと回ってアジア経由で欧州へ帰還したがオーストラリアには気づかなかった。

スコットランド人のジェームス・クックがシドニーに上陸して領有を宣言したのは1770年、アメリカ合衆国が独立する6年前、日本では鬼平がうな重やかきあげ天蕎麦を食べながら盗賊を捕まえている頃である。そういえば鬼平が寿司を食べているのを見たことがない。「おい、大将、今日は何か良いタネはあるか?」とは聞かないのである。

1752年に当時のもっとも輝かしい科学者であるピエール・ルイ・モロード・ドゥ・モベルテュイがオーストラリアについてこう書いている。オーストラリアとは?

「誰でも知っていることだが、南半球には未知の空間があり、そこには既知の4つの大陸のどれよりも大きい世界の新しい部分が存在しているらしい。地球上のほかの部分にはこれより大きな空間はない。しかし、これがすべて連続した海洋で占有されているというより、そこに陸地が存在している可能性のほうがはるかに大きい」(世界探検全史 上 道の発見者たち :フェリペ・フェルナンデス・アルメスト)

風は人類の歴史におおきく影響を及ぼした。



2012年7月19日木曜日

豆鯵


昔、父の会社の社宅があった芦屋市打出の海岸に住んでいた。

そこは堤防ひとつをはさんで直ぐに砂浜だった。夏には海水浴場になり海の家が並んだし、小学校の遠泳もここで行った。また砂浜には漁師の苫屋があり貸しボートと並んで伝馬船がおいてあり、お金を払えば貸してくれた。父は伝馬船が好きでよく借りて、僕も櫓の扱いを教えてもらったものだ。ボートをこぐより楽で速度も速かった。近隣の神戸市深江には新明和の飛行艇の工場があり、轟音とともによく離着水していた。

チーム御前浜・香櫨園浜 里浜づくりHPより 
そこでは毎年この時期になると「豆鯵」が大量に獲れた。海水浴場では大き目の水槽をおいて鯵を泳がせ小さな釣堀みたいな商売もしていたが、朝、浜にいけば確か30円だったと思うがバケツ1杯の豆鯵を売ってくれたのだ。30円といえばチョコボールが30円だった。(ちょっと話がそれるが僕が小さい頃のチョコボールは「森永」じゃなくて「不二家」だった)。少年マガジンが50円くらいだ。

この豆鯵はえらの内側を指で挟んで引っ張れば簡単に内臓を取れる。それを水洗いして小麦粉をつけて、から揚げにして南蛮漬けにして食べるのである。実はこの南蛮漬けにする前のあげたてのカリカリのから揚げが実においしい。僕は男の3人兄弟なのだけれど、男の子が多かったりすると揚げるそばからつまみ食いするので南蛮漬けまでたどりつけないこともあった。

歳をとり銀座にいきつけの居酒屋ができた、これはチェーン店ではなくパパママの経営する小さな飲み屋なのだが、一度早い時間から飲んでいた時に目の前で豆鯵の南蛮漬けを作り始めた。つまりカリカリという音とともに豆鯵を揚げ始めたのだ。年配のママが揚げたての豆鯵をひとつくれたが、これがたまらなく美味しかった。何十年かぶりの味覚だったのだ。それでビールに合うものだからどんどん調子にのって食べていったら、途中でストップがかかってしまった。それ以上食べると今晩のスペシャルがなくなるというのだった。これは食べ過ぎると胸焼けするのでどこかで止めてもらった方がいいのだ。

そんなママもいつの日かマスターとの間に何かあったのか店には出なくなってしまった。ぐったりと疲れたマスターを見るのも忍びなかったのか、僕もそれからはその店にはいかなくなってしまった。

昨日スーパーで豆鯵を見た。三重県産である。「旬」というステッカーが貼ってある。ワンパック180円。一匹10円ほどだ。2パック買って、カリカリに揚げて気のすむまで食べても残りは南蛮漬けにできる。というか豆鯵を見ること自体がほとんど無い。これは非常に希少な機会なのである。

豆鯵は一瞬のうちに打出の浜から銀座へと僕の思い出の中を駆け巡り、ついでにもうひとつ、とても大事なことを思い出せた。以前同じ一時の感情の高まりから豆鯵を買ったが調理せずに腐らせて捨てた記憶である。

あ~あ、どこか美味しい豆鯵を出す居酒屋はないだろうか。目の前で揚げてくれると一番なんだが。

2012年7月15日日曜日

三笠の建造費


「トンネル抜ければ海が見えるから、そのままドン突きの三笠公園で」はCKB(クレージーケンバンドの唄ですが、僕はこの本を書く時に唄にある三笠公園の戦艦「三笠」を訪問しました。何か面白いエピソードがあるかもしれないと思ったのです。最近はNHKの「坂の上の雲」放映のおかげで訪問者も増えているようです。

訪問中に展示室の「ポーツマス会議の様子」の絵画による説明で、「イギリス人ウィラード・デニソン」としてあったので、帰宅後に電子メールで「デニソンはイギリス人ではなくアメリカ人ですから訂正したほうが宜しい」とお知らせしたら、広報の方から直ぐに返事が返ってきました。そして対応がすごくよかったので質問をしてみました。訪問時は館内に人がいなくて質問できなかったのです。それは三笠の建造費はいくらでしょうか?というものです。

実はこれはよく分かっていないのです。確かにこれは、よく考えれば軍事機密ですからね。よくわからないのも無理はない。それでも広報の方は三笠後部砲塔付け根にプレートがありそれには船体88万ポンド、艤装32万ポンドと書いてあるとわざわざ写真を添付して連絡して下さいました。

しかしこのプレートが貼り付けられたのは昭和36年で、その時に何の資料を根拠にこの数字を持ってきたのかはわからないのだそうです。というわけで三笠の建造費というのはよくわかっていないのです。


三笠公園に行く時間の無い方には学研がVRツアーを用意してくれています。

「三笠」ヴァーチャル・ツアー


2012年7月13日金曜日

出版の意図?


マンハッタンの6番街は現在アヴェニューオブアメリカと呼ばれていますが、かつては高架鉄道が走っていました。写真はメイシーズ百貨店の角、ブロードウェイと6番街の交わるところです。拙著でも高橋是清が始めてニューヨークを訪れたシーンで登場します。

この鉄道は映画「キングコング」にも登場しますが、第2次世界大戦直前の1938年に営業停止となり解体されスクラップとなりました。そしてそのスクラップは日本に売却されますが、年代的にみて戦艦「大和」、「武蔵」の鋼板となった可能性があります。そして、ニューヨークではそう言い伝えられていました。「どうして敵国に売ったのかと」

日本は石油やこうしたスクラップは全くアメリカ頼みでした。もちろんこうした物資の購入には「金(ゴールド)」が要求されたことは言うまでもありません。戦争になりそうな相手にツケ売りはできません。日本は戦争中に不要不急の鉄道やケーブルカーは廃線にされ、遊園地の飛行塔などもスクラップ化されました。お寺の鐘が持っていかれたのはご存知の方も多いでしょう。これは鉄の供出なのですが、実はこれよりずっと前、アメリカと一戦を交える前にすでに金の供出があったのです。

金時計を渡すと、金の部分を取られブリキみたいなものに取り替えられて帰ってきたそうです。この金はアメリカに支払われました。今から戦争をしようとする相手に払っていたのです。

昨日は経済誌の記者さんと長い時間話あっていました。僕がこの「日露戦争、資金調達の戦い」を出版した意図は何か?というのです。この本で僕が言いたかったことは、その記者さんが想像したように現在の日本が財政危機にあるということではありませんでした。

日露戦争に関する本はたくさん出されています。もちろん第2次世界大戦もそうですが、日中戦争もからむ第2次大戦は未だちゃんとまとめられていないと僕は思っています。僕にすればその前に日露戦争なのです。

徹底検証とか分析とかたくさんの本が出ていますが、どれも資金調達をまともに扱っていない。日本軍はロジスティクが弱いとか補給を軽視したとか色々分析され、もっと言えば常識化されているのに、軍資金という分析に踏み込んだ本が一冊も無かったのです。たまにあっても高橋是清自伝を鵜呑みにしたものであって間違っていました。金融業界で国際的な仕事をしていれば高橋是清自伝がオカシイ事はすぐにわかります。

山ほど日露戦争を分析した本があって、検証して反省して、それでももし、日本が今度戦争をやったらまた負けると思うのです。なぜなら肝心なことに未だに気がついていないからです。拙著の読者は日露戦争は一歩間違えば開戦早々に日本がデフォルトし負けていた可能性が随分高かったことを既に知っていると思います。

僕の出版意図は数多ある日露戦争本に対して戦争を分析する上でものすごく大事な部分がぽっかり抜けていますよと注意を促したかっただけです。

そして現在の日本の財政危機は根っこのところは同じで、国民は「坂の上の雲」を見ながら、いつか誰かがどうにかしてくれると考えているのではないでしょうか。

【ビジネスアイコラム】鰻について考える


ビジネスアイ・コラム 

 幼いころ、父親に長野県の伊那谷で名物のうな丼を食べさせてもらったことがある。海で生まれた鰻がはるばる天竜川をさかのぼってこんな山奥に到達するストーリーに驚かされたものだった。昔は鰻も決して特別な食材ではなかった。浜松をはじめ、鰻を名物としている場所は全国にたくさんある。

池波正太郎の「鬼平犯科帳」は天明、寛政年間が舞台である。「子供のころはうなぎもぶつ切りを串に刺し山椒味噌等で焼いて屋台で供するもので、とても侍が食べるものではなかったが、最近はどうして」というシーンがあるから、かば焼きの調理法が普及したのは18世紀後半ということになる。

産業革命期のロンドンでも、鰻は労働者階級の安くて貴重なたんぱく源だった。高橋是清が日露戦争中に資金調達でロンドンに滞在していたころ、公使館で鰻のかば焼きを作ってもらったと自伝に書いてある。高橋はうな丼を12人前ペロリと食べた記録を残しているほどの鰻好きであった。イギリス人は鰻をパイにして食べるが、日本と同じように今では貴重品である。

27日の土用の丑(うし)の日を前に鰻の価格が高騰している。もう少し正確にいうならば、高騰を予見し鰻が高くなり過ぎたため、需要が減退し価格はむしろ少し下がってしまったぐらいなのだ。原因は養殖用の稚魚が獲れないことにあった。稚魚がなければ養殖はできないのである。

3月下旬のニューヨーク・タイムズに「小さな鰻が大きな利益を生む」という記事が掲載された。米国東海岸のメーン州では4月5月は鰻の稚魚の漁で大忙しとなる。もちろん日本向けである。ただし漁獲のライセンスを持った漁師は400人ほどに限られ、ポンド当たり2200ドル(昨年は900ドル)の価格は羨望(せんぼう)の的だそうである。一晩で3万や4万ドルを稼ぐ漁師もいるらしい。米国ではメーン州とサウスカロライナ州以外は鰻の稚魚は漁獲禁止であるため当地は密猟者も含めゴールドラッシュさながらの騒ぎになっているという。

一方でアメリカ魚類野生動物庁では成魚のアメリカ鰻を絶滅危惧種に指定しようとしている。アメリカ産の稚魚も供給の限界が近づいているのだろう。日本人はマグロに続いて世界中の鰻を食べつくしてしまうのだろうか。

小売りや専門店は鰻価格高騰による「消費者離れ」に腐心しているという。書き入れ時の丑の日に向けて、自らの利益を減らし、包装などを工夫して、資源の枯渇が心配される鰻を何とか販売しようと努力する。こうして鰻は不足し価格は再び上昇していく。

今度の丑の日は日本人が資源について、あるいは希少価値を市場がどう扱うべきかについて、考える日としてもいいかもしれない。それは私がいつまでも鰻を食べたいと考えるからだ。




2012年7月10日火曜日

豊川良平


半藤一利さんの「日露戦争史Ⅰ」の365ページに、資金調達に関する下りがあるという話をしました。日露戦争最初の本格的な陸戦である鴨緑江の戦いに日本軍が勝利した場面です。


”戸高:黒木軍勝利のニュースに、日本の外債の人気があがります。
伊藤正徳「軍閥興亡史Ⅰ」によれば、軍費調達のためアメリカで奮闘していた豊川良平(三菱銀行)がのちに嬉しそうに回想しているという。「如何なる好条件をもってするも1人として借り入れに応ずるものなく、困却悲観していたところ、5月1日の緒戦大勝利の明らかとなるや、先方から貸し手が殺到し、断るのに困却した」。
 ほんとうなのか、と疑いたくなるが、この緒戦の圧倒的な勝利で戦時財政の前途にはじめて光明を見出したことはたしかである。”


さて、拙著には豊川良平は登場してきません。豊川良平はよく知っているわけではありませんでしたが、三菱財閥銀行部門のヘッドであることは知っていました。そして戦時公債(国内債)の募集に尽力したとの認識でした。従って「軍費調達のためアメリカで奮闘」したとは大変奇異に感じます。


拙著の読者は既にご存知でしょうが、軍費調達のためにアメリカで奮闘するということは無いのです。当時の国際金融市場はロンドンであって、アメリカにはそういった外国債券を扱う市場は極めて小さかったからです。(2銘柄しか上場していなかった)

誤解の根本は「債券」と「融資」の違いにあります。「ユダヤ人シフが金を貸してくれた」とか「ロスチャイルドが金を出した。」とかあたかも大金持ちが個人の財布から軍資金を出したかのように表現するから間違うのです。正しくは「債券発行を引き受けてくれた」と言うべきなのです。
「先方から貸し手が殺到し、断るのに困却した」とは何とも可笑しな表現です。投資銀行が引き受けの割り当てが欲しくて殺到したのでしょう。

豊川良平は1852年~1920年(大正9年)、人物はwikiや三菱グループのポータル・サイトに記述がありますが、死後の大正11年に鵜崎熊吉によって非売品の伝記が編纂されています。そのなかの193ページ、第六章の三に「日露戦争時代の活動」という項目があります。豊川は三菱銀行の代表、銀行集会所のまとめ役として大量の国内債を発行する政府と各メンバー銀行との間を調整し、おおいに国家社会に貢献したとあります。


1904年2月13日、開戦間もない頃です、政府は国庫債券第1回1億円募集を発表します。これに対して銀行は銀行集会所臨時会議を開き4千92万円の引き受けを決定しています。集会所を代表して豊川が政府との交渉にあたっています。
その後5月23日に第2回公債1億円、10月12日には第3回8千万円、翌年2月、4月と募債していきます。


読者もご存知のように財界側の代表者は渋沢栄一のはずですが、この伝記では第1回募集後に渋沢は中耳炎になったためにその後は豊川が事実上の首脳であったと記してあります。そして日夜奔走して頑張り、政府内部では男爵説もあったが結局勲4等瑞宝章を授けられただけであったと結んであります。いずれにせよ豊川はアメリカには行ってません。

それよりもこの伝記は凄く面白い。豊川という人は宴会好きの調整屋さんらしいのです。様々な定期会合を設けていますが、そのひとつに当時の銀行業者が集まる「鰻会」があります。この会は高橋是清自伝にも登場しますが、なんだろうと思っていたところでした。大蔵首脳や銀行首脳が集まって鰻を食べる会なのですが、この伝記には大食の高橋是清は12人前をペロリと食べたと書いてあります。その他にも、毎月会、長尻会、果てはアンコウを食べる鮟鱇会。夜の東京を飛び回る豊川の姿を髣髴させるようで興味深いものがりました。井上馨とは第2回公債の時に突っ張りあいもしたようで、憶測でしかありませんが爵位はむずかしかったのかなと思います。それでも1916年には貴族院勅撰議員になっています。愛すべき人だったのではないでしょうか。

(追記)
少し舌足らずでした。半藤さんが引用した「軍閥興亡史」を書いた伊藤正徳さんはいい加減な作家ではありません。私も「連合艦隊の最後」の初版本(多分親父が買ったのでしょう)を大切にもっています。想像ですが、何かの宴席で酔っ払った豊川さんから直接かつ曖昧に日露戦争ファィナンスのお話を伺ったのではないでしょうかね。そんな気がします。


2012年7月9日月曜日

Facebook専用ページ


拙著「日露戦争、資金調達の戦い」の専用ページを開設しました。本書に関する情報は専用ページを中心に流していこうと思います。

http://www.facebook.com/nichirowarfinance

専用ページを開いて「いいね!」をプッシュしていただければ、今後何か新しい情報があった時にはお知らせがいくことになると思います。

「日露戦争、資金調達の戦い」も発売開始から4ヶ月、残念ながら大ヒットとは行きませんでしたが、それでも不思議なことにジリジリと売れ続けています。しかし、拙著発売以降に出版された本でも(執筆時期の問題はあると思うけれど)資金調達のところは従前のままです。これはあまり拙著が読まれていないのじゃないかと思うわけです。あるいは信用していないかですよね。啓蒙不足かなと考えました。

それともうひとつはFacebookのページ機能を試してみようという意図もあります。現在フジサンケイ・ビジネスアイに連載中の「投資家のための金融史」も専用ページを造ろうかと考えているのです。もっとも考えているよりも作ちゃったほうが早いのですがね。


追記(2012/07/10)

「投資家のための金融史」もFacebookに専用ページを作成しておきました。
Facebookのメンバーであればこれが一番読者に負担のかからない購読の仕方ではないかと思います。 「いいね!」をプッシュしておいて下さい。

投資家のための金融史

よろしく。

2012年7月3日火曜日

投資家のための金融史



本日からフジサンケイ・ビジネスアイ紙上で「投資家のための金融史」の連載を始めた。

もともとライフワークとしていつかは金融史を書いてみたいという希望を持っていた。だがもっと物知りな先輩・後輩をたくさん知っているので僭越であるのと気恥ずかしいところもあったし、また、あの本を読み終えたらと際限なく仕入れておくべき本が見つかるので躊躇していたら、「いつかなんて言わずにとりあえず書いてみたらどうだ」という声もあったので、思い切って「とりあえず」書き始めたというのが今回である。

連載は基本的に火曜日から土曜日の毎日なので何篇か原稿のストックを蓄えておかなければならない。まだ最後まで完成したわけではないのだ。もちろん全体の構想は既にできていて章立てと各1日分の題名、テーマ、主な参考文献までは揃っている。従って書き始める前に参考文献をサラッと読み直せば何とかなると踏んで始めたのだが、現実は当然のごとく怠け者に対してそれほど寛容ではなかった。

第1話が出たところなのに、既にドップリと本を読むことになってしまった。読書は好きで放っておけばほんのチョッとの時間でも本を読んでいるわけだが、これこれをいつまでに読めとなると少々事情が変わるのである。しかしこうでもしなければこの手は終わるまい。

「戦って逃げる者は生きて再び戦える」はアメリカ独立戦争のときの僕の好きな言葉だ。僕は失敗には慣れているのだ。今回は何とか乗り切る覚悟である。

クルチュウス・ルーフスは「歴史は繰り返す」と言った。マルクスはそこに「歴史は繰り返す、最初は悲劇として、後に喜劇として」と付け加えた。エドマンド・バーグはもう少し注意深く「歴史から学ばぬ者は歴史を繰り返す」と言ったのだ。

ビスマルクは「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と歴史を擁護し、バイロンは「最良なる預言者は過去なり」とトレンドラインを重要視した。「細部はみな違っているが構造は変わらない」は大好きなキンドルバーガーの言葉である。

そして今回一番大事に思っていることは塩野七生さんの言葉。僕は歴史家ではなく作家である。
「歴史は複雑であることに醍醐味があるとは言っても、醍醐味が味わえる程度には整理される必要がある」は難しいことだが、これを大切に書いていこうと思う。


間違い等があればご指摘下さい。「おかしいな」と思ったら多分私が間違っているのです。

Porco