2012年7月10日火曜日

豊川良平


半藤一利さんの「日露戦争史Ⅰ」の365ページに、資金調達に関する下りがあるという話をしました。日露戦争最初の本格的な陸戦である鴨緑江の戦いに日本軍が勝利した場面です。


”戸高:黒木軍勝利のニュースに、日本の外債の人気があがります。
伊藤正徳「軍閥興亡史Ⅰ」によれば、軍費調達のためアメリカで奮闘していた豊川良平(三菱銀行)がのちに嬉しそうに回想しているという。「如何なる好条件をもってするも1人として借り入れに応ずるものなく、困却悲観していたところ、5月1日の緒戦大勝利の明らかとなるや、先方から貸し手が殺到し、断るのに困却した」。
 ほんとうなのか、と疑いたくなるが、この緒戦の圧倒的な勝利で戦時財政の前途にはじめて光明を見出したことはたしかである。”


さて、拙著には豊川良平は登場してきません。豊川良平はよく知っているわけではありませんでしたが、三菱財閥銀行部門のヘッドであることは知っていました。そして戦時公債(国内債)の募集に尽力したとの認識でした。従って「軍費調達のためアメリカで奮闘」したとは大変奇異に感じます。


拙著の読者は既にご存知でしょうが、軍費調達のためにアメリカで奮闘するということは無いのです。当時の国際金融市場はロンドンであって、アメリカにはそういった外国債券を扱う市場は極めて小さかったからです。(2銘柄しか上場していなかった)

誤解の根本は「債券」と「融資」の違いにあります。「ユダヤ人シフが金を貸してくれた」とか「ロスチャイルドが金を出した。」とかあたかも大金持ちが個人の財布から軍資金を出したかのように表現するから間違うのです。正しくは「債券発行を引き受けてくれた」と言うべきなのです。
「先方から貸し手が殺到し、断るのに困却した」とは何とも可笑しな表現です。投資銀行が引き受けの割り当てが欲しくて殺到したのでしょう。

豊川良平は1852年~1920年(大正9年)、人物はwikiや三菱グループのポータル・サイトに記述がありますが、死後の大正11年に鵜崎熊吉によって非売品の伝記が編纂されています。そのなかの193ページ、第六章の三に「日露戦争時代の活動」という項目があります。豊川は三菱銀行の代表、銀行集会所のまとめ役として大量の国内債を発行する政府と各メンバー銀行との間を調整し、おおいに国家社会に貢献したとあります。


1904年2月13日、開戦間もない頃です、政府は国庫債券第1回1億円募集を発表します。これに対して銀行は銀行集会所臨時会議を開き4千92万円の引き受けを決定しています。集会所を代表して豊川が政府との交渉にあたっています。
その後5月23日に第2回公債1億円、10月12日には第3回8千万円、翌年2月、4月と募債していきます。


読者もご存知のように財界側の代表者は渋沢栄一のはずですが、この伝記では第1回募集後に渋沢は中耳炎になったためにその後は豊川が事実上の首脳であったと記してあります。そして日夜奔走して頑張り、政府内部では男爵説もあったが結局勲4等瑞宝章を授けられただけであったと結んであります。いずれにせよ豊川はアメリカには行ってません。

それよりもこの伝記は凄く面白い。豊川という人は宴会好きの調整屋さんらしいのです。様々な定期会合を設けていますが、そのひとつに当時の銀行業者が集まる「鰻会」があります。この会は高橋是清自伝にも登場しますが、なんだろうと思っていたところでした。大蔵首脳や銀行首脳が集まって鰻を食べる会なのですが、この伝記には大食の高橋是清は12人前をペロリと食べたと書いてあります。その他にも、毎月会、長尻会、果てはアンコウを食べる鮟鱇会。夜の東京を飛び回る豊川の姿を髣髴させるようで興味深いものがりました。井上馨とは第2回公債の時に突っ張りあいもしたようで、憶測でしかありませんが爵位はむずかしかったのかなと思います。それでも1916年には貴族院勅撰議員になっています。愛すべき人だったのではないでしょうか。

(追記)
少し舌足らずでした。半藤さんが引用した「軍閥興亡史」を書いた伊藤正徳さんはいい加減な作家ではありません。私も「連合艦隊の最後」の初版本(多分親父が買ったのでしょう)を大切にもっています。想像ですが、何かの宴席で酔っ払った豊川さんから直接かつ曖昧に日露戦争ファィナンスのお話を伺ったのではないでしょうかね。そんな気がします。


0 件のコメント: