2012年7月29日日曜日

日本初のオリンピック入場式


嘉納治五郎記念国債
スポーツ研究・交流センターHPより

今手元に「柔道百年の歴史」と言う本があり、ページ84に1912年、第5回ストックホルムオリンピックの入場式の日本選手団の写真がある。

左のシルクハットをお持ちの方が講道館柔道の創始者嘉納治五郎、クーベルタンに口説かれてIOCの委員になった。

選手は2名で旗手の三島弥彦(東大)が短距離、旗の影で顔が隠れているが、JAPANではなくNIPPONの国名標を持つのが長距離の金栗四三(高等師範)である。この人は箱根駅伝創設に尽力し、今では箱根駅伝の最優秀選手に金栗四三杯が贈られるようになっている。

これが日本が始めてオリンピックに参加した時の入場行進の写真なのである。選手派遣の資金に困って選手は2名しか送れなかったし、文部省は英米のスポーツ・ショーに官立学校の生徒がいくとは何事かと全く無理解だった。 両選手の面白いエピソードはwikiにたっぷりと掲載されているので読まれるとよいと思う。


僕がこの本を手にした理由はオリンピックの歴史を調べるためではない。拙著「日露戦争、資金調達の戦い」の読後感想文や書評の中で、金子堅太郎とルーズベルトの昵懇ぶりに感銘を受けた読者もいらしたようであるが、同書には書けなかったが、このルーズベルトの周辺には実に様々な面白いエピソードが転がっているので、そうした事実を資料として確認したかったからだ


例えば講道館の四天王である山下義韶。日露戦争開戦の2年前、明治35年に渡米し開戦2年目の1905年3月29日にセオドア・ルーズベルトの前で身長165センチの山下が2メートルのレスラーを押さえ込みで倒した。このためルーズベルトはその場で年棒4000ドル(8000円、帝国海軍中尉の年棒が400円)でアナポリスの海軍兵学校に柔道師範として雇い入れたと伝えられている。

そしてスポーツ好きのルーズベルトは書斎に畳を入れて柔道を習うようになるのだが、この時に日本公使館付き海軍武官竹下勇中佐も時には稽古をつけ、大統領夫妻と昵懇の間柄になるのである。アポ無しでホワイトハウスを訪問できる前代未聞の外国駐在武官として他国から羨望の的だったようだ。竹下は旅順港閉塞作戦で有名な広瀬と同期である。

この本には山下義韶がアメリカの鉄道王サミュエル・ヒルの招聘に応じて渡米したと書いてあるが、サミュエル・ヒルという鉄道王はいない。ジェームス・ヒルの間違いだろう。イギリスにはヒル・サミュエルがいたからどこかで錯誤したのかもしれない。

さて、拙著では405ページ以下の「ハリマンの豪華なパーティー」でハリマンが日本から呼んだとしてやはり講道館四天王の一人富田常次郎が登場するが(出典はNYTの記事)、この本(柔道百年の歴史)では、1904年に彼が後輩の前田光世を連れてアメリカに赴きシアトルを中心として柔道の普及につくしたとなっている。

しかしながら同時にこの本では、ハリマンのパーティーと同時におこなわれたコロンビア大学での彼のエキビジョン(これはハリマンのスポンサーシップである)の様子の写真、またその時のプログラムが掲載されている。

いつかどこかで調べたいが残念ながら今は時間がない。

本書は入手困難だが、図書館に行けばたいがい置いてあると思う。


追記:参考にしたサイト 意志力道場-卓話室1



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