2012年8月10日金曜日

【ビジネスアイコラム】100年前の五輪日本選手団


「日本の金栗四三選手、ただいまゴールインしました。タイム、54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3。これをもちまして第5回ストックホルム・オリンピック大会の全日程を終了します」。昨年末に発刊された佐山和夫の「箱根駅伝に賭けた夢 「消えたオリンピック走者」金栗四三がおこした奇跡 」には、1967年に開かれたストックホルム五輪(1912年)55周年記念式典の様子がこう描かれている。

 なぜ金栗選手の記録がマラソンの最長時間記録であって、ストックホルム大会が終了までに55年もの月日を費やしたのかは同書を読んでいただくとして、この大会は日本人が黄色人種としては初めてオリンピックに参加した大会だった。

 講道館柔道の創始者、嘉納治五郎がクーベルタン男爵に口説かれて国際オリンピック委員会(IOC)理事に就任し、2人の選手団とともに入場行進をしている写真があるが、あまりの小人数に同情が飛んだという。

 日本の2選手は、薩摩出身の警視総監、三島通庸の息子、三島弥彦(東京帝大)、そして東京高等師範学校に在学中の金栗だった。

アメリカ選手団174人は米国から乗りつけたモルガン系IMM社の豪華客船フィンランド号をストックホルム港に停泊させ、そのまま選手の宿泊施設とした。同社系列のタイタニック号はこの年の4月に沈没しているが、夏場は氷山がないので乗客はみな安心していたそうである。食事の心配はないし体育館やプールはもちろん、コルク舗装のランニング用トラックまでが装備されていた。

 一方、日本選手団の参加費は自腹だった。今となっては考えられないが、文部省も官立学校の生徒が欧米のスポーツ・ショーごときに参加することをよろこばなかったのだ。三島は金持ちだったが、金栗は友人から「友情基金」を贈られた。手元に予算明細があるが、合計で1420円。現在では1000万円ぐらいだろうか。

三島も金栗もシベリア鉄道でウラジオストクから10日以上も狭い2等車に缶詰にされ、到着後は疲労で数日は身体が動かなかった。安宿での宿泊にコメのない食事。胸を患った同行監督の病状悪化に、夜がこない白夜。下手な復讐モノの映画のシナリオを見ているような艱難(かんなん)辛苦の数々である。金栗は日本の予選では世界記録を出していた。日本の新聞はストックホルムが例年になく暑いので、マラソンでの白人不利、金栗有利を伝えていたが…。

 近ごろ、日本衰退論が喧(かまびす)しい。サッカーの強い国は経済的にはどうなのかと、ひねり出したような悲観論まである。しかし歴史を振り返りつつ水泳やフェンシングなどの団体戦での日本の健闘を見て思うことは、チームとしての強さである。たとえ金メダルを取るような突出した個人が現れなくとも、われわれ日本人は三島や金栗の原点から、まだまだ進化し続けている。

コラムに書ききれなかったこと。

実はこの前の1908年第4回大会はロンドン大会だった。日本は日露戦争で勝利した高揚感はあったもののオリンピックまでは手が回らなかったのだろう。参加していない。
その代わりに大阪毎日新聞は相馬勘次郎という特派記者を送りこんだ。
そしてこのときマラソンの記事を5回連載で書いていた。

この時のマラソンは競技場にイタリアのドラントが1位で帰ってきたのだが、ゴールを目の前にしたところで力尽きて倒れてしまう。何度か起き上がってゴールを目指すがまた倒れ、ついには他の人が手を貸し起き上がり何とかゴールするのであるが、これで失格となる。

記事には「悲劇、悲劇、大悲劇」とある。翌朝のロンドンの新聞は午前9時にはすべて売り切れ、
その夜にはロンドンの主な劇場でこの競争の活動写真を上映したそうだ。動画になった最初のオリンピックである。
この相馬記者はこの一件におおいに感動し、日本に帰ってマラソン大会を開催することになる。大阪毎日なので神戸から大阪までのレースだったようである。1等賞金300円となかなかの金額。

こうしたことがその次の第5回ストックホルム大会出場への布石になったのだ。


この金栗四三氏は箱根駅伝のMVPに贈られる金栗四三杯にその名前を残している。