2012年9月30日日曜日

第4章4話 金本位制度2

投資家のための金融史から
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フジサンケイ・ビジネスアイ9月29日号より WEB版にチャートがないためブログにエントリーしておきます。

第4章4話 金本位制度2

 国際通貨会議と先進各国の追随

 1867年は、日本では慶応2年にあたる。大政奉還があり、年末には坂本龍馬が暗殺された年である。この年は西洋史もあわただしかった。スエズ運河が開通し、パリでは万国博覧会が開催され、日本からは薩摩藩が出品し、幕府からは渋沢栄一が渡仏している。そのパリでは欧州20カ国とアメリカが集まって国際通貨会議が開催された。そんなころから通貨会議は開催されていたのである。

 この国際会議では世界的な通貨同盟への支持が表明された。通貨制度の差から発生する為替リスクや取引コストが、自由貿易を阻害すると考えられていたからである。経済面での理念は現代のユーロに近い。

 ナポレオン戦争後の各国の復興資金は、ロンドン市場でポンド建て各国公債として調達された。また国際貿易においても金兌換が保証されたポンドを介在させることが多かった(調達されたポンドは決済用にそのままロンドンの銀行口座に残されることが多かった)。ロンドンは国際金融市場の中心として繁栄していたのである。特にイギリス国債のコンソル公債は現代でいうリスク・フリー・レートに相当し、当時は一番安全な貸出先で一番低い金利だった。

 このころの金銀比価相場は、当時金銀複本位制をとるフランスの定めた比率1対15.5で安定していた。各国はイギリスの繁栄を横目に金本位制導入を模索したが、本位通貨である金を入手するための財政処置が必要だった。

普仏戦争(1870~71年)がきっかけとなった。ドイツはフランスからの賠償金を金で受け取り、1871年に金本位制に移行した。これをきっかけにスカンディナビア諸国は72年に北欧経済会議を経て順次金本位制へ移行し、フランスもイタリア、ベルギー、スイスと一緒に1878年に金本位制へ移行したのである。

各国は紙幣と金との兌換準備のために銀を売り、金を買った。その様子は、じわじわと上昇する金銀比価のチャートに見ることができる。1890年代の30を超える水準は最後の大国アメリカの金本位制への移行の軌跡である。(19世紀末には南アフリカで金が産出され金銀比価はようやく落ち着くことになる。)
金銀比価=金価格÷銀価格

各国が金本位制を採用しても安定した制度運用というのはなかなか困難だった。

イタリア、スペイン、ギリシャ、ポルトガルなど(ユーロ問題でもおなじみの名前だが)は、戦争や通常歳費の浪費による国債発行残高の増加により、途中で金本位制を停止している。しかし各国は貿易取引のメリットから、それぞれ金本位制への復帰をめざした。

第一次世界大戦が勃発すると、各国は大量の戦費調達のために国債を発行し、調達した資金を軍事費に使用して通貨発行量を増やした。もはや紙幣と金との兌換は維持できなくなったのだ。

日本は1897年に、日清戦争での賠償金をもとに金本位制を採用した。その後の日露戦争の戦費調達のための外債発行は、金本位制を採用していなければ不可能だった。ポーツマス会議でロシアから賠償金を取れなかった日本はその後も兌換用の金準備の維持で苦労したが、地理的に戦禍に巻き込まれなかった第一次世界大戦の特需によって輸出が伸び、正貨である外貨を調達することができた。

しかし世界が金兌換を停止している中で一国だけ開放することはできない。日本も第一次世界大戦中に円の金兌換を停止したが、大戦後は関東大震災を経て金本位制復帰へのタイミングが遅れ、後の濱口雄幸、井上準之助の金解禁と高橋是清による金兌換停止へと連なっていくのである。


2012年9月20日木曜日

投資家のための金融史 第4章再開


大変ながらくお待たせしました。


 フジサンケイ・ビジネスアイに連載中の「投資家のための金融史が来週の25日火曜日から再開されます。Facebookにページを造ってありますので、WEB掲載分を読むのでしたらコチラがおすすめです。

再開まで少し長引いたのは一度書いたものを書き直したからです。1章を10話以内に収めようとするとさすがにかなり無理がきてしまいます。4章では日本の証券市場を入れることができませんでしたが、それも重要度から考えると仕方がないと考えています。

以下が目次です。第4章は全部で13話の予定です。

第4章 近代-米国の台頭
 1.スコティッシュ・ウィドウズとコンソル公債
 2.アムステルダムからロンドンへ
 3.金本位制度① ニュートンが銀でなく金にした
 4.金本位制度② 各国の追随
 5.有限責任制-株式市場発展の基礎
 6.鉄道と株式市場
 7.南北戦争とリテール・セールス
 8.メディアとダウ・ジョーンズ株価指数
 9.日露戦争にみる国際協調融資
 10.第1次世界大戦と有価証券の大衆化
 11.大暴落とチャップリンの「街の灯」
 12.長期投資の幻と株価の回復
 13.ペコラ委員会とグラス・スティーガル法

チャップリンは確認の意味で軽く調べようとしていたら、どっぷりとはまってしまいました。チャップリンのちょっとした言葉にあまり注目されなかった当時の経済情勢がよく反映されていたりするのです。お楽しみに。

Porco

2012年9月12日水曜日

【ビジネスアイコラム】歴史から教訓を学ぶには

2012年9月12日発売フジサンケイ ビジネスアイの一面コラムに掲載された記事です。
【ビジネスアイコラム】歴史から教訓を学ぶには


「ザ・ビッグ・ピクチャー」という米国の人気投資ブログで最近、1994年にペンシルベニア大学のジェレミー・シーゲル教授が書いた「Stocks For The Long Run」(邦訳:株式投資 第4版 日経BP社)が取り上げられた。この本は当時のベストセラーで、経済誌ビジネスウイークの書評でも「あらゆる時代を通じてベスト10に入る投資本の一つだ」と絶賛を受けたこともある。日本でもシーゲル教授の信奉者は多い。ロジックもしっかりしており、ファン層も知的である。

シーゲル教授は短期投資ならともかく、証券投資は保有期間が長くなるにつれ、株式のリターンは常に債券より有利であるだけではなく、インフレ率を控除するとリスクさえも低くなると主張した(ここでいうリターンとは配当を再投資したトータル・リターンである。税率は考慮されていない)。

The Big Picture "Revisiting Stocks for the Long Run"より

 この本のデータでは、1871年から1993年までのどの30年間をサンプルにとっても、株式投資がもたらすリターンは債券投資を上回っていた。日本でも「長期投資のすすめ」といった出版物やウェブ上の記事を多く見かけるが、そうした見解の一つの根拠になっていることが多い。

ところが、81年から2011年の9月までの30年間を調べると、1カ月間から30年間のどの期間を振り返っても、株式投資(SP500)のリターンは債券投資を下回っていたのである。もちろん30年ぐらいでは長期投資とはいえないなどと主張する向きもあるかもしれないが、しかしながらシーゲル教授自身、30年を目安としていたのである。

 こうなると日本はどうだったのか?と興味がわいてくるのは当然だろう。実は、日本でもこうしたトータル・リターンのデータはいくつか一般に公表されている。残念ながら認知度は低いが。

日興パーフォーマンス・インデックスより
Copyright 2005 NIKKO FINANCIAL INTELLIGENCE, Inc.
 

上記のグラフは日興パフォーマンス・インデックスのHPから作成した。シーゲル教授の本の出版された時期の日本はバブル崩壊後の株価低迷期だった。当時は株価回復期待が強く、年金基金の株式組み入れ比率が米国に比較して低すぎるなどの批判もよく見られたものだった。しかし、結果はグラフのとおりである。株式の長期投資を推奨する人は、決してこのグラフを使わないだろう。

では、今後は債券に大きく投資すべきかといえば、それでは逆に、シーゲル教授の教訓を軽んじてしまうことになる。私にとって、シーゲル教授の著書の中で一番印象に残っている文章は、著名投資家であり、金融に関する数々の著作を持つピーター・バーンスタインが書いた前書きである。彼はこうわれわれを戒める。「過去のデータがいかに教訓的であろうと、それは過去のできごとにすぎない」と。

2012年9月10日月曜日

逆利回り革命【週間金融財政事情マーケットを読む】


マーケットを読む (株式市場)
国債利回りと株式配当利回りの逆転現象

日本の株式市場では1998年と2003年に10年国債利回りが一時的に株式配当利回りを下回る事態が出現した。これは通常は起こらないことであったから、株式が割安であることを示すインディケーターとして機能し、このタイミングで株を買えば上昇相場に乗ることができた。
 
 
 
ところが、08年のリーマン・ショック時に3度目の配当・国債利回りの逆転現象が起こり、それ以降は株式配当利回りが国債利回りよりも高いことが常態化してしまった。そして、最近では日本の後を追うかのように、米国株式市場でも同様の現象がみられる。
 
 
 
 
債券とは債務者がいつ元本を返済するか、利息を支払うかを特定化した契約である。一方、株式の配当は取締役会の議決により、配当金の支払い義務すらない。その意味で、債権者に比べて株主の権利は弱く、株式は債券よりも高い利回りを提供する必要があるともいえる。


 
こうした考え方は、近代的株式市場が誕生して以来、1950年代までは極めて一般的なものだった。安全な国債よりも危険な株の配当利回りの方が低いということは受け入れがたい話だったのである。
 
ところが、1959年に国債利回りが株式配当利回りを上回ると、それ以降は元に戻らなくなってしまった。この歴史的な利回りの逆転現象は「利回り革命」と呼ばれた。当時の日本市場も米国に追随してこの革命を経験した。そして、現在は「逆利回り革命」が起こっている。
 
図表からも分かるように、今回は国債利回りの一方的な低下が逆転の主要因である。このため、人為的な低金利政策が「金融抑圧」とセットで語られることも多い。これに対し、「利回り革命」当時は配当よりもキャピタル・ゲインを重視する傾向が現れ、株式のバリュエーションに変化が生じた。歴史的にみても例外的な株式ブームだったのである。
 
当時の株式ブームを彩る一つめの特徴は機関化である。50年代はグラス・スティーガル法など30年代の制度改革を受け、有力な個人の銀行が支配する構造から機関化現象が進行していた。ミューチュアル・ファンド、年金基金、保険、財団等の信託が保有する株式は49年末の95億ドルから58年末には440億ドル、60年末には705億ドルに急成長した。とくにミューチュアル・ファンドは50年の25億ドルから60年には170億ドルに達し、ファンド保有者は350万人を越えた。月決め定額10ドル払いの積み立て型のファンドも登場し、「大衆資本主義」と呼ばれたのである。
 

二つめは「人口ボーナス」である。60年度の米国人口ピラミッドは35歳から40歳が最も多く、世代別のピークを形成していた。彼らは後のベビー・ブーマーの親である。最も人口の多い塊が40歳にさしかかると家を建て、大型家庭用品を揃えるために、大量の消費をするといわれており、当時の人口構成は株式市場が盛り上がる要件を満たしていた。
 
三つめは「成長株投資」である。57年10月にソビエトが人工衛星を地球周回軌道に乗せると「宇宙戦争」が米国政府公認となり、同年年末相場は「スプートニク相場」といわれ、防衛関連の航空や電子株の買いを呼んだ。この動きはやがて成長株投資となり、ゴーゴーファンドや70年代初頭のニフティ・フィフティ銘柄に結びつく。米国株式PERはその逆数である益回りの制約を解かれ、100倍の値も容易にとるようになった。
 
四つめは「インフレ懸念」である。ガガーリンが61年に有人宇宙飛行を達成するに及んで米ソ間の緊張が増し、連邦政府の防衛支出は経済成長を超える勢いで加速し、市場はインフレ懸念を持つに至った。60年以降、CPI(消費者物価指数)が趨勢的に上昇局面に入り、同時に国債利回りも80年代前半のピークに向けて上昇を始める。インフレ懸念は元本や利払いが固定化された債券よりも、持分資産を表象し、将来キャッシュ・フローのインフレ調整が可能な株式に有利となったのである。
 
さて、第一の「投資の機関化」と第二の「人口ボーナス」に関して、現在の状況は当時と逆である。先進国の高齢化は、機関投資家(年金基金や投資信託で蓄えられた老後の貯蓄)の換金売りを増加させる。したがって、PERの逆数である益利回りも配当利回りと同様に上昇するだろう。
 
一方、インフレによって政府債務返済圧力を和らげる政策(金融抑圧)が各国によって本当に採用されるならば、インフレ懸念は配当金額がフレキシブルな株式に有利に働くかもしれない。ただし、極端で破壊的なインフレは不況と企業の倒産を招き、株式投資にも打撃となろう。
 
「利回り革命」は回帰性、つまり極端に振れたものが元に戻ることを前提とした投資手法の妥当性に疑問を投げかけた。50年代以前は株式配当利回りのほうが国債利回りよりも高くて当然であり、逆転した状況はいつか再び元に戻ると強く信じられていた(延長類推バイアス)。しかし、時として通常の状態自体が変化することもあるのである。




この記事は「週間金融財政事情2012年8月27日号」に掲載された記事です。掲載後3週間が経過しましたので出版社のご好意でここに転載させていただいてます。

2012年9月7日金曜日

元祖ミント・ジュレップ


「夏はビールに限る」とよく人は言う。しかしこれは多分1杯目のビールが喉を通過した直後のコメントに違いない。コップに残った中途半端な温度のビールほど不味いものもない。作家の池波正太郎は生ぬるくならないようにビールとは小さめのグラスに少しずつ継ぎ足して飲むものだと断じている。きっと氏のおかげで銀座の少々高めの割烹などでは、ビールはやたらと小さいグラスでサーブされるようになったのだと思う。

ビールの適温は6度から8度であって、それ以下では風味が損なわれるとか言うが、夏場はキンキンに冷えたビールこそがおいしい。バーベキューをする時に氷の浮いたバケツに入っている缶ビールなどは最高においしいものだ。


苦味の少ないバドワイザーみたいな淡白なビールは摂氏2度くらいがお奨めらしい、夏のビールは冷えた淡白な味がいい。クアーズもいいし、東海岸ならばローリングロックはおすすめだ。コメの混じった日本のビールも6度とかいわないで冷たいほうが美味しいと個人的には思っている。

真夏の街にまだ熱さの残る夕方にショット・バーに飛び込んでカクテルも悪くない。ジン・フィズやジン・リッキーなんかもお奨めだが、暑い地域で暑い季節のカクテルといえばミント・ジュレップをはずすわけにはいかないだろう。潰したミントに砂糖とソーダ水とバーボン、ここにクラッシュド・アイスをこれでもかと詰め込みよくステアする。そして最後にミントの若芽をデコレートしてストローを添える。
このカクテルにはブランデーやジンのバリエーションもあるが、発祥がアメリカ南部なのでやはりバーボンがふさわしいだろう。ケンタッキー・ダービーの公式のカクテルだし、南北両カロライナ州はミント・ジュレップこそは彼らのカクテルであると主張している。また観光客で賑わうニューオリンズでも名物なのである。起源は18世紀終わりから19世紀初頭と言われているように歴史的にも随分古いのである。
しかしどうなのだろう、このカクテルにはクラッシュド・アイスが必要である。生温いバーボンに砂糖とミントなんか入れたら薬になってしまうだろう。つまりだ。冷蔵庫が発明されるまでこのカクテルは夏のケンタッキーやニューオリンズや南北カロライナでは作れないはずなのだ。どう考えても。
製氷装置が発明されて実用に供されるのは1870年代の初めで、船に冷蔵庫が設置されたのは同じく70年代の後半である。だとしたら、それまでの間灼熱の地でミント・ジュレップを作るバーマンは一体どうやって氷を調達していたのだろうか?



ミルトン・フリードマンはその著書「貨幣の悪戯」の中で貨幣量の変化について説明するためにオーストラリアの古い金鉱街の掲示板に貼ってあった一枚のポスターを引き合いに出した。そのポスターにはこう記してあった。

「氷、それも冬期にマサチューセッツのウォーデン湖から切り出された氷がおがくずに包まれて船倉に積み込まれた。船は南アメリカの南端を回り、遥かメルボルン目指して広大な太平洋を約1万5千マイルも航海してきた。メルボルンに着くや氷は荷馬車に移され、この金鉱街を目指して百数十マイルを疾走した。幸運なる、富める新参の金鉱労働者よ、黄金の飲み物で喉の渇きを癒そうではないか。。。」


貨幣量の変化への示唆はこの氷が高価なものであったことから想像してもらうとして、なんとマサチューセッツからメルボルンまで氷を運んでいたのである。
記述は無いが19世紀前半の時代と航路から見てこれは帆船である。ボストンとオーストラリア間では石炭補給の関係から20世紀に入るまで帆船のほうが経済効率がよかったのである。
実はこの氷会社はボストンの氷王と呼ばれたフレデリック・チューダーのチューダー・アイス・カンパニーのことである。アメリカ南部やカリビアン地方、はるかインドにまで氷を輸送した。当初は氷の歩留まりが悪く採算に乗らず苦労はしたものの、後に経験を積みビジネスは大成功して大金持ちになった。もっともその後にコーヒー相場に失敗して破産したらしいのだが。

彼は1815年にはキューバのハバナに(マルガリータの発明に関与したに違いない)、その翌年にはチャールストン(サウス・カロライナ)、サバナ(ジョージア)、ニューオリンズ(ルイジアナ)にマサチューセッツの氷をとどけている。

何のことはない、つまりはチューダーが氷を届けた場所がミント・ジュレップの元祖だと名乗っているわけだ。 と思う。

追記:テキーラ・ベースのマルガリータではなく、キューバであればラム・ベースの「ダイキリ」か「モヒート」が正解かな。ダイキリは古いからヘミング・ウェイの愛したフローズン・ダイキリの発明に関与したが正しいのだろう。