2012年11月29日木曜日

【投資家のための金融史】日本の高度経済成長

第5章 第二次世界大戦前後の証券市場  ビジネスアイ

 9話 欧米に追いついた日本の高度経済成長

1955年から70年ごろまで、日本の実質経済成長率は年率10%にも及ぶ期間が続いた。「高度成長期」である。80年以降の中国の成長率もこれに近いので、今でもなにかと比較されたり、中国の成長段階を占う材料にされたりする。

アンガス・マディソンの1人当たり実質GDPでみると、日本は第二次世界大戦で大きく毀損(きそん)し米国の10分の1に当たる1346ドルまで下落した。その後56年に戦前の水準を回復すると70年には65%、90年には80%の水準まで米国を追い上げることになる。高度成長の理由に焼け跡から立ち上がった日本人の頑張りと勤勉さもあるが、戦前の日本人も勤勉だった。



 

国外から見た日本の高度成長の要因をアンドルー・ゴードンの大学生用現代日本史のテキスト「日本の200年」(みすず書房)を参考に記述すると、戦前と異なる点はまず、敗戦で軍が解体され米軍の安全保障の傘と平和憲法によって軍事支出が抑制されたこと。またアメリカの「黄金の60年代」のように他国の経済が堅調な中で、米国主導のGATT(関税および貿易に関する一般協定)による開かれた戦後の貿易システムの存在もあった。

手ごろなコストでの先進技術のライセンス取得は製品の模倣をしやすくしたし、ブレトン・ウッズ体制によって固定化された為替レートがやがて円安になったため、これがあたかも輸出補助金のような役割も果たした。中東から安価で安定したエネルギーの供給があったことも大きかった。

こうした優位性が、71年のニクソン・ショック以降に変調をきたした。変動為替相場への移行に伴って円安の優位性を失い、その後の石油ショックによって安価で安定したエネルギー供給の利点が損なわれると、日本の成長率が目に見えて低下したことがグラフから読み取れる。グラフは縦軸が対数値になっており、グラフの線の傾斜がが成長率を表している。


       
視点を変えて日本国内から見た場合はどうなるか。吉川洋著「日本経済とマクロ経済学」(東洋経済新報社)は「農村の“過剰人口”が枯渇したことによる人口移動の低下、その結果としての世帯数伸び率の急速な鈍化、あるいは既存の耐久消費財の普及率が高まったことと、こうした条件変化を背景とする国内需要の低迷によって利潤率および設備投資の趨勢的低下がもたらされた」と説明されている。どちらも正しいのだろう。

この日本の成長率の屈折点はちょうど、イギリスやドイツ、フランスなどヨーロッパ先進国の1人当たり実質GDPの水準だった。追い抜けそうで、抜けないのである。

またどうしても日本は輸出主導のイメージが強いが、50年代から70年代にかけての日本の輸出はGNPの11%程度であり、これは欧州先進国の半分の水準だった。ドル獲得のために輸出は重要だったが、成長の原動力は国内市場の消費財需要の伸びだったのだ。

戦後の日本では、占領軍が戦前の統治体制をそのまま利用したこともあり、戦時体制の延長で大蔵省が産業界への資本投下を調整し、通商産業省が民間企業の事業計画に介入した。法律でもない「行政指導」は「日本株式会社」とともに海外で有名になったが、それは一定の役割を果たしたのである。

資本主義を標榜(ひょうぼう)しながら国家が資産配分を統制していた姿は、他国から見れば現代の中国に重なったのかもしれない。日本は、80年に1人当たり実質GDPでイギリスに追いつくと、バブル経済の中でアメリカの水準に迫り出した。しかしながら一見順風満帆そうに見える日本の「高度成長期」にも、株価は一本調子で上昇したわけではない。次回は64年の東京オリンピック直後に発生した証券恐慌を扱う。

2012年11月28日水曜日

【投資家のための金融史】黄金の60年代と利回り革命

第5章 第二次世界大戦前後の証券市場
 
 8話 黄金の60年代と利回り革命 ビジネスアイ
 
ジャック・レモン演じるバクスターは、ニューヨークの保険会社に務める独身のサラリーマンである。上司の不倫のために自分のアパートの部屋を貸してゴマをすっていたら、上司の不倫の相手は自分のあこがれの人だった。
 
ビリー・ワイルダー監督の名作「アパートの鍵貸します」が撮られた1960年ごろのアメリカでは会社人間が跋扈(ばっこ)し、日本のバブル期と同様にサラリーマンの上司は不倫ばかりしていた。バクスターは今でいう家畜ならぬ「社畜」だった。会社にしがみついていれば人生はバラ色だと信じていたのだ。
 
その翌年にワイルダー監督は、ジェームス・ギャグニーを主演に据え「ワン・ツー・スリー」というドタバタ・コメディーを撮った。これはベルリン・コカ・コーラの超会社人間の支社長が主役である。ベルリンの壁ができる前に、色仕掛けで共産圏にコカ・コーラを売り込もうという強引なストーリーだが、家庭サービスに厳しいはずのアメリカ人の奥様もモーレツ社員の夫の仕事に対してそれなりの理解を見せている。「コカ・コーラ帝国主義」とも揶揄(やゆ)され、アメリカ製品を世界に販売しまくったこの時代は、バブル期の日本と何かと共通点が多い。
 
 
第二次世界大戦後の米株式市場は戦後のインフレ懸念からしばらくはもたついた展開となったが、1952年に5代も続いた民主党政権も終わりアイゼンハワーが大統領になると、NYダウは250ポイント近辺の水準から66年2月9日の995.15ポイントまで約15年間にわたってブルマーケットが続くことになった。ベルリン・コカ・コーラのように、ブレトン・ウッズ体制下で覇権通貨となったドルを背景にして、アメリカの企業は世界中に展開し多国籍企業となった。
 
「熱狂の20年代」に対して「黄金の60年代(シクスティーズ)」と呼ばれる時代である。
 
戦時中に国債販売促進によって拡大した証券保有者層の行き場のなかった貯蓄が、テレビや宇宙など新しいテクノロジーの登場とともに株式市場になだれ込んだ。ポリオワクチン、冷凍食品、プラスチック・レコードなどこの時期に新しいテクノロジーで新商品を開発した企業は記録的な増収増益を果たしている。戦争から帰った若者は結婚し、郊外に家を建て、家電と車を買った。
 
 
         
証券業界も積極的なマーケティングを展開した。メリル・リンチ証券はアナリストを大量に採用し、投資家には無料で調査リポートを配った。また日本の投信にあたるミューチュアル・ファンドが大きく成長した。
 
昔からアメリカの証券業界では「ミューチュアル・ファンドは売られたのであり、買われたのではなかった」といわれている。50年の資産残高は25億ドル、70年には600億ドルになっていた。セールスマンたちは美しく印刷された資料を手に、歩合制で売り歩いたが、メリルだけは強引な販売を禁じ、固定制だった。
 
50年にはGMが従業員に普通株式を組み入れる年金基金を提案し、その後GMを見習う企業によって8000件の年金プランが作られた。それ以前の年金は、株式などに投資しなかった。教員保険年金協会(TIAA)は株式投資の可能なCREFを創設し、会員の株式への需要に対応することになった。
 
こうして投信や年金などの機関投資家を通じて一貫して株式の個人資産への組み入れが進行する中で、派手なパフォーマンス(成績というよりは振る舞い)を売りにしたゴーゴーファンドが現れた。こうしたファンド・マネージャーたちの一部は70年代に入って相場が停滞した後も生き残った。そして「健全」というコンセンサスを得た特定の銘柄群とそれ以外の銘柄による二重相場が出現し、ニフティ・フィフティ(すばらしい50銘柄)相場と呼ばれるようになった。
 
株式投資が大衆化し、機関投資家の株式組み入れが進んだこの時期に「配当革命」が起こった。株式は誕生以来、その不確定な投資家収益のために債券利回りよりも高い配当利回りが要求されてきたのだが、株式は長期保有により、その成長の果実を受け入れられるとの認識のもとに、この時代に初めて利回りの逆転現象が起きたのである。
 
 
そして2012年の今はそれが50年ぶりに再び逆転しようとしている。つまり株式の成長の果実に対する確信が揺らぎ始めたのだ。
 
 

2012年11月22日木曜日

【投資家のための金融史】大戦時のNY市場

第5章 第二次世界大戦前後の証券市場

 6話 下落から上昇へ 大戦時のNY市場 ビジネスアイへのリンク

1930年代の大恐慌の影響で過剰なバブルを招いた自由放任への反省から、アメリカでは経済に対する政府関与が深まった。米国に限らない。各国は互いに保護主義に走り、ブロック経済を構築し、不況を長引かせる結果となった。

英仏はヒトラーの脅威が増す中で38年のミュンヘン協定において「これ以上の領土的要求は行わない」約束でチェコのズデーデン地方の帰属をドイツに託した。第一次世界大戦に懲りた英仏の戦争回避のための融和策だった。ヒトラーに弱腰を見透かされるかたちとなったこの判断を、後の英首相チャーチルは、第二次世界大戦の原因の一つとなったと厳しく指弾している。

当時の自由主義経済圏に対する脅威はドイツだけではなく、共産主義のロシアの台頭もあった。極東では領土的野心に燃える日本が国家社会主義的な動きを強め、ドイツと同調し始めてもいた。

国土が焦土と化したわれわれ日本人からみると、アメリカの金融史は第二次世界大戦に対して淡泊である。この時期、後に「独占委員会」と呼ばれる「暫定全国経済委員会:TNEC」が大きなイシューとなっている。グラス・スティーガルで分離されたモルガン商会とモルガン・スタンレー証券が結局は裏で連携してほとんどの引受案件を独占しているのではないかとの疑惑である。モルガン商会がモルガン・スタンレー証券の優先株を売却して両者の関係が断ち切られたのは日本が真珠湾に奇襲をかけているころだった。

アメリカの第二次世界大戦の戦費は3410億ドルで第一次世界大戦の約10倍。金融史では軽くとも、経済史ではとてつもなく重い数字だ。米国民には厳しい経済統制と重税がのしかかった。

米国はハワイなど一部を除いて国土が戦場にならなかったこともあり、戦争景気によって失業問題が解消し賃金が上昇した。しかし日常品には配給制度があったし、統制経済によって自動車や家電は生産制限され国民には稼いだお金の支出先がなかった。そのためこうした余剰資金は日本と同じように、貯蓄や戦時国債の購入に向かった。経済成長とインフレにもかかわらず、消費者ローンは40年の83億ドルから45年には57億ドルへ減少し、一方で貯蓄性の生命保険は1155億ドルから1518億ドルに増加した。

国債は7回にわたる国債募集運動を通じて1850億ドルが売りに出された。日本の投資信託の5億円とは規模が違い過ぎた。アメリカの戦記映画である「父親たちの星条旗」や「メンフィス・ベル」には、前線から満期除隊した英雄が国債募集キャンペーンで全米ツアーを行うシーンが出てくる。



日本はドイツから2年遅れて41年12月に参戦したが、間もなくドイツ軍のソ連での快進撃は停滞し始めた。日本海軍も翌年6月のミッドウェー海戦で大敗するとその後は積極的な攻勢は影をひそめて守勢に入った。

 ニューヨーク・ダウは40年5月のヒトラーによるフランス侵攻以来下落を続けていたが、日本参戦後の42年4月に底を打つと、その後は修正を交えながらも終戦にむけて一方的に上昇を続けた。日本がアメリカの株式市場に脅威を与えたのは4カ月間だけだった。ウォール街は出征兵士も多く、商いは閑散として女性のパートタイマーばかりが目立つようになっていたが、この風景は兜町と同じである。

終戦の年の45年のGDPは「熱狂の20年代」の倍に、また税前法人利益は2.5倍にもなっていたが、45年末のダウは192.91ポイントであり、20年代の高値381.17ポイントの約半分でしかなかった。

 アメリカの個人は消費者ローンを返済し、国債を買い、貯蓄を作った。金融環境はいかにも株式市場になだれ込みそうにも見えたのだが、大暴落時の記憶による株式市場への不信感や、戦後すぐに発生したソ連による共産主義台頭への不安感、労働運動の盛り上がりなどから、しばらくは株式投資に積極的になれなかったのである。


2012年11月19日月曜日

Kindle Paperwhite届きました。


本日アマゾンからKindle Paperwhite が配達された。3Gのついていないバージョンで本体価格が7980円、電源アダプターが990円、アマゾンのレザー・カバーが3499円でしめて12,469円(税込)である。本体価格と比較してカバーが高いと感じるかもしれないが手に持った感触はすこぶる宜しい。むしろiPhoneと共有でき、PCのUSBにつないでもOKの電源アダプターが無駄だったと思っている。

Twitterでレビューを書けとのリクエストがあったし、買おうかどうか迷っている人がいるのであればレビューを見たいのは当然だろうから書いておくことにした。ただし3G付が良いのかどうかは未だわからない。何しろ今日届いたばかりだから、このレビューはあくまでファースト・インプレッションでしかない。

僕は外出時に必ず本が必要な人間である。しかも必ず紙のブックカバーが必要で、欲をいえば丸善で購入時につけてくれる茶色の紙のカバーが好みである。丸善は最近白いカバーになったので僕は茶色い紙を使いまわしして、今では擦り切れてボロボロになっている。

外出時に連れ出す本はハード・カバー本は滅多になく、新書、文庫、選書のどれかであり、何冊かにカバーをつけて常時待機させてあるのだが、その中にはカバーはかけてあるのだが、あまり面白くなくて途中で読むのを止めた本も混じっている。外出時に慌てて(大体慌てる)適当に本を選ぶと、面白くない本が混じっていることもあって、その時は恐ろしく手持ち無沙汰になってしまう。で、あまり手持ち無沙汰だと、読む本もないことだし帰りに一杯やっていくかということになって、結果として非常に脳と肝臓に悪いのである。

まあ、管理が悪いだけなのだけれど、一旦そうした本のカバーをはずして本棚か処分行きに決定してしまうと今後二度と読むことが無い。そう思うと処分を躊躇してしまうのだ。Kindleは一冊分の重量でそうした問題を解決してくれるし、また家の中でも非常に手軽だ。


今回は配達されてすぐに「日露戦争、資金調達の戦い」を購入してダウンロードしておいた。これはKindle読者から見て拙著がどう見えるのかのモニターのためと「お前、本書いたんだってな」とさして親しくもなかった昔の知り合いに「お前」と声をかけられた時の宣伝用である。

さて肝心のKindleの評価であるが、本をよく読む人でiPadやアンドロイドを持ち歩いていない人は「絶対に買い」である。これはもう何の間違いも無いし、考えるまでも無い。こんなコストパーフォーマンスの良い商品はこれまであまり見たことが無い。画面は充分にきれいだし、重量もOKである。

別にハードウェアが安いといっているのではない。使い方としては青空文庫がとても身近になる。夏目漱石、僕の好きな織田作之助、その他数えきれない、つまり読み切れないほどの名作が無料で揃っている。これが8千円ですべて自由に読めるなんて、しかも外出時にKindle一冊持てばOKだなんて信じられるかい?

例えば青空文庫には魯山人だけでもかなりの作品がある。鰹節やうなぎの調理法の話だけでも8千円の価値は飛び越えている。もしも「おいしんぼ知識レベル」の知ったかぶりがいて鼻についたとしても、チャッチャッと読んで魯山人で対抗できるなんて最高だよ。

僕の兄のようにiPadやNexusも買う人は多分これも買うのだろうからそれでいいとして。僕としてはあまりガジェットを持たない人で本好きに是非買ってほしいと思う。文庫本を一冊鞄に入れておくつもりで。



2012年11月17日土曜日

【投資家のための金融史】 戦争の足音と東京市場

 第5章 第二次世界大戦前後の証券市場 ビジネスアイへのリンク

 3話 戦争の足音と東京市場

高橋蔵相が1936年の2・26事件によって暗殺されると、日本は軍事予算を拡大し、翌年には盧溝橋事件によって日中戦争に突入した。日中戦争の遂行には原油や鉄鉱石などの1次資源と技術的に高度な工作機械などの製品輸入が必要であり、そのためには基軸通貨であるドルの確保が必須だった。

戦中のお寺の鐘やマンホール、果ては台所の流し台まで供出させられた金属類回収令は有名だが、金も新聞社などの主導で37年ごろから硬貨、指輪、時計、宝石などの国民による自主的な供出が行われた(金献納運動)。これらはただではなく一定価格の円で対価が支払われたのだが、国にとって必要なものはドルと交換可能な金であり、一方で円の紙幣なら印刷すればよかったのである。

                
英国でも、41年に米国の武器貸与法が成立し輸入代金が不要になるまでは、米からの輸入品に対してドルが必要だったので、国内のドル建て証券保有者から政府がポンド建てで証券を購入し、それを米で売却しドルに変えていた。日本と同じようなことをしていたわけだ。

日本は石油やくず鉄、希少金属を含む戦略物資のほとんどをアメリカから購入していた。だから常識的にはアメリカとの戦争は考えられなかったが、盟友ナチス・ドイツが、ブロック経済化の延長でヨーロッパでのアウタルキー(自給自足経済:自存自衛の基礎)を実現しつつある状況から影響を受けた。

日本はインドネシアの原油や中国大陸を含む東亜全域にわたる大日本帝国独自のアウタルキーを確立し、米英依存脱却を目指すことになった。そうした動き自体が、今度はアメリカによる経済制裁を誘発し、日本としてはさらなるアウタルキー確立に向かわざるを得なくなるという悪循環が生まれ、最終的には戦争に至った。

41年7月、日本の南部仏印進駐に応じてアメリカは日本の在米金融資産を凍結した。ニューヨーク外為市場から円が消え、連銀は日本に対して窓口を閉じた。日本はたとえ金を持っていてもドルとは交換できず、石油など戦略物資の購入は決済不可能となったのである。

  
日本の大蔵大臣はドル建て外債の債務利払い継続を発表したが日本帝国外債は買い手がつかず額面の20~30%に低落してしまった。日本は金銭での交易ができなくなった以上、大きく譲歩するか、略奪するか以外に国家存亡の道は残されていなかった。



東京株式市場は開戦初頭の真珠湾攻撃や香港、シンガポール占領に応じて上昇基調となった。好調な戦争の滑り出しに、兜町の中にはニューヨークやロンドンのように東京市場が大東亜共栄圏の金融の中心地として繁栄を謳歌(おうか)すると真剣に考え始める者もいたし、近いうちにわが国土になるであろうオーストラリアへの移住を考える気の早い人もいたそうである。

ミッドウェー海戦の敗北は国民に知らされず、日本協同証券や日本興業銀行による株式買い上げなどにより株価は開戦後1年の間は強含みに推移した。

43年3月に入ると政府は日本証券取引所法案によって金融市場の統制強化を目的に全国取引所を国有化してしまった。日本証券市場開闢(かいびゃく)以来の東京・大阪両取引所株は兜町や北浜の人々に惜しまれながら上場廃止となったのである。「兜町盛衰記」によれば、このころから兜町では大本営発表のニュースを信用しなくなったそうだ。

株式市場は、自由な場所でしか栄えることはない。買い支え機関によって株価は値を保ったが、円でろくにものが買えない以上これは画に描いた餅だったのだ。

2012年11月15日木曜日

【投資家のための金融史】 番宣


現在フジサンケイグループの日刊紙であるビジネスアイに【投資家のための金融史】を連載しています。7月から月に約10話のペースで始めて明日でちょうど50話になります。記念に何かしようというわけではありませんが、明日以降の4つの話は第2次世界大戦の頃の話となります。ちょっと番宣をしておこうと思いこの記事を書きました。

 

「第5章3話 戦争の足音と東京市場」では当時の東株新指数という株価指数を使って第2次世界大戦のイベントと株価をチャートの上で追いかけてみました。残念ながら戦中の兜町には女性とお年寄りしかいなかったそうで、まともな取り組みがあったのかは疑問ですけれど。

「4話 戦前の投資信託」では多分普段あまり目にすることは無いと思うのですが戦前の投資信託について説明しておきました。一般の書籍にはなかなか資料が無いのですが「野村證券五十年史」に詳しくデータが掲載されていました。こうしたデータは「日露戦争、資金調達の戦い」執筆時に調べておいたものです。このあたりの話を書いていて思ったのですが、例えばほとんど唯一と考えられている証券市場の歴史書「日本証券史」などでは、書籍を購入してくれる層である当時の証券会社や金融機関に気を使って事実は曲げられて書いてあります。それが何であるかは僕はいいませんが、戦前の投資信託が戦後の投資信託の礎などにはならなかったことだけは確かです。だから誰も書かないのだと思います。

「5話 焼け跡の2つの株式ブーム」これもあまり良い話ではありませんが、戦後の預金封鎖の話です。このあたりはどうしても黒歴史に近く決して良い話ではありません。児島襄さんの「日本占領」第2巻には進駐軍の若手将校グループが預金封鎖を利用して儲けようとして逮捕された話なんかが登場します。ただこの辺りの話は今のお金儲けにも通じるところがあります。今回は字数制限で細かくは書けませんでしたが。

「6話 第2次世界大戦とニューヨーク市場」はニューヨーク・ダウと第2次世界大戦のイベントを重ねて簡単に書いてあります。アメリカの金融史関連の本の愛好者は気がついているかもしれませんが、彼らの第2次世界大戦の記述は拍子抜けするほど軽い。金融史的なイベントが多くなかったというのはあるのでしょうけれどね。また日本はこの頃の話をあまり残したがっていない(いなかった)ようにも感じるのです。

記事はWEB上ではビジネスアイか、Facebookの【投資家のための金融史】で読むことができます。

このシリーズの書籍化の話はすすんでおりますが、多分今後の僕の努力次第ということになるかと思います。

2012年11月12日月曜日

かわはぎと葱の小鍋


昔銀座に愛想こそ無いがとても美味しくて小さい割烹があった。オーナー兼板長は吉兆で修行したと常連からいわれていたが、当時の僕は吉兆が嵐山吉兆や大阪吉兆とかにいくつも別れていることすら知らなかったので、どこの吉兆だったかはわからない。しかしこの店の凄いところは高級食材のメニューではなく、卵焼きやしめ鯖などのありきたりの食材でものすごく美味しく料理を出すことにあった。お値段は高級食材を出す店並の値段だったのだけれど。

10年ほど前のある日。ちょうど今の時期。11月の第2週目だったと思う。メニューにかわはぎの小鍋があった。小さい土鍋に昆布をひいて、かわはぎと白ねぎだけでポン酢でいただくのである。肝とかはよくすり潰して使うが、彼は肝を使わなかった。そしてこれがもう、とんでもなく美味しかったのだ。彼が言うには11月の一時期だけかわはぎがフグよりも美味しくなる瞬間があるのだそうだ。あれから11月になると自分でかわはぎを買って試してみたが、残念ながら僕がやっても全くお話にならないのである。でも「鍋の具材はシンプルに」はそれ以降実践しているし、利尻の上等な昆布は買いだめしてある。

http://www.suginamigaku.org/
土鍋の小鍋をつつくのを池波正太郎は常夜鍋と呼んでレシピをたくさん書き残している。お燗をちびりちびりと飲(や)りながら自分一人用の鍋をつつく。薄くスライスした豚肉と葱だけのシンプルなものをすすめていた。願わくば火消しの親分なんかが時代劇で使っている長火鉢なんかがあると良いのだろうなと思う。

ところで読者のあなたは鍋とかシチューやスープの発祥がほぼ間違いなく日本だったということをご存知だろうか。多分、知る知らないより以前にあまりそんなことを考えたことが無いのではないかと思うのだが。シチューやスープなんてあまりに包括的過ぎるし、そんなもの世界中のどこででも自然発生的に始まったのではないかと考えるのではないだろうか。僕も煮炊きを始めたのが地球上のどの辺りの人間かだなんて思いつきもしなかった。

しかし物事は少し違うアングルからとらえると退屈なものも光輝いて見えることもある。それは何かというと縄文土器のことだ。(縄文土器は退屈じゃないけれど)

我々は学校で日本史の最初の頃に例外なく縄文時代と弥生時代を習うわけだが、僕には先生から煮炊きは日本人が世界のどの地域よりも早い時期に行なっていたなどと教わった記憶が無い。僕の高校時代はサボってばかりいたので、もしかしたら僕の記憶に無いだけかもしれないので、念のためwikiの縄文時代を読んでみたが、全体として時代を細かく記述してはいるものの、そうした世界史の中での特異な位置づけを強調してはいない。

農耕生活に入る以前の人類は獲物を追って移動を繰り返す狩猟採取生活をしていた。これが紀元前1万年頃の中石器時代後期、氷河期の終わり頃に地球が暖かくなり気候が安定してくると定住し穀物の耕作が始まった。地域によって時期が異なるがメソポタミアでいえば定住して農耕が始まるのは紀元前9千年頃である。人類は狩猟生活で移動している間は土器を持たなかった。これは何故かといえば土器などは重たくて移動に適してはいなかったからだ。

ところが日本の縄文時代というのは稲が日本に到来する前の話で縄文土器の古いものは紀元前1万6千5百年クラスのものもある。メソポタミアよりも数千年も古いのだ。日本の狩猟採集生活は浜辺の貝、魚や木の実を食べていたから早くから定住して縄文土器を作った。こうした土器の内側からは食物の貯蔵だけではなく煮炊きした跡が残されている。世界の他の民族は定住するまで土器を持たなかった。そして単純に考えてスープやシチューは鍋がなければ作れないわけで、だとすると世界でも珍しく土器を持っていた日本が間違いなく世界で一番初めにシチューやスープを調理したということになるわけだ。なんだか凄い。ような気がする。 あんまり人前で言わない方がよいかもしれないけれど。


2012年11月10日土曜日

マッカーシズムと映画


ビジネスアイに連載中の【投資家のための金融史】は、当初あまり肩の凝らない話にして、ちょっとばかり楽をしようと考えて書き始めたのだが、どうしても参考にする書籍を読みなおしたり、あるいは少し記憶が曖昧になった関連する映画などを見直したりしているうちに、本来の目的を離れて別件で深みにはまってしまうことがよく起こる。こうして連載を続けていると、現実にはそういった無駄とも思える調査に時間の多くをとられているのが実情で、その為に悶え苦しむ時も多いのだ

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オードリー・ヘップバーンの「ローマの休日」はハリウッドのマッカーシズム(赤狩り)と関係していることで有名だ。本来の脚本はダルトン・トランボなのだけれど、彼はこの脚本を仕上げた直後に赤狩りでハリウッドを追われてしまうので、当初の映画のエンドロールの脚本のところにはイアン・マクラーレン・ハンターが名前を貸してくれてトランボは原稿料だけをもらった。そしてこれが真実のトランボに書き換えられるのは50年後の2003年の映画「ローマの休日」50周年記念の時だったのだ。僕の持っているデジタル・エディットのDVDはトランボになっている。
 

この話を聞いた時には、「名前を貸す」程度の話は大したことだとは思わなかったのだけれども、ハリウッドのマッカーシズムをテーマに取り上げた映画を観た後では、この考えが変わった。
 
映画とは、ひとつはロバート・デ・ニーロの「真実の瞬間:原題Guilty by suspicion 1991年」だ。これはマーティン・スコセッシが俳優として友情出演しているのだが、この映画に映しだされる当時の赤狩りの厳しいこと。自らが共産党員ではないことを宣誓して、それを証明するためには誰か友達を当局に売らなければ証明ができない。「奴は共産党員ですぜ」とね。不快なシーンがえんえんと続く。
 
またもうひとつの映画はジョージ・クルーニーの「グッドナイト&グッドラック:2005年」だ。これは赤狩りの張本人であるマッカーシー議員の非道をCBSの報道番組が追い詰めていく話だけれども、これも局と番組に対する政府筋からの圧力は半端じゃない。もうとにかく奴は共産党員だといえばすべてOKみたいな話なのだ。
 
「あなたは12年前にソ連に衣料品や缶詰などを援助物資として送る会合に参加していましたね?」
「ええ、当時はソ連は我々の味方だったはずだ」
「その時会合に参加していたお知り合いの名前を挙げて下さい」
とこんな感じなのだ。会合に参加していたら共産党員なのである。

つまり「名前を貸す」という行為そのものがバレたりすると大変なことになったに違いない、懲役刑にでもなりそうなことなのである。イアン・マクラーレン・ハンターの行為は非常に勇気のあることだったわけだ。

そして実は「ローマの休日」のクレジットには何の目的なのか変わった文言が挿入されている。

『この映画はすべてイタリア・ローマで撮影され、録音された』

これは監督のジャン・ハーマー・ワイラーが赤狩りのブラックリストにのっていたプロデュサーのレスター・コーニックを使うために、ハリウッドでは何かと横槍が入るので、干渉を避けようとローマ・ロケを敢行したからということになっている。

 
さて、何故僕がこんな長い話をダラダラと書いているのかというと、今朝読んだ本に関連している。それは猪木武徳さんの「戦後世界経済史―自由と平等の視点から (中公新書) 」だ。この中にマーシャル・プラン(欧州復興計画)の記述があって、そこにはこう書いてある。
 
「アメリカの提供した米国では使えないドル(凍結ドル)があったために『ローマの休日』はパラマウントがこの資金を使って製作した映画である。従ってオープニングの字幕には『この映画はすべてイタリア・ローマで撮影され、録音された』と書いてあるのだ」

どっちの記述が正しいかではなく、どちらも正しいのだと思う。パラマウントは凍結資金を使って製作して欲しかったし、ワイラー監督にとっては、赤狩りの犠牲となってハリウッドを追われる仲間を金銭的に援助するためのチャンスとして渡りに船だったのだろう。かくしてローマ・ロケの名作が生まれ、美しくも正しい大女優、オードリー・ヘップバーンが誕生したわけだ。

では何故マッカーシズムを調べていたかというと、それはブレトン・ウッズ協定だ。ブレトン・ウッズ協定はそれ以前の予備折衝の段階から英国はケインズを送り込み、アメリカはハリー・デクスター・ホワイトというニューディーラーの官僚を折衝に当たらせた。
 
ケインズはその当時すでに大変な権威であり、デクスターなどは弟子みたいなものなのだが、いかんせん第2次世界大戦で英国は疲弊し発言権がなくなっていたので米国主導でまとめられてしまった。というのがブレトン・ウッズ協定だ。

このハリー・デクスター・ホワイトが後にマッカーシズムによってソ連のスパイ嫌疑をかけられることになるのでデクスターを調べていたところ、マッカーシズムをよく知るために映画を2本観ることになってしまったという、長い割に内容の薄い話でした。どちらの映画も秀作ですが「ローマの休日」なら何度観てもOKです。


 

2012年11月7日水曜日

【ビジネスアイ・コラム】田中文科相不認可問題


大臣の一声で認可左右 自由主義の否定にもつながる危険な権力行使 MSN産経

2012.11.7 11:16

 18世紀初頭のロンドンは株式ブームに沸いていた。新規ベンチャー企業が続々と設立されていたのだ。自分の会社へ資金が回らなくなることを恐れた南海会社のジョン・ブラントは政治力を発揮して1720年6月に「The Bubble Act(泡沫(ほうまつ)会社禁止法)」を成立させた。質の悪い会社の誕生を阻止するために設立特許取得に厳しいハードルを設けたのである(特許主義)。(フジサンケイビジネスアイ
 
http://www.library.hbs.edu/hc/historicalreturns/fb/slide3.html
 
これ以降、英国では新規会社設立には膨大な費用と時間が要求されるようになり、政治家や有力者とのコネが重要な要素となった。この法律は100年後に廃止されるが、18世紀英国の株式会社の発展を阻害したとされている。そして皮肉なことにジョン・ブラントの南海会社は質の悪い会社の代表として「南海バブル」と呼ばれ、歴史に名を残すことになった。
 特許主義や認可主義は、許認可を官庁の裁量に依存することになり、かつての国家社会主義国や共産圏諸国のように進歩や発展が役所の能力の範囲に限定されかねない。広く人知を集める資本主義社会には向いていないのである。腐敗も生じやすい。

 そこで考えられた方法が準則主義である。参入は自由が原則であるが、淘汰(とうた)による退出もある。低品質なものを排除するために一定のガイドラインを設けて開示し、それらをクリアしたものに関しては基本的に平等に認可しようという方法である。ここでは既得権益者による反対圧力も、有力政治家のコネも、天下りの受け入れも不要である(はずだ)。

従って逆にいうならば、もしも基準のクリアが明確な申請者に対して認可を与えないのであれば、それ相当の特別の事由が必要になる。さもなければすべてが裁量次第ということになってしまうからだ。

 筆者は専門家ではないが、文部科学省のHPによると日本の大学設置基準においても規制緩和がすすめられ、すでに認可を得るためにクリアすべき規則や法的な問題点が明示され準則化されている。申請から当局の審査、学生募集、開校までのおおよその時間的ガイドラインも示されているようだ。

 一方で規制緩和により多くの大学が開校され大学の質の低下が指摘されている。少子化もあって今後は大学の破綻も予想される。これらは間違いなく今後取り組むべき課題である。

 準則主義にのっとり準備をすすめていた3大学の認可が田中真紀子文科相によって否定された。新基準の下、もう一度審査するということのようだが、この問題は大臣の許認可における裁量権の逸脱の問題だけでなく、準則主義、ひいては自由主義の否定につながる非常に危険な権力行使である。大学設立に一定の基準を設けるのは当然である。質の低下が問題であるならば準則の基準を上げればよい。しかし大臣の鶴の一声で自由の府であるべき大学の認可が左右される国など真っ平ごめんなのである。

以上は本日のフジサンケイ・ビジネスアイ掲載の拙コラムから。

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この記事は田中文科相による3大学の不認可のニュースを受けて11月4日に書いたものです。紙の新聞のコラムの記事はネットとは違い緊急でもないケース以外ではどうしても書いてから掲載までに時間差があります。

5日、6日とマスコミでは僕の予想を上回って田中文科相への非難が盛り上がってきたので、記事の差し替えを提案しようと思って編集長に電話したのですが「まだいけるのではないか」ということで、相談して少しだけ訂正を入れてもらいました。

それが既得権益者による反対圧力も、有力政治家のコネも、天下りの受け入れも不要である(はずだ)。の(はずだ)です。

大学関係者の中には前職を辞めて転職してきた教員や進学予定者のように無辜(むこ)の人達が大勢いるわけですが、本来の規制緩和、自由競争の趣旨を逆用して利権に群がる人達も大勢いることは確かです。田中文科相のやり方は唐突で強引ですが、逆にそうした手法が「悪い奴ら」の所業を隠してしまわないかが心配になってきました。つまりあまり田中文科相を攻めるのに血道をあげ過ぎないで本質も見ておこうよ。と考えたのです。

文科省川平官房長は「行政手続き上、不認可の処分を出すとの決定はまだしていない。新しい基準の下で審査し、認可か不認可か決める」と発言しています。また「大学側に誤解を与えたならば訂正して謝罪する」とも述べています。「誤解」したのは不認可とされた3大学ではなく、「誤解」しているのはどう見ても文科省の方です。大臣の発言が行政手続きと何らの関係もないのであれば、大臣は行政に関する発言を今後は止めるべきです。さもなければ「誤解」だらけになるでしょう。

それにしても驚くべきは民主党の危機管理です。田中文科相は官邸にも報告済みということでしたが(これがウソということは無いでしょう)このような事態になることぐらい予想できそうなものです。
平時の経済戦争のみならず、今のように尖閣で緊張している時に現内閣は戦争をも含む外交問題への対処能力があるのかどうか本当に疑わしいと思うのです。相手に間違ったメッセージを送って誤解ばかりさせてしまうのではないでしょうか。読者は民主党外交最高顧問が誰だかご存知ですか?

しかしながら日本国民の悲しみは、「ならば誰の内閣ならば安心か」という選択肢が思いつかないところにあるのでしょう。学校法人であれば淘汰されていけば良いだけですが、国の方はそうもいきません。