2012年11月22日木曜日

【投資家のための金融史】大戦時のNY市場

第5章 第二次世界大戦前後の証券市場

 6話 下落から上昇へ 大戦時のNY市場 ビジネスアイへのリンク

1930年代の大恐慌の影響で過剰なバブルを招いた自由放任への反省から、アメリカでは経済に対する政府関与が深まった。米国に限らない。各国は互いに保護主義に走り、ブロック経済を構築し、不況を長引かせる結果となった。

英仏はヒトラーの脅威が増す中で38年のミュンヘン協定において「これ以上の領土的要求は行わない」約束でチェコのズデーデン地方の帰属をドイツに託した。第一次世界大戦に懲りた英仏の戦争回避のための融和策だった。ヒトラーに弱腰を見透かされるかたちとなったこの判断を、後の英首相チャーチルは、第二次世界大戦の原因の一つとなったと厳しく指弾している。

当時の自由主義経済圏に対する脅威はドイツだけではなく、共産主義のロシアの台頭もあった。極東では領土的野心に燃える日本が国家社会主義的な動きを強め、ドイツと同調し始めてもいた。

国土が焦土と化したわれわれ日本人からみると、アメリカの金融史は第二次世界大戦に対して淡泊である。この時期、後に「独占委員会」と呼ばれる「暫定全国経済委員会:TNEC」が大きなイシューとなっている。グラス・スティーガルで分離されたモルガン商会とモルガン・スタンレー証券が結局は裏で連携してほとんどの引受案件を独占しているのではないかとの疑惑である。モルガン商会がモルガン・スタンレー証券の優先株を売却して両者の関係が断ち切られたのは日本が真珠湾に奇襲をかけているころだった。

アメリカの第二次世界大戦の戦費は3410億ドルで第一次世界大戦の約10倍。金融史では軽くとも、経済史ではとてつもなく重い数字だ。米国民には厳しい経済統制と重税がのしかかった。

米国はハワイなど一部を除いて国土が戦場にならなかったこともあり、戦争景気によって失業問題が解消し賃金が上昇した。しかし日常品には配給制度があったし、統制経済によって自動車や家電は生産制限され国民には稼いだお金の支出先がなかった。そのためこうした余剰資金は日本と同じように、貯蓄や戦時国債の購入に向かった。経済成長とインフレにもかかわらず、消費者ローンは40年の83億ドルから45年には57億ドルへ減少し、一方で貯蓄性の生命保険は1155億ドルから1518億ドルに増加した。

国債は7回にわたる国債募集運動を通じて1850億ドルが売りに出された。日本の投資信託の5億円とは規模が違い過ぎた。アメリカの戦記映画である「父親たちの星条旗」や「メンフィス・ベル」には、前線から満期除隊した英雄が国債募集キャンペーンで全米ツアーを行うシーンが出てくる。



日本はドイツから2年遅れて41年12月に参戦したが、間もなくドイツ軍のソ連での快進撃は停滞し始めた。日本海軍も翌年6月のミッドウェー海戦で大敗するとその後は積極的な攻勢は影をひそめて守勢に入った。

 ニューヨーク・ダウは40年5月のヒトラーによるフランス侵攻以来下落を続けていたが、日本参戦後の42年4月に底を打つと、その後は修正を交えながらも終戦にむけて一方的に上昇を続けた。日本がアメリカの株式市場に脅威を与えたのは4カ月間だけだった。ウォール街は出征兵士も多く、商いは閑散として女性のパートタイマーばかりが目立つようになっていたが、この風景は兜町と同じである。

終戦の年の45年のGDPは「熱狂の20年代」の倍に、また税前法人利益は2.5倍にもなっていたが、45年末のダウは192.91ポイントであり、20年代の高値381.17ポイントの約半分でしかなかった。

 アメリカの個人は消費者ローンを返済し、国債を買い、貯蓄を作った。金融環境はいかにも株式市場になだれ込みそうにも見えたのだが、大暴落時の記憶による株式市場への不信感や、戦後すぐに発生したソ連による共産主義台頭への不安感、労働運動の盛り上がりなどから、しばらくは株式投資に積極的になれなかったのである。


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