2012年12月25日火曜日

週刊「ダイヤモンド」ベスト経済書


いかにも自慢気で少々気恥ずかしいのだけれど、多分人生にもう一度は無いことだと思うので記念としてブログに記録しておきます。

拙著「日露戦争、資金調達の戦い-高橋是清と欧米バンカー達」が週刊「ダイヤモンド」2012年、「ベスト経済書」の第9位に選出されました。経済学者、経営学者、エコノミスト139人の投票だそうです。誇りに思います。

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年末年始に読みたい経済学者・経営学者・エコノミスト139人が選んだ2012年の『ベスト経済書』

それで、次はどうしたとよく聞かれます。
現在は「投資家のための金融史」を完結することに力を入れています。

最初にこれを企画した時にはもう少し楽だと考えていました。これまで読んできた本の「おさらい」をしながら書き進めようと考えていたのです。でも、読むのと書くのでは大違い。結局物凄い量の本を読み直すことになっています。

また途中でいくつか経済史的なレポートの仕事を頂戴して、またまた勉強をしている感じです。年初には少し長めの読み物が経済誌に掲載されると思います。

というような理由で、今夜はクリスマス・イブだったけれど、ウィルキンソンのソーダ水を飲みながら、1978年発売の相場格言集「株式実戦訓」田中穣著をパラパラとめくっています。第3章の題名は「酔歩理論のウソとマコト」、ランダム・ウォークってこんなふうに書いていたんですかね?面白い本ですよ。多分これに関しては何も書かないと思いますけれど。

ハッピー・ホリディ。

Porco

追記
2012年経済書 エコノミスト7人「お薦めの1冊」 日本経済新聞電子版
同志社大学教授の鹿野嘉昭さんが推薦してくれています。


2012年12月13日木曜日

【ビジネスアイコラム】高橋財政と先人の戒め


【ビジネスアイコラム】高橋財政と先人の戒め 12月12日掲載


高橋是清は昭和7年から10年にかけて蔵相として日本国債の日銀引き受けを行った。高橋は昭和恐慌から日本経済を脱出させた手腕が称賛される一方で、日銀引き受けという安易なマネタイズの手法を考えついたことが、戦後のハイパー・インフレにつながったと非難されることもある。

高橋の日銀引き受けを振り返ると、昭和8年に12億100万円の国債を発行し、その92%を日銀に引き受けさせたが、一方で日銀はその引き受け額の71%を年内に市中で売却している。この比率は翌年には前年の積み残しも含めて128%にまで高まり、最終的には4年間の引受分27億6700万円のうち85%を期間内に市場で売却してしまっている。決して日銀に国債を引き受けさせ輪転機で紙幣をどんどん刷ったというわけではなかった。

高橋は日銀副総裁の深井英五と相談し、「生産力と通貨との均衡を主たる目標として通貨の運営を按配(あんばい)すべし」と、通貨の発行量に細心の注意を払った。単なる日銀引受によるシニョリッジ(通貨発行益)を容認してはいなかった。市場での大量の国債販売が困難であったため一度日銀が引き受け、後に市場に売却していったのだ。

ところがこの手法は、よほどの人物が運用しなければ歯止めがきかなくなる。増税に頼らず簡単に財政資金が調達できるように見えるからだ。後に実際に安易な日銀引き受けによるマネタイズがなされ、納税者は厳しいインフレで税を支払うことになった。そして後世への戒めとして昭和22年に財政法第5条ができて日銀引き受けが禁止されたのである。

今話題になっている「国債を日銀に買ってもらう」という話は、「日銀引き受け」なのかあるいは「買いオペ」なのかが問題なのではない。たとえば国債を発行し、直接誰かに買ってもらって一晩保有してもらう。それを翌日に多少の手数料を上乗せして日銀が買えば、「日銀引き受け」にはならないとの解釈も可能である。が、財政法第5条は趣旨としてマネタイズを禁じているのであって、言葉遊びをすべきではない。日銀に余分に紙幣を発行してもらうということは、先人の知恵である財政法の趣旨を乗り越えるということなのである。

もっとも、何も過去の因習にとらわれることはない。今は過去に例のないデフレ状態が続いている。マネタイズによってインフレを誘発するような政策が必ずしも否定されるわけではない。何もしないよりはよほどよいだろう。しかしその運用には細心の注意が要求されることは間違いない。軽々しく語るべき問題ではないのだ。

東日本大震災で、先人の戒めを軽んじたことが悔やまれた。三陸海岸大津波記念碑にはこう書かれている。「高き住居は児孫に和楽/想え惨禍の大津波/此処より下に家を建てるな」。教えを守った石碑の地元は救われた。

2012年12月5日水曜日

【投資家のための金融史】ニクソン・ショックと金融テクノロジー


第5章 第二次世界大戦前後の証券市場  ビジネスアイ

 11話 ニクソン・ショックと金融テクノロジー

1971年の8月15日、日曜日。くしくも日本の終戦記念日にあたるこの日、ニクソン大統領は「90日間の給与と価格の統制、10%の輸入課徴金」をテレビとラジオで語った。同時にアメリカの「黄金の60年代」も終焉(しゅうえん)を迎え、戦後の回復が著しい西ドイツと日本からの輸入超過と金の流出に悩む米国はドルと金の兌換(だかん)を停止すると発表した。これが「ニクソン・ショック」であり、ドルを基軸とする金本位制であるブレトン・ウッズ体制の崩壊の始まりだった。

ウォール街はニクソンの政策を評価し翌日は3%と暴騰し、9月初旬までは株高で答えたが、やがてこれは単なるドル安ではなくアメリカという国の没落であり、ドルの暴落だと気づくことになる。日本は他国が為替介入を様子見する中、律義にも一国だけでドルを買い支えようとして巨額の損を被った。年末には事態収拾のためにスミソニアン博物館で会合が持たれ、日本は1ドル308円の固定相場のリセット(スミソニアン体制)を受け入れたが、その後、結局ドル円はこの水準も保てず、73年には変動相場制度へと移行したのである。これ以降為替レートは市場に任せることになった。

 

ドル建てで石油を販売していた石油輸出国機構(OPEC)は、実質の収入減からドル建ての石油価格を大幅に上げることになった。アメリカでは石油をはじめとする輸入物価が上昇し、インフレはさらに悪化した。少し前まで小さなポンコツとみられていた日本車はその燃費の良さから買われ始め、ウォール街ではエクソンなどの石油株セクターだけが上昇し、国際資本市場にはオイル・マネーが台頭してきた。

米国にとっては苦難の時代だったが、悪いことばかりではない。ニクソン・ショックはドルの下落によってアメリカの凋落(ちょうらく)ぶりを示す一方、金融テクノロジーの発達を促すことにもなった。のちの米金融産業繁栄の下地が形作られたのだ。

ニクソン・ショックに先立つ1967年にシカゴ大学のミルトン・フリードマン教授は、イギリス政府によるポンド切り下げを予想してシカゴの銀行にポンドの空売りを勧めたことがあった。彼はこの話をエッセーで紹介したが、それを見たシカゴ・マーカンタイル取引所(CME)はフリードマンに「外国通貨の先物市場の必要性」という論文執筆を依頼して1972年には財務省とFRBから国際通貨市場(IMM)開設の許可をもらったのである。ニクソン・ショックはシカゴに通貨先物市場を生み出した。

翌年、シカゴ商品取引所(CBT)は個別株式オプションを開始し、その後は金やジニーメイ債、米国長期債、原油、通貨オプションと派生商品が次々と市場に上場されていった。しかし極めつけは76年のユーロドル金利先物である。金利には現物も有価証券もない。これは、初めての実物の受け渡しが不可能な商品であった。したがって差金決済以外に受け渡しの方法がなかったのである。

先物取引は、形式的ではあるにせよ現物の受け渡しがあることで賭博とは一線を引いていた。パチンコ玉を店内では金銭と交換できないのと同じだ。いったん物に変えて換金しなければならない。90年代にデリバティブスに関してマスコミによって金融技術の内外格差がしきりに喧伝(けんでん)されたが、日系証券会社が関連商品を取り扱えなかった理由は、店頭デリバティブスが法的にグレーな状態にあり、国内刑法185条の賭博罪がネックになっていたからである。

米国では金利先物が81年に後追いながら適法とされると、翌年のSP500指数先物上場に結びついた。500全銘柄の現物受け渡しは最少単位でも25億円となるため、先物としての商品化は不可能だった。しかしこうなればボラティリティであろうが何であろうが、商品化が可能になった。

また69年にはテレレート、73年にはロイターのスクリーン・サービスと、為替の24時間取引に対応するためのサービスが誕生した。ニクソン・ショックはグローバルな情報機器の発達をも促したのである。

2012年12月1日土曜日

【投資家のための金融史】投資信託の盛衰と証券恐慌


第二次世界大戦前後の証券市場   ビジネスアイ

 10話 戦後の投資信託の盛衰と証券恐慌

戦前に発売した投資信託は1950(昭和25)年5月末にはすべてを償還した。しかし49年5月に再開した株式市場は、再開に向けての買われ過ぎや財閥解体に伴う放出株の影響で、最初の1年で約40%も下落した。

そこで新たな株式の買い手として官民協調の上で投資信託の復活が図られ、51年6月に「証券投資信託法」が成立。野村、日興、大和、山一の4社によって、戦後の新たな株式投信の募集が開始された。当初は年間30億円ほど集まればとのもくろみであったが、最初の1カ月で33億円、初年度は予想を大きく上回る合計133億円が集まった。


当時の投信の資産構成は株式87.7%、公社債0.6%、その他11.7%とほとんどが株式だった。日経平均はこの月から53年1月までの1年半の間に3.5倍になるほどの大相場を演じたので、投信は人気を呼んだ。26年発売2年償還の投信26本の中で最高のものは2.6倍になり、最低でも60%の償還益と年率12.5%の収益分配金があったのである。収益分配金は配当利息収入のみを原資とし、株価の値上がり益をあてることはできなかった。

その後も曲折はあったが、投信は運用資産残高を順調に伸ばし、61年には残高が1兆円を超えた。個人金融資産に占める株式投信の比率は17.6%となり、10世帯に1世帯は投信保有者だった。株式市場の時価総額は55年の1兆1000億円から61年には6兆4300億円となり「証券よこんにちは」のキャッチフレーズのもと「買えばもうかる」空前の株式ブームである。



ブラジル大会を前に、オリンピック前には株価が上がると信じている向きも多いが、64年の東京オリンピックの場合の日経平均は開催3年前に既にピークを打ち、開会式のころには構造不況という言葉が市場を覆っていた。労働力不足から賃金が生産性の伸びを上回り、インフレ懸念が台頭し、これに対し金融引き締めに入る一方で、他人資本依存度の高さから企業はちょっとした不況でも簡単に債務超過になる弱い体質だった。

63年7月、金流出に悩むアメリカはケネディ大統領が資本流出抑制のため金利平衡税を導入して外国への投資に課税すると同時にバイ・アメリカン政策を発動した。日本の厳しい為替管理の制約にもかかわらずソニーがニューヨークにADRを上場し、外国人買いが増加していた時期だけに、こうした材料は相場に大きくマイナスに働いた。

これ以降日本法人の外貨建て証券発行はニューヨークからロンドンにシフトすることとなり、日系証券の海外進出がアメリカからロンドン主導に変わった。ケネディ大統領はこの年の11月に暗殺され、株式市場をさらに冷え込ませた。

     
投資信託の残高は株式市場と連動して61年からすでに増加が鈍り始めたが、64年に多くの事業会社が減配になり投信の分配金が1年定期預金の5.5%を下回るようになると解約が殺到した。65年3月末に山崎豊子の「華麗なる一族」のモデルとなった山陽特殊鋼が倒産すると、日経平均は1200円を割り、中小証券の破綻が続く中、同年5月21日にはとうとう山一証券が破綻の危機に瀕(ひん)し、日銀特融による救済策が実行された。証券恐慌である。

これをきっかけに公定歩合の引き下げがあり、ようやく市場はアク抜けして回復に向かうことになった。

山一危機の要因として、自己売買益への過度の依存とともに他社比較で借り入れと支払利息の多い点が指摘された。当時は「運用預かり」という制度があった。これは現代から見ると信じられない制度だが、品貸料を支払って顧客から借りた国公債、公社債を担保に証券会社が別に借入をする制度で、この資金で流動性の悪い資産を組み込み、顧客からの担保証券返還要求にこたえられないケースが山一の問題を深刻にした。

「運用預かり」は田中角栄大蔵大臣によって廃止された。その後投信残高は株式市場が回復しても減り続け、62年のピーク時の1兆2349億円から69年5月の5098億円(59%減)まで減少。その後も株式市場の売り要因となったのである。2011年の個人金融資産に占める投資信託の比率は3.1%しかない。


追記:文中「個人金融資産に占める株式投信の比率は17.6%」の部分ですが、ご指摘を受けまして出典元を調査しなおしますが、日銀データでは61年の個人金融資産が16.9兆円、投信残高のピークが1兆2349億円(7.9%)ですからこのような高い比率にはならないと思います。とりあえず。(2012/12/01)