2012年12月1日土曜日

【投資家のための金融史】投資信託の盛衰と証券恐慌


第二次世界大戦前後の証券市場   ビジネスアイ

 10話 戦後の投資信託の盛衰と証券恐慌

戦前に発売した投資信託は1950(昭和25)年5月末にはすべてを償還した。しかし49年5月に再開した株式市場は、再開に向けての買われ過ぎや財閥解体に伴う放出株の影響で、最初の1年で約40%も下落した。

そこで新たな株式の買い手として官民協調の上で投資信託の復活が図られ、51年6月に「証券投資信託法」が成立。野村、日興、大和、山一の4社によって、戦後の新たな株式投信の募集が開始された。当初は年間30億円ほど集まればとのもくろみであったが、最初の1カ月で33億円、初年度は予想を大きく上回る合計133億円が集まった。


当時の投信の資産構成は株式87.7%、公社債0.6%、その他11.7%とほとんどが株式だった。日経平均はこの月から53年1月までの1年半の間に3.5倍になるほどの大相場を演じたので、投信は人気を呼んだ。26年発売2年償還の投信26本の中で最高のものは2.6倍になり、最低でも60%の償還益と年率12.5%の収益分配金があったのである。収益分配金は配当利息収入のみを原資とし、株価の値上がり益をあてることはできなかった。

その後も曲折はあったが、投信は運用資産残高を順調に伸ばし、61年には残高が1兆円を超えた。個人金融資産に占める株式投信の比率は17.6%となり、10世帯に1世帯は投信保有者だった。株式市場の時価総額は55年の1兆1000億円から61年には6兆4300億円となり「証券よこんにちは」のキャッチフレーズのもと「買えばもうかる」空前の株式ブームである。



ブラジル大会を前に、オリンピック前には株価が上がると信じている向きも多いが、64年の東京オリンピックの場合の日経平均は開催3年前に既にピークを打ち、開会式のころには構造不況という言葉が市場を覆っていた。労働力不足から賃金が生産性の伸びを上回り、インフレ懸念が台頭し、これに対し金融引き締めに入る一方で、他人資本依存度の高さから企業はちょっとした不況でも簡単に債務超過になる弱い体質だった。

63年7月、金流出に悩むアメリカはケネディ大統領が資本流出抑制のため金利平衡税を導入して外国への投資に課税すると同時にバイ・アメリカン政策を発動した。日本の厳しい為替管理の制約にもかかわらずソニーがニューヨークにADRを上場し、外国人買いが増加していた時期だけに、こうした材料は相場に大きくマイナスに働いた。

これ以降日本法人の外貨建て証券発行はニューヨークからロンドンにシフトすることとなり、日系証券の海外進出がアメリカからロンドン主導に変わった。ケネディ大統領はこの年の11月に暗殺され、株式市場をさらに冷え込ませた。

     
投資信託の残高は株式市場と連動して61年からすでに増加が鈍り始めたが、64年に多くの事業会社が減配になり投信の分配金が1年定期預金の5.5%を下回るようになると解約が殺到した。65年3月末に山崎豊子の「華麗なる一族」のモデルとなった山陽特殊鋼が倒産すると、日経平均は1200円を割り、中小証券の破綻が続く中、同年5月21日にはとうとう山一証券が破綻の危機に瀕(ひん)し、日銀特融による救済策が実行された。証券恐慌である。

これをきっかけに公定歩合の引き下げがあり、ようやく市場はアク抜けして回復に向かうことになった。

山一危機の要因として、自己売買益への過度の依存とともに他社比較で借り入れと支払利息の多い点が指摘された。当時は「運用預かり」という制度があった。これは現代から見ると信じられない制度だが、品貸料を支払って顧客から借りた国公債、公社債を担保に証券会社が別に借入をする制度で、この資金で流動性の悪い資産を組み込み、顧客からの担保証券返還要求にこたえられないケースが山一の問題を深刻にした。

「運用預かり」は田中角栄大蔵大臣によって廃止された。その後投信残高は株式市場が回復しても減り続け、62年のピーク時の1兆2349億円から69年5月の5098億円(59%減)まで減少。その後も株式市場の売り要因となったのである。2011年の個人金融資産に占める投資信託の比率は3.1%しかない。


追記:文中「個人金融資産に占める株式投信の比率は17.6%」の部分ですが、ご指摘を受けまして出典元を調査しなおしますが、日銀データでは61年の個人金融資産が16.9兆円、投信残高のピークが1兆2349億円(7.9%)ですからこのような高い比率にはならないと思います。とりあえず。(2012/12/01)

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