2012年12月5日水曜日

【投資家のための金融史】ニクソン・ショックと金融テクノロジー


第5章 第二次世界大戦前後の証券市場  ビジネスアイ

 11話 ニクソン・ショックと金融テクノロジー

1971年の8月15日、日曜日。くしくも日本の終戦記念日にあたるこの日、ニクソン大統領は「90日間の給与と価格の統制、10%の輸入課徴金」をテレビとラジオで語った。同時にアメリカの「黄金の60年代」も終焉(しゅうえん)を迎え、戦後の回復が著しい西ドイツと日本からの輸入超過と金の流出に悩む米国はドルと金の兌換(だかん)を停止すると発表した。これが「ニクソン・ショック」であり、ドルを基軸とする金本位制であるブレトン・ウッズ体制の崩壊の始まりだった。

ウォール街はニクソンの政策を評価し翌日は3%と暴騰し、9月初旬までは株高で答えたが、やがてこれは単なるドル安ではなくアメリカという国の没落であり、ドルの暴落だと気づくことになる。日本は他国が為替介入を様子見する中、律義にも一国だけでドルを買い支えようとして巨額の損を被った。年末には事態収拾のためにスミソニアン博物館で会合が持たれ、日本は1ドル308円の固定相場のリセット(スミソニアン体制)を受け入れたが、その後、結局ドル円はこの水準も保てず、73年には変動相場制度へと移行したのである。これ以降為替レートは市場に任せることになった。

 

ドル建てで石油を販売していた石油輸出国機構(OPEC)は、実質の収入減からドル建ての石油価格を大幅に上げることになった。アメリカでは石油をはじめとする輸入物価が上昇し、インフレはさらに悪化した。少し前まで小さなポンコツとみられていた日本車はその燃費の良さから買われ始め、ウォール街ではエクソンなどの石油株セクターだけが上昇し、国際資本市場にはオイル・マネーが台頭してきた。

米国にとっては苦難の時代だったが、悪いことばかりではない。ニクソン・ショックはドルの下落によってアメリカの凋落(ちょうらく)ぶりを示す一方、金融テクノロジーの発達を促すことにもなった。のちの米金融産業繁栄の下地が形作られたのだ。

ニクソン・ショックに先立つ1967年にシカゴ大学のミルトン・フリードマン教授は、イギリス政府によるポンド切り下げを予想してシカゴの銀行にポンドの空売りを勧めたことがあった。彼はこの話をエッセーで紹介したが、それを見たシカゴ・マーカンタイル取引所(CME)はフリードマンに「外国通貨の先物市場の必要性」という論文執筆を依頼して1972年には財務省とFRBから国際通貨市場(IMM)開設の許可をもらったのである。ニクソン・ショックはシカゴに通貨先物市場を生み出した。

翌年、シカゴ商品取引所(CBT)は個別株式オプションを開始し、その後は金やジニーメイ債、米国長期債、原油、通貨オプションと派生商品が次々と市場に上場されていった。しかし極めつけは76年のユーロドル金利先物である。金利には現物も有価証券もない。これは、初めての実物の受け渡しが不可能な商品であった。したがって差金決済以外に受け渡しの方法がなかったのである。

先物取引は、形式的ではあるにせよ現物の受け渡しがあることで賭博とは一線を引いていた。パチンコ玉を店内では金銭と交換できないのと同じだ。いったん物に変えて換金しなければならない。90年代にデリバティブスに関してマスコミによって金融技術の内外格差がしきりに喧伝(けんでん)されたが、日系証券会社が関連商品を取り扱えなかった理由は、店頭デリバティブスが法的にグレーな状態にあり、国内刑法185条の賭博罪がネックになっていたからである。

米国では金利先物が81年に後追いながら適法とされると、翌年のSP500指数先物上場に結びついた。500全銘柄の現物受け渡しは最少単位でも25億円となるため、先物としての商品化は不可能だった。しかしこうなればボラティリティであろうが何であろうが、商品化が可能になった。

また69年にはテレレート、73年にはロイターのスクリーン・サービスと、為替の24時間取引に対応するためのサービスが誕生した。ニクソン・ショックはグローバルな情報機器の発達をも促したのである。

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