2013年3月26日火曜日

焼け跡の2つの株式ブーム


キプロスの預金封鎖が話題になっています。5月出版予定の拙著から、第2次世界大戦終戦直後の我国の「預金封鎖」の部分を抜粋して掲載しておきます。


焼け跡の2つの株式ブーム

長谷川光太郎が書いた日本で唯一の兜町通史「兜町盛衰記」(図書出版社)によると、戦中の証券業は世間から、あまりまともな商売だとは思われていなかったそうです。兜町では40才半ばの予備役少尉にまで招集がくるなど、男はどんどん兵隊にとられて、年寄りと女子社員ばかりになっていました。取引所と店を往復するメッセンジャー・ボーイも60才過ぎの老人が多くなり、目先の効いた経営者は証券業だけでは何かと世間体もあり心細いので鉱山開発や軍事物資生産の副業の看板をかかげる者もいたのでした。株屋と呼ばれて平素から何かと一段下に見られていましたから。

1945年(昭和20年)に入ると東京の空襲も激しさを増すと同時に相場も休みがちになり、やがて東京株式取引所は8月9日を最後に一旦閉鎖となりました。しかし戦争さえ終われば兜町は世間よりもよほど切りかえが速かったのです。同月15日の終戦をはさんで28日には閉鎖前の9日までの受渡し未了の精算をして、一旦区切りをつけました。そしてその後はすぐに業者間で株の店頭取引が始められました。

人気は戦時中の軍需株に代わりさっそく平和の象徴である映画株や百貨店株でした。理由知り顔で平和産業の相場観を披瀝する人もいたようで、焼け跡の取引には兜町の活力を感じさせられます。関係者は9月26日には大蔵省と相談の上で、10月1日の東京株式取引所再開を決めましたが、さすがにこれはGHQが認めませんでした。GHQでは先物取引が主流だった日本の株式市場をあまりにも投機的なギャンブルであると考えて、昔のまま再開させるつもりは無かったのです。しかたが無いので業者たちは取引所の再開をとりあえず諦めて、最初は兜町の道端などで商いをしていましたが、次第に取引所横に現存する日證会館の1階や2階で相対の店頭取引や集団取引を継続していったのです。
日證会館

46年2月17日には「経済危機緊急対策」の一環として「金融緊急処置令」が発令されました。ひどいインフレだったのです。これは「新円切り替え」とか「預金封鎖」と呼ばれるもので、小泉政権の頃に、財政赤字解消のために再び行われるのではないかと話題になったこともあります。もちろんこの手の話の現実味はともかく、今の日本を含む各国政府の債務状況からは、近いうちにこれが再び話題になる可能性もあるでしょう。

「金融緊急処置令」は当時の10円以上の日本銀行券(旧円のお札)を3月2日以降は失効させるというもので、それを回避するためには現金を銀行に預金しなければいけませんでした。さもなければ手元にある銀行券は無価値になってしまうのです。預金後は生活分として毎月定められた金額(500円)だけが「新円」の現金で引き出しが可能というもので、政府としては国民の預金を封鎖した上で、そこから財産税を徴収して、戦中に膨らみきった国家債務の返済にあてようと目論んだのです。また同時に既発の日銀券を発券量の制限された新円に切り替えることによって、通貨膨張を抑えインフレの目をつむ目的もありました。しかしながら新しいお札の印刷が間に合わなかったので、とりあえず旧円の紙幣にスタンプを貼ることで対処したのでした。

「旧円」失効前の闇市では「旧円」、「新円」と二つの物価が形成されました。進駐軍の兵士は「新円」切り替え金額に制限が無い等、この法律は当初から利用できそうな抜け穴がいくつかありました。一方で預金の引出し制限のせいで株式市場は閑散を極めたので、必死の陳情の末に、その対策として2月23日に大蔵省告示35号が出ます。この結果、株式は許可制ながら預金口座から預金を引き出して買えるという特例が認められました。因みに取引所は前述のように閉鎖されたままで、店頭取引だけでしたが、陳情に威力があるほど、それで商売をしている人がたくさんいたということです。

世間では「新円」の引き出しは厳しく制限されていましたが、株を買って売却すれば簡単に「新円」の現金を手にすることが出来たのです。いわば合法的なマネーロンダリング(資金洗浄)で、特に新規公募株は総括認可制といって既存銘柄個別の許可よりも手続きが簡単だったせいもあり、人気を呼んだのだそうです。

5月15日の新日本興行株を筆頭に食品、鉄道、興業百貨店株などが資金調達をしました。これが戦後の一つ目の株式のブームです。取引所もない焼け跡で株式公募が賑わったのでした。しかしこの一つ目のブームは、目的が投資そのものではなく「新円」を獲得するために買って売るだけのものなので、この間指数自体はあまり上昇しませんでしたが、この特例が廃止される8月10日まで、株式の商い自体は大きく盛り上がったのです。また預金口座からの「旧円」による買い付けと現金による「新円」の買い付けでは異なる価格が形成されていたそうです。
この特例は不動産購入にも適用されたし、なまじ銀行間オンラインも無い時代ですから、複数の銀行に口座を持てば預金引き出し額の規制は困難だったという話です。
真面目な国民が焼け跡の中で、さらに戦争債務のツケを払わされる一方で、闇屋では引き出し制限の何十倍にも相当する新円の分厚い札束を手に持って、買い物をする成金の姿も見られたそうです。後の結果論で言えば投資には不動産を買えばよかったのでしょうが、何人がこれを知っていたことか。


データ:野村證券五十年史

最初のブームの後は、「企業再建整備法」や「経済力集中排除法案」など、各企業が整理の過程にあったことや労働運動が激化したことから、しばらくは株式に人気が戻りませんでした。しかし47年末からの証券民主化運動(財閥放出株式などの一般投資家への浸透販売努力)やインフレの亢進から市場は反騰に転じました。

戦中に企業の配当を抑制し株主の利益よりもお国のために生産量の増大を目指す趣旨で施行された「会社配当等禁止制限令」などの廃止があり、株の商いはインフレと共に徐々に盛り上がっていったのです。インフレ対策で株を買う人も多かったでしょう。49年に入るとGHQによる取引所再開の発表やドッジ声明による経済安定化機運により株式は2回目のブームを迎えたのでした。そうです「公式の取引所」もないのにです。

「投資家のための金融史」 五十三話より

2013年3月23日土曜日

ナローゲージ


軌間の話
先日、「日露戦争、資金調達の戦い」をテーマに勉強会の講師をしました。その際に日露戦争は鉄道線路(南満州鉄道)に沿って陸戦が展開されたと、お話をしました。数十万人という規模の兵員と大砲など近代戦の重量のある機材の輸送にと、鉄道は欠かせないものでした。


その時に主にロシアと欧米各国、そして日本の線路の幅(軌間)が異なることをお話しましたが、実はこれは昔ブログで書いています。本来は本に含まれるはずだったものが、ページ数の関係でカットされた部分に相当します。
Cut3 広軌から狭軌へ、そして標準軌へ

そして、それに関連して京成電鉄のお話をしました。実はこれも以前にブログのエントリ―で書いてあります。
京成白髪線

また。これに関連して今の日本には3つの軌間が存在しているという話をしました。
標準軌(1435mm):新幹線、私鉄地下鉄の一部
狭軌(1067mm):JR、私鉄地下鉄の一部
馬車軌(1372mm)京王線、都営地下鉄新宿線、都電、

京成は当初現在の都電荒川線との接続を企図していたので馬車軌でした。後に都営浅草線との接続の必要から標準軌に改軌したのでした。一方都営新宿線も標準軌で企画されましたが、京王電車が改軌不可能ということで馬車軌のまま残ってしまったのです。そのため新宿線が千葉県の本八幡まで延伸したにもかかわらず、JR総武線とも、京成線とも接続することができませんでした。
昔の私鉄は都電(当時は私鉄)との接続を考えて当初は馬車軌で敷設されたのでした。都電が馬車軌なのは、それ以前の馬車鉄道の線路跡の名残です。


特殊狭軌
JRと直通列車があるのが狭軌の私鉄や地下鉄です。関西では標準軌の阪神と近鉄が繋がっていますから、理屈では山陽電車の姫路から名古屋まで直通で列車が運行できることになります。
さて、そんなことを言っていたら、日本にはナローゲージ(特殊狭軌)の電車があることをすっかり忘れていました。これは1067mm以下の軌間なのですが、色々と経緯があって、現役の旅客鉄道で運用されているものは、
近鉄内部・八王子線 (762mm)
三岐鉄道北勢線(762mm)
黒部峡谷鉄道本線 (762mm)
の3つです。


近鉄内部線
そこで今回大阪に行く用事がありましたので、帰りに近鉄大阪線経由で鶴橋から四日市に出て内部線に乗車してきました。
先ず線路の幅の違い。近鉄本線が1435mmで、内部線が762mmですから約半分です。
内部線(左)と近鉄大阪線(右)

車両は見てのとおり、幅が狭いのが一目でわかります。


車両内部は椅子が1列x2。運転席は車幅中央にあります。

内部線は存廃問題に揺れていますから。興味のある方はお早めに。列車は揺れるし、速度は出ませんが、時代に取り残されたナローゲージの持つのんびりさは、ノスタルジーを誘うとともに妙に安心感を与えてくれるものでした。古くなったのはあんただけじゃないよと語りかけてくれているかもしれませんね。

Porco