2013年5月13日月曜日

明治五年の外国送金


明治5年(1872年)。岩倉使節団が米国を訪問した時、アマースト大学に留学中の新島襄は元薩摩藩士森有礼(このひとは実に色々な人の窮地を助けている)の紹介で通訳として雇われて、一行と一緒に米国と欧州とを見聞します。

その時に新島はお手当として200円もの大金(1円=2石として、400石ぐらい、そこそこの旗本の年収ぐらい)を受け取るのですが、これをすべて両親に送金する事にしました。 当時の海外からの送金方法では横浜の商館(外国銀行)宛に送金することになります。当時は誰も配達をしてくれませんから、新島の御両親は上州安中(群馬県)から横浜まで出向いて受取に行かなくてはなりませんでした。

新島は手紙の中で、安中から東京までは以前と同じ街道を上り、東京からは完成したての汽車に乗って横浜までくるように、汽車の乗り方も含めて細かく説明しています。その上で、もしも分からない事があったなら神奈川県の県令(知事)を訪ねていくようにと県庁の場所までが書いてあったそうです。

しかし8年前にいなくなった息子から突然200円と言う大金を送ってきて、横浜で金を受け取り、わからなかったら県令(まだまだ殿様みたいに偉い人)を訪ねよと言うのは、さぞかし親も驚いたことでしょう。

この手はずをしてくれたのが、現代ではあまり有名ではありませんが、田中不二麿文部少輔。その名前から華族のようでもありますが、実は尾張藩士。井上ひさしの『國語元年』では強烈な名古屋弁で登場します。そして、もしも新島青年のご両親が訪ねてきたら、宜しく取り計らうようにと命を受けた当時の神奈川県令が陸奥宗光だったのだそうです。

実はこの話は深井英五の『人物と思想』の中のエピソード、深井は恩師新島襄先生の思い出のひとつとしてこのトピックを選んでいます。銀行のありがたみがよくわかりますよね。

後の日銀総裁深井英五は明治19年に奨学生を探しに故郷群馬県を訪れた新島に見出され同志社に進学します。授業料は月5円(寮、賄い付)、そのうち奨学金が2円50銭、父が何とかやり繰りして1円を用立て、残りは群馬のキリスト教会の有志が負担してくれたとあります。 奨学金は毎月新島から手渡しで渡され、送金分と合算して学校に支払ったそうです。

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