2013年12月26日木曜日

1919年1月15日の新聞を読んでいたら


所沢市観光協会HPより
(まさに雑文)
1919年1月15日の新聞を読んでいたら、フランス航空団41名が技術指導のために日本に到着している。正確に調べたら12日に長崎着、14日の朝に神戸港について、市内見学の後夜の急行列車で東京に向かっている。士官は1等の専用車両、下士官は2等で一般客に混じる。補修用品、整備工具などは軍曹1名を残しそのまま船で別途横浜へ。機体は別便で輸入されていた。

団長のフォール大佐はフランス陸軍砲兵大佐、所沢の航空公園に胸像が建っている。飛行機は未だ出現したばかりなので操縦経験者で大佐クラスは未だいなかったのだろう。空軍を初めて創ったのはロイヤル・エアフォースでこれが1918年4月1日のこと。追随する国は無かった。さすがはイギリス。

操縦指導は「猛者レフエブル少佐」と新聞は紹介している。今はWEBでWW1のエース・パイロットを検索できる。40名近くリストアップされているがレフエブルの名前は出てこない。だいいちマルセイユから神戸まで45日近くかかる。ということは出発は18年11月だからドイツとの休戦が成立した頃で、武装解除が完全になされていたわけではない。多分現役バリバリの戦闘機乗りでは無く、指導者としての猛者だったのだろうと推測。

何故フランスの指導なのかと言えば、当時はフランスの戦闘機ニューポールやスパッドは高性能でフランスは航空最先進国と思われていた。帝国陸軍は100機ほどフランスに発注、その御礼もかねて、またフランスはWW1で手薄になった東洋のフランス利権確保のために日本には良い顔しておきたかった。本当はもうひとつあるのだがこれは秘密。ついでにいえばルノー製の戦車、兵員輸送車なども最先端だった。それにドイツとは交戦状態にあって技術移入というわけにはいかなかったのだ。

因みに陸軍はこの前年にイタリアにも航空研修団を派遣している。陸軍がイタリアから買った飛行機はだいたいダメだった。フェラーリみたいにはいかなかったのだ。
後にマレー沖海戦で96式と1式陸攻がプリンス・オブ・ウェールズを沈めた頃、イギリスの机上演習では日本の飛行機はイタリア並、英国空軍の60%程度の戦力と評価されていた。つまり10機いても6機とカウントされた。

さて、話がそれまくったが航空団は所沢に落ち着いて帝国陸軍航空隊の基礎を築いてくれた。その評価は高かったのだった。彼らを神戸港で出迎えたのが児玉友雄陸軍少佐。陸軍省軍務局兼航空部事務官。長州人児玉源太郎の三男である。欧州大戦では観戦武官としてイギリス軍に参加している。

これも想像を巡らせると面白い。調べたわけではないのであくまで想像だけれども。児玉友雄は学習院中等部から陸軍士官学校14期へ、陸大22期の卒業。実はこれ以降の陸軍の主要人物は皆陸軍幼年学校卒となる。東條英機も学習院初等科にすすむが幼年学校に入る。幼年学校→陸士→陸大(天保銭)という閥ができるのだ。1919年のこの時期はまだ山県有朋が健在で長州閥がバリバリに跋扈していた。児玉は当然長州閥の期待の若手の人材だったに違いない。

欧州大戦が終わった後に欧州に派遣されるのが1921年10月27日のバーデン・バーデンの密約で有名な3名+おまけの1名。岡村寧次、小畑敏四郎(ロシア軍にちょっと参加)、永田鉄山(陸士16期)+東條英機(陸士17期)だ。彼らの密約とは長州閥打倒である。児玉友雄は多分目の仇だったのではないだろうか?と想像。ちなみに山県は翌22年2月に逝去する。

児玉友雄は中将昇進までは早かったが、そこからは閑職。38年には予備役にまわされている。山県が死んだ後、バーデンバーデン組は策謀して長州出身の陸軍大学合格者はゼロになってしまう。陸大を出なければ出世のしようもない。児玉友雄はそうした時代の流れに翻弄されたのだろうかと、妄想を巡らせた次第。文章で書くと長いが妄想は多分15秒ぐらい、調べるのに小一時間。著作のためには多分何にもならない。


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