2015年10月15日木曜日

反知性主義


こんな私でもコラムの原稿の題材に行き詰ってしまった時には、ついつい「反知性主義」について書こうかと思ったこともあった。だけど、私は森本あんり『反知性主義』(新潮選書)しか読んでいないし、ホーフスタッターの『アメリカの反知性主義』を読む予定が組めなかったので、コラムを書くには知識量が中途半端だと思って書くのを止めておいた。それに私に期待されていたのは、そんな知性的な話ではなく相場の話だったということもあった。もともと追求すべきテーマ自体が反知性的にできているのだ。

しかし私としては、森本あんりの著書の中で題材として取り上げられた映画もくまなく見ながら、この本から得られたものは、極めてシンプルな結論だった。それは「既存の(権威ある)知性」は信用するなという事だった。

知性というものは、当初神が人間に与えたものであったが、それにまつわる人間達が自分達自身を権威づけることによって、知性の周辺にも既得権益が発生していった。俺や俺の友人達は知性を持っているが、君達の持っているものは知性とはいわない。あるいは知性を教養という言葉に置き換えてみても良いだろう。君も私のように教養を身につければきっと会社で出世するし、豊かな人生を送れるようになるよ。それには是非私の書いたこの本を読めば良いのではないかな。というようなものだ。

かくして知性とは必ずしも純粋に真実を追求したものではなくなっていったのだ。それはちょうど世紀の変わり目のアラン・ソーカルの『「知」の欺瞞』(岩波書店)を彷彿させるものだった。安保法制の議論ではそうした傾向が多く見られたと感じた人が多かったに違いない。

アカデミックな歴史学的知見を全く無視する輩は、反知性主義者ではなく単なるバカだと言えばよかったのだ。しかし自分達こそ神から聖杯を与えられし賢者であると信じた彼らは、そうした右翼を反知性主義者と呼んだことで、彼ら自身が「既存の知性」でしかないことを浮かびあがらせてしまったのだと思う。

したがって「反知性主義」と書かれたいいかげんな本は今のところ読まないことにしている。

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