2015年11月18日水曜日

第22回「英仏の接近」:「日本人のための第1次世界大戦史」


週刊エコノミスト連載「日本人のための第1次世界大戦史」
第22回は「英仏の接近」です

スペイン、オランダの衰退以降、イギリス海軍の仮想敵国は常にフランスでした。トラファルガー海戦でイギリスがナポレオンの艦隊を駆逐した後も、フランス海軍はすぐに再建を開始して劣勢ながら対抗する姿勢を崩していませんでした。こうしてヨーロッパでは敵対する先進2大国でしたが、統一後のドイツの勃興に対して両者は次第に接近していきます。

その機会として注目したいのが、ファショダ事件(1898年)と、日露戦争開戦直後に結ばれた英仏協商(1904年)、タンジール事件(1905年)です。

後の2つは本文に譲るとして、

ファショダ事件は、マハディー戦争の始末をつけるためのイギリス・エジプト軍の北スーダンへ侵攻作戦の延長線上にありました。マハディー(wikiではマフディー)戦争は、エジプト支配下の北スーダンで生起した、ムハンマド・アムハド率いるイスラム教徒による「トルコの圧政者」に対するジハード(聖戦)です。マハディー軍は討伐に向かったイギリスのチャールズ・ゴードン少将(アロー戦争で名を馳せた)の部隊を全滅させたために、イギリス本国から敵討ちの部隊が派遣されます。

このあたりの話は「サハラに舞う羽根」(2002年)によって映画化されています。騎兵が馬を降りて陣形を組み銃で戦闘しています。またウィンストン・チャーチルが若かりし頃を綴った自伝「わが半生」(中公クラッシックス)にもエジプト遠征として詳しく書かれています。チャーチルはファショダ事件の直前に帰国しています。また陸上部隊を支援したナイル川の砲艦の指揮官はディヴィット・ビーティー大尉。この戦いの功で中佐に昇進、その後すぐに北清事変(義和団事件)で再び功を上げ29歳で海軍大佐にまで出世してしまいます。貴族ではありません。そしてユトランド沖海戦では高速巡洋戦艦艦隊を指揮することになります。奥さんは資産家のアメリカ人。ダウントン・アビーみたいですね。

ファショダ事件はフランスによる東西の動き、イギリスによる南北の動きという分かり易い構図で帝国主義の説明にはもってこいなのですが、実態は本文にあるとおりです。これと同じようにイギリスの3C政策(ケープタウン・カイロ・カルカッタ)とドイツの3B政策(ベルリン・ビザンチウム・バグダット)がぶつかりあったことが第1次世界大戦開戦の原因となったとごく最近まで教えられていたようですが、今ではそもそも3Cと3Bは交差しないし、ドイツのバクダッド鉄道は戦争直前にロンドンでファィナンスされていたことから、戦争を避けるべき要因ではあっても、これが開戦の原因だとは数えられていません。


0 件のコメント: